第69話 中央ユーラシア(シンタシュタとマルギアナ・バクトリア)

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シンタシュタ文化(BC2100年~BC1800年)

 ウラル山脈南部に位置するシンタシュタの集落の外には5ヶ所の埋葬施設があり、そこから目を見張るような品々が出土した。最も驚くべき出土品は、スポーク型車輪の付いた二輪戦車の残骸だった。その他に、銅製と砒素銅の斧と短剣、フリント製と骨製の尖頭器、砒素銅の矛先、磨製石器のメイス(こん棒)ヘッド、多数の土器、数点の小さな金と銀の装飾品、さらにある一基の墓には8頭のウマが丸ごと犠牲になっていたほか、骨製の円盤型チークピースも出土した。これらの墓で目立つのは、王冠や宝石類でななく、武器、乗り物、動物供犠である。


マルギアナ・バクトリア文化(BC2000年~BC1800年)

 イラン高原の北をアフガニスタン西部の山岳地帯から流れるムルガブ川のデルタ地帯にある中央アジア屈指の豊かなオアシスがマルギアナである。そこの人びとはイラン高原からやって来たことがわかっている。また、その北を流れるアムダリヤ川上流域には古代バクトリアの町が拡がっていた。バクトリアとマルギアナの中期青銅器時代の文化は、バクトリア・マルギアナ考古学複合体(BMAC)と呼ばれる。


スルブナヤ(木槨墓)文化、アンドロノヴォ文化(BC1800年~BC1200年)

 ヴォルガ川下流域・黒海北岸にカタコンブナヤ(横穴墓)文化(BC2500年~BC1800年)が起こった。四輪荷車や幌付き二輪戦車を模した土製品が出土している。カタコンブナヤ文化の影響のもとに、BC1800年ごろヴォルガ川下流域にスルブナヤ(木槨墓)文化が現れ、黒海北岸全域に広まった。またスルブナヤ(木槨墓)文化に類似したアンドロノヴォ文化がBC1800年ごろウラルの東の南シベリアや中央アジアに広まった。アンドロノヴォ文化はウラル山脈の東のステップに存在した後期青銅器時代の主要な文化である。どちらもシンタシュタ文化から発展した。BC1800年からBC1600年にかけて、アンドロノヴォ文化の人びとは南下し、アムダリヤ川の南に位置するマルギアナ・バクトリア文化の人びとに取って代わった。


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(シンタシュタと世界最古の二輪戦車)


 東欧から中央アジアにかけての先史文化の専門家で考古学者のデイヴィッド・アンソニーは、その著書「馬・車輪・言語」の中で、1992年に「シンタシュタ」という書籍がロシア語で出版されたことで、ステップの考古学に新しい時代が始まったと述べている。

 シンタシュタは、オビ川支流のトボル川上流の西側の支流であるシンタシュタ川の東側河岸に建設されていた。そこは、北極海に注ぐオビ川とカスピ海に注ぐウラル川の分水嶺付近で、ウラル山脈の山中ともいえる場所である。シンタシュタはポントス・カスピ海ステップ北部、ウラル山脈の南東に位置する定住地だった。周辺の集落跡と墓地は、1972年から1987年までさまざまな考古学者によって発掘されてきたが、1992年以降になって初めて遺跡の重要性が明らかになり始めた。そこは直径140メートルの要塞化された円形の町で、周囲は木材で強化した土塁と、木製の門塔で囲まれていた。土塁の外側には人の肩ほどの深さのV字形の堀が巡らされていた。シンタシュタ川がその半分を押し流してしまっているが、35軒の家が並んで残っていた。当初の町には50~60軒はあっただろう。このような環濠集落はステップでは前例がなかった。ウクライナのドン川の西には、ヤームナヤ時代(BC3300年~BC2500年)に若干の要塞化した集落が出現している。しかし、シンタシュタの土塁、門塔、家屋は、それ以前に防御施設のあったポントス・カスピ海ステップのどの集落よりもずっと強固なものだった。そしてどの家の内部からも冶金作業の遺物、スラグ・銅・カマド・炉などが見つかった。シンタシュタは要塞化された冶金産業の中心地だったのだ。

 シンタシュタの集落の外には5ヶ所の埋葬施設があり、そこからは目を見張るような品々が出土した。最も驚くべき出土品は、スポーク型車輪の付いた二輪戦車(チャリオット)の残骸だった。それは放射性炭素年代から、現時点で世界最古の二輪戦車であることが示された。出土したのは、明らかにクルガンとわかるような墳丘のない40基の長方形の墓が並ぶ墓地である。その他に4か所の埋葬施設があり、銅製と砒素銅の斧と短剣、フリント製と骨製の尖頭器、砒素銅の矛先、磨製石器のメイス(こん棒)ヘッド、多数の土器、数点の小さな金と銀の装飾品、さらには8頭のウマが丸ごと犠牲になっていたほか、骨製の円盤型チークピースも出土した。チークピースとは、ウマの頬革に毛皮状のものを装着したもので、左右を見えにくくして前方に意識を集中させる効果を期待して用いられるものである。これらの墓で目立つのは、王冠や宝石類ではなく、武器、乗り物、動物供犠だった。最も大きなクルガンの墓の木材の放射性炭素年代は、BC2100年~BC1800年だった。シンタシュタで行われた供犠の細部は、インドのサンスクリット語の最古の聖典「リグ・ヴェーダ」に描かれた葬送儀礼の供犠と驚くほど似通っていた。産業規模の冶金生産があった痕跡はポントス・カスピ海ステップで鉱業と冶金産業が新たに始まり、銅と銅合金である砒素銅の需要が大いに高まったことを示唆する。周到な防御設備は、他集団が驚くほどの規模と決意で攻め入ってきたことをにおわせる。


 早期シンタシュタの集落でBC2100年~BC2000年ごろに始まった大規模な銅生産への突然の移行は、急激な需要の高まりに刺激されたものに違いない。またシンタシュタ周辺は重要な家畜の越冬地でもあった。他集団からの襲撃はこうした土地にはつきものだったに違いない。激しさを増す抗争は戦術面での技術革新を促した。何よりも重要なのは、軽量の二輪戦車の発明だった。二輪戦車は二輪のスポーク型車輪を、はみを付けたウマに牽かせ、立ったまま操縦する乗り物である。車輪がただの円盤状で、御者が座って操縦するものは二輪荷車(カート)である。カートはワゴンと同様に作業用の乗り物だが、二輪戦車は高速で走るように設計された最初の乗り物だった。初期のスポーク型車輪は、曲げ木の指物技術と精巧な大工仕事が生みだしたものだった。考古学的には、二輪戦車の乗り手は弓ではなく、投げ槍を武器として使用していたと考えられる。


 二輪戦車はBC2100年ごろにウラル山脈南部で発明され、中央アジアを経由してステップのウマと鋲付きチークピースとともに西アジアへ導入された。そこでは素早く移動できる弓兵のための射撃台としてたちまち都市間の戦いの主役となった。西アジアの二輪戦車はBC1900年~BC1800年の間に出現したとされるが、本格的に戦争に使用されたのはBC16世紀に入ってからで、ヒクソスとミタンニによって持ち込まれた二輪戦車が軍事革命を引き起こした。BC1500年~BC1350年ごろシリア北部にいたミタンニの二輪戦車戦術は、5~6台の二輪戦車を1部隊に配置し、6部隊が1旅団を編成し、歩兵とともに戦った。似たような組織は500年後に中国の周王朝(BC1023年~BC770年)にも出現している。5台の二輪戦車が1部隊となり、5部隊で1旅団を構成し、二輪戦車1台ごとに10人から25人の歩兵が随行した。



(スルブナヤ(木槨墓)文化とアンドロノヴォ文化)


 スルブナヤ(木槨墓)文化は、ウラル山脈からドニエプル川までの西部ユーラシア・ステップの後期青銅器時代(BC18世紀~BC12世紀)で最も重要な文化だった。またアンドロノヴォ文化は、ウラル山脈からアルタイ山脈と天山山脈まで続く東部ユーラシア・ステップの同時代の主要な複合文化だった。どちらもヴォルガ川中流と、ウラル山脈東側のトボル川の間のシンタシュタ文化から発展した。

 ウラルの西のスルブナヤ文化と、ウラルの東のアンドロノヴォ文化では、二枚で一対の鋳型を使って銅と錫の合金、すなわち銅より固い青銅の製品が作られるようになった。またスポークを装着した車輪が発明された。円盤板式の車輪は重いためウシに牽かせたが、スポーク式の軽い車輪であればウマも牽くことができる。ウシの牽く四輪車は運搬用で、ウマの牽く二輪車は戦車として使用されたと推定される。骨製はみ留め具は円盤型で内側に突起が付き、ギリシャのミュケナイ風の渦巻き文様で装飾されている。このようなはみ留め具は東ヨーロッパからギリシャ、西アジアにまで分布している。当時の主な家畜はウシ・ヒツジ・ヤギであるが、その他にスルブナヤ(木槨墓)文化にはブタ、アンドロノヴォ文化にはフタコブラクダがいる。つまり、中央アジアのアンドロノヴォ文化のほうがより移動性が高かったといえる。これらの文化の担い手はいずれもインド・ヨーロッパ語族の人々であったという説が有力である。


 スルブナヤ文化とアンドロノヴォ文化がBC1900年~BC1800年ごろに出現すると、史上初めて中国北部の周辺部から東ヨーロッパの辺境地帯まで、ほぼ似たような文化が連鎖によって広がった。これにより、二輪戦車や冶金などの新技術と、銅や錫、金、銀、鉛などの金属材料がユーラシア大陸一帯へ伝わり始めた。ユーラシア・ステップの世界はただ導管であったわけではなく、それ自体も特に銅合金の冶金と二輪戦車による戦争において技術革新の中心地となった。二輪戦車を操縦する中国の殷王朝の王たちや、ギリシャのミュケナイ文明の王侯など、BC1500年ごろの古代世界の両端にいた同時代の人びとが、ユーラシアのステップにいた後期青銅器時代の牧畜民に、共に技術面で恩義を受けていたのである。

 スルブナヤ文化時代は銅石器時代以降初めて、ドニエプル川から南ウラル山脈およびカザフスタン北部の先まで集落が出現した時代だった。しかしそれは農耕のための定住ではなかった。冷涼で乾燥した気候がBC2500年からBC2000年ごろにかけてユーラシア・ステップを見舞った。これはメソポタミアにおいてアッカドの農耕を襲い、インダスにおいてハラッパー文明を衰弱させたのと同じ事象だった。定住現象は、冬期の家畜用牧草が最も豊富な土地を支配し続ける手段として解釈できる。農耕が営まれていない地域が数多くある牧畜・採集経済で、草食動物が主要な食糧源であればなおさらである。しかし、一部の定住地は銅鉱山の近くでも発達した。採鉱と銅合金の加工は後期青銅器時代のステップ一帯で重要な産業となった。スルブナヤ文化の広大な鉱業中心地は南ウラル山脈やカザフスタン中部にあった。また、その他多くの小規模な採鉱野営地は小さな銅の露頭に設けられた。



(シンタシュタからペトロフカへ、そしてアンドロノヴォ文化へ)


 ウラル山脈の東のオビ川の支流で、カザフスタン北部を流れるオビ川支流のイシム川沿いにあるBC1900年~BC1750年ごろのペトロフカの青銅器文化は、シンタシュタから派生した文化である。ペトロフカ文化の上に、その後から移住してきた人びとの土器がアンドロノヴォ文化である。ペトロフカはシンタシュタの東に位置する。ペトロフカの集落とクルガン墓地は南方に拡がり、カザフスタン中部の乾燥したステップまで達し、そこから1200キロ以上南のアラル海に注ぐアムダリヤ川支流のザラフシャン川沿いのトゥガイにまで広まった。ペトロフカの人びとによるアムダリア川の支流であるザラフシャン川への南下は牧畜のためではなく、交易か略奪であったようだ。また、ペトロフカはアルタイ山脈西部の後期アファナシェヴォ文化の後継者とも接触していたと思われる。ペトロフカの集落はシンタシュタの集落と同様、二段式溶鉱炉に、スラグなど銅が製錬されていたことを示す証拠が多数あった。しかし、シンタシュタとは異なり、ペトロフカの金属器のほとんどは錫入りの青銅でできていた。その錫の産地として考えられるのは、ザラフシャン川流域の他では、アルタイ山脈の西麓である。

 アンドロノヴォ文化はBC1800年からBC1200年にかけてウラル山脈の東のステップに存在した後期青銅器時代の主要な文化で、ウラル山脈の西にあったスルブナヤ(木槨墓)文化の姉妹版のようなものだった。アンドロノヴォ文化の遺跡は、西はウラル川のステップから東はアルタイ山脈を流れるエニセイ川上流まで、そして北はシベリアの森林地帯南部から南は中央アジアのアムダリヤ川まで拡がっている。アンドロノヴォ文化はシンタシュタとペトロフカを通して受け継がれた多くの慣習や様式を踏襲した。小規模な家族ごとのクルガン墓地や、寄せ集まった10軒から40軒の家から成る集落をはじめ、似たような槍や矛と短剣の型式、装飾品、さらに土器の装飾もある。

 アンドロノヴォ文化の拡大は、ウラル山脈の東にあるほぼすべての草原でウシとヒツジの牧畜に基づいた経済が成熟し統合されたことを意味していた。どの地域にも定住地が出現し、50人から250人の住民が大きな家々に暮らしていた。冬の間も水は井戸から汲むことができた。一部の集落には高度な溶鉱炉があった。北部ステップでは、ウシはヒツジよりも多かったが、カザフスタン中部では、ウシよりもヒツジの方が多く、ウマの占める割合も高かった。

 古くから部族文化が根付いていた地域では、かなり同質の物質文化によって複数の言語の存在が覆い隠されていることがよくあるが、言語と物質文化の結びつきは、初期の長距離移住者の世代では往々にして強く見られる。アンドロノヴォ文化の源流はシンタシュタ文化にあり、その東方の娘であるペトロフカ文化でも存続していた。シンタシュタで話されていた言語は、ペトロフカとアンドロノヴォで話されていた言語よりも古い形態である可能性が高い。インド・イラン祖語とイラン祖語の方言は、アンドロノヴォ文化の物質文化とともに拡大したのだろう。

 アンドロノヴォ文化の金属器の大半は、ペトロフカの金属器と同様に錫入りの青銅だった。アンドロノヴォの鉱夫たちは南部バクトリア地方のザラフシャン川だけでなく、北部アルタイ山脈南麓のオビ川の支流イルティシュ川上流でも錫を採掘したと思われる。銅鉱山は二つの主要地域で採掘していた。一つはバルハシ湖北方のカラガンディ地域で、もう一つはその西側のジェスカズガン地域である。ジェスカズガン地域の少なくとも7ヶ所の採掘場のうちの一つは、全長1500メートル、幅500メートル、深さ15メートルに及んでいた。発掘調査では鍵型の溶鉱炉が3基見つかっており、内側を石積みした長さ4メートルの通風竪坑によって二段式の円形の溶鉱炉に空気を送り込んでいた。カラガンディ地域の銅鉱山は青銅器時代に3万から5万トンの精錬銅を生産していたと推計されている。これらの設備は輸出用に組織された事業であったことをうかがわせる。



(マルギアナ・バクトリア文化)


 BC2100年ごろ、イラン高原の北を流れるムルガブ川のデルタ地帯に相当数の入植者が入った。ムルガブ川はアフガニスタン西部の山岳地帯から流れ、砂漠を180キロにわたって蛇行してから砂地に拡がり、そこに大量の沈泥を堆積させて、奥行き80キロ、横幅100キロの豊かに植生が茂る孤立地帯を生みだしていた。これが中央アジア屈指の豊かなオアシス、マルギアナだった。移住者たちは、城壁を巡らした集落や神殿、宮殿をゴヌールやトゴロクに築いた。遺骨の人類学的調査や土器型式から、彼らがイラン高原からやって来たことはわかっている。BC2000年~BC1800年にはアムダリヤ川上流域の古代バクトリアまで城壁を巡らした町が拡がり、サパッリ、ダシュリー、ジャルクタンが未開拓の土地に建設された。バクトリアとマルギアナのこれらの町には特徴的な型式の一連の印章と建築様式、内側にレンガを積んだ型式の墓、そして土器が共通していた。バクトリアとマルギアナの中期青銅器時代の文化は、バクトリア・マルギアナ考古学複合体(BMAC)と呼ばれる。灌漑された周辺の耕作地を、厚い黄色いレンガの城壁と狭い門、高い隅櫓すみやぐらに囲まれた大きな町が見下ろしていた。町の中心部には城壁に囲まれた宮殿あるいは砦があり、その内部には神殿があった。これらの城郭都市や城塞の込み合った家々や路地では、商業と工芸が盛んで、都市の支配者はメソポタミア、エラム、ハラッパー、及びペルシャ湾のオマーン半島の都市などと関係を持っていた。BC2000年からBC1800年までに、BMAC様式の製品がイラン高原一帯の多くの遺跡と墓地から出土するようになった。BMAC のものとよく似た上部が反り返った斧がイラン東部や中部などから見つかっている。ハラッパーとエラムの両文明の境界にあるバルチスタンのメヘンガルの墓地には、BMACの人工物が数多く副葬されていたので、BMACの人びとが実際にバルチスタンへ移動したことが示唆される。BMACの金属細工師は、銅合金、鉛、銀、金で見事な作品を製作していた。彼らは非常に細部まで表現した金属器を鋳造できるロストワックス法(ろうを利用した鋳造方法)で繊細な金属の彫像を製作した。最初の入植期であるBC2100年~BC2000年に使用されていた銅金属は純銅か砒素銅、あるいは鉛を8~10%含む鉛入り銅合金だったが、BC2000年ごろになると、錫入り銅合金、つまり青銅がBMACの遺跡から急に目立って多く出土するようになった。

 元来、この地域には野生のウマは存在せず、ウマ科の動物はオナガーだった。野生のウマの南限は現在のカザフスタンの草原までだった。BMACの町の墓から出土したウマの遺骸から、ウマはBC2100年~BC2000年ごろこの地域に出現し始めたが、決して食糧として食べられていなかったことがうかがわれる。ウマは地位を表す象徴としてのみ出現し、一例では葬送の供犠に使用されていた。イランとメソポタミアで同時代に出現していることや、ステップと南方の文明地域の間にあるBMACの位置を考えると、ウマは交易品だったのだろう。そして二輪戦車がBC2000年~BC1900年ごろBMAC、イラン、および西アジアの王侯に導入されてからは、ウマの需要は年間数万頭の規模になったと思われる。



(リグ・ヴェーダに残された痕跡、マルギアナ・バクトリア文化)


 アムダリヤ川の南に位置するマルギアナ・バクトリア文化(BC2000年~BC1800年)とは、バクトリア・マルギアナ考古学複合体(BMAC)のことである。

 BC1900年ごろには、ペトロフカの移住者はザラフシャン川流域のトウガイで銅を採掘し始めた。彼らに続いてアンドロノヴォの人びとが大挙してやって来て、その近辺で錫を採掘するようになった。BC1800年以降になると、アンドロノヴォの採鉱野営地やクルガン墓地、牧畜野営地が、ザラフシャン川中流域から上流域にまで広がった。アンドロノヴォの他の集団はザラフシャン川下流とアムダリヤ川下流の三角州へ移動し、定住して灌漑農業を営むようになった。彼らはアンドロノヴォの土器とアンドロノヴォ式の湾曲した青銅製ナイフと、銅線をひねった耳飾りを使い、集落内で銅を製錬していた。

 BC1800年ごろ、BMACの城壁を巡らした中心地は急激に規模が縮小し、それぞれのオアシスが独自型式の土器などの製品を作るようになった。そしてアンドロノヴォ文化の土器がバクトリアとマルギアナの周辺部で広く出現するようになった。この時代はポストBMAC時代とも呼ばれる。BC1800年からBC1600年にかけて、鉱物(銅・錫・トルコ石)と、畜産物(ウマ・乳製品・皮革)の交易を支配することによって、アンドロノヴォ文化の牧畜民は古いオアシスの町と城塞で大きな経済力を持つようになった。また、二輪戦車のおかげで彼らは軍事支配力も手に入れた。社会・政治面だけでなく軍事面における統合もそれに続いたのだろう。アンドロノヴォ文化の人びとはマルギアナ・バクトリア地方とその南のイラン東部で新しく支配者となった。やがてステップの単純な沈線文の土器は、新しい土器の伝統に移行することになった。とりわけマルギアナとその南のコペトダグ地方の灰色の磨研土器と、バクトリアやさらに東方のタジキスタンの彩色土器が中心となった。

 牧畜経済はイラン高原一帯だけでなく、インダス川下流域西側のバルチスタンにも広まり、BC1700年ごろは二輪戦車の部隊は新しい軍事技術として西アジア一帯に出現した。古インド語を話す二輪戦車戦士の集団がBC1500年ごろ、シリア北部でフルリ語を話す王国ミタンニの支配権を握った。彼らの誓約が言及していた神々(インドラ・ヴァルナ・ミトラ・ナーサティヤ)と概念は、「リグ・ヴェーダ」の中心的な神々と概念でもあり、彼らが話していた言語は古インド語の一方言、つまり「リグ・ヴェーダ」のサンスクリット語だった。北シリアのミタンニの君主たちは、同時代に東のパンジャブ地方へ進出したより有名な古インド語の話し手と民族言語学的には同じ民族出身だった。「リグ・ヴェーダ」は現在のパキスタン北部のパンジャブ地方でBC1500年~BC1300年ごろに編纂された。双方の集団とも、バクトリアとマルギアナでアンドロノヴォ文化の単純な沈線文の土器を作っていた混合文化を出身母体としていたのだろう。

「リグ・ヴェーダ」の言語にはその融合した起源の痕跡が多数残っていた。インドラという神の名と、ソーマという霊薬および神の名は、「リグ・ヴェーダ」の宗教の二つの中心的要素だが、どちらも接触地帯であるマルギアナ・バクトリア文化(BMAC)からの借用語で、非インド・イラン語の言葉だった。インド・イランの力と勝利の神であるウルスラグナの属性の多くは、外部から取り入れた神であるインドラへ受け渡され、そのインドラが新興の古インド文化の主神となった。インドラは250篇の賛歌、つまり「リグ・ヴェーダ」の4分の1の主題となった。この神はソーマという興奮剤と関連していた。これはBMACの宗教から取り入れた飲料と思われる。インドラの台頭は古インド語の話し手だけに見られる特徴だった。後世イランのアヴェスター語の文献では、インドラは小物の悪魔と見なされているのだ。イラン方言は、北部ステップのアンドロノヴォ文化とスルブナヤ文化に留まり、南部の文明とは距離を保ち続けた人びとの間で発達したのだろう。古インドの言語や祭祀は中央アジアの接触地帯BMACで発達したのである。



(気候変動と中央アジアにおける銅の交易網の拡大)


 BC2500年ごろ以降、ユーラシアのステップは冷涼で乾燥した気候の影響を受け、BC2000年ごろには一層乾燥化した。 森林は後退し、開けた草原が拡大、低湿地は干し上がって行った。ウラル山脈の南東にあるステップは、それまでもウラル南西のヴォルガ川中流の草原よりも乾燥した寒い場所だったが、乾燥化が一層進んだ。ポントス・カスピ海ステップ世界の東端にあったシンタシュタの社会の地理的な位置は、採集民から都市文明まで、数多くの新しい文化に彼らを触れさせることになった。中央アジア南方のマルギアナとバクトリアはイラン高原の北に位置する。そこはメソポタミア文明の最北端の前哨地だった。この二つの地域にあったレンガ壁に囲まれた町の商人たちは、ウラル山脈の南東のステップにあるシンタシュタの銅製品を巨大な銅市場に結びつけることになった。メソポタミアのBC20世紀~BC18世紀中葉は「アムル人の時代」と呼ばれたいくつかの王朝が並立していた時代だった。その中の一つでメソポタミア南部のラルサを都にしていたリム・シン1世(在位:BC1822年~BC1763年)の治世のある文書には、一度の積荷で1万8333キロの銅を受領したと記録され、その大半はただ一人の商人の取り扱い分だった。古くから円滑に機能していたこの中央アジアとの交易網は、BC2100年~BC2000年ごろに中央アジア北部のステップと初めて結びつき、それ以降続くことになった。金属生産に特化したシンタシュタとその周辺の町々から出土した構造物からは溶鉱炉の残骸と銅鉱石の加工過程で出たスラグが見つかっている。完成品の大半に使われていた金属は、砒素銅で、砒素を1~2.5%含有した銅合金だった。錫入りの青銅は金属器の2%以下だった。ふいごの吹き口の土器管、坩堝るつぼのかけら、各種鋳型も出土している。銅のインゴットあるいは棒は輸出用に生産されたと考えられる。銅を2~3%含有する珪岩はウラル川上流の東側の鉱山から採鉱されていた。

 BC2300年からBC2000年にかけて、古代世界の遠く離れていた地域同士が交易と征服の力によって、一つの相互に関連した制度へと引き寄せられ始めた。地域間の交易を動かした主な源泉は、メソポタミアをはじめとする西アジアの先進地域の都市の、金属、貴石、装飾用石、珍しい木材、皮革製品、家畜、奴隷、それに権力に対する飽くなき需要だった。



(青銅器時代のメソポタミアと、北方ステップの金属・ウマ・傭兵)


 BC2335年ごろ、アッカドのサルゴンがメソポタミアとシリア北部で反目しあう都市国家群を征服して一つの領域国家に統一した。アッカド王国は170年ほど続いた。この国はイラン西部と中部に経済・政治面で関心を抱いており、ときには軍事遠征もしつつ、交易を盛んにした。当時の西アジアではウマはまだ希少で珍しい動物だった。アッカドのいくつかの印章には、激しい戦闘場面で人がウマ科動物に乗る姿が描かれている。アッカドはイラン西部のエラム人を通じてウマを入手していたのかもしれない。エラム語は非インド・ヨーロッパ語で、今では死語になっているが、この時代にはイラン西部一帯で話されていた。イラン高原には一連の城郭都市と交易中心地が存在していたことが発掘調査によって明らかになっている。エラムの首都スーサの東にあるマルヤーンは、イラン高原最大の都市だった古代都市アンシャンであり、エラム人の都市だった。マルヤーンの北で、カスピ海の南の地域には日乾レンガ造りの中小の町々があり、その一部はシマシュキと呼ばれた同盟に加わっていた。イラン高原の東では、インダス川流域のハラッパー文化(インダス文明)がインダス川沿いの巨大な焼レンガの都市を中心に栄えていた。彼らは独自の文字を持っており、まだ解読されていないが、現代のドラヴィダ語と関連すると推定される言語を記録していた。ハラッパー文化の都市は貴石や熱帯木材、金属を船で西方のメソポタミアに輸出していた。

 アッカド時代に冷涼で乾燥した気候に変わり、王国の農業は打撃を被り、アッカド北部のいくつかの都市は放棄され、南部に移ったようだ。BC2170年にイラン西部の高地からの首長連合であるグティ人がバビロニアに侵入してアッカドの都を制圧した。その後、ウル第3王朝の初代国王がグティ人を追放し、メソポタミア南部の支配権を取り戻した。BC2112年~BC2004年の短いウル第3王朝の時代は世界最初の都市文明の言語であったシュメール語が王政の言語として使われた最後の時代だった。ウル第3王朝の王たちはエラムの都市国家と1世紀におよぶ戦争をし、一時はカスピ海にまで到達する勢いだった。この時代にウマの骨がイラン南西部のエラム地方の東に隣接するマルヤーンやイラン北西部のゴディン・テペの要塞都市などイラン高原の重要な都市から出土するようになった。また、ウル第3王朝の時代にメソポタミアの都市にも初めてまとまった数のウマが出現するようになったが、彼らはウマに牽かせた二輪戦車は使っていない。当時、二輪戦車は西アジアの戦争にはまだ登場していなかったのだ。しかし、在来のウマ科の小型のロバと、飼い馴らすことが難しいが大きめのオナガー、その交雑種が牽引する円盤状車輪付きの戦闘用ワゴン(四輪荷車)あるいはカート(二輪荷車)は使用していた。

 BC2004年、イラン高原のエラムとシマシュキの同盟軍がウル第3王朝の最後の王イビ・シンを打ち破り、鎖で繋いでエラムまで引きずっていった。この衝撃的な出来事の後、エラムとシマシュキの王たちは数世紀にわたってメソポタミアの政治で支配的役割を担った。BC2000年からBC1700年ごろまでイラン高原のエラムとシマシュキは勢力も独立性も富も最盛期を迎えた。そこから2000キロ北のステップの草原にあるシンタシュタ文化はちょうどこの頃頭角を現した。金属とウマの交易が、この二つの世界を結びつけたのかもしれない。エラム人はステップから来た二輪戦車を操るシンタシュタの傭兵の支援を得て、イビ・シン王を敗北させた可能性はあると思われる。イビ・シン王が敗北した直後に、アナトリアの印章に、二輪戦車のようなスポーク型の二輪車を御者が立って操縦し、口輪か鼻輪を付けたウマ科動物が牽引している図柄が登場し始めた。


 金属の交易は、鉱脈を探す人が中央アジアの砂漠を越えて探索しようとするきっかけを与えたと思われる。それまで、この砂漠がユーラシア北部のステップ文化をイラン文化から分け隔てていた。エラムの王たちの全盛期には西アジアの商人が膨大な量の金属を必要としていた。BC1776年からBC1761年までシリア北部の有力な都市国家マリの王だったジムリ・リムは、その治世の8年目に出かけた一度の周遊で、同盟者に総量410キロの錫を贈り物として分配した。また、ジムリ・リムは公衆の面前でウマに乗ったとして顧問からたしなめられてもいる。当時、ウマはまだ粗野な異邦人と結びついた見慣れない動物だった。文明の地である西アジアへのウマの継続的な供給はBC2100年からBC2000年の間に始まった。二輪戦車はBC2000年以降に西アジアに出現している。どのようにだろうか?


 錫は青銅器時代の西アジアでは最も重要な交易品で、マリの宮廷の記録では錫は銀の10倍の価値があった。銅と錫の合金、すなわち青銅は金属加工職人にとって鋳造し易く、純銅やかつての代替品であった砒素銅よりも硬く、しかも明るい色の金属になった。しかし。西アジアの錫の産地がどこだったかは謎のままだ。西アジアでは古代の錫の採鉱地は見つかっていない。アナトリア東部のゴルテペ近くにあった鉱山が、BC2000年以前にわずかばかりの錫を産出していた程度だった。BC2000年以降、錫はシリア北部からアナトリアへ輸出されていた。マリのジムリ・リム王の書簡には、錫をエラムのマルヤーンとスーサの商人を介して入手したと書かれている。錫を意図的に混ぜた青銅はインダス川流域の都市、モヘンジョ・ダロとハラッパーから出土しているが、錫の含有量が1%程度と非常に低く、青銅の適正な配合比、錫が8~12%で銅が92~88%、はまだ知られていなかったようだ。それでもインダス川流域はメソポタミアの錫の供給源の一つであったと思われる。

 当時の錫の産地として最も可能性が高いのは、アフガニスタンの西部と北部と、もう一つはタジキスタンのザラフシャン川流域で、ここでは世界最古の錫鉱山がザラフシャン川沿いのサラズムの遺跡付近で見つかっている。サラズムはウマと二輪戦車に代表されるステップの文化が最初に中央アジア南部の周辺部まで伝わった門戸だった。サラズムはBC3500年以前に、ナマズガ文化の北部の植民地として築かれた。ナマズガ文化の本拠地は、イラン高原から流れてきた川が中央アジアの砂漠に入った扇状地で農耕を営む地域で、そこはマルギアナ地方として知られている。ナマズガの農耕民を、カラクム砂漠を越えて北のサラズムまで向かわせたのは、ザラフシャン川下流近くの砂漠に露頭があったトルコ石の入手だったと思われる。サラズムはザラフシャン川中流にあり、緑が生い茂り、農作物を育てることができた。そこはバクトリア地方として知られている。サラズムは大きな町に発展し、BC3000年~BC2600年ごろの墓からは、トルコ石、紅玉髄、銀、銅、ラピスラズリの装飾品が出土している。しかし、サラズムとザラフシャン川下流の小さな村々からは、BC2000年ごろに住民が立ち退いたようだ。ウマと二輪戦車を持込んだ北部ステップからの人びとがザラフシャン川流域にやってきたとき見捨てられたのだ。

 サラズムはアッカド王国(BC2335年~BC2170年)とウル第3王朝の時代(BC2112年~BC2004年)に銅とトルコ石を南方へ輸出していた。そのことがBC2100年ごろに始まり、シンタシュタの集落で銅生産が急に活発になり、イランとメソポタミアでウマが同時に登場するようになった理由を説明しうるだろうか? その答えは、北部ステップの文化と関わっていたサラズムの南に位置するいくつかの城郭都市にある。



(北部ステップから中央アジア南部のマルギアナとバクトリアへの移住)


 BC2100年~BC2000年と年代測定されるマルギアナのゴヌールという町からシンタシュタと同時代の北部ステップから持ち込まれた土器が出土している。早期シンタシュタの集落でBC2100年~BC2000年ごろに始まった大規模な銅生産への突然の移行は、急激な需要の高まりに刺激されたものに違いない。その需要を生み出したのはマルギアナである可能性が最も高い。その後の流れは北部ステップと森林帯において金属の使用を高め、ポントス・カスピ海ステップ、および東ヨーロッパ内部で物々交換が始まった。そこからBC2100年以降、ユーラシアのステップに金属ブームが生じることになったと考えられる。

 BC2000年~BC1800年のBMACの最盛期には、ステップの民との接触が目に見えて明らかになってきた。ステップの土器の出土状況から、ステップからの移住地として最も考え得るのは、ザラフシャン川流域のトウガイとカルナブである。トウガイの集落はサラズムから西にわずか27キロ下流にあり、後の中世の時代の中央アジア最大の隊商都市サマルカンドからもそれほど離れていない。トウガイに移住した人びとの故郷は、その墓の出土品から、ウラル山脈南部のシンタシュタからの東の分派、ペトロフカ文化の人びとである。北部ステップからトウガイへ移住してきた人びとはウシ、ヒツジ、ヤギ、ウマとともに二輪戦車を持込んでいた。ザラフシャン川流域とすぐ北のフェルガナ盆地はこの時代に良馬の産地となったのかもしれない。この地は後に古代世界でウマの名産地として知られるようになった。BC1900年以降、ザラフシャン川流域で北部ステップからの移住者との接触地帯がさらに広がって、南方へと拡大した。こうした状況において、古インド語の方言は進化し、発達しつつあった古イラン語と分離したと推定される。



(ユーラシアを横断する橋)


 ユーラシアのステップ地帯は往々にして辺鄙で質素な地域と見なされ、資源に乏しく、文明世界の中心地から遠く離れた地域と考えられている。しかし、青銅器時代後半のBC2100年以降、ユーラシア・ステップはユーラシア大陸の周辺に発展したギリシャ、西アジア、イラン、インド、および中国の文明間を結ぶ橋となった。二輪戦車の技術、ウマと乗馬、銅合金の冶金術、そして戦略的な立地により、ユーラシア・ステップ社会はかつてないほどの重要性を持つようになった。

 バイカル湖からの軟玉(翡翠ひすいのなかで硬度の低いもの)は、現在のルーマニアのカルパティア山麓のボロディノの埋蔵遺物から出土した。ユーラシア・ステップからのウマと錫はイランで見つかっている。バクトリアの土器はカザフスタン北部の集落跡で発見された。そして二輪戦車はギリシャから中国まで、古代世界のいたるところに出現した。ステップから中国への道は二つあった。一つはアルタイ山脈の北を通ってモンゴル高原から内モンゴルへの道である。殷人はこの道を通って中国北部へ侵入したと考えられる。もう一つはタリム盆地の東端を抜けて続いていた。タリム盆地の砂漠の周辺の墓地には、茶色の髪と白い肌をして、羊毛製品を身に着けた人びとのミイラが保存されており、その年代はBC1800年という非常に古いものだった。中国とタリム盆地の境界にある境界にある甘粛かんしゅく地方では、亀茲きじ文化がBC2000年からBC1600年の間に、ウマやトランペット形の耳飾り、輪状の柄頭の付いたステップ様式の鋳造の青銅製片刃ナイフと斧を入手していた。BC1800年ごろ、中国に最初の国家が出現する200年前の時代には、この亀茲きじ国は西方と交流していたのである。

 スルブナヤ(木槨墓)とアンドロノヴォの両文化はユーラシア・ステップを一連の孤立した文化の池から情報の交流が行われる回廊へと変容させた。その変容はユーラシアの歴史の力学を永久に変えた。

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