第68話 トロイア戦争は本当にあったのか?

 ギリシャの伝説によると、アカイア人の歴史はゼウスと呼ばれる神により始まり、ゼウスがその息子タンタロスに化身した初代の王を彼らに授けたという。その子孫の一人にアトレウスがいた。彼の息子たち、アガメムノンとメネラオスはそれぞれ、スパルタ王テュンダレオスの娘たちリュタイムネストラとヘレネと結婚した。その後、アガメムノンはミュケナイ王、メネラオスはスパルタ王としてペロポネソス半島全体の支配者になった。その少し後に、トロイア王プリアモスの息子パリスがスパルタ地方を通りかかり、ヘレネに恋してしまう。そしてヘレネがパリスの後を追ったのか、パリスがヘレネを誘拐したのか、どちらなのかわからないが、ヘレネはトロイアへ行ってしまった。アカイア人たちはパリスを処罰し、ヘレネを取り戻すため、1000隻もの船でトロイアへ向けて出航し、10年間もトロイアを包囲した後、陥落させ、略奪した。トロイアの滅亡はBC1250年ごろと推定されている。アカイア勢を具現していたアガメムノンは少々無能な王だった。トロイアを攻略するときに彼は自軍の大半を失い、帰路には船隊は嵐に見舞われその大半は消散し、難破した船の乗組員はエーゲ海の島々や小アジア海岸地域に取り残されてしまった。そして1世紀後に新たな侵入者ドーリア人が北方から不意に現れた時には、アカイア人たちはもうこれに抵抗する力がなかったのである。


 トロイア戦争とその余波全体について知るには、現在「叙事詩の環」と総称される6篇の叙事詩群に頼らなければならない。「叙事詩の環」が成立したのはBC8世紀からBC6世紀、すなわちホメロスとそのすぐ後の時代である。これらの叙事詩群のうち「イーリアス」と「オデュッセイア」だけが、全体が完全な形で残っている作品である。それ以外の詩は、時が経つにつれてほとんど失われ、後世の著述家たちによる引用や要約で一部分が残っているにすぎない。こういった断片を集めたのは、プロクルスという人物で、紀元後のローマ時代に生きた人のようだが、今も特定されていない。ホメロス以外の叙事詩の断片の数々は、ホメロスが時としてさらっと流した細部を詳しく話してくれる。また、BC5世紀のギリシャ古典期の劇作家たちによってさらに多くの細部がこの話に追加され、今日我々が知っているような形へと肉付けされている。当然のことながら、後代の追加部分は本来のストーリー展開としばしば矛盾する。

 本来のストーリーによれば、トロイア王プリアモスの息子パリスは、小アジア北西部からギリシャ本土に渡り、表敬のためスパルタ王メネラオスを訪ねていた。そしてそこで、メネラオスの美しい妻ヘレネに恋をした。帰国したパリスにはヘレネが従っていた。トロイア人に言わせれば自ら進んで、ギリシャ人に言わせればさらわれてとなる。激怒したメネラオスは、ミュケナイ王でギリシャの指導者でもあった兄アガメムノンを説得し、ヘレネを取り戻すために1000の船と10万の将兵からなる大艦隊をもってトロイアを攻めた。戦争は10年の長きに及んだが、最後にギリシャ側が勝利を収めた。トロイアは略奪され、住民のほとんどは虐殺され、ヘレネはスパルタのメネラオスのもとへ戻ったという。

 言うまでもなく、疑問はいくらでもある。トロイア戦争は本当にあったのか、トロイアは実在したのか、ホメロスの物語にはどれほどの事実の裏付けがあるのか、ヘレネは本当に「1000の船」を出撃させるほどの美貌の持主だったのか、トロイア戦争は本当に一人の男が一人の女を愛したために起こった戦争だったのか、それともそれは単なる口実で本当に理由は領土や栄光などだったのか、トロイア戦争はいつあったのか? これらのことは、古代ギリシャ人自身にもよくわかっていなかった。古代ギリシャの著述家たちも、その年代については少なくとも13通りの推測を残しているほどだ。トロイアの滅亡から3100年後、紀元後19世紀中ごろにハインリッヒ・シュリーマンがトロイアの遺跡を探しに行くころには、ほとんどの学者はトロイア戦争をただの伝説と見なし、トロイアという都市も存在したことはないと考えていた。


 トロイア戦争はBC1250年ごろに起こったとされているが、トロイア戦争を描いたホメロスの「イーリアス」には戦士や事件の記述に、それより何世紀も前のものが出てくる。小アジア本土で戦ったアカイア戦士に関するホメロス以前の伝承に関連する歴史的事実を探すと、BC1430年ごろの「アッシュワの乱」が候補になる。アカイアの英雄が小アジア本土に遠征したというトロイア戦争以前の伝承も、アッシュワの乱が元になって生まれたと考えられる。

 また、BC1274年のカデシュの戦いの準備を進めているのと同じころ、ヒッタイトは小アジア西部にも第2戦線を抱えていた。反抗的な服属民を抑え込もうとしていたのだが、その彼らの反抗は明らかにミュケナイの支援を受けていた。ヒッタイト王がアッヒヤワ(ミュケナイ)王に宛てて送った書簡によると、ヒッタイトのムワタリ2世の時代、ピヤマラドゥという人物が小アジア西部のヒッタイトの領域を荒らしまわっていたが、アッヒヤワ(ミュケナイ)に亡命し、アッヒヤワ(ミュケナイ)の領土に船で渡ったという。またこの書簡ではミュケナイとヒッタイトとの、小アジア北西部にある地域をめぐる紛争についても言及されている。その地域はトロイアと特定されており、BC1250年という年代を考えれば、トロイア戦争をめぐる後世のギリシャ伝説と関係があると考えられる。

 BC13世紀中ごろの時代、ティリュンスやピュロスを含むギリシャ本土のミュケナイ人はエジプト・キプロス・カナンなどの国々と積極的に交易を行い、この頃にはミノア人からその交易ルートを乗っ取っていた。このことはギリシャ本土で出土した線文字Bの文書からも実証されている。BC1250年ごろ、ミュケナイでは有名な獅子門を含む巨大な防壁や水源地に通じる地下道が建設されている。興味深いことに、丸天井の回廊や、地下水系に通じる隠しトンネルなど、よく似た建築物はヒッタイトの都市でも発見されている。どちらがどちらに影響したのかは学問的な議論の的だが、建築物の類似性が示しているのは、この二つの地域に交流があり、互いに影響し合っていたということだ。


 ***


 遥か昔のある時にトロイア戦争の伝説を生み出した紛争があったのだろうか? 古代ギリシャ人とローマ人は、トロイア戦争は現実の出来事であると信じるとともに、世界史の要だったと考えていた。例えば、ヘロドトスとツキディデスは、BC5世紀の著作でトロイア戦争について最初の数ページで短く論じた。しかし、この二人より後の学者や著述家でこの戦争がいつ実際に起こったかがはっきりとわかっている者はいなかった。戦争の推定年代には、ヘロドトスのそれも含めてBC1334年からBC1135年までの幅があった。その後、ヨーロッパの中世から近世に到る古典学者たちは古代人よりも懐疑的で、トロイア戦争を重要視しないか、あるいは作り話として片づけさえした。いわゆる「ミュケナイ考古学の父」たるハインリッヒ・シュリーマンが1870年代にトロイアの地を再び突き止めたと主張したときに初めて、トロイア戦争の話は歴史的事実に基づいていたという可能性が本格的に注目された。だが世の中の関心が集中したのは、トルコのダーダネルス海峡の入口近くに面したヒッサルリクの丘の遺跡で新たに発掘され、シュリーマンが「プリアモスの宝」と名づけた、黄金のペンダントやイヤリング、鎖、ブローチなどの遺物だった。しかしそれ以来、学術的な論争は衰えていない。

 BC8世紀に盲目の吟遊詩人ホメロスが語り、その後何世紀にもわたって他のギリシャの詩人や劇作家たちも語ったように、戦争をめぐるこの物語には遠い昔から人の心に響くテーマが含まれている。基本的な物語は愛と戦争、敵対と貪欲、英雄と臆病者の永遠の叙事詩であり、語り口は平易である。話は数人の主な登場人物と大勢の脇役を中心に繰り広げられる。話の中心になる登場人物たちとしては、一方にミュケナイ時代のギリシャのスパルタ王メネラオスの妻ヘレネ、メネラオスの兄でミュケナイの王アガメムノン、戦いでは並ぶ者のいないテッサリア出身の戦士アキレウス、そしてイカタの王オデュッセウスがいる。他方、トロイア王プリアモスと、その息子パリス、そしてその長男ヘクトルがいる。とりわけ人の心をつかむのは、「トロイアの木馬」というトロイア戦争を終わらせた大胆な企みの話である。ホメロスの「イーリアス」と「オデュッセイア」が語り、追加断片や「叙事詩の環」の説明が補足する特定の事件や行動、そして記述は、歴史的に正確なのだろうか?


「叙事詩の環」は「キュプリア」から始まる。当初、この詩は11巻の長さがあり、トロイア戦争に到るまでの出来事と、戦争の最初の9年間を扱っていた。今も残っているのは「キュプリア」の冗長だが有益な要約だけである。「キュプリア」の作者はホメロスではなく、キプロス島の町サラミス出身と伝えられるヘゲシアスという名の男、あるいはキプロス島出身のスタシノスだった。別の伝承では、この叙事詩は実際には小アジア南岸のハリカルナッソスのキュプリアスによって書かれ、「キュプリア」という題名は著者の名前から来ているという。この著者とおぼしき3人はみな、おそらくBC6世紀の人だった。「イーリアス」は戦争最終年のトロイア戦争10年目に起きる動きを詳述し、トロイアが実質的に占拠され略奪される前の時点で終わる。戦争の残りの出来事を語るのは、付加的ではあるが断片的な叙事詩群で、BC8世紀からBC7世紀に書かれたと推定される「アイティオピス」「小イーリアス」「イリオン(トロイア)の陥落」である。これらを利用して、BC4世紀のクイントス・スミュルナイオスという詩人が「ホメロス後日譚」、別名「トロイアの陥落」という題で14巻からなり、「イーリアス」の終わりからトロイアの陥落までまでの期間を取り上げる。

「アイティオピス」は「イーリアス」の話が終わったところから始まる。この話はミレトス(小アジア西海岸の町)のアルクティノスによっておそらくBC8世紀、ホメロスの著作とほぼ同じ頃に書かれ、5つの章あるいは巻から成る。いきなりエピソードが始まり、アキレウスはまずアマゾン族の女王ペンテシレイアを、次にエチオピアの王子メムノンを討ち取る。アキレウスはその後、アポロンの神の助けを受けたアレクサンドロス(パリスの別名)に討たれる。

「小イーリアス」はミュレティレネ(レスボス島の都市)のレスケスによってBC7世紀に書かれ、4章から成る。この叙事詩はオデュセウスがアイアスに勝ってアキレウスの武具と武器を得るところから始まる。アイアスは覚悟を決めて自ら命を絶った。この行為自体が後に、ソフォクレスがBC5世紀に書いた悲劇の主題になった。その後さらに多くの戦いが行われ、両軍とも大勢の死者が出る。死者のうち最も重要なのは、アレクサンドロス(パリス)自身である。彼を討ったピロクテテスという名の男は、ソフォクレスとアイスキュロスとエウリピデスの悲劇作品の主題になった。アレクサンドロス(パリス)の死に続いて、エペイオスがアテナの指示で木馬を建造した。木馬というアイデアが導入されるのは「叙事詩の環」ではこれが最初である。

 次の「イリオン(トロイア)の陥落」はわずか2章から成るが、エピソードに満ち、叙事詩物語のこの局面を締めくくる。これを書いたのはミレトスのアルクティノス、つまり「アイティオピス」を創作したのと同じ人物である。ギリシャ連合軍が夜陰に乗じてテネドスから船で戻る一方、木馬にひそんだ戦士たちは外に出て敵に襲いかかり、多くの者を殺害し、町を襲撃した。プリアモスはゼウスの祭壇で殺害され、ヘクトルの幼い息子アステュアナクスは城壁から投げ落された。ギリシャ連合軍がトロイア人に勝利した結果、メネラオスは妻ヘレネを取り戻し、帰郷に向けて航海の準備をしているギリシャ船団に彼女を連れて行った。勝利したギリシャ連合軍はさらに殺戮を重ね、女性捕虜も含めた戦利品を分配した後、故郷を目指して船出した。帰路で自分たちを滅ぼそうとアテナが企んでいるとは、彼らには思いもよらなかった。トロイアの木馬とギリシャ連合軍のトロイアの征服の話を伝えた「イリオン(トロイア)の陥落」はここで終わる。戦争直後の話は、「帰国譚」というまた別の叙事詩に委ねられる。

「帰国譚」の5つの章はトロイゼンのアギアスによって書かれた。アギアスはBC7世紀かBC6世紀の人で、トロイゼンはギリシャ本土にある小さな町で、偶然にも伝説上の英雄テセウスの生まれ故郷でもある。「帰国譚」はオデュッセウス以外のギリシャのさまざまな英雄がどのようにしてエーゲ海を越え、自らの土地や王国に帰国したかを語る物語である。ピュロス王ネストル、ヘラクレスの甥にあたるアルゴス王ディオメデス、スパルタのメネラオス、ミュケナイの王アガメムノンが登場する。

 ホメロスの「オデュッセイア」は「叙事詩の環」のうちで完全な形でそろっている2篇の現存叙事詩のうちの1篇で、順番としては「帰国譚」の後にくる。この詩篇は主としてオデュセウスが終戦後の10年間、帰郷しようとして体験した旅と辛苦についてである。「オデュッセイア」は「イーリアス」と同様に全24歌から成る。この詩篇の物語は有名で、昔からさまざまな形で語り継がれ、改作もなされてきた。オデュセウスは多くの冒険をした後、最終的に帰国することができた。そして息子テレマコスの助けを借りて、妻ペネロペイアに群がっていた求婚者たちを皆殺しにした。そして彼はイカタ島の王としての役割を取り戻したのであった。

「オデュッセイア」の後にくるのは、「叙事詩の環」の最後の書「テレゴノス物語」である。わずか2章から成る本書は、現在のリビアの地にBC7世紀に建てられたギリシャ植民地だったキュレネのエウガンモンによって書かれた。エウガンモンは基本的に「オデュッセイア」の追記にあたるこの作品をBC6世紀に創作したと考えられている。この作品はペネロペイアへの求婚者たちの埋葬で始まる。そしてオデュッセウスは戦後の帰国途上に女神キルケと1年間同棲してできたテレゴノスという息子の手にかかって死ぬところで終わる。

 後代のローマの作家たちはもとより、ギリシャの劇詩人たちも、「叙事詩の環」に出てくる細部をさらに膨らませ続け、戦争直後に起こった事件を特に取り上げた。しかし、初期の叙事詩でさえ、元の戦争から少なくとも500年後のBC8世紀になってから書かれたのであり、形が定まったのはさらに200年後のBC6世紀のことだったと思われる。したがって、考古学者は詩篇の細部の正確さに関心を寄せる。


<トロイア戦争の歴史的背景>

 トロイア戦争が実際に起こったとすれば後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)の末期、BC13世紀からBC12世紀にかけての頃に戦われたという点で歴史学者の意見は一致している。この時期にはトロイア地域を間に挟んで、ギリシャ本土のミュケナイ人とアナトリアのヒッタイト人が古代東地中海北部の二大勢力になっていた。ミュケナイ文明もヒッタイト文明もBC1600年ごろからBC1200年ごろまで繁栄した。トロイア戦争が本当に起こったとすれば、この二つの集団が崩壊する前に戦ったとせざるを得ない。また関与したかもしれないもう一つの集団、すなわちいささか謎めいた放浪の「海の民」も興味をかき立てる集団である。


<トロイア人>

 トロイア地域とトロアド地方は青銅器時代以来、常に主要な交差点にあたり、南から北、西から東へのルートを支配していた。それには地中海から黒海に通じる水門であるヘレスポントス海峡への入口も含まれていた。したがって、トロイアを支配する者は誰であれ、その地域全体を経済的にも政治的にも支配下における可能性があったため、ミュケナイ人もトロイアと小アジアの海岸地帯に関心を抱いていたと考えられる。とりわけ、この地域はヒッタイトの外縁にあるだけでなく、ミュケナイ人が支配するエーゲ海域の外縁でもあった。とはいえ、実際のトロイア人についてはあまりよくわかっていない。トロイア人はトロイアというたった一つの拠点と、隣接する周辺地域に、ある特定の時期にたまたまこの都市に居住していた人たちはみんなトロイア人といえる。この都市はその歴史を通じて、何度も破壊されてはまた人が住んだ。古代のトロイアと同定されるヒッサルリクの丘の内部には、少なくとも9つの都市が次々と一つ前の上に建てられた。


<アッシュワの乱:BC1430年ごろ>

 ヒッタイトのハットゥシャで発見されたざっと2ダースのアッヒヤワとして知られる国と人びとに言及する粘土板文書がある。現在、アッヒヤワをアカイア人(ミュケナイ人)と見なす学説が有力となっている。また、ハットゥシャで発見された文書のなかには、アッシュワとして知られる地域で、つまり北西アナトリア以外ではありえない地域で生じた反乱に言及するものがおそらく6枚ある。22の都市国家の同盟で、最終的に「アジア」という名称の元になったアッシュワが、ヒッタイトの記録に現れるのは、主にBC15世紀後半のトゥドハリヤ1世または2世の治世下のことである。22都市なかにウィルシャ(ウィルサ)と、隣接するタルイサが出てくる。この2都市はトロアド地方にあり、イリオスとトロイアという名前をギリシャ人がこの同じ地域につけたのとそっくりである。

 ヒッタイトの記録、とりわけ「トゥドハリヤ年代記」によると、トゥドハリヤ1世または2世は、小アジアの西海岸かそのすぐ内陸にあるアルザワ、ハパラ、ミラ、シェハ川国という西アナトリアの諸国にたいして軍事遠征を行ったが、そこから帰国する途上でアッシュワ同盟が反乱を起こした。BC1430年、トゥドハリヤ2世(在位:BC1430年ごろ~BC1395年ごろ)はアッシュワ同盟に対して自ら軍を率いこれを打倒した。この年代記によると、アッシュワ同盟の兵1万人と二輪戦車600台が、捕虜や戦利品として首都ハットゥシャに連れ帰られた。アッシュワ同盟の土地の住民の多くも、家畜と所持品もろとも同じ目にあったという。その中にはピヤマ・クルンタという名のアッシュワの王や、その息子クックリ、他の王族数名も含まれていた。そのときトゥドハリヤはクックリを父親の代りにアッシュワの王に任命し、ヒッタイトの属国としてこの同盟を再建させたようだ。しかし、クックリが反逆したため、鎮圧し、クックリは処刑され、アッシュワ同盟は滅ぼされた。

 1991年、ハットゥシャ遺跡に通じる道路の改修作業中に一振りの青銅の剣が発見された。この剣には一行の文章が当時の共通語アッカド語で、「大王トゥドハリヤはアッシュワ国を滅ぼしゆえ、彼の主なる嵐の神にこれらの剣を奉納せり」と刻まれていた。

 重要なのは、この剣が当時アナトリアで使われた剣ではなく、BC15世紀末期に、特にギリシャ本土のミュケナイ人が製作し使用した剣と同種だいうことである。アッシュワの乱にそれが使われ奪われたという事実から、この戦いではミュケナイ人自らもヒッタイトと戦っていた、あるいはミュケナイ人がアッシュワ同盟に武器を供給し支援していたことになる。この剣はミュケナイがトロイア周辺地域で行われた戦いに関与したことを示す物的証拠となる。それはホメロスのトロイア戦争として想定される時代よりも、2世紀も早い年代でのことだ。


<ウィルシャ(ウィルサ)とアッヒヤワ(アカイア人)>

 アッシュワ同盟に属した都市国家の一つウィルシャ(ウィルサ)は、さらに2世紀の間存続し続けた。ウィルシャ(ウィルサ)はその間、ヒッタイトと交流があっただけでなく、アッヒヤワ(アカイア人)出身の特定の個人はもちろん、アッヒヤワ(アカイア人)として知られる政体とも明らかに関わりを持った。それはヒッタイト文書のうち特にウィルシャ(ウィルサ)との関係でアッヒヤワ(アカイア人)に言及していることからわかる。アッヒヤワ(アカイア人)とミュケナイ人が同一であることは多くの歴史学者は認めていることから、BC15世紀~BC13世紀までミュケナイ人が都市国家ウィルサ、つまりトロイアの問題に関わり、この国のために戦ったことを示していることになる。例えば、アッヒヤワの王がヒッタイトの王ムワタリ2世(在位:BC1295年~BC1272年)に送った書簡は、小アジアのエーゲ海沿岸沖にある島々の所有権は以前アッヒヤワの王の領土だったが、トゥドハリヤ王の時代にヒッタイトに奪取されたが、ヒッタイトの王が勝ったのは、この領土がすでにアッヒヤワに贈与された後のことなので、この書簡で再確認するという内容である。その贈与とは、当時のアッヒヤワの王の曽祖父とアッシュワの王女が、アッシュワの乱より前のある時点で政略結婚し、島々を持参金の一部としてアッヒヤワの王に譲渡したというものである。この書簡からわかることは、BC15世紀にはアッヒヤワ人(ミュケナイ諸国)とアッシュワ人(西アナトリア諸国)の間に良好な関係があって、また極めて興味深いことに彼らの間に政略結婚があったということである。小アジア沿岸で発見された土器などの工芸品はもちろんのこと、これらのヒッタイト文書もまた、ミュケナイ人がBC14世紀に継続的にこの地域に関与したことを示している。


<「アラクサンドゥ条約」その他のヒッタイト文書>

 ヒッタイトの王ムワタリ2世(在位:BC1295年~BC1272年)の時代の13世紀初頭に、カッスという将軍に率いられたヒッタイト軍が何らかの理由でウィルサ(トロイア)を攻撃し、その後、ムワタリ2世がウィルサのアラクサンドゥとともに作成・署名した、一般にBC1280年ごろのものとされる条約から、ヒッタイトがウィルサとその地域の支配権を主張したことが明らかになる。このいわゆる「アラクサンドゥ条約」はウィルサとヒッタイトの間の相互防衛協定の要点を述べている。要するに、ウィルサの王アラクサンドゥがBC1280年の直前に戦った少なくとも二つの争いについてヒッタイト文書は述べている。一つは、アラクサンドゥは相手の正体は不明ながら勝利を収めたが、それはムワタリ2世とヒッタイト軍の援護があってのことだった。これはおおよそホメロスのトロイア戦争あたりの時代のことだが、敵側はミュケナイ人だったとわかっているわけではない。もう一つの戦いでは、アラクサンドゥはヒッタイトに敗れ、条約に署名せざるを得なかったということだ。


<タワガラワ書簡>

 ヒッタイト文書のこの書簡は、ヒッタイトのハットゥシリ3世(在位:BC1267年~BC1237年)によって書かれたものと考えられている。現存するのはこの書簡の3枚目でおそらく最後のページにあたる粘土版だけである。この粘土板はアッヒヤワ(アカイア人、つまりミュケナイ)に積極的に関与したヒッタイト人反逆者ピヤマラドゥの活動に関係している。この書簡はアッヒヤワの王の名を出さず、王の兄弟であるタワガラワという名を挙げている。タワガラワ本人は小アジアにいて、地元のヒッタイトに対する反逆者たちをアッヒヤワへ送り込む手助けをしていたようだ。この書簡の中でヒッタイトの王は、アッヒヤワの王にその兄弟であるタワガラワ宛てに、ウィルサの問題はすでに和解しているので、我らヒッタイトに敵意を持つなと書くように促している。これは「イーリアス」に描かれた事件が起こりつつあったころに、ヒッタイトとアッヒヤワの間で、もう一つ別の敵対的な行為があったことを示している。


<ウィルサ(トロイア)の王ウァルム、「ミラワタ書簡」>

「ミラワタ書簡」を書いたのは、トゥドハリヤ4世(在位:BC1237年~BC1209年)である。これが「ミラワタ書簡」として知られるのは、この書簡がピヤマラドゥの相変わらずの活動だけでなく、主にミラワタ(ミレトス)という都市への関心を伝えているからである。この書簡の中でヒッタイト王は、ウァルムという名のウィルサの王が、かつて名称不明のある勢力によって祖国から追放されたが、おそらくヒッタイトの傀儡として復位することになったことに言及している。この時代、アラクサンドゥ条約はまだ有効だった。なぜなら、ヒッタイトはアラクサンドゥの孫の世代までの子孫を援助すると誓約したからだ。ウィルサの王だったウァルムは、反乱勢力から襲撃を受け、その結果王位を失い、結局ヒッタイトに王位を回復してもらった。まさにこの襲撃がトロイア人のかつての敗戦をホメロスが後に知る一因になったと推測される。


 ヒッタイトのトゥドハリヤ4世(在位:BC1237年~BC1209年)の時代、小アジアの西岸のミレトスとその周辺地域はもはやアッヒヤワ(アカイア人、つまりミュケナイ)王には属しておらず、ヒッタイトの支配下にあった。アッヒヤワに重大な何かが起こっていたのである。その後、トゥドハリヤ4世はキプロスに侵攻している。その動機ははっきりしていない。キプロスはBC2000年紀を通じて主要な銅の産地だったからかもしれないし、この地域に現れた「海の民」と関係があったのかもしれない。あるいはこの頃地中海地域を襲った干ばつと関係があったかもしれない。その後、トゥドハリヤ4世の息子、シュッピルリウマ2世(在位:BC1207年~BC1180年ごろ)はキプロスを完全に征服して属国としている。


<ウィルサの歌>

「ウィルサの歌」は、1984年にハーヴァード大学のカルヴァート・ワトキンスが提唱した。また、その「ウィルサの歌」の名残が、まだ未解読のヒッタイト文書の中に含まれているかもしれないとも示唆している。「ウィルサの歌」はトロイア戦争についてのもう一つの歴史的叙事詩で、ただし、ギリシャ人側からでなく、トロイア人かヒッタイト人の観点から書かれたものと考えられている。「ウィルサの歌」はルウィ語という当時アナトリアの至る所で話された言語で書かれたようだが、それらしき詩行はわずか2行しか残っていない。そのうち1行は、「そして彼らは歌う、険しいウィルサから彼らがやって来たとき」とすんなり読める。この言葉はホメロスを思い出させる。ホメロスは「イーリアス」の中でトロイアを「険しいイリオス」と6回も呼んでいる。もう1行は、「その男が険しい(ウィルサ)からやって来たとき」と読める可能性がある。 


 これらのことから東地中海地域を専門とする考古学者で、「トロイア戦争」の著者エリック・クラインは次ように総括している。


 ウィルサとイリオス(ウィリオス)そしてトロイアの同一視や、アッヒヤワとアカイア人そしてミュケナイ人の同一視、アラクサンドゥとアレクサンドロス(パリス)の同一視といったことは学究的推論に基づいている。程度の差こそあれ、みな妥当と思われ、なかには1世紀以上も学者たちが議論を重ねたものもある。また、数次にわたるトロイア戦争があり得たことを示唆する証拠としてヒッタイト文書を用いることができる。古代トロイアとされるヒッサルリクの丘は、数度の襲撃の結果、青銅器時代に破壊された。ヒッサルリクの丘の内部には、一つの都市が別の都市の上に位置する形で9つの都市がある。したがって、どの都市が「イーリアス」に記録されたような都市であったかを考えなければならない。



(ハインリッヒ・シュリーマンによるトロイアの発掘)


 トロイア戦争は起こらなかったのだから古代トロイアなどという場所はないとされていた19世紀当時に、シュリーマンはホメロスの詩を歴史的資料と捉え、そこに書かれていることが事実だという前提で調査を進め、ヒッサルリクの発掘を行った。さらに、アガメムノンとその軍勢を探し求めて、ギリシャ本土のミュケナイとティリュンスの遺跡の発掘にも成功した。シュリーマンをヒッサルリクの遺跡に導いてくれたのは、当時トルコのアメリカ領事館の副領事だったフランク・カルヴァートだった。ヒッサルリクの丘に青銅器時代のトロイアの遺構が埋もれているかもしれないと考えたのは、カルヴァートが最初ではなかった。初めて提唱したのは1822年、チャールズ・マクラーレンという地学学会員でもあったスコットランド人ジャーナリストが出版した本だったようだ。彼はトロイアはホメロスからローマ時代までずっとヒッサルリクにあったと主張し、その根拠を「イーリアス」の描く地理の記述に求めた。カルヴァートはマクラーレンの論評の影響を受け、ヒッサルリクの丘のごく一部を自ら所有して1863年と1865年に試掘し、ヒッサルリクには複数の古い層があることを確認した。しかし、カルヴァートには大規模な発掘を行う資金がなかった。シュリーマンがカルヴァートの前に現れたのはその5年後だった。カルヴァートはシュリーマンに発掘に協力すると申し出た。シュリーマンには金があったが遺跡がなかったのに対して、カルヴァートには遺跡があったが金がなかったから、シュリーマンには願ってもない申し出だった。1870年4月、シュリーマンはヒッサルリクで発掘を開始した。翌年、シュリーマンはこの丘のちょうど真ん中を貫通する深さ14メートルの巨大な試掘坑を切り開くと、作業員たちにできるだけ深く掘らせた。シュリーマンは、次々に上へ積み重なる多数の都市からなる遺物を確認した。彼の考えでは都市は6つあるいは7つあった。シュリーマンは2番目に古い都市が「イーリアス」に登場するトロイアの王プリアモスの都市だと確信し、そこから出土した品々を「プリアモスの財宝」として公表した。今ではこの第2市はBC2300年ごろのものであることがわかっており、それらはトロイア戦争より1000年以上も前の品物となる。

 シュリーマンによる発掘作業は、ドイツの考古学者ウィルヘルム・デルプフェルト(発掘期間:1890年~1894年)とアメリカの考古学者カール・ブレーゲン(発掘期間:1932年~1938年)によって引き継がれ、シュリーマンの説に修正が加えられた。その結果、現在では全部で9つの都市があったことが判明しており、トロイア戦争当時の都市はトロイア第6市か第7市であると推定されている。さらにブレーゲンは、第6市の内部には第6a市から第6h市までの8つの連続的な層があったことを発見した。これは住民たちが数世紀にわたって外国に干渉されずに自分たちの町を模様替えしたり改造したりしていたことを意味する。第6市の終わりにあたる第6h市には大量の火災と破壊の跡が認められた。城壁はいびつに壊れ、巨大な塔は倒壊し、とてつもない力と地殻隆起の形跡が至る所にあった。それはおそらくBC1300年ごろの激しい地震による破壊によるものだったと推測されている。当時のトロイアは豊かな都市で、メソポタミア、エジプト、キプロスの他、ミュケナイ時代のギリシャからの輸入品も出土している。ドイツチームによる最近の発掘では、トロイア第6市の層で、城外の外側に居住区が大きく広がっていたこと、そこにはルウィ語を話すルウィ人が住み、彼らの王の一人はアラクサンドゥという名前で、ヒッタイトと協定を結んでいたことが判明している。この都市はまた、「競合する辺縁」とも言える存在だった。つまり、ミュケナイ世界の辺縁に位置すると同時に、ヒッタイト王国の辺縁でもあり、そのため青銅器王朝文化時代の東地中海世界において、2大国の板挟みになっていたという状況にあった。

 その後、第7市の初めに当る第7a市が再建されたが、その層からは至る所に火災の被害の跡があり、そこには人骨の破片が散乱していた。その年代は現在、土器の分析からBC1230年~BC1180年と推定されている。ブレーゲンの発掘から50年後の1988年から、ドイツのマンフレート・コルフマンの発掘チームが第6市と第7市の再調査に携わった。その目的は、この2つの都市がどのくらいだったかを割り出し、後期青銅器時代のそこでの生活がどんなものだったか、それぞれの市に何が劇的な幕切れをもたらしたかを探るものである。その結果、同じ小さな区域の中で、敵の攻撃によって破壊された第7a市の建物が、地震で破壊された第6h市の建物の上に重なっている形跡を見つけた。コルフマンは2005年に急逝したが、その後継者によって発掘は今も続いている。

 ヒッサルリクの遺跡の位置は、現在も活発に活動している巨大な北アナトリア断層線の近くにあり、過去何度も地震による損傷の証拠はあった。次の第7市は土器の年代からBC1230年~BC1180年の間に、人骨や鏃の状況から「海の民」によって滅ぼされたと考えられている。さらにその後、BC1150年(原因不明)、BC1100年(地震または敵の襲撃)、BC1000年(原因不明)にも破壊の跡があった。


 ***


 エリック・クラインはその著書「トロイア戦争」のエピローグで次のように述べている。


 ギリシャの叙事詩からは、トロイア戦争は少なくとも2度あった。ヘラクレスのトロイア戦争とアガメムノンのトロイア戦争である。同様にヒッタイト語の文字資料によると、BC15世紀末のアッシュワの乱からBC13世紀末期のウィルサの王ウァルムの打倒までにわたって、少なくとも4度のトロイア戦争があった。そして考古学上の証拠によると、トロイア(ヒッサルリク)はBC1300年からBC1000年の間に、少なくとも2度破壊されている。しかし残念ながら、これらの個々の出来事はどれも他の出来事と確信を持って結びつけることができないが、状況証拠に基づいた次のような仮説は導き出せる。


・ウィルサはおそらく、イリオス、つまりウィリオス(トロイア)である。

・ウィルサの王アラクサンドゥは、イリオス、つまりウィリオス(トロイア)のアレクサンドロス、つまりパリスかもしれない。

・ウィルサの王ウァルムはBC13世紀末期に敵によって追放された。

・アッヒヤワ(アカイア人)はおそらくギリシャ本土の複数の都市国家のミュケナイ人である。

・トロイア第6h市は破壊されたが、おそらく人間(敵)にではなく地震によるものだった。

・トロイア第7a市は人間(敵)によって戦争で破壊された。


 10年間の争いを軸に繰り広げられる感動的な叙事詩を作るため、ホメロスが人と出来事を圧縮し、何世紀にも及ぶ断続的な戦争も圧縮するという文学的自由を行使した可能性は十分にあるだろう。彼の詩は史書としてではなく、愛と名誉のような普遍的主題に関連して人びとが誇りに思う叙事詩としてあるはずだ。


 ホメロスのトロイア戦争というのは一つの出来事ではなく、むしろ過程であるといえる。つまりそれには、この戦争からホメロス自身を隔てるその後の500年間の人びとや場所や出来事といった細部はもちろん、後期青銅器時代の数百年から取られた人びとや場所や出来事も組み込まれているのである。ホメロスは、イノシシの牙の兜や大きな楯やトロイア王家の血を引くアイアスのような昔の人物たちを取り入れ、場合によっては自身の時代に合わせやすいように、使われた装具や戦術を最新式のものにして、さらに古い詩歌から自分の詩に素材を織り込んだ可能性もある。そしてホメロスは、もっとおんぼろな再建されたトロイア第7a市の代りに、美しく近づきがたいトロイア第6市の描写を用いた可能性もある。偉大な英雄伝説というものは往々にして、あまり重要でない事件か、あるいは原形をとどめないほど歪められた出来事をめぐって作られるものなのだ。したがって、たとえ細部に疑問視されるところが一部に在ろうと、トロイア戦争の物語の基本的な要素を確認できるだけの内容があることに我々は満足すべきであろう。アレクサンドロス(パリスの別名)とヘレネや、アガメムノンとプリアモスや、アキレウスとヘクトルが実在したかどうかはともかくとして、ホメロスの物語は大筋で真実のように思えるのである。


 現在までのところ、間違いなくこれと言える特定のトロイア戦争は存在せず、少なくともホメロスが「イーリアス」と「オデュッセイア」で描いたトロイア戦争はなかった。その代わり、いくつものその種のトロイア戦争と、トロイアにあったいくつもの過去の都市を見つけた。すべての物語の根底には何らかの歴史的事実があると結論付けるにはこれで十分だ。全体的に見れば、トロイアとトロイア戦争は北西アナトリアというまさにあるべき場所にある。そしてホメロスと「叙事詩の環」からのギリシャ語の文字資料に加えて、考古学とヒッタイト文書からも、トロイアとトロイア戦争は後期青銅器時代の世界にしっかりと収まっている。さらにその上、愛や名誉や戦争、親族、社会の掟といった後代のギリシャ人とローマ人の大きな共感を呼んだ永続的な主題は、現代に到るまで時代を超えて共感を呼び続けてきた。それゆえにこの物語は、もともとの事件や出来事もしくはそのバリエーションが生じてから3000年以上も経っているのに、今日なお多くの人びとを魅了するのである。


 トロイア戦争の物語は、BC8世紀に盲目のギリシャ人の詩人ホメロスによって語られ、後世のギリシャの劇作家によって補完されたギリシャの英雄たちを描いた叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」に残されている。この二大叙事詩は、何世紀もの間ギリシャの吟遊詩人たちが歌い継いできた物語を下敷きにしている。「イーリアス」はトロイアの町を包囲したギリシャ連合軍の戦いの詩、「オデュッセイア」には英雄の一人オデュセウスが故郷に帰還するまでの冒険の数々が綴られている。

 ドイツ人ハインリッヒ・シュリーマンは、叙事詩の内容が架空の伝説ではなく、事実であると信じ、1871年に私財を投じてトロイアと思われる、ダーダネルス海峡東岸の南端に位置するヒッサルリクの丘の発掘を行い、それを証明した。シュリーマンは9層に積み重なった都市を見つけた。第7層からはBC13世紀に町が火災で焼失した証拠が見つかり、ホメロスの作品に描かれたような事柄が現実にあったと考えられるようになった。トロイアはBC1100年ごろに放棄され、BC700年には一時ギリシャ人の都市として繁栄を取り戻すが、やがて再び消滅した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る