第65話 フェニキア人

 フェニキア人とは何者であったのか、彼らを民族として特徴づけていたものは何であったのか、といったことは依然よくわからない。民俗学や言語学の視点から言うと、彼らは間違いなくレヴァント海岸地方出身のカナン人であった。メソポタミアでアムル人の時代(BC2004年~BC1792年)と呼ばれる時代に、シリア砂漠の外縁地域(現在のヨルダンなど)からメソポタミアとシリア各地に定住したセム系のアムル系の人びとがいくつかの王朝を建てた。しかし、アムル人が流れ込んだ先はメソポタミアだけではない。彼らの一部はパレスティナやフェニキアなど地中海沿岸に定住した。それがカナン人である。フェニキア人自身はカナン人と称していた。BC332年にアレクサンドロスがテュロスを征服した時代にもそうだった。はっきりしないのは、彼らはどのようにして内陸を離れ、海上交易者になったかである。フェニキアという名は、ギリシャ語の「赤い人びと」を意味する「フォイニケス」に由来する。ギリシャ人が彼らをフェニキア人の特産品である赤色を帯びた紫色の布にちなんで「赤い人びと」と呼んだのである。つまり、フェニキア人が外国の港に持ち込んだ金・象牙・陶器・レバノン杉、香料などの贅沢品のうち、伝統的にテュロスの紫染料で染めあげられた布地ほど人びとが欲しがったものはなったといえるかもしれない。


 レヴァント地方では、後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)末期、いわゆる「海の民」の流入をはじめとする東地中海地域の混乱により、後期青銅器時代の覇者であったヒッタイトとエジプトの影響力が弱まる。それに呼応するように、南レヴァントでは、鉄器時代に入ると、アラム、フェニキア、イスラエルなどのセム系諸民族による国家形成が進んだとされる。古代東地中海でフェニキアと呼ばれた地域には、セム語を話し、共通した物質文化を持つ都市国家が栄えたが、彼らはシリアやパレスティナの隣人たちとは違い、広域な領土を一つにまとめた国家として成長することはなく、自分たちを集合としての「フェニキア人」とみなしたこともなかった。地域としてのフェニキアは、西は地中海、東をレバノン山脈に区切られた南北に細長い範囲である。地形によって定義づけられる東西の境界と異なり、南北の境界については時代の状況により変化を伴うが、おおよそ北限はウガリトの南から、南限をアッコ平野の南にあるカルメル山とする理解が一般的である。

 フェニキア人の文化的特徴の形成については地理的要因が大きく働いていると考えられる。フェニキア地域は、北部のアッカル平野と南部のアッコ平野を除けば、レバノン山脈から地中海に向かって伸びる渓谷と断崖により小地域に区切られる。そうしてできた小地域には自然の港が形成される。年中水資源が枯渇することがないにもかかわらず、砂丘や岩がちな土地のため農業生産性の低いそれらの地域は、それぞれせいぜい一つの主要都市を抱えるのがやっとであった。しかもこの地域は木材以外の自然資源に乏しい状況にあった。こうした中、何ら制約を受けることなく利用可能な海を軸として集落が形成されるのは自然な成り行きだった。フェニキア地域は土地の侵食作用などの影響で、深さのある入江が形成されており、大型の船を接岸することが可能でもあった。これは水深の浅い海岸が開ける北側のシリア海岸や、南のカルメル山以南にはない条件である。船の製作に適した木材の豊富さは、海洋活動に基礎を置くフェニキア社会の発展に大きく貢献した。金属製品や特産品となった貝紫などの原材料の入手、そしてそれらの製品や木材の出荷など、海そのものや海を介しての交易に依存した社会形態であった。つまり、フェニキア人は領土によって定義される民族ではなく、商人の集合体だった。彼らの世界は一つながりの地面ではなく、あちこちに散らばった商人コミュニティの寄せ集めだった。土地ではなく海上交易が、彼らの領分を定義している。

 ヘロドトスの「歴史」によれば、BC6世紀初め、エジプト第26王朝のネコ2世(在位:BC610年~BC595年)の命で紅海を南下してアフリカ大陸を周航し、ジブラルタル海峡を抜けて地中海に戻ってきたと記述されるが、今日この記述に信憑性を認める研究者は少ない。鉄器時代前半期にフェニキア地域で展開した物質文化と後期青銅器時代との連続性が確認されていることから、フェニキア人は青銅器時代のカナンの都市国家の後裔であるとするのが現在では一般的である。また、近年のヒトDNAの研究から、フェニキア地域の住民と、後期青銅器時代のカナン人との間には遺伝上強い結びつきがあり、これに僅かな外部からの集団が混ざって形成されたのが、鉄器時代にフェニキア人と呼ばれた集団であったとの見解が示されている。


 地中海を舞台に活躍した商業の民フェニキア人には長く困難な歴史があった。彼ら自身の伝承によると、フェニキア人はBC2700年ごろに地中海東岸のテュロスに定住したといわれるが、これは事実が確認できない単なる伝説かもしれない。古くからあったビブロスを除いて、フェニキア諸都市が初めて都会的な都市として現在のレバノンの沿岸部に出現したのは、青銅器時代後期のBC1550年ごろであることは、エジプト人が彼らからレバノン杉を購入していたことからも明らかである。しかし、独自の言語と文化的伝統を備えるようになるのは鉄器時代に入ったBC11世紀になってからである。フェニキア人はセム語族の一派で、彼らが海洋民族となったのは、地理的条件が深く関係していた。フェニキア人が定住した土地は、古くからアフリカ大陸とユーラシア大陸をつなぐ回廊となっていた地中海東岸沿いの細長い地域である。背後に山が続く狭い平野は農耕に適さず、さらに背後の山からはいくつもの丘が海岸まで延びて町や村を分断している。後に同じような地理的環境に置かれたギリシャの都市国家も、やはり地中海に進出することになる。またフェニキア人もギリシャ人も国外との交易に乗り出しただけでなく、積極的に植民活動を行ったことでも知られている。

 フェニキア人は、エジプト人、ヒッタイト人などの民族から次々に支配されていた。彼らが歴史の表舞台に登場するのが、エジプトやミュケナイやヒッタイトなどの大勢力が衰えた後に限られているのは決して偶然ではない。クレタ島のミノア文明、ギリシャ本土のミュケナイ文明の人びとが東地中海で大活躍した時代が終わり、BC1000年を過ぎたころからビブロス、テュロス、シドンなどのフェニキア人の都市が黄金時代を迎え、BC680年ごろまで220年ほど続いた。当時のフェニキア人の活躍ぶりは旧約聖書にも記されている。彼らはイスラエルのソロモン王(在位:BC960年~BC920年ごろ)の神殿の建設に加わったという。ソロモン王はテュロスの王ヒラムに、「シドンの住民のように巧みに木を切り倒すことのできる者は我が国にはいない」と述べて、技術者の参加を求めた。このときソロモン王は協力したヒラムに十分な報酬を支払ったと旧約聖書は伝えている。

 古代の歴史家たちはフェニキア人を優れた商人であり、植民者であったと称えている。遠くイングランド南西部のコーンウォール半島と交易があったこともわかっており、高度な航海術を持っていたことは確かなようだ。またフェニキアでは高価な染料となる貝紫を産出しており、ギリシャ文明成立後も需要が絶えなかった。フェニキア人がアルファベットを発明した背景には、こうした交易上の必要があったことは間違いない。フェニキア人がアルファベットを発明したことにより、人類の文字の使用は一気に広がったが、彼ら自身は目立った文学作品は残さなかった。芸術では西アジアやエジプトから様式を借用したり、真似をした作品が数多く見られることから、芸術作品も市場の需要に応じて作成していたのだろう。


 フェニキア人の出自については、おおよそセム族であるという以外、どのような民族かはいまだに不明である。ビブロス、テュロス、シドン、それにアルワドは、それぞれが独立したライバル都市で、共通の敵に対抗するとき以外は協力して事に当たるようなことはほとんどなかった。旧約聖書では、テュロス人、シドン人、ゲバル(ビブロス)人、アルワド人と呼ばれており、フェニキア人連合国や国家とは書かれていない。フェニキアを地理的に定義するのも容易ではない。古代ではスエズから現在のトルコのアレクサンドレッタ湾までのレヴァント海岸全域がフェニキア人の領域だったようだ。しかし、実際には彼らの中核地域はレバノン山脈と地中海に挟まれたパレスティナ北部からシリア南部までの細長い海岸の土地で、現在のレバノンよりいくらか広いくらいだった。ウガリト、ハツォル、ガデシュは本来のフェニキアの外とみなされている。見方によって違いがあることから、古代には海上交易を行うセム族がすべてフェニキア人と呼ばれていたともいえる。

 いろいろな点でフェニキアは失われた文明と見なされるかもしれない。パピルスの巻物に記された彼らの歴史や神話はその後の戦乱によってすべて消えてしまった。実際、フェニキア人が書いたものは、原著であれ、翻訳であれ一つも残っていない。テュロスや後のカルタゴの大きな図書館は、マケドニアとローマによる侵略の犠牲となり、はるか昔に失われている。宮殿や神殿に保管されていた歴史的・経済的記録も同様に失われた。カルタゴで近年見つかった大量の粘土製のパピルス用封泥は、そういう収蔵物があったこと、そしてそれらがBC146年にローマ軍に焼き払われたことをあたかも亡霊の如く訴えている。西方にアルファベットを伝えたまさにその人びとに、文書の遺産がほとんど何もないというのは、何という皮肉だろうか。そうした資料不足のせいで、フェニキアの歴史については他者からの散在する証言に頼らざるを得ない。主な情報源は旧約聖書、アッシリアの年代記、それにギリシャ・ローマの著述家たちである。古代の中東の出来事が語られるときに、フェニキアの軍事面や商業面にも光が当たる。しかし政治的・社会的・経済的発展についてはほとんど何も記録がない。宗教面についても、フェニキア自身の記念的な銘文、すなわち石の墓標に刻まれた形式的な奉納文などはほぼ例外なく、奉納する相手の神と奉納者の名前を伝えるだけである。散在するフェニキア語の碑文から、テュロスやシドン、アルワド、ビブロスなどを支配した王朝を知ることも可能だろう、しかし、それらと結びつく年代や出来事が記されていなければ、王の名前の空しい一覧表が手に入るだけである。

 しかし近年、キプロス島内陸部の銅の鉱山都市イダリオンから700点以上にも及ぶBC5世紀からBC4世紀にかけての大量のフェニキア語による文書が出土した。当時のイダリオンは、古くからのキプロスにおけるフェニキア人の拠点で銅の積出港でもあったキティオンの支配下に置かれていたが、この発見によって、イダリオンが公文書庫を備えたキティオンのキプロス島内陸支配の出先機関として機能していたことが明らかになった。文書は陶器や大理石などの破片に黒インクで書かれ、その多くは宮殿の官僚制度や農業組織に関するものである。未知の単語やフレーズも含まれ難解ではあるが、すでに予備的な解読が始まっている。単一の場所からこれだけまとまった公的な文書史料が発見されることはフェニキア史において画期的なことであり、今後の解読の成果がこれまでのフェニキア史の一部を塗り替える可能性も出てきた。

 古くからあったビブロスを除いて、フェニキア諸都市が初めて都会的な都市として出現したのは、青銅器時代後期のBC1550年ごろであるが、独自の言語と文化的伝統を備えるようになるのは鉄器時代に入ったBC11世紀になってからである。この青銅器時代後期から鉄器時代初期への移行期にフェニキア海岸の人口構成や政治体制に、突然のあるいは根本的な変化があったことを示すような考古学的証拠は全くない。BC12世紀初めにレヴァント地方に甚大な破壊をもたらした「海の民」の襲来は、フェニキア海岸の大きな商業都市にはほとんど被害を与えなかったようだ。どの点から見ても、鉄器時代のフェニキアの諸都市は、北のアルワドから南のテュロスに到るまで、祖先のカナン人の都市の直系の子孫である。


 フェニキア諸都市のそれぞれ異なる歴史を貫く1本の糸、それは海上交易である。海岸沿いの細長い土地に閉じ込められ農業資源にも恵まれなかった人びとにとって海は当然の出口だった。海はビジネスの広場であるだけでなく、他の土地へチャンスを探りに行くための通路でもあった。フェニキア人は優秀な船乗りだった。羅針盤が発明されるはるか以前に、彼らは危険な風や暗礁をものともせずに海図のない水域を探検し、航路を切り開いていた。考古学に裏づけられるように、地中海が彼らの領土だった。フェニキアとカルタゴの海の商人たちは、古代に「ヘラクレスの柱」と呼ばれたジブラルタル海峡を越えて、スペインとモロッコの大西洋岸へ乗り出していた。カルタゴの航海者ヒミルコは錫を求めてドーバー海峡を横断し、イギリスの南部海岸や、もしかするとその向こうのアゾレス諸島にまで到達していた可能性がある。裏づけはないものの18世紀のスペインの報告者は、その地でカルタゴの硬貨が発見されたとしている。


[フェニキアの貨物船]

 フェニキア人は偉大な交易と航海の民であった。BC1500年ごろのエジプトの王墓の壁画に描かれたフェニキアの貨物船は、全長16.8メートル、幅3.7メートル、深さ1.5メートルで、上下に桁材を持つ四角帆の1本マストである。標準的な特徴として馬頭形をした船首飾りが見られる。船体はキール(竜骨)がなくても、荒波に耐えられる十分な剛性を備えていた。船上の細い枝で編んだ囲いは、デッキ上の貨物と漕ぎ手の席を分けるためのものと思われる。材木が主要な貨物で、BC800年ごろのレリーフでも、丸太を曳航する様子が描かれている。エジプトの資料では、大きなアンフォラ(土器壺)を船首に取り付けている。貨物としてか、乗員用の水やワインを入れたものと思われる。当時の造船には、金属製の留め具類は一切使われていない。厚板に穴を開けてひもで結わえつけて固定する方法だった。全体が木材、ロープ、織布、土器類で構成されていた。


 エジプトの史料にはっきりと裏付けられるのは、青銅器時代後期に地中海東部で行われていた錫と銅の交易の経済的な重要性である。第18王朝のトトメス3世(実質上の在位:BC1457年~BC1425年)の時代からエジプトは「アジアの銅」を大量に輸入するようになった。最大の売主はキプロス島である。キプロスという名前自体が古代ギリシャ語で銅という意味である。しかし、キプロスの次はフェニキアの海岸諸都市だったようだ。今日の地質学的調査では、ビブロスには地元に銅の鉱山があったことが証明されている。また、現在のレバノンとイスラエルの境界に位置するベッカー渓谷南部にも銅山があった。ビブロスはこの時代、錫とラピスラズリをアフガニスタンから輸入して西方へ売るという儲かる交易の大きな拠点にもなっていた。この交易が青銅器時代後期の間ずっと続いていたことは明らかなので、フェニキアの海岸都市がそこから巨利を得ていたことは間違いない。BC14世紀にはアッカル平野とベッカー渓谷がエジプトの支配下にあったことも、こうした交易に安全な通路を提供していた。 

 BC1415年ごろ、トトメス4世とミタンニ王アルタタマの娘が結婚して親善関係が確立されている。この時期のエジプトの史料や壁画からわかるのは、外交と交易の両方を通して、レヴァント経由のさまざまな商品がエジプトに流入していたことである。エジプトは第18王朝のアメンヘテプ3世(在位:BC1391年~BC1353年)の時代に始まる目覚ましい発展期を迎えていた。平和時の繁栄と有り余る農作物、そしてヌビアと東の砂漠から絶え間なく入ってくる黄金に支えられ、国家と神殿の経済は大いに成長した。エジプト人が特に欲した物資の一つである材木はフェニキアの経済に何にも勝る影響を与えた。トトメス3世の時代からレバノン杉の輸入量は増大し、かつては事実上ビブロスに独占されていた材木取引が、この時代にはフェニキア海岸のほとんどの都市を潤していたようだ。実際、エジプトの杉需要は止まる所を知らなかった。発展する造船業に加え、神殿建築、棺桶などに好んで使われた。

 第18王朝末期のBC1300年ごろ、エジプト国内の混乱に乗じて、ウガリトからビブロスまでの北シリア海岸をヒッタイトに奪われた。この時期、フェニキア南部は独立性を高めたと思われるが、ラメセス1世(在位:BC1295年~BC1294年)が第19王朝を創始すると、政治的自治はたちまち失われ、次のセティ1世(在位:BC1294年~BC1279年)は即位したその年に、アッコからテュロスに到るフェニキア南部海岸の支配を固め直した。その地域がエジプト経済にとっていかに大事だったかという証拠である。しかし、同じく重要な北部海岸とアッカル平野はヒッタイトに奪われたままだった。ラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)は治世4年に軍事遠征をレヴァント地方に対して行い、翌年のBC1274年にはヒッタイトと有名なカデシュの戦いを繰り広げている。シリアへの軍事遠征はその後も続いたが、アッシリアの台頭を前にして、治世21年(BC1259年)にヒッタイトとの間で世界最古の講和条約が締結され、フェニキアに対する政治的支配の境界線が確認された。ラメセス2世が現地に建てた目印の石柱からみて、ベイルートとビブロスの間のケルブ川が境界だった。それによってビブロスはエジプト領に残り、それまでかなり漠然とシリアおよびパレスティナの海岸平野に対して用いられていたカナンという名称が、明確な地理的・政治的な概念となった。カナンはそれ以後、後にフェニキアと呼ばれる地域であり、その住民は自らを独特な民族と解し始めた。彼らが決定的にエジプトとの関係を断ち切った経緯は、11世紀初めのビブロスに関する具体的なエジプト側の最後の記録、いわゆる「ウェンアメン航海記」に描き出されている。

 第18王朝のアメンヘテプ3世(在位:BC1391年~BC1353年)の時代と同様、長くて比較的平和だったラメセス2世(在位:BC1290年~BC1224年)の時代は、エジプトにとってもフェニキアにとっても繁栄の時代だった。エジプトの経済は新たな活気に満ち、国家がかりの地中海交易はかつてをはるかにほどの勢いで発展した。こうした交易の一部はエジプト自らが行っていた。レヴァントの商人がエジプトに大勢住んで活動していたことも明らかになっている。なかでも大きな造船所や海軍工廠のあるメンフィスにはそういう商人が多く、フェニキアの神バァールとアシュタルテを祀ったラメセス2世時代の神殿があることから、その時代にフェニキア人居留地ができていた。ちなみに、ヘロドトスは後のBC5世紀、メンフィスでそういう場所を目にしている。


[ウェンアメン航海記]

 BC11世紀の初め、エジプト第20王朝最後の王ラメセス11世(在位:BC1099年~BC1069年)の治世5年目、エジプトのテーベでアメンに仕える高位の神官ヘリホルの命を受けたウェンアメンなる男が、アメン神の新しい聖なる舟を建造する杉材の調達のためにビブロスに派遣された。ウェンアメンはデルタ地帯東部のタニスからカナン人のメンゲベトを船長とする商船で出航し、まずはパレスティナの港町ドルに上陸する。そこはチェケル人と呼ばれる「海の民」の一派に取り仕切られていた。杉材を買うために持参した金と銀を自分の船の乗組員の一人に盗まれてしまったウェンアメンは、次にテュロスへ、次いでビブロスへ向かう。テーベを出てから4ヶ月と12日でウェンアメンはビブロスに着いた。彼の迎え方は屈辱的なものであった。一文無しで、正式な信任状も持たずに到着したエジプトからのこの使者を、ビブロスの首長サカルバールは疑いの目で見た。そのときサカルバールは、彼と交渉することを拒んだばかりか、町に入ることさえ禁止した。当時、エジプトの名はフェニキアではもはや良い響きを持たなくなったらしい。29日もの間、ウェンアメンは港の中をうろうろしたあげく、ようやくのことである若い貴族と近づきになることに成功した。その男は宮殿に手づるがあって、彼をこっそり中へ入れてくれた。サカルバールは高位の神官ヘリホルの使節を上階の一室で謁見した。「彼は窓の前に座っていた。そのため大きな波が彼の頭の後ろで砕けていた」とエジプト人は報告している。したがって、宮殿は浜辺に接して建てられていたに違いない。ウェンアメンはサカルバールに、自分たちが来たのは「神々の王アメン・ラーの尊い大船を造る木材を手に入れるためである。あなたの父もそれを調達し、あなたの祖父もそれを調達した。あなたもそれを調達してくれるであろう」と説明した。それは昔ながらの植民地支配者の伝統を保持しようとする試みであった。サカルバールは「それはそうだ。父も祖父もそうした。そして、あなたがその支払をしてくれるなら、私もそうしよう。以前、私の部下がそういう委託に応えなければならなかっとき、ファラオはエジプトの産物を満載した6隻の船を送ってきて、エジプト人の倉庫に荷下ろしした。しかし、あなたは一体何を私に持ってきてくれたのか?」この答えに、ウェンアメンはすっかり面食らったに違いない。それまで神のためならという理由で対価を支払ったことはなかったからである。仕方なく、ウェンアメンはエジプトにその旨を託して、下エジプトの王ネスバネブデッドに使者を送った。それでサカルバールは、木を切り出して港に運ぶよう指令を発した。数週間後に支払用物資が本当にナイルデルタから到着した。ネスバネブデッドが送ってきたものの中には、金器4個、銀器5個、目の細かい亜麻布で作った衣類10枚、パピルス500巻、牛皮500枚、綱500本があった。サカルバールはこの提供品に深く満足した。それで、さらに300名の人夫に木を切るように命じ、木材運搬のために300台の牛車を用意させた。

 そのとき奇妙なことが起こった。「海の民」の一派、チェケル人がビブロスの港に上陸し、サカルバールのところへ案内されてきたのである。問題は、誰が木材をビブロスからナイル河畔へ運ぶかということである。ウェンアメンは明らかにチェケル人にこの仕事を任せようとは思っていなかった。宮殿の中で激しい論争が展開されたが、最後にサカルバールはチェケル人にこう告げた。「私はアメン神の使節に逆らう処置は取れない。彼(ウェンアメン)を送り返すであろう。そしてあなた方が私の領域外で彼を捕えたら、好きなように処置するがよい」。まるで彼らを怖がっているような言いぐさである。ウェンアメン自身はその報告の中でこの事件に詳しく触れていないが、この話を聞いたとき、不安のあまり泣いたこと、すぐに逃げ出したことを告白しているだけである。しかし、彼はなおも不運に付きまとわれた。彼の乗った船が嵐に見舞われて、キプロス島へ流されたのである。その島の港でウェンアメンは名前のわからないキプロスの女王に出会うのだが、彼の記録はその個所でぷっつりと切れているのだ。ウェンアメンが、そこからどうやってエジプトに帰り着いたかはよくわからない。「海の民」の一部族であるチェケル人の船隊は東地中海で海賊のように振る舞っていたようだ。チェケル人の船は速く、彼らは大胆で容赦のない人びとでもあった。ウェンアメンの物語は、BC11世紀初めのレヴァントの海上交易と国際情勢をよく表わしている。サカルバールのもとでウェンアメンが受けた冷淡な扱いは、政治的地位の逆転を反映している。ビブロスはもはやエジプトの言いなりにはならなかった。サカルバールの攻撃的なほど自信のある態度は、経済的に独立しているという意識の表れ以外の何ものでもないだろう。


<キプロス>

 BC13世紀、銅の生産と輸出とに連動して、キプロス島の都市と産業が大発展を遂げた。東海岸の港町エンコミでは、この時期に銅の精錬が最盛期を迎えている。島の南部に銅の生産と結びついた新しい都市がいくつか出現していることも、産業の多様化と商業の拡大を示すものに他ならないだろう。キプロス製と特定できる牛革型の銅のインゴット(地金)は、すべてBC14世紀末かBC13世紀のものである。現在のトルコ南部海岸ゲリドンヤ岬沖合とウル・ブルン沖の難破船から見つかった大量のインゴットはキプロス製であることが明らかになっている。実際、BC13世紀はキプロス島がシチリア島、サルディニア島との中部地中海交易に華々しく乗り出した時代なのである。レヴァントの考古資料は、キプロスがこの時期エーゲ海交易を行っていたことを示している。ギリシャのミュケナイから輸入された彩色土器類は、フェニキアの海岸でも内陸部でもいたるところで見つかっている。それらはキプロスによる交易の副産物である。この時期にキプロスがエジプトやレヴァントと盛んに交易していたことは、キプロスの銅以外の輸出品である青銅製品とファイアンス(ガラス質の光沢を持つ製品)の存在から明らかなのだ。実際、ミュケナイの彩色土器が見つかったBC13世紀のレヴァントの遺跡のほとんどすべてでキプロスの製品も見つかっている。それはキプロスとフェニキアの間の相互交易を直接反映したものということになる。銅と錫を積んでエーゲ海の市場へ向かったキプロス商船が、途中にロードス島などの立ち寄り先でもミュケナイ製品を入手していたことは想像に難くない。そしてキプロスの港に帰り着いた後、それらの製品が商品としてレヴァントへ輸送されたと考えられる。


<フェニキア、ウガリト、メソポタミア>

 シリア北部の海岸にあるウガリトは、支配する領域がおよそ3370平方キロ、約200の村を要する都市国家であったことに加えて、錫と銀が豊富な南部アナトリア地方への入口を抑えていたことから、フェニキアの諸都市にとっては、魅力的な市場でもあり、競争相手でもあった。フェニキア北部の港町であるアルワドやビブロスは、ウガリトとの商業的結びつきがとりわけ強く、常に取引が行われていたようだ。こうした都市はウガリトに完成品だけでなく、その製造設備も提供していた。しかし、ヒッタイトに従属するウガリトにとって重要な市場はやはり北のアナトリア地方にあった。ユーフラテス川上流河畔のカルケミシュや、ヒッタイトにとっては地中海への最大の出口だったキリキア地方の港町ウラとは、特に商業上の結びつきが強かった。またウガリトはキプロス島との経済的な絆も強かった。いずれにしてもBC13世紀には、ユーフラテス川上流域とレヴァント北部のオロンテス川流域はヒッタイトの支配下にあった。したがって、フェニキア北部のアッカル平野を経由するメソポタミアとの交易は通行の安全を保障されていた。そうした交易からアルワド、シミュラ、ビブロスといったフェニキア北部の都市が利益を得ていたのは明らかだ。こうしてフェニキアも潤していたメソポタミアとの内陸交易に、13世紀の半ば、支配力をめぐる変化が起きた。その時代の文書によると、アムル人の商人と手を組んだヒッタイトがアッシリアの通商路妨害を図ったのだ。アッカル平野を通れなくなったアッシリアは当時メソポタミア北部を支配していたから、代わりの道を南に求めた。ユーフラテス川中流域のマリからシリアのタドモル(パルミュラ)とダマスカスを経由し、レヴァント中部のベッカー渓谷を通ってフェニキア海岸へ出るルートである。この南への通商路の移動によって、フェニキア南部の海岸都市がまさに通商の要になるのである。テュロスで偶然に発見されたBC13世紀末のアッシリアの円筒印章は、テュロスとメソポタミア北部との間にすでに取引が始まっていたという証拠である。

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