第66話 ミュケナイ文明

<年表>

前期青銅器時代(BC2500年~BC1900年)

 東ヨーロッパの平原出身で、インド・ヨーロッパ語を話す最初のギリシャ人が北方からやって来てギリシャの土地に拡がったのはBC2000年紀初頭である。北部のマケドニアやテッサリアにはそれ以前にすでに浸透していたと思われる。彼らはそこで新石器時代から定住していた人びとと混合した。


中期青銅器時代(BC1900年~BC1600年):中期ミノア時代

 この時代にろう型を使用した青銅器の鋳造など、金属の加工技術が大きな進歩を遂げた。BC2000年ごろにクレタ島に巨大な宮殿群が突如として出現したことからもうかがえるように、中期青銅器時代、クレタ社会に大変動が起こり、地中海東部諸国と外交関係や交易網を築き上げるほどの成熟した都市国家群に突然変貌した。 


後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年):ミュケナイ時代

 ミュケナイ文明という名称は、ドイツ人のハインリッヒ・シュリーマンが1876年に発掘したアルゴス地方のミュケナイの遺跡に由来している。ミュケナイはペロポネソス半島北東部のアルゴリス地方にあった後期青銅器時代の主要都市であり、そのためギリシャの後期青銅器時代全体はその名を取ってミュケナイ時代とも呼ばれている。ミュケナイ文化の中心都市ミュケナイ、テーバイ、イオルコス(テッサリア地方)、ピュロスの支配者たちは極めて好戦的で、宮殿の周囲に巨大な城壁を築くことを好んだ。ミュケナイの城壁は厚さが6メートル以上あった。彼らが北方からギリシャ半島に入ってきたのは、BC18世紀~BC17世紀で、町や都市を建設している。クレタ島の最盛期である後期ミノア時代の前半期(BC1580年~BC1450年)の豊かなクレタとの接触は戦士的なミュケナイ人たちが高度に洗練された古代文明と関わることを意味し、重大な意義を持っている。ミュケナイの発展に決定的な役割を演じたのはインド・ヨーロッパ語族のアカイア人である。彼らはミュケナイ人に3~4世紀遅れてギリシャ本土に侵入してきた。ここでいう最初にギリシャ本土に来たミュケナイ人はホメロスのいうペラスゴイ人で、遅れてきたアカイア人はBC14世紀からBC13世紀にかけてペラスゴイ人と融合した。


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 ギリシャ文明の起源はBC3000年紀半ばにまで遡る。人びとは各地に小さな村を作って生活していた。やがて青銅器を使用するようになり、簡単な陶器も作られたが、ギリシャ人が読み書きを始めるのはもっと後のことである。青銅器時代のギリシャ文化はアナトリアの青銅器文化に類似しており、人びとは東方からエーゲ海地方にやって来たらしい。彼らがバルカン半島東南部のトラキアを通ってギリシャ地方に来たのか、それともエーゲ海の島々を飛び石のように渡って来たのかはわからない。いずれにせよ、ギリシャ人とその文化にとってギリシャ本土とエーゲ海の島々を厳密に分けることはあまり意味がない。ギリシャ本土といっても住民の多くは海岸に近いところで生活していた。海は障壁にもなり得たが、同時に重要な交通路でもあった。嵐で荒れ狂ったときのエーゲ海のひどさはよく知られている。しかし穏やかな日のエーゲ海の旅は、ギリシャ本土の起伏のあるごつごつした陸路を歩くよりはるかに容易で快適である。海は明確なギリシャ文化の誕生に重要な影響を与えた。ギリシャ人はもともと農業を生活の基盤にしていたが、次第に海洋交易の重要性が増していった。


 インド・ヨーロッパ祖語からアナトリア語派の分離以降でその起源を遡るのが難しい唯一の言葉はギリシャ語である。ギリシャ語にはアルメニア語とアナトリア半島北西部のフリュギア語と共通する特徴がある。この2つの言語はどちらもBC1200年以前にヨーロッパ南東部で話されていた言語から派生している。したがって、ギリシャ語はブルガリアへのヤームナヤ文化の移住者の言語から発展した可能性がある。また、前ギリシャ語は前インド・イラン語とも多くの特徴を共有している。ポントス・カスピ海ステップ西部の前期横穴墓文化はこの条件に合う。この文化は西方ではヨーロッパ南東部と、東方ではインド・イランの世界と接していたからである。しかも、前期横穴墓文化の人びとが直接ギリシャへ移住した痕跡は見当たらない。ミュケナイ竪穴墓の王たち、つまりBC1650年ごろにギリシャ語を話していた最初の人びとには、ポントス・カスピ海ステップまたはヨーロッパ南東部の文化と関連付けられるいくつかの人工物の型式と慣習がある。それは、独特な型式の二輪戦車用のウマのはみに付けるチークピース、独特な矛の穂先、死者のために仮面を作るなどで、これらはBC2500年~BC2000年ごろの後期横穴墓文化の時代によく見られた風習である。ギリシャ語またはギリシャ祖語をギリシャに持ち込んだ人びとは、おそらく海路で、何度かにわたって黒海ステップ西部からヨーロッパ南東部へ、アナトリア西部へ、ギリシャへと移動していると思われるため、その足跡を見つけるのを困難にしている。BC2400年~BC2200年の青銅器への移行期は、ギリシャに新しい民族がやってきた可能性のある激動の時代であった。



(ミノア文明からミュケナイ文明へ)


 BC2000年ごろにクレタ島に宮殿のある都市国家で、文字を持つ官僚支配の制度を持つ文明が現れた。しかし、「王宮」と呼ばれているものは、実際には奉納物を貯蔵する部屋を無数に持つ神殿であった。その文明の基礎を成していたのは、農産物と嗜好品の交易であった。クレタ島の文明は、伝説上の王ミノスの名にちなんでミノア文明とも呼ばれる。洗練されたクレタ社会では女性が大きな力を持ち、人びとは娯楽を求め平和に暮らしていた。娯楽を求めたからといってクレタ人が軽薄な快楽主義者の集団だったわけではなく、むしろ勤勉で、厳しく統制された社会を形成していた。女性を含めた祭司たちのエリート集団が、農産物と工芸品などの商品の管理を担っていた。神殿に納められた農産物は高価な工芸品などを生産するための原材料と交換されていた。そうした神殿経済を円滑に行うため文字が発達したと考えられる。BC18世紀からBC15世紀に使われていた文字は「線文字A」と呼ばれている。クレタの失墜はBC1450年ごろに始まった。島内のいくつもの都市の宮殿は火災で焼き尽くされた。一部の学者は地震や津波のような大災害があったと推測している。

 その後クレタ社会は復興したが、BC1400年ごろアカイア人と思われるミュケナイ人がクレタ島に侵入し、BC1350年ごろにクノッソス宮殿を破壊した。クレタはミュケナイ文明の影響下に入る。ミュケナイ文明はBC1600年ごろからペロポネソス半島のミュケナイを中心として栄えた文明である。ミュケナイ文明の影響のもとで官僚体制を維持し監督する官吏たちはさまざまな事柄を細かに記録した。彼らの用いた文字は「線文字B」と呼ばれている。クノッソスの発掘者であるイギリス人アーサー・エヴァンズにとって、クノッソスは愛と美の楽園であった。一方、トロイアとミュケナイを発掘したドイツ人ハインリッヒ・シュリーマンによれば、ミュケナイは男たちの世界、「戦士たちの砦」であった。今日の学者の多くは、クレタとミュケナイの間にこれまで以上にその関連性を見ようとしている。ミュケナイ人は、BC18世紀~BC17世紀ごろからバルカン半島を南下し、BC1600年ごろまでにはギリシャ半島を占拠した。ミノア文明とミュケナイ文明が最初のヨーロッパ文明であり、その後、エーゲ海が文字を持った都市文化社会の母体となった。


 ミノア文明の影響をギリシャ本土に持ち込んだのはインド・ヨーロッパ語族のミュケナイ人(ペラスゴイ人)で、彼らはBC18世紀~BC17世紀にかけて北方からギリシャのアッティカ地方とペロポネソス半島に侵入し、町や都市を建設している。ミュケナイ人(ペラスゴイ人)が最初にギリシャ語を話した人びとである。アッティカ地方もペロポネソス半島も古くから西アジアと交流があった地域で、そこにはすでに要塞化された丘、アクロポリスがあった。ミュケナイ人(ペラスゴイ人)と彼らに3~4世紀遅れてギリシャ本土に侵入してきてミュケナイ人(ペラスゴイ人)と融合したアカイア人は文化的には先住民より劣っていたが、ウマと二輪戦車という強力な武器を持っていた。彼らはミノア文明の人びととは違い、武力の持つ意味を良く理解していた。彼らの暮らす町は周りを厳重な砦で囲んで築かれていた。おそらくこの両者の違いは、四方を海という天然の砦に囲まれた人びとと、絶えず周辺からの攻撃に神経をとがらせていた人びととの違いだった。彼らが建設した町にはアテナイやピュロスなど、後にギリシャの重要な都市国家に発展した町があるが、町の規模は小さく、大きな町でも人口は2000~3000人程度だった。その中の最も重要な町の一つにミュケナイがあった。青銅器時代のギリシャ本土にようやく起こった文明は、この町の名前を取ってミュケナイ文明と呼ばれている。

 ミュケナイ文明は黄金をふんだんに使用した豪華な遺物の存在で知られている。芸術面ではミノア文明の影響が色濃く見られるものの、ミュケナイ文明はアカイア人とギリシャ本土の先住民ペラスゴイ人の文化が融合して誕生した文明だった。その社会制度の基になったのはインド・ヨーロッパ語族に多く見られる家父長制だったと思われる。ミュケナイ文明の重要な都市にはそれぞれ王がいた。ミュケナイの王は戦士階級の地主たちとその下で働く先住民を治め、その一方で、初期のころは各都市の王たちがつくる連合体の長を務めていた。ヒッタイトの外交記録にもミュケナイ時代のギリシャが何らかの形で政治的に統一されていたことを示す文書がある。ピュロスで発見された粘土板文書からは、王の下で人びとの暮らしが細部まで管理されていたこと、役人たちの間に区別があったこと、奴隷と自由民の区別があったことなどがわかっている。また、ミノア文明と同様に王宮に機能が集中していたこともわかっている。



(ペラスゴイ人とアカイア人)


 ギリシャに考古学が参入したのはアガメムノンの伝説上の王宮をミュケナイで発見したハインリッヒ・シュリーマンからである。1876年、彼は古代の地理学者であり紀行作家パウサニアスから示唆を得て、獅子門(ライオン・ゲート)の内部を発掘して有名な円頂墳墓を発見した。6つの竪穴式墳墓には19人の遺体が埋葬されていて、一緒に刀剣、杯、金の装飾品、黄金の仮面が出てきた。彼は一番素晴らしい仮面をアガメムノンの仮面と名づけた。竪穴式墳墓は、今ではBC16世紀ごろのものとされている。古代ギリシャにおいて特筆すべき考古学上の出来事は、財宝で埋め尽くされたBC1600年ごろの巨大な墓が現れたことである。それは竪穴式墳墓として知られる。ミュケナイの円形墓で見つかった武器、黄金の副葬品、その他の工芸品はギリシャではそれまでに全く例を見ないもので、外来の文化的要素が入ってきたとしか説明のしようがない。ミュケナイ人は長く非インド・ヨーロッパ語の話し手が住んでいたギリシャのエーゲ海地域にやって来た最初のインド・ヨーロッパ語族だった。言語学の示すところによれば、ミュケナイのギリシャ語は後に古代ギリシャ語諸方言として知られるもののどれよりも古いものである。戦車として使われた二輪戦車の描画がミュケナイで見つかっており、それはBC16世紀からBC15世紀のもので、ミュケナイ人がギリシャ征服の際に二輪戦車を使ったことに疑いの余地はない。


 現在、考古学的にはペラスゴイ人による初期のミュケナイ文明と、その後ギリシャに侵入してきたアカイア人社会との間には根本的な相違があることが明らかになっている。初期のミュケナイ人であるペラスゴイ人は鉄を知らなかったが、アカイア人は鉄を知っていた。ペラスゴイ人は死者を埋葬していたが、アカイア人は火葬にしていた。ペラスゴイ人は神々が地中に居ると信じていたので下の方を眺めて祈っていたが、アカイア人は神々がオリュンポス山の頂きか雲の間に居ると信じていたので上を眺めて祈っていた。したがって、アカイア人は中央ヨーロッパから来たインド・ヨーロッパ語族であり、テッサリアを横断してペロポネソス半島に南下し、土着民の初期のミュケナイ人であるペラスゴイ人を屈服させたといえる。そしてBC14世紀からBC13世紀にかけて、アカイア人はペラスゴイ人と融合して、新しい文明と新しい言語、つまり「線文字B」という文字を使用した古形のギリシャ語を創出しながらも依然として支配階級に留まり続けたと考えられている。

 アカイア人は農耕民だった。彼らの町や要塞はすべて内陸に建設されたし、アカイア人に支配されたギリシャは、ペロポネソス半島、アッティカ、ボイオティアに限られていた。一方、初期のミュケナイ人であるペラスゴイ人は船乗りだったので、彼らにとってのギリシャはエーゲ海の群島全体をも包含していたのだ。ホメロスがアカイア人に帰属させている武勲に関して、1世紀前まではBC1250年ごろのトロイア戦争も含めて純然たる伝説と見なされてきた。しかし、トロイアは実在したのであり、しかもギリシャ諸都市にとって危険なライバルでもあった。なにしろへレスポントスの豊穣な土地に到達するのには、どうしても通過しなければならないへレスポントス(現在のダーダネルス)海峡をトロイアが支配していたからだ。トロイア人が誰だったのかはわからない。彼らはダルダノスとも呼ばれていた。一説によると、トロイアはクレタ人の植民地だった。

 アカイア人の庶民の家は泥とわらで出来ていた。富裕層の家はレンガで出来ていて、床は石を敷き詰めてあった。中央の扉から出入りしたが、たいていの場合、部屋の区分も窓もなかった。炊事場は遥か後まで存在しなかった。調理は唯一の広間の真ん中で行われ、屋根に穴が開いていて、煙り出しになっていた。大領主だけが浴室を備えていた。神殿はなかった。アカイア人の領主たちは信心深いとはいえ、自分の宮殿のためにお金を使っており、神々は戸外に放置していた。誰も個人の土地を所有してはいなかった。所有権は家族にあり、家族内でそれぞれの役割を分担していた。金属はすでに加工済みのものを北方の国々からの輸入に頼っていたし、輸送手段はラバか人が牽く車しかなく、しかも非常に高価だった。ポリス、つまり正真正銘の都市はまだ誕生していなかったし、法律や税金もなかった。領主の国庫は寄付や戦利品で補給されていた。したがって、アカイア人は征服者だった。トロイアとの戦争はもちろん財政上のひっ迫により強いられたものだったとはいえ、アカイア人は海洋民族ではなかった。



(ドーリア人)


 ゼウスとヘラの子が勇猛なヘラクレス(ヘラの栄光)であり、そのヘラクレスの息子たちはヘーラクレイダイと呼ばれた。彼らは父親の乱暴な性格を受け継いでいたため、ミュケナイ王によってギリシャから追放されてしまった。しかし50年後、彼らの孫の時代には戻ってもよいとの約束があった。第3世代の彼らの子孫は半世紀後に約束通り姿を現し、抵抗するアカイア人を殺害し、ギリシャを奪い取ってしまった。伝説で「ヘーラクレイダイの帰還」と呼ばれているこの話は、歴史上の用語では「ドーリア人の侵入」と呼ばれ、BC12世紀からBC9世紀ごろまで続いた。いわゆる東地中海と西アジアにおける「混乱の時代」であり、ギリシャの「暗黒時代」である。

 ドーリア人は中央ヨーロッパからやって来たことに疑いはない。ドーリア人は、鉄の冶金の痕跡が発見された現在のオーストリアの都市ハルシュタットにちなんだ文化をギリシャにもたらした。アカイア人も鉄を知っていたが、完成品を北方から輸入しただけだった。ドーリア人は鉄を大量に持っていた。中央ヨーロッパからバルカン半島を南下する途中のギリシャ半島北西部のエペイロスや北東部のマケドニアの山腹でも鉄を発見したりして、最終的には鉄の武器で武装するようになった。これに対してアカイア人は対抗できなかった。ドーリア人は群れを成して南下し、地峡を見渡すコリントスに最初の要塞を築き、そして瞬く間にアテナイのあるアッティカ地方を除き、ギリシャ全土を屈服させてしまった。アッティカではアテナイ人が抵抗して、彼らを撃退することに成功した。ドーリア人は文化レベルの高いアカイア人から言語や文字を含めて慣習のほとんどすべてを受容したが、自分たちの血統は保持し続けた。スパルタにおけるように、彼らの生物学的一体性をしばしば真のヒロイズムを持って守った。ドーリア人は自分たちに好都合だったため、ヘーラクレイダイの伝説を利用したが、権利の平等や異種族間の雑婚はなお長期にわたり排除してきた。BC700年ごろのアッティカの北側に位置するボイオティアの叙情詩人ヘシオドスは、この時代を「鉄の時代」と呼んだ。これは鉄が初めて広く利用されるようになったが、社会の混乱から田園地帯は荒廃し、人口は減少していった。新しい支配者ドーリア人は文芸保護に無関心あるいは無知だったため、芸術や文化の発展は止まり、アカイア人の大半は死ぬか逃亡してしまった。逃亡したアカイア人の一部が「海の民」となり、アナトリアやレヴァントの沿岸部に侵入したとも考えられる。


 ギリシャ人の基本的かつ恒久的な特徴は排他主義だった。それはポリス(都市国家)として現れ、そして各ポリスは決して一国家に融合するに至らなかった。この融合を妨げたのはとりわけ、相互に重なり合ったさまざまな民族の人種的多様性以上に、これらの民族の浸透率の乏しさにあった。ドーリア人は先住民と混じり合うことを欲せず、人種的優越感を持って先住民をずっと遠ざけてきた。ヘロドトスは、アカイア人は重なり合って(侵入して)、ペラスゴイ人を隷属状態にしたのであり、次にドーリア人は重なり合って(侵入して)、アカイア人を隷属状態にした。したがって、ギリシャの真の先住民はペラスゴイ人だったと語っている。こうしてギリシャは3つの民族層から成り立つようになったのだ。では、ペラスゴイ人とは誰だったのか? BC1600年ごろからのミュケナイ文明の発展に決定的な役割を演じたのはペラスゴイ人のはずである。彼らがギリシャ半島に入ってきたのはBC18世紀~BC17世紀で、町や都市を建設している。ペラスゴイ人が何ものでどこから来たのかわからないが、海を良く知っていた、あるいはクレタ人から海の利用を学んだ人びとだったようだ。


 ドーリア人が12世紀にやって来たとき、彼らに2世紀先行していたアカイア人はペラスゴイ人とかなり混じり合っていた、あるいは混じり合いつつあった。だから、ドーリア人はアカイア人を「雑種」と呼んで軽蔑していた。そうしたドーリア人に対してアカイア人であるアテナイ人は、自分たちはドーリア人で汚染されなかった人種であり続けた2つのギリシャ民族の1つだと言ってきた。もう一つの民族は、ペロポネソス半島で最も高地にあるアルカディア地方の人びとで、ここでは新参者たちが定住に成功したことはなかったらしい。また、同じくアカイア人とペラスゴイ人の混成民族であるアテナイが位置するアッティカ地方やイオニア海の島々や小アジア沿岸の諸都市の人びとにも、自分たちは「土地育ち」だと公言させている。彼らが公言した目的はドーリア人を侵略者扱いする口実を見出すためだった。しかし、これら3つの民族から成るギリシャ人は争ってばかりしていて、一つの国家を決して形成することができなかったのに、それでも共通の民族的なもの、つまり言語を持った。ペラスゴイ人の言葉は南方、つまりエーゲ海起源で、彼らの「海」に関する単語はギリシャ語に残っている。一方、アカイア人やドーリア人は海のことはわからなかったようだ。ギリシャ語は輸入語であり、これを持込んだのはアカイア人なのかドーリア人なのかはわかっていないが、方言的な相違はあるものの、ギリシャ語はインド・ヨーロッパ語族に属していることは間違いない。


[ペラスゴイ人、イオニア人、アカイア人、ドーリア人]

 ペラスゴイ系住民はギリシャ半島の内陸と西岸に住んでいた。但し「古い人びと」を意味するペラスゴイ人は後のギリシャ人と同一の基盤を持ち、話す言葉の起源もギリシャ諸語と同根だった。どちらもインド・ヨーロッパ語族の言語であり、ペラスゴイ人が原住民でない限りは、へレスポントス(現在のダーダネルス)海峡とトラキア地方を経たか、それとも多島海であるエーゲ海の島々を経たか、いずれにせよアナトリア西部の小アジアから到来してギリシャ本土に広がったはずである。伝承ではペラスゴイ人は、ペロポネソス半島の中心部にあるリュカイオン山から生まれたとされる。彼らは「土着民」「黒い土地の人間」「月よりも先に生まれた人間」たる貴種を自任した。だが周囲には、アイオリス人やレレゲス人といった同じ出自の部族も多く暮らしていた。それに加わったのがアカイア人とイオニア人、すなわち「善なる人びと」である。アカイア人とイオニア人の違いは時代の違いだけであり、両者は基本的に同じ民族と見なされている。イオニア人は後に、アッティカ地方のアテナイと小アジア沿岸のミレトスを代表として、ギリシャ世界の運命に甚大な役割を果たすが、当時はアッティカ半島とエウボイア島を占めるにすぎなかった。イオニア人とアカイア人は長きにわたり卓越し、ギリシャの民すべてがその名で呼ばれるようになった。後代になってドーリア人がコリントス湾の最も狭い箇所を押し渡り、ペロポネソス半島の征服者として定着した際、ペロポネソス半島とその島嶼部のすべての住民は、テルモピュライとデルフォイに蟠踞ばんきょしたアムピクテュオーン一族により、「ヘレネス」という総称を与えられた。これは元々南テッサリア地方とフティオティダ地方に暮らす小さな民の名だった。それに対し「ギリシャ人」はおそらく「山岳民」の類語で、「老いたる人びと」「古来の人びと」「土の息子」といった意味もあるらしい。その名は少しずつ民族内に広まり、最後には普遍的に採用されるようになった。一方、小アジアのイオニア人や、エーゲ海北西部のスポラデス諸島のカリアン人はフェニキア人の好敵手で、港から港を辿り、まだ文明化していない部族民と交易を行い、西アジアやエジプトの文明を広めていった。


<BC8世紀のギリシャ語方言の分布>

 古代人はギリシャ人を方言による違いで区別し、それは民族的な違いに対応していると考えていた。今ではそうした厳密な対応関係は否定されているが、言葉がある特定地域の支配的要素を特徴づけ、国家システムと一致していたことは今も認められている。BC18世紀~BC17世紀ごろのペラスゴイ人から始まったギリシャにおける民族大移動により、エーゲ海世界がギリシャ人によって占拠されるにしたがって、BC8世紀ごろには次のような状況が現れてきた。


1)アイオリス方言

 ギリシャ人によって植民地化された小アジア沿岸の北部一帯、すなわちスミュルナの北からレスボス島とその小アジア側の対岸までの一帯ではアイオリス方言が話された。アイオリスの植民者たちはギリシャ半島東部のテッサリアとボイオティアからやって来た人びとで、これらの地域では半島の北西部から強い影響を受けたアイオリス方言が使われていた。それはアカイア方言とも呼ばれる。

2)イオニア方言

 これに対して、アッティカ、エウボイア、キクラデス諸島、そして小アジアではスミュルナ以南からハリカルナッソスの北まで、またその沖合のキオス島やサモス島では、イオニア方言が使われていた。

3)ドーリス方言

 他方、ドーリア人は、ギリシャ本土ではペロポネソス半島の南部のメガラ、コリントス、アルゴス、ラコニア、エーゲ海では南キクラデス諸島(ミロ島とテラ島など)、クレタ島、ロードス島、ドデカニソスの島々、小アジアではハリカルナッソスとカリア地方のクニドスまで服属させ、自分たちの言葉であるドーリス方言を押しつけた。

4)アルカド・キプリオット

 最後に、ペロポネソス半島中心部のアルカディアとキプロス島というひどく離れた2つの地域で「アルカド・キプリオット」と呼ばれる同じ一つの方言が今も話されている。これは古代ミュケナイ時代のギリシャとの親近性を保持している例証といえる。

5)その他

 ギリシャの北西部一帯のエイペロス地方、デルフォイのあるコリントス湾北岸のアイトリア地方、ペロポネソス半島の北部のオリンピアのあるアカイア地方では北西ギリシャ語方言群が話されている。


 以上の方言分布は長期にわたって続き、ギリシャ文明の歴史にも政治にもさまざまな影響を及ぼしてきた。方言を共有していること、あるいは言語に類縁性があることが、ともすれば幾多の内輪争いによって簡単に引き裂かれたギリシャ世界にあって、統一性あるいは少なくとも都市国家同士の連帯を取り戻す要因の一つとなったのである。



(ミュケナイ文明と線文字B)


 考古学的遺物に対するアーサー・エヴァンズ以来の伝統的な解釈によれば、大陸側のギリシャ人たちはBC1450年ごろクレタ島に上陸し、ミノア人の国家を滅ぼし、自分たちが支配者となった。こうしてエーゲ海一帯は、BC15世紀半ばごろからはペラスゴイ人、BC14世紀からBC13世紀にかけてはペラスゴイ人と融合したアカイア人の支配下にBC12世紀まで置かれ、彼らの作った製品がシリア・エジプトから南イタリアやシチリアにまで広まった。国際情勢も彼らに味方した。エジプトとヒッタイトという2大国が勢力均衡の状態にあり、パレスティナやシリアの諸都市は、名目上は2大国のどちらかに依存しながら、その経済関係においては大幅な自由を享受していた。ギリシャ人たちもそれに乗じて、これら中間地帯で商売を発展させることができたからである。彼らは当時、キプロスに定住地を設けていたが、シリア海岸のウガリトや、シリアからパレスティナにかけての内陸部を舞台に活躍した。

 トロイア戦争はBC13世紀終わりかBC12世紀初めに実際に行われた戦争の記憶を基にした物語である。これはミュケナイ人たちの勢力拡大の最後の出来事で、BC12世紀には凋落の運命に見舞われることになる。したがって、この最初のギリシャ文明であるミュケナイ文明が絶頂期を迎えたのはBC15世紀末からBC13世紀末までである。

 ミュケナイの宮殿における石造りの壁の基礎と生煉瓦の建築技法、庭を中心にしてたくさんの部屋を配置した平面図の基本線、さらに装飾の主要なモチーフはクノッソスなどクレタのミノア王宮の影響をうかがわせる。しかし、ミュケナイの王宮は独自の様式も示している。それは中心軸に関心を注いだ対称性の追求であり、フレスコ画における戦争場面のような主題である。同じことは陶器の分野についてもいえる。後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)の終わりごろのミュケナイの壺はクレタから受け継いだ技術や様式ではあるが、クリーム色の艶のある釉薬の上に黒や赤のワニスで装飾をほどこす、また鳥や獣・人間の姿をテーマに取り上げるなどの独創性も見られる。「線文字B」の書字版、墓、城塞と王宮、陶器、さらに象牙製品、これらはミュケナイ文明を粗描させてくれる史料である。

 ミュケナイの君主は、ホメロスの詩にある「アクナス(主君の意)」の称号を持ち、堅固な住居に住み、社会集団のあらゆる活動を支配し、領地を管理し、職人たちに仕事を与え、祭儀を執り行った。彼の軍勢は、青銅器の槍や剣、兜や鎧などで武装していた。騎馬はまだ知られていないが、軍の高官は二頭立ての二輪戦車で移動した。海軍も持っていて、商船の護衛や外国の侵略に使われた。この小さな国は海賊行為と通商により、キクラデス諸島やアナトリア沿岸経由で、トロイアからクレタ島に至るエーゲ海全域と結びついていた。また西アジアへの中継地となっていたロードス島とキプロス島にはミュケナイ人植民地があった。ギリシャの産物はシリア・パレスティナ・エジプトの港に荷揚げされ、それと引き換えに、織物や黄金・象牙・香辛料が船積みされた。ミュケナイの商業活動は西方に向かっても、シチリアやその北のリパリ諸島やイスキアの島々、そしてイタリア半島南端のタレントゥムにまで達していた。このように、ギリシャ人最初の膨張運動の痕跡は、BC14~13世紀には東地中海全域に及んだ。このように商業と剣とによって活動したギリシャ人たちは芸術についても一種独特の好みを示している。ミュケナイ人たちはクレタから豊かで生き生きした遺産を受取り、それに独特の特徴を付して作り変えた。すなわち、壮大さと力強さ、そして写実的観察と抽象能力という矛盾する二つの資質をそこに付したのである。

 この原初時代のギリシャ人たちは、その子孫たちが崇めるのと同じ神々をすでに崇拝していた。ミュケナイ人たちが供物を奉げていた神々の名は「線文字B」の解読によって確認されており、ギリシャ古典期(BC500年~BC322年)のパンテオンに祀られたオリンピアの神々のほとんどがBC2000年紀にすでに祭儀の対象であったことが明らかになっている。ペロポネソス半島のピュロスやクレタ島のクノッソス、あるいはミュケナイの人びとのギリシャ的性格を何よりもよく表しているのが、ゼウスとヘラ、ポセイドン・アテナ・ヘルメス・アルテミス・アレスなど文字板に見られる名前である。これはミュケナイ人の社会がすでに複雑な構成を持つギリシャ的多神教の世界であったこと、それがはるか後に神殿が築かれるのと同じ場所にすでに定着していたことをうかがわせる。ミノアの記憶とミュケナイの情景とが混じり合っているクレタ島中部の遺跡から発掘されたBC14世紀の有名な「アギア・トリアダの石棺」には人間の姿をした神の像に人びとが供え物をしている光景が描かれている。このように生き生きとした文明を持つ積極的な民族が打ち立てた社会が、BC12世紀の間に急速に破壊されてしまったのはどうしてだろうか? そこには北方からのドーリア人のギリシャ半島への南下が重大な影響を与えていたに違いない。


 ミュケナイ文明は、遺跡から発掘された遺物からだけでなく、一連の粘土板からも再構築できる。粘土板には「線文字B」として知られる文字体系が刻まれていた。「線文字B」はギリシャ語の初期形態で、主に在庫関係や人と物のリストを含む商取引の記録のために用いられた。

 ミュケナイ社会を指導していたのは日常生活のあらゆる面を監督していた官僚集団であった。彼らは都市の経済に関する事柄を細部に到るまで記録した。彼らの使用した文字は一般に「線文字B」の名で知られている。「線文字B」は線文字Aに似ていたが、明確な相違も認められた。「線文字B」は1952年に解読され、ミュケナイ言語は初期のギリシャ語であることがわかった。こうして「線文字B」は読めるようになったが、この線文字で書かれている文書はいずれも品物の記載であって、特に内容あるものは発見されなかった。

 ギリシャ本土のミュケナイの都市国家はBC13世紀に台頭すると、クレタ文明の経済システムを踏襲し、その文字を借用して自分たちのことばを表現した。それがどのように機能していたかを教えてくれるのは、ギリシャ南西に栄えたミュケナイ時代の都市ピュロスから出土した粘土板文書である。「線文字B」粘土板が最も多く発見されているのは、賢明な老王ネストルの伝説的な故郷ピュロスで、1930年代に発掘された。

 ペロポネソス半島南西部に位置するピュロスは、「こちら側」の9区と「向こう側」の7区に分かれる領域を治める都市国家の首都であった。その領域内では、貧しい農夫が送ろうとするヒツジ1頭から2300本の剣を作るための青銅に到るまで、いかなる移動もピュロスの役人たちによる記載作業が完了するまで許可されなかった。ピュロスは極めて組織化された社会で、賃金の支払いを記した粘土板文書を見ると専門化の進んでいたことがわかる。ピュロスに登録されていた270人の青銅細工師のうち、ある集団は二輪戦車の車輪製造だけを専門としていた。金細工師、銀細工師、装身具職人の各グループと並んで、「青ガラス」製造の仕事を1人で任されていた職人がいた。それらに比べると賃金は低いが、香料製造、象牙彫り物師、羊飼い、山羊飼い、牛飼い、きこり、猟師などの職業についても細かく記載されていた。女性の職業についての記録も残っている。ピュロスには37人以上の浴場で働く女性たちがいて、彼女たちが報酬として受けるイチジクやコムギの分量も記録された。その他、亜麻布作り、糸紡ぎなどの仕事に従事する女性たちがいた。

 ピュロスはBC1200年ごろに破壊された。それはミュケナイ文明を終焉させた甚大な一連の大惨事の一部であったが、火災を伴う破壊によって粘土板がたまたま焼き固められ保存された。それが数千年後に発見され解読されたのである。これらの粘土板に刻まれた文書は経済関係のありふれた内容である。主に宮殿に出入りする物品の日常的な在庫目録で、修理の必要な二輪戦車の車輪の数、ミュケナイに送られた織物の数、養うべき奴隷の数が書かれている。文書に記載された女性労働者の中には、西アナトリアの民族特有の名を持つ者たちもいる。彼女たちは小アジアの海岸にあるミレトス、クニドス、ハリカルナッソス出身であった。他にも、この海岸のすぐ沖合のドデカネス諸島出身の女性たちがいた。おそらくトロイア戦争以前にミュケナイ人が売買したか捕虜にした女奴隷だった。ミュケナイ人の経済はいわゆる地中海三大作物、ブドウとオリーブと穀物に基づいていた。漁業もするものの、大部分の人びとにとっては畑作を中心とした農民の生活様式だった。上流階級の人びとは金や銀、青銅、象牙、ガラスでできた品物を所有していた。商人や職人や長距離交易業者たちから成る中産階級がこれらの奢侈しゃし品を支え供給した。繊維産業と香水産業は、オリーブとワインの生産と同じく、最も利益の多い産業の一つだった。織物と香水とオリーブオイルは、地元ギリシャだけでなく、遠く離れたエジプトやカナン(レヴァント地方)、さらにメソポタミアでも需要があった。また瓶や壺や杯などのミュケナイ土器も国内外で需要があった。ミュケナイの王たちの宮殿は、おおよそその地域で一番高い丘の上に建てられた。宮殿は分厚い城壁で要塞化され、要塞の入口もミュケナイの獅子門のような巨大な門で堅固に防備されていた。但し、宮殿は単なる王の住居以上の存在で、自国や外国で作られた物品や、収穫期に取り入れた農作物を保管するための倉庫と再配分の拠点の役割も果たしていた。城壁内には宮殿の周りに王の家臣と行政官と王族の人びとの家のほか、宮廷職人たちの作業所があった。城壁の外に拡がる丘の斜面には民衆の家々があり、周辺の村々にはごく普通の農夫や商人、職人などが住んでいた。

 ミュケナイ社会は、「獅子門」や巨大な城壁に代表される好戦的イメージとは反対に、軍事よりも商業を大事にする社会でもあった。確かに、新しい武器の注文書に示されているように、ミュケナイの都市国家は軍隊を擁していた。しかしミュケナイ人にとって、船に乗って他国を攻撃するよりも交易で収益を上げる方がずっと重要であったようだ。

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