第67話 ホメロスと「イーリアス」「オデュッセイア」

 古代ギリシャの人びとは、ホメロスの叙事詩「イーリアス」が伝える、伝説のミュケナイの王アガメムノンとトロイアとの戦争が実際の出来事だと信じていた。戦争は作り話かもしれないが、トロイアの遺跡自体は現在のトルコ北西部で発見されている。400キロ離れたトロイアとミュケナイは、どちらも交易で繁栄し、競合していた。トロイアが黒海への重要な航路であるヘレスポントス海峡の覇権を握っていたことを考えると、美女ヘレネではなく、交易路をめぐって戦争が起きた可能性があると歴史学者たちは見ている。


 ミュケナイの遺跡を最初に発掘したのはトロイアを発見したハインリッヒ・シュリーマンで、1870年代半ばのことだった。ミュケナイ文明が始まったのはBC17世紀、クレタ島のミノア文明がすさまじい地震と津波から立ち直りつつあるのと同じころだった。この地震はクレタ島における古宮殿時代から新宮殿時代への移行を画するマーカーである。ミュケナイ文明はなぜ興ったのか? それはクレタ文明からの影響である。BC1400年ごろ、ギリシャ本土からミュケナイ人がクレタ島に侵入し、クノッソスを破壊。以後、クレタ島はミュケナイ人の支配を受けることになった。ミュケナイ人はクレタ島を乗っ取り、エジプトや西アジアに至る国際的な交易ルートをも獲得した。そして、それから数世紀にわたり、後期青銅器時代の末のBC1200年ごろまでミュケナイ時代は続いた。ギリシャ本土のミュケナイ・ピュロス・ティリンス・テーバイなどの遺跡で発見された膨大な数の「線文字B」の粘土板文書は1952年にイギリス空軍の暗号解読者だったマイケル・ヴェントリスによって解読され、ギリシャ語の古形であることが証明された。以後、今日まで翻訳作業が続けられており、遺跡からの出土品からの情報と併せて、青銅器時代のギリシャ世界の復元に貢献している。シュリーマンはホメロス的英雄時代の遺跡を探し求めた。シュリーマンはすでにトロイアを発見していたので、今度は船に乗ってトロイア遠征に出かけたギリシャ戦士たちの故郷を探す必要があった、彼は1874年、ペロポネソス半島北東部にやって来ると、古代都市ミュケナイの遺跡を発見した。巨大な石造建築や有名な獅子門(ライオン・ゲート)は、そこが一大戦士社会の中心であったことを明確に証明していた。


「私はアガメムノンの顔を見た」、一代で財を成した実業家であり、その後アマチュアの考古学者に転身したプロイセンの出身のハインリッヒ・シュリーマンは1876年11月、過度の興奮と大いなる誤解の中でギリシャの新聞にそう送信した。貧しかったため、学校には14歳までしか通えなかったが、10代で出会ったホメロスの叙事詩、「イーリアス」と「オデュッセイア」に夢中になり、その二大叙事詩が実際に起きたことを忠実に語っていると信じ込んだシュリーマンは何としてもトロイアを見つけ出してみせると子供心に誓った。彼の父は夜な夜なホメロスの叙事詩の一節を暗唱してくれたという。1822年生まれのシュリーマンは1864年に事業から引退し、残りの生涯を考古学とホメロスにささげた。シュリーマンはイタリアとギリシャを旅し、現代と古代のギリシャ語を学び、古典ギリシャ語を2年で習得した。シュリーマンはトルコのダーダネルス海峡の入口近くに面したヒッサルリクの丘が「イーリアス」でホメロスが描いたトロイアだと確信するようになり、1871年10月に発掘を開始した。1873年までには7層におよぶ居住跡が見つかり、彼が「プリアモスの宝」と名づけた、黄金のペンダントやイヤリング、鎖、ブローチなどの貴重な装身具を掘り出した。

 トロイアと「プリアモスの宝」によってシュリーマンは世界的な有名人になったが、次に目を着けたのが、ペロポネソス半島の北東部に位置するアルゴス平野の北端にある城壁に囲まれた要塞都市ミュケナイだった。そこにはトロイア戦争でギリシャ軍を率いた伝説の王アガメムノンの宮殿と墓所があるとされていた。シュリーマンもそう信じて疑わず、ギリシャ政府から許可を得て、1876年に発掘を開始した。まず、獅子像に守られた有名な城塞の門を掘り出し、その後、アガメムノンの王墓を発見したと発表した。それから4ヶ月後、5つの墓から黄金の副葬品に埋もれた15体の遺骸を発見した。顎鬚あごひげときれいに刈り込まれた口髭が再現された黄金のデスマスクがいくつもあった。さらに金の皿や、繊細な作りの王冠や容器、小さな装飾品が何十点も出てきた。シュリーマンはホメロスが伝えた英雄たちの遺体を発見したと豪語したが、1900年までには、それらはBC1300年ごろの後期青銅器時代に栄えたミュケナイ文明の都市であることが突き止められた。シュリーマンはホメロスの二大叙事詩は史実を描いたものだと実証できたと信じたまま、イタリアで1890年に急死した。このデスマスクの特定年代はミュケナイ時代初期のBC16世紀ごろで、BC1250年ごろのトロイア戦争のモデルとなった戦争が起きた時代より300年ほど前のものだった。


 ミュケナイ人たちは自身の読み書き能力の有無にかかわらず公文書を発行させ、それらは「線文字B」という呼び名で知られる行政用の古ギリシャ文字で書かれていた。ミュケナイ時代のギリシャは1つのまとまった民族ではなかった。言語こそギリシャ語だったが、それ以外はほとんど基本的な点で、エジプト、ヒッタイト、バビロニアなど中東文化の模倣だった。有名な獅子門はヒッタイトやバビロニアの門を想起させ、ドーム型の墳墓にはほとんどエジプト的ともいえる死後の長生への強い願望が表れている。これまでに解読されたギリシャ本土のテーバイ、ティリュンス、ピュロス、ミュケナイ、そしてクレタ島のクノッソス、ハニア、アギオス・ヴァシリオスから出土した線文字B文書には、詩や文学作品は含まれておらず、主として徴税のための記録である。これらの線文字B文書が保存されたのは、BC1200年ごろに各地の宮殿を襲った大火が粘土板を焼成し、硬度を与えた偶然の結果だった。

 ミュケナイの宮殿社会とギリシャのアルカイック期(BC8世紀~BC6世紀)期以降の歴史時代のポリス社会の間に越えがたい溝があることを物語る最良の証人は、皮肉にも両者が一つの連続した文明の直系の祖先と子孫の関係にあることを示す例証だとされてきた叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」、そして叙事詩群と総称される一連の作品群に他ならない。BC8世紀からBC7世紀に完成されたこれらの叙事詩に描かれた記述から当時のギリシャ人が脳裏に描いた壮麗な大宮殿は、近年の考古学によって明らかになった実際の建物と比較するとかなり見劣りがする。ミュケナイ時代のギリシャと歴史時代のギリシャの間の文化的連続性のすべてを否定するものではないが、ミュケナイ時代の宮殿祭祀は、歴史時代のギリシャの神殿祭祀とは似ても似つかないものだった。第1に、「イーリアス」でトロイアにあったとされるアテナ神殿が登場したのは、どんなに早くてもBC9世紀末のことである。それに対して、ミュケナイ時代の宮殿内の祭祀センターは、歴史時代のギリシャの神殿のような地域社会全体のための宗教施設ではなく、むしろ私的な礼拝堂のような性格を持っていた。加えて、BC1250年ごろのトロイア戦争当時に、ギリシャ本土と島嶼部のギリシャ人がミュケナイ王を総大将とする連合軍を結成し、非ギリシャ系のトロイアを10年にわたって攻撃したことを示す考古学的な証拠は未だに発見されていない。そもそもギリシャ人による大々的な軍事連合そのものが、BC13世紀~BC8世紀ごろのギリシャでは実現不可能だったと考えられている。

 ホメロスの世界が不朽なのは、それが何世紀にもわたって連綿と受け継がれた吟遊詩人たちの豊かな想像力の中だけに存在した世界だからである。ホメロスの叙事詩はイオニア方言で書かれていることからホメロスらの出身地は東ギリシャ文化圏だったといえる。BC13世紀からBC10世紀までは、いわゆるギリシャの暗黒時代で、集落の数も、1集落あたりの人口も大幅に減少し、文化的にも技術的にも衰退していた。また、この時代は重要性の高い刃物類が青銅から鉄へ転換し始めた時代でもあった。そして線文字B表記法は共生関係にあった階層的な社会政治機構とともに滅びた。



(ホメロス)


 ホメロスについては何もわかっていない。はたして本当に実在したのかさえわからない。彼はBC8世紀の盲目の吟遊詩人だったのであり、領主たちは彼の素晴らしい歌物語を聞くために契約を結んでいたらしい。彼は詩作品の素材を直接民衆の口から拾い集めて、聴き手の貴族階級の趣味に則ってそれを自らの空想力で変換させていったのである。古代から19世紀まで、「イーリアス」と「オデュッセイア」は一人の偉大な詩人によって書かれたという考えが支配的だった。この偉大な詩人、つまりホメロスが「イーリアス」と「オデュッセイア」のすべて、あるいは部分的な作者だとされてきたのである。しかし、ホメロスがいったいどのような人物なのか、正確なところはわかっていない。この「ホメロス問題」はヨーロッパの文学の歴史上、最も大きな謎の一つとなっている。


[ホメロス問題]

1)ホメロスは実在したか?

 ⇒現在、 我々はホメロスについて何も知らない。ホメロスが「イーリアス」と「オデュッセイア」を実際に書いたかどうかもわからない。

2)ホメロスの「イーリアス」と「オデュッセイア」は後期青銅器時代(トロイア戦争が起こった時代)か、鉄器時代(ホメロスが生きていた時代)か、あるいはその中間のどこかを反映しているのか?

 ⇒ 現在、多くの歴史学者の認識によれば、「イーリアス」は後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)から鉄器時代(移行期:BC12世紀からBC10世紀、普及期:BC9世紀~BC8世紀)にかけての幅広い時期、つまりBC16世紀~BC8世紀に起きた出来事の細部と事実の寄せ集めのようだ。


 古代からホメロスに関してはいくつかの伝記や紹介文、ヘロドトスやツキディデスなどの歴史家による記述、ルキアノスなどの風刺作家による文章などが存在した。伝記作家たちは、ホメロスの作品や伝説の中から取るに足りないエピソードをただ寄せ集めただけの奇妙なホメロス像を作り上げた。それらの伝記には、ホメロスの叙事詩に出てくる人物が登場したり、ホメロスは目が見えなかったとか、各地を放浪中に神々から霊感を与えられて詩を作ったという話などが語られている。これらの伝記は信頼性に欠けるが、少なくともBC5世紀当時の人びとが抱いていた疑問に答えようという姿勢は見られる。つまり、ホメロスはどこで生まれたのか、どこで死んだのか、どの時代の人物なのか、家族はどのような人たちだったのか、彼が実際に書いた作品はなにか、などといった疑問である。その答えは伝記作家によって非常に異なっている。「詩聖」と呼ばれたホメロスの人物像は、全くヴェールに包まれているのである。


 ヘロドトスが書いたとされる伝記によると、ホメロスはエーゲ海に面する小アジア中部の都市スミルナで生まれた。父親はわからない。母はスミルナの北にあるキュメという港町に住むメラノポスという人物の娘クレティスで、クレティスはスミルナで学校の教師をしていたペミオスという男と結婚し、メレス川のほとりで子供を産み、「メレスの生まれ」という意味でメレシゲネスと名付けた。この子供が後のホメロスである。メレシゲネスは非常に賢く、ペミオスの後を継いで教師となった。その後、弟子の一人だったメンテスという船主に説得されメレシゲネスは船旅に出発し、小アジアからイベリア半島まで地中海を旅してまわり見聞を広めた。旅の途中でギリシャ西部のイタカ島に寄ったとき、メントルという人物のもとで、彼はオデュッセウスに関するさまざまな伝説を聞いた。その後、メレシゲネスはこの旅の間に病気にかかり失明した。失明後、彼はキュメ地方の方言で盲人を意味するホメロスという名前で呼ばれるようになった。彼は生活のために詩の朗読をしながら各地を転々とした。彼が歌う詩は人びとの間で評判になり、彼の詩を盗作するものまで現れた。例えば、キオス島のテストリデスという人物はホメロスの詩を自分の作品として発表した。テストリデスを糾弾するためにホメロスはキオス島に渡り、そこで「イーリアス」と「オデュッセイア」を作り、結婚し子供を授かった。その後、彼は自分の作品を世に知らしめるため船に乗ってアテナイに向かった。しかし途中のイオス島で病気になり、そこで亡くなって埋葬されたという。この伝記を基に、他の伝記作家たちは細部をさまざまに変更した作品を書いた。



(イーリアスとオデュッセイア)


「イーリアス」と「オデュッセイア」は、BC8世紀に盲目のギリシャ人の吟遊詩人ホメロスによって語られ、後世のギリシャの劇作家によって補完されたギリシャの英雄たちを描いた叙事詩である。吟遊詩人という言葉には何とも言えない響きがある。根無し草のさすらい人を思わせながらなぜか郷愁を誘うのだ。そこには人間世界の織り成す出来事を語る者の祖形が感じられる。我々は「イーリアス」「オデュッセイア」を読んでいるのだが、元々の成り立ちからすれば、それらを「聴く」と言わなければならない。というのも、繰り返される形容表現の数々も音声として耳にふれるとき、圧倒的な力を発揮するからだ。例えば、ギリシャの最高神ゼウスは天空神であり、その登場の場面では、「雨を降らせる」「雲を集める」「雷を投げつける」などの枕詞まくらことばが前触れとなる。英雄のアキレウスには「神とも見まごう」「神のごとき」などの枕詞が付く。文字で読めば、またかと鬱陶うっとうしくなるが、音声が響けば、そのたびにゼウスやアキレウスの勇姿が鮮やかに浮かび上がってくる。

「イーリアス」と「オデュッセイア」は共に壮大な冒険物語である。「イーリアス」は伝説のトロイア戦争を題材に、ギリシャ連合軍の偉大な戦士アキレウスの怒りなど短いエピソードを集めて構成された作品で、「オデュッセイア」は長大なストーリーを持つ現代の小説に近い作品で、主人公のトロイア戦争で活躍した英雄の一人オデュセウスがトロイア戦争の後、各地をさまよい、さまざまな苦難の果てに故郷にたどり着くまでの出来事が綴られている。この二人の人物を中心に、大勢の英雄と神々が入り乱れ、複雑な物語が劇的に展開する。この二つの作品には、オリンポスの山に住む神々も数多く登場し、地上の出来事に介入する。これらギリシャの神々は人間と同じような姿形をしており、死ぬことはないが怪我は負う。また人間と同じように、怒りや愛、友情、誠実さ、嫉妬、恨みなどを感じ、人間と同じように感情に突き動かされて行動する。

「イーリアス」では、神々はトロイア軍とギリシャ連合軍の両陣営に分かれてそれぞれの味方に付いた。アポロン、アフロディテ、アレスはトロイア側に、ヘラ、ポセイドン、アテナはギリシャ側である。神々はさまざまな方法で、自分が味方であることを人間に伝える。励ましの言葉をかけたり、提案をしたり、鳥や夢などの形で前兆を告げたり、相手を欺いたり、さらには直接手を下すこともある。例えば、メネラオスとパリスが一騎打ちしたとき、アフロディテは形勢が不利なパリスを守った。また、神々は人間のように事あるごとに集まって相談し、人間のように激しく口論する。一方、「オデュッセイア」では、神々の存在はあまり目立たないが、やはり重要な役割を果たしている。例えば、海神ポセイドンの怒りが原因でオデュッセウスは帰郷の途中で数々の苦難を味わった。しかし、一方で女神アテナは大事な場面で何度もオデュッセウスを助け、彼を無事に帰還させている。

 さらに、人間と神々は血縁関係を持っている場合もある。例えば、アフロディテはトロイア王家の血を引くアイネイアスの母で、テティスはアキレウスの母である。血縁関係があることも、神々が積極的に人間界の出来事に介入する理由の一つだ。神々は最高神ゼウスの意向を無視して行動することも多く、その結果、人間に大きな不幸をもたらす場合もある。一例を挙げれば、アテナとアフロディテを相手に美しさを競って負けたゼウスの妻ヘラは、この争いの審判をしたパリスに腹を立て、そのことがトロイア戦争の間接的な原因となった。このように「イーリアス」と「オデュッセイア」は、神々の意図と人間の運命が複雑に絡み合った物語だといえる。


「イーリアス」と「オデュッセイア」に登場する英雄たちは並外れた存在である。神の血を引いているか、神に守られた彼らは、人間離れした体格や腕力を備えており、普通の人間では不可能なことをやってのける。しかし、「イーリアス」と「オデュッセイア」の本当の目的は人間と人間の感情を歌うことにある。登場人物が抱くさまざまな感情が作品の中で見事に表現されている。さらに、ホメロスは英雄たちを多面的に描き出している。登場人物が抱く感情は、妻子と別れる悲しみや母を思う子の気持ちなど素朴で普遍的なものが多い。そして、“ゼウスは私たちが後世にまで歌い継がれるようにと、こんなつらい運命を下したのです”と、ヘレネが義理の兄ヘクトルに語るように、彼らは不確実な運命を生きる人間の苦しみは来たるべき栄光のためものだと悟っていたのである。


 ホメロスの叙事詩では、英雄たちの日常生活も細かく描写されている。「イーリアス」では彼らは家畜を殺して食事の用意をし、「オデュッセイア」ではオデュッセウスの宮殿の貯蔵庫や武器庫の様子が語られている。また、田園生活、職人たちの仕事、狩猟など日々の労働に関する非常に具体的な記述が随所に見られる。さらに、ギリシャ連合軍が船団を守るために造った城壁、オデュッセウスが捕らわれの身となったポリュペモスの洞窟、女神カリュプソのもとを去るときにオデュッセウスが造ったいかだなども、豊富な語彙によって非常に写実的に語られている。真実味あふれる描写は、英雄たちの世界を人間の世界と結びつけることに役立っているだけでなく、物語の展開にも大きな説得力を与えている。例えば、「オデュッセイア」の最後に出てくるオデュッセウスとペネロペイアの夫婦のベッドは、大地に根を張ったオリーブの木でできているが、そのことを知っているのは彼ら二人だけで、このベッドの詳細について語ったオデュッセウスをペネロペイアは夫であると確信するに到るのだ。


 この二つの作品はあらゆるギリシャ文学の中で最も人気の高い作品であるが、重要なのは、約400年にわたって吟遊詩人が語り継いできた口誦の物語が確固とした叙事詩の形にまとめられたという事実である。BC6世紀には文字に書き留められ、パンアテナイア祭で朗読されたり、写本が各地に流布するようになっていた。そのころにはすでにこの二つの作品は古代ギリシャの権威ある歴史書と見なされ、道徳や文学教育のための基本教材としても認められていた。「イーリアス」と「オデュッセイア」はギリシャ文明の特徴である「自意識の強さ」を示す最初の証拠であり、またギリシャ古典期(BC500年~BC322年)に開花する盛期ギリシャ文明の基本的な価値観を先行して表現したものといえる。現在でもこの二つの作品は、聖書と並んでヨーロッパの文学や美術における最大の源泉となっている。



(イーリアス)


「イーリアス」は全24歌、合計1万6000行から成る長編叙事詩である。これはトロイア戦争全体を扱ったものではなく、トロイア軍に対するギリシャ軍の勝利についても語られていない。トロイアの陥落については、「オデュッセイア」の第8歌でふれられているだけだ。

「イーリアス」の冒頭を見てみる、「女神よ、さあ、怒りを歌いたまえ」。トロイアでギリシャ人は近郊の都市を略奪し、ギリシャ連合軍の総大将のミュケナイ王アガメムノンはアポロンの神官の娘を戦利品として手に入れた。アガメムノンは娘を帰してほしいという神官の嘆願をはねつける。神アポロンはそれに激怒して疫病をもたらし、予言者はこの疫病は娘を帰すまでは収まらないという。アガメムノンは憤慨した。この娘は戦利品である。もし返せというのなら代りのものをよこせという。偉大な戦士アキレウスはもう戦利品は残っていないと指摘する。「この町を略奪したときの戦利品は我々の間でもうすべて分けてしまったのだ。それを取り消すのはおかしいではないか」。それでアガメムノンは折れたが、その仕返しにアキレウスが戦利品として手に入れた女性プリセイスを自分のものにする。二人の激しい口論はもう少しで戦いにまで発展するところだった。アキレウスはギリシャ連合軍に交じって戦うのをやめてしまった。その結果、ギリシャ連合軍の劣勢が続いた。アキレウスの側近で親友でもあるパトロクロスは味方の苦戦を見かねてアキレウスの武具を借りて出陣した。パトロクロスは戦死し、彼を殺したトロイアの王子ヘクトルに復讐するためアキレウスは戦列に復帰した。アキレウスはヘクトルを殺し、その遺体を二輪戦車に乗って引きずり回した。神々のとりなしと、ヘクトルの年老いた父であるトロイア王プリアモスの嘆願によって、ようやくアキレウスはヘクトルの遺体を返した。

 アガメムノンとアキレウスの争いは神々の間にまで波及し、争うことの是非について、2人のリーダーの口論について、またギリシャとトロイアのそれぞれの功罪をめぐって神々の間で論争が巻き起こった。この場面はゼウスの意志から離れた活動を表すためにある。この冒頭の場面にはいくつかの重要な社会テーマが織り込まれている。戦利品の分配、神聖冒涜の実体、いかにして権威が象徴され、また支持されるか、指揮官の決断、王家の取るべき行動などである。ここでは社会の枠組みは宗教的な枠の中に置かれている。そして話が進むにつれてそこに無数に散りばめられた実生活のこまごまとした物事、船の扱い、葬儀の執り行い、狩猟の方法、遺産の継承、妻の選び方、家事の切り盛り、遺体の埋葬、勇者への哀悼などが語られていく。そしてそれを強めるのは、文体、韻律、印象的な決まり文句、繰り返し、言葉のハーモニーである。こういった要素が楽しいという感情を生み出す。ホメロスは著作家ではなく、吟遊詩人だと伝えられている。ホメロスの意義は文字を持たない文化において大きいのである。

「イーリアス」はトロイア戦争10年目のトロイア陥落直前の51日間の出来事を語ったものである。この2か月の戦いで両軍の英雄は数百人登場する。戦争に参加していた英雄たちもいれば、以前に偉業を成し遂げた人物としてふれられているだけの英雄たちもいる。両軍の英雄たちは第2歌で、1000隻以上の船や、ギリシャ連合軍10万人、トロイア軍5万人という兵士の数とともにまとめて紹介されている。ギリシャ側は、ピュロス王ネストル、クレタ王イドメネウス、イタカ王オデュッセウス、総大将のミュケナイ王アガメムノン、その弟のスパルタ王メネラオス。それに対してトロイア側は、トロイア王プリアモス、その息子たちヘクトル、パリス、ヘレノス、キュキエ勢を率いるサルペドン、トロイア王家の血を引くアイアスなどである。

 一方、女性たちは数こそ少ないが重要な役割を演じている。絶世の美女ヘレネはスパルタ王メネラオスの妻だったが、トロイア王プリアモスの息子パリスに略奪された。トロイア戦争はこの出来事がきっかけで起きたのである。プリセイスはアキレウスの戦利品で愛人となっていたが、アガメムノンが横取りしたことで、アキレウスの怒りを招いた。アンドロマケはトロイア王プリアモスの息子ヘクトルの妻で、幼い息子を奪われ、自らも男たちの狂気の犠牲者として声を挙げている。それぞれ異なる運命を担った大勢の人物が登場するこの叙事詩は、一つの物語の中に別の物語があり、その物語の中にさらに別の物語がある。「イーリアス」では、トロイア軍が150人、ギリシャ連合軍が44人、合計194人の死者が出ている。英雄の多くは神の血を引いているが、神とは違い不死ではなく、死すべき存在なのだ。この壮大な叙事詩は単に残酷な戦闘場面を羅列するのではなく、絶えず揺れ動いている人間の心に焦点を当てたために力強さを得た。つまり、怒りと赦し、憎しみと同情、反抗と忍従など、人間の心の矛盾する動き、複雑な感情を表現することで、生き生きとした作品になったのである。



(オデュッセイア)


「オデュッセイア」も「イーリアス」と同じく全24歌から成るが、「イーリアス」よりも短く、合計1万2000行の長編叙事詩である。この詩は、トロイア戦争で活躍したギリシャ連合軍随一の策略家であるイタカ王オデュッセウスの帰郷について語ったものだが、帰途の波乱に満ちた数々の冒険談が大部分を占めている。オデュッセウスの眼前に海のない所はなく、うんざりするほどである。つまり、突然の嵐が起き、夜は難破の危険に満ち、船乗りを無残な死へと誘う海である。それは全体が帰還を目指し、完結することを切望する旅の物語である。オデュッセウスは不毛な海を彷徨さまよいながらすべてを、すなわち財産、栄光、そしてその名前までも失いかけ、部下たちを一人また一人と失って、ついにはたった一人で、他人に身をやつすことを余儀なくされて家に戻った。老犬アルゴスは主人をそれと認めたとき死んでしまう。

 物語の主な舞台はイタカ島で展開される。イタカ島ではオデュッセウスがいない間に彼の妻に求婚する男たちが争いを繰り広げていたが、最後にはオデュッセウスが王の地位を取り戻す。トロイア攻略後、オデュッセウスや他のギリシャ連合軍の英雄たちは、予期せぬ出来事に出会ってなかなか帰郷できなかった。その内容は、ピュロス王ネストル、スパルタ王メネラオス、そしてオデュッセウス自身が語るエピソードの形、あるいは吟遊詩人の歌の形で作品に盛り込まれている。このような構成をとることで、実際には10年間続いたオデュッセウスの流浪生活が、41日間の出来事として語られているのである。

 また、「オデュッセイア」は、オデュッセウスの息子テレマコスの物語でもある。テレマコスはイタカの宮殿に残っていたが、母ペネロペイアにしつこく言い寄る求婚者たちの横暴に耐えかねて、父を探すための旅に出る。最初の4歌は彼の旅の話で、その後オデュッセウスの冒険談が続き、第15歌でテレマコスはイタカに戻る。その後、彼は父と協力して求婚者たちを殺害する。

 しかし、何と言っても「オデュッセイア」で最も有名なのは、オデュッセウスの冒険談である。オデュッセウスは帰郷の途中で海神ポセイドンの怒りを買ったため、ポセイドンのさまざまな妨害にあって、なかなか旅を進めることができなかった。怪物キュクロプス、魔女キルケ、女神カリュプソ、カリュプソはオデュッセウスに惚れ込んで手放そうとしなかった。さらに恐ろしい海の怪物セイレンなどに悩まされ、たびたび嵐に遭遇し、さらには死者の国にまで行かされた。だが、どんな困難に出会っても機転を利かせて切り抜ける英雄オデュッセウスの冒険談は、人びとの創造力を激しくかき立てた。オデュッセウスの冒険談は、ギリシャ美術の題材として頻繁に使われた。特にBC6世紀~BC4世紀のアッティカ赤像式や黒像式と呼ばれる陶器が知られている。


[トロイアの木馬]

 エーゲ海のミコノス島で出土したBC670年ごろのテラコッタの壺には、トロイアの木馬と、その中に潜んでいたギリシャ連合軍の戦士たちが描かれている。ホメロスは木馬に関する詳しい説明をしていないが、「オデュッセイア」の第8歌には次ように記されている。

「“木馬の話を聞かせてくれ。女神アテナの助けを得てエペイロスが造り、勇将オデュッセウスがその中に戦士たちを潜ませ、イリオン(トロイア)の城内に運んで敵を欺いた木馬の話を”。暗誦詩人が選んだ場面は、(ギリシャの)アルゴス軍が自分たちの陣営を焼き払い、船でその場を去ろうとする一方で、名高いオデュッセウスが率いる一行は、木馬の中に潜んだ状態で、すでにトロイアの広場にいる箇所だった。・・・それから吟遊詩人は、木馬から出た一行が町を破壊し、船で待機していたアカイア軍も舞い戻って、思い思いの場所で城内を荒らしまわる様子を歌った」


 この二大叙事詩はテーマこそミュケナイ時代を取っているが、そこに描かれているのは暗黒時代(BC13世紀~BC10世紀)からエーゲ海地方が回復し始めたBC8世紀ごろの社会である。その王たちは、官僚たちを従えた西アジア型の王ではなく、荒々しいバイキングのリーダーのような存在である。彼らは王というよりは有力者たちの第一人者であり、常に敵対者との戦いに苦しめられている。物語には個人主義的で無秩序な雰囲気が漂っている。ホメロスが描いた物語はまだ混乱から抜け出すことのできない未熟な社会の様子でしかない。その社会はミュケナイ文明ほど発達しておらず、後のギリシャ文明を予感させるものでもなかった。


 ***


 ミュケナイ文化の社会は戦士主導型だったが、それが生み出した文化は、建築や工芸、それに素晴らしい芸術品などで十分にミノア文化と対抗しえた。BC13世紀にミュケナイ文化はピークに達する。この文明はギリシャの南部と中央部で生まれ、後にエーゲ海の島々へと拡がり、BC1450年ごろに始まったクレタ島の宮殿文化の失墜以後、その跡を引き継いだ。ミュケナイの世界については大規模な考古学調査を通じて多くのことが知られているが、トロイア戦争の物語であるホメロスの「イーリアス」は、戦士主導の勇壮な社会について語っていて、ミュケナイ世界のよく知られた多くの宮殿や要塞に言及している。シュリーマンが発見したのは、豪華な装飾品、指輪、腕章、さまざまな金銀の器、ダチョウの卵殻、水晶のボウル、精緻に装飾された青銅製の剣や短剣などだ。さらに2頭の立派なライオンの石像が置かれていた獅子門や竪穴式墳墓なども有名だ。このような文化的業績をもたらしたのが、肥沃な沖積平野での穀類、オリーブなどの集約栽培だった。これによって生み出された余剰が支えていたのは、職人、軍隊、官僚たちに加え、広範囲な交易ネットワークも支えていた。交易からは戦士王のステータスを維持するために必要なエキゾチックな品々を調達した。作物の集約栽培のために重要だったのが水の管理だ。穀物の灌漑用に、都市の飲料水に水管理は欠かせない。ミュケナイ人はヨーロッパで最初に土地の干拓を行った人々だった。

 アテナイやティリュンスやミュケナイでは、岩を切り削って作った導水路が地下の泉から水を要塞へともたらしていた。ピュロスではテラコッタ(素焼きの焼き物)製の管を通って神殿や作業地域辺りに水が導き入れられた。このような事例はミノア世界で目にしたものとそれほど異なっているわけではないが、ミュケナイ人はまた大掛かりな排水工事を行っている。堤防を築き、簡単なダムを作り、さらに運河を掘削した。これがヨーロッパで最も早い時期の開拓事業となった。ミュケナイ人が常に直面していた課題の一つに石灰岩の基盤岩にできた自然の陥没穴の排水容量を予測できなかったことがある。例えば、ボイオティア地方のコパイス湖周辺では、BC1200年ごろに1回あるいは複数回の地震が襲ったとき陥没穴が完全に塞がってしまったため、辺り一帯は水浸しになってしまったという調査結果がある。ミュケナイ人はこの問題を結局解決できなかった。このBC1200年ごろの地震は、ミュケナイ世界の文化の中心地だったペロポネソス半島のアルゴス平野にあった3つの都市、ティリュンス、アルゴス、ミュケナイにも甚大な影響を及ぼした可能性がある。

 ホメロスをはじめとして古代ギリシャの詩人たちはミュケナイにおける水管理の重要性を認めている。洗浄はホメロスの「イーリアス」や「オデュッセイア」の一貫したテーマだった。ホメロスは祈りの前に手を洗ったり、兵士たち全員を水で清める場面を描いている。旅人たちは長くて苦労の多かった旅の後では沐浴することで身も心も浄化された。沐浴はまた社会的儀礼の役割を果たした。ホメロスの作品で描かれたネストル王の宮殿跡と信じられていたミュケナイ期のピュロスの遺跡からは漆喰しっくい(石膏)で塗られたバスタブや、水を入れる大きなかめ、スポンジを置く土器製の杯などがある部屋が発掘されている。それはオデュッセウスの息子テレマコスがネストル王の宮殿に到着すると、美しいネストルの娘ポリュカステがテレマコスの体を洗い、油を塗りつけて、彼が不死の神に見えるようにチュニックを着せたという物語を本当の出来事だと思わせるものだ。また、ギリシャ神話のヘラクレスの12の功業の一つに、エリス王アウゲイアスの牛小屋をわずか1日で掃除してきれいにするというもので、ヘラクレスはアルペイオス川の流れを変え、汚物で汚れた牛小屋へ水を引き入れて見事清掃に成功した。ヘラクレスはギリシャのアルゴス平野にあったティリュンスの要塞にいながら労働者たちを指揮したと言われている。ティリュンスはその巨大な壁と浴室、井戸などで、ミュケナイ文明の遺跡中最も印象に残るものの一つだ。注目すべきは、その町と周辺の地勢調査の結果、ミュケナイ人の支配者たちが、実際にヘラクレスが行ったことを遂行していたことだ。彼らは川の流れを変えていた。これはおそらく牛小屋を清掃するためではなく、町を洪水による氾濫から守るためだったのだろう。

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