第64話 レヴァント(メソポタミア文明とエジプト文明の廻廊地帯)

<年表>

BC6000年

 ウガリト(シリア北部の沿岸部)の最初の居住はBC6000年にまで遡ることができる。また、ウガリトの町の起源はBC4000年にまで遡れる。

BC4500年

 BC4500年ごろ、ビブロス(現在のレバノン南部のジュバイル)の港の上手に、小枝を組んだ原始的小屋の寄せ集めの比較的大きな村が存在した。

BC3500年

 ビブロスの村の家々の壁は堅くなり、棟も造られた。人びとは古いフリント(硬質石英)製の斧の代わりに青銅製の道具を使い、土器用の轆轤ろくろも持っていた。

BC3200年

 エジプト人は王朝が成立する以前から、貴重な杉材をビブロスのカナン人から輸入していた。

BC2900年

 BC2900年ごろ、木造建築が石造りに変わり、ビブロスは都市になった。陸側の門と海側の門の二つの入口がある市壁が町の周りに巡らされ、小路が中心に向かって集中し、排水設備が雨水と汚水を外に流した。

BC2500年

 フェニキア文化は現在のシリア・レバノン・イスラエルにまたがるレヴァントの沿岸地域でBC2500年ごろに登場し繁栄し始め、ビブロス、テュロス、シドン、ベイルートなどの主要な港が独立した港町として台頭した。

BC2300年~BC2100年

 シリア砂漠の外縁地域(現在のヨルダンなど)からメソポタミア・シリア各地に定住したセム系のアムル系の人びとがレバノン山脈の西麓の地、ビブロスに侵入し征服した。彼らは土着のゲバル人と混淆してカナン人となった。ビブロスとレバノン山脈西麓の細長い地帯とは一つのるつぼであって、大小の移住の波が何度も起こった。その中から後にギリシャ人を魅了した独特な商業民族フェニキア人が生まれた。高価なレバノン杉材をエジプトへ運ぶには陸路より海路による方が簡単であることは早くからわかっていた。最初は原始的な沿岸航海をしていただけだった。その沿岸航海はエジプトとビブロスとの通商関係が密接だったときでさえ、筏流しに毛の生えた程度だった。

BC2100~BC1550年

 この時代は中東において中期青銅器時代(BC2100年~BC1600年)にあたり、後のフェニキアを含むシリア・パレスティナ地方では都市国家以前の族長制の時代である。BC1950年ごろのシドンの墓からは青銅器の武器が出土している。

BC1550年~BC1200年

 古くからあったビブロスを除いて、フェニキア諸都市が初めて都会的な都市として出現したのは、青銅器時代後期のBC1550年ごろであるが、独自の言語と文化的伝統を備えるようになるのは鉄器時代に入ったBC11世紀になってからである。BC11世紀以前のカナン人は巨大なカヌーのような平底の船しか持っていなかった。そのため毎夜上陸して休み、1日にいくらも進まない沿岸航海をするという発展段階にあった。海に慣れていないエジプト人同様、まだその段階を乗り越えることができなかった。したがって、パピルスなどの輸出品をエジプトより遠い地方へ送るには、クレタの船を、後にはミュケナイの船を雇わなければならなかった。しかしBC11世紀になると、突然カナン人もそういう船を所有するようになり、それまで閉ざされていた地域へ乗り込んでいく彼らの姿が見られるようになる。


 ***


 メソポタミア文明とエジプト文明を結ぶ廻廊地帯はレヴァント地方と呼ばれ、「肥沃な三日月地帯」の西端に位置する。そこは人類最初の定住集落が生まれた場所の一つである。事実、死海の北のエリコは世界最古の集落であり、BC6000年ごろすでに巨大な石塔を持つ防壁が囲む町として栄えていた。文字による記録が現れるのはそれよりずっと後になってからで、シリアのエブラから出土したBC2400年ごろの文書がこの地域における最古の文字資料である。この古代都市エブラを建設した人びとは、楔形文字の採用をはじめとしてメソポタミア文明をモデルにしていた。エブラの住民はセム系言語を使用したことが判明している。他方、乾燥のより激しい荒野では半遊牧的生活が続けられていた。メソポタミアやエジプトの縁辺部を移動する部族には定住民との接触の機会があったが、多くの遊牧民はそうしたこともなく自分たちだけの生活を送っていた。

 レヴァント地方は、北から南へ、ウガリト・アレッポがあるシリア、現在のレバノンの領域より少し拡大した地域にビブロス、テュロス、シドン、アルワド、アッコがあるフェニキア、そしてヨルダン川と地中海の間の現在のイスラエルとパレスティナがある狭義のカナンの地から成る。フェニキア人もBC1200年以前まではカナン人と呼ばれていたことから、BC1200年以前のカナンは現在のシリア・レバノン、イスラエル、パレスティナ・ヨルダンにあたる地域、つまりレヴァント地方全域である。しかし、当時シリアの南の地域はパレスティナとも呼ばれていたことから、レヴァント地方は地域名称として北のシリアと南のパレスティナに大別される。




(前期青銅器時代(BC3100年~BC2100年))


 ティグリス・ユーフラテス両大河流域のメソポタミアと、ナイル川下流域のエジプトデルタ地帯との中間にある地中海東岸地域はメソポタミアとエジプトとの架け橋地域になっている。この地域は二つの高度な文明地域と歴史的・文化的発展を共有してきた。前期青銅器時代には両文明地域で都市化への大革新が起き、レヴァント地方までを取り囲むようになる。またシリア内陸部のエブラで王宮文書庫と図書館が発掘されたことから、この北レヴァントの地には洗練された文化を持ち、広範囲にわたる交易や外交を繰り広げていた都市国家が存在していたことが明らかになった。


[エブラの王宮文書庫]

 1963年、ローマ大学のジョヴァンニ・ペティナトとパオロ・マティエの率いる調査隊が、シリアのアレッポ南西にあるテル・マルディフの丘の発掘を開始した。作業は科学的な方法に従って厳密かつ慎重に行われた。発掘開始から5年後に、土中の瓦礫の中から玄武岩製の彫像が出土した。それはメソポタミアの愛と豊穣の神イシュタル女神の像で、その台座にはアッカド語で「白い石の町」エブラについての言及があった。エブラという地名はすでにアッカドのサルゴンやその孫のナラム・シンの碑文、エジプトのカルナック神殿の壁に刻まれたトトメス3世の碑文などから知られていた。そして1975年、発掘隊は明らかに古代宮殿の一部と思われる箇所を掘っていた時、およそ1万7000枚もの粘土板を収めた文書庫を掘り当てた。アッシリアの首都ニネヴェの遺跡で発見されたアッシュールバニパルの王立図書館におけるように、エブラの文書庫では文書を木製棚にきちんと並べて保管していたようだ。ニネヴェの場合同様、エブラの文書庫も破壊され焼かれた跡があった。発見された文書の中には、書記の学習のためと思われるシュメール語の語彙を列記したリストを含む語彙文書があった。それ以上に興味深いのはエブラ語の語彙と対応するシュメール語の語彙を併記した文書である。エブラ語の解読は容易ではなかったが、徐々に解明され、最終的にそれは古いセム語方言の一つであることがわかった。エブラ文書の大部分はBC3000年紀中ごろに関係したものである。あるエブラ王が自分の将軍の一人に宛てた手紙には、同時期のメソポタミアの文献にもある隣国マリの征服のことが言及されている。エブラ文書の研究はまだ初期の段階にあり、将来エブラの政治的、経済的、社会生活についての情報や、他のレヴァントの都市の情報が明らかになることが期待されている。エブラ文書の中からいくつかの天地創造賛歌を記した次のような文書が見つかっている。

“天と地の主よ、大地はまだ存在しませんでした。主がそれをもたらされたのです。日光はまだ存在しませんでした。主がそれをお創りになったのです。曙はまだ存在しませんでした。主がそれを創造されたのです”



(中期青銅器時代(BC2100年~BC1600年))


 中期青銅器時代になると、楔形文字やヒエログリフの文書による資料から、レヴァント地方の北部と南部のそれぞれに新たな光が投げかけられるようになった。エジプト人もフルリ人もヒッタイト人も皆この地域を自国の領土に組み入れるために躍起となった。しかし、レヴァントには異国の征服者たちに対抗し、国境を維持し、さらに拡大しようと努めた北方のウガリトや南方のハツォルなどの都市国家もあった。都市化が遅れていた地域には、あらゆるところに辺境の地から来た無法者たち(ハビル)がいて、生活物資をかすめ取ろうとしていた。エジプトの「アマルナ文書」にはこの無法者たち(ハビル)の策略についての記述がみられ、彼らはおそらくヘブライ人の祖先かもしれないとしている。



(後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年))


 後期青銅器時代のレヴァント地方は一般にシリア・パレスティナの名で呼ばれ、レヴァントの地中海沿岸地域にはフェニキア人が青銅器時代後期のBC1550年ごろに古代都市国家群を築いた。さらに、その先のエーゲ海のクレタ島にはBC2000年ごろ、ミノア人がそれまで培われてきた社会背景を基盤として、クノッソスなどに構造をほぼ同じくする宮殿を作り、ミノア文明を出現させた。

 後期青銅器時代のフェニキアの海岸都市は考古学的資料と文献から、かなり繁栄していたことがわかる。経済が明らかに多面的となり、特に目立つのが木材と金属の国際交易だったが、織物や衣類などの手工業も経済的に重要性だった。ウガリトからの書簡によれば、テュロスとビブロスでは織物と衣類の商いが盛んだった。この時期にアクキガイから紫の染料を抽出していた設備がアッコとサレプタで発見されているから、染色した毛織物や亜麻布の衣類も盛んに輸出されていたはずである。またテュロスではファイアンスという山砂を原料としたガラス質の陶器の材料も製造していた。アマルナ文書の書簡には、テュロスからエジプトへファイアンスが積み出されていることが記されている。後の鉄器時代のような贅沢品の市場もフェニキアではすでに活発に取引されていた。例えば、シドンの東にあるベッカー渓谷南に位置するカミド・エルローズという町の宮廷跡から発見されたリストには、彫刻をほどこした象牙、表面を粒上に細工した黄金の装身具などがあり、たくさんの貴重品を入手していたことがわかる。その町は、ユーフラテス河畔への2つの主要な通商路、エジプトから北への道と、フェニキアから東への道が出会う要衝に位置していた。この時代のフェニキアは政治的にも経済的にも2つの地域、北のアッカル平野と、フェニキア南部海岸にはっきり分かれていた。北の港町アルワドと南のテュロスは、この2つの異なる商圏の代表といえる。アルワドは主にシリアを市場とし、テュロスは南方のエジプトとパレスティナが得意先だった。そしてどちらの都市も交易を通してキプロスと結びついていた。BC13世紀には、アルワドとテュロスはそれぞれヒッタイトとエジプトの支配下に入っている。

 ビブロスは地理的にも商業的にも政治的にも、その2つの町のちょうど中間点にあって、北と南の両方と盛んに交易していた。この時代、他の海岸都市との競争が激しくなったにもかかわらず、ビブロスはフェニキア最大の商都という地位を保っていたようだ。エジプトと長年にわたり相互の通商関係を結んでいたことの他に、ビブロスには他のフェニキア都市にはない大きな特徴があった。海岸沿いに、北はパトロウンから南はケルブ川に到るかなり広い地域を支配していたのだ。ビブロスとテュロスの中間にあるシドンはこの時代、エジプトやウガリトとの商業活動を物語るような史料がほとんどない。しかし、シドンのすぐ北にあるベイルートと同様にベッカー渓谷経由でメソポタミアへ直接交易できるという地の利があった。それが後期青銅器時代における経済発展につながったのかもしれない。


[ウルンブルンの沈没船]

 BC1318年ごろ(船板の年輪年代はBC1305年)に現在のトルコの南西海岸のウルンブルンの沖合で沈没した全長15メートルの船が1982年に発見された。不格好な船ではあったが、帆は大きく、追い風を受ければ水を切って進むことができた。積まれていた石のいかりは24個、風を待って何日間も足止めを食うこともあったのだろう。甲板には繊維を密に編んだ落下防止柵が張られ、積荷と乗組員を守っていた。その船はエジプトあるいはカナンの港から出航し、シリア北部のウガリトに寄港、さらにキプロスに寄り、そこから小アジアの南岸に沿って進み、西のエーゲ海に向かう途中で沈没したと推測される。船は長さ15メートルで、外板と竜骨にはレバノン杉が用いられ、船体にはほぞとほぞ穴が施されている。この船に積まれていたのは、多種多様で高価な国際的な品物だった。キプロス産の銅の地金10トン、おそらくアフガニスタン北東部のバダフシャン産の錫の地金1トン、香水の原料であるテレビン樹脂1トン、ヌビアの黒檀の丸太20本、メソポタミアのガラス原料のインゴット200個、カナン製の保存用壺140個(その中にはブドウ・ザクロ・イチジクなどの果物や香辛料が入っていた)、キプロスやカナン製の鉢・甕・壺などの新品の土器、イタリアやギリシャの剣や短剣、バルカン製の石の王杖、ペンダントや杯などの金製品、カバやゾウの牙、さらに銅・青銅・錫製の容器、石の錨24個、カナン製の高さ15センチの青銅製で一部金箔の神像、さらにエジプトのスカラベ(印章)と西アジアの円筒印章もあった。特に、錫の地金1トンと銅の地金10トンがあれば、300人の兵士に青銅の剣と楯と鎧兜を支給できるほどだったことを考えれば、当時の送り主にとっても受取人にとっても非常に大きな損失だったと容易に想像できる。

 また、純金製のスカラベ(印章)にはヒエログリフでネフェルティティの名が刻まれていた。その名は「ネフェルネフェルウアテン」、王妃となった最初の5年間だけに使われた名前である。ネフェルティティが王妃になったのはBC1350年ごろなので、船の年代を決定する要因の一つとなった。この沈没船からわかることは、BC13世紀初期に東地中海からエーゲ海に至る地域で、国際的な交易や接触が行われていたことである。ウルンブルンの船は密接に関連しあった東地中海世界の中心地から出航した。カナン人の土地であるレヴァントが貿易と政治でにぎわったこの世界の操縦室であり、ここは抑制と均衡が絶妙に働く場所だった。レヴァントの交易を制した者が東地中海を制することは誰もが知るところだった。シリア北部の海岸にあるウガリトのような港は、文明世界の至る所からやって来た人びとが共に暮らし、多言語が飛び交う都市だった。ウルンブルンの船がレヴァントを出港したころ、青銅器時代の大国間では半世紀にわたって平和な時代が続いていた。ウガリトは名目上ヒッタイトの支配下にあった。

 この船が沈没した時代、儲けの大きな地中海東部の交易の主導権をめぐって熾烈な競争が繰り広げられていた。南のエジプトでは輝かしい新王国時代の絶頂期を迎えていた。北のヒッタイトは交易でも戦闘でも凄腕をふるっていた。西ではクレタ島の宮殿やギリシャ本土のミュケナイの王たちが、オリーブ油やワインなどの特産品でエーゲ海の島々と広く交易をしていた。何百隻もの商船が地中海東部の沿岸や港を行き交っていたのだ。



(ウガリト)


 ウガリトは、西の地中海世界のキプロス島、東のメソポタミア、北のアナトリア、南のパレスティナとエジプトを結ぶ通商路の交差点に位置していた。後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)には、北の大国ヒッタイトと南の強大なエジプトとが境を接する地域にあり、BC1350年以前のウガリトはエジプトの支配下にあり、その後ヒッタイトの支配下に入った。

 1928年、シリア北部のミネト・エル・ベイダ湾で一人の農民が偶然墓を見つけた。その海岸から800メートルほど内陸からはウガリトの首都が姿を現した。そこは今でも断続的に発掘と調査が続いている。長年の発掘の結果現れたのは繁栄の頂点にある活気に満ちた商業都市と港の遺跡だった。出土した土器その他の遺物から、ウガリトは国際交易を盛んに行い、その港にはミュケナイ文明の影響を受けたキプロスやエーゲ海諸島からの商品を積んだ商船が頻繁に出入りしていたことがわかった。ウガリトはエジプトとも交易し、それはナイルデルタ地帯を中心とするセム系の異民族ヒクソスにエジプトが占拠された時代(BC1650年~BC1550年)にも途絶えることがなかった。またウガリトは東の内陸部、ユーフラテス川とティグリス川に挟まれたメソポタミア地方とも交易ネットワークを構築していた。

 その墓から800メートルほど内陸にあるラス・シャムラの丘が古代都市ウガリトだった。ウガリトではBC1500年~BC1200年には神殿、宮殿、礼拝堂などが盛んに建てられていた。宮殿には90の部屋があり、ベランダのある庭や文書館、粘土板を焼成するための作業所も備えていた。1万平方メートルの敷地を持つ宮殿は中東で最も壮大な建造物の一つだった。宮殿の東、丘の上のアクロポリス(高い場所にある町)にバァール・ハダド神殿がある。神殿の高さは約20メートルあったと推定され、アクロポリスそのものが下の平野から20メートル高い位置にあるので、海上の船からもよく見える。実際、神殿の境内で発見された17個のいかりが、嵐の海と闘う我が身を守る神バァールへの船乗りたちの感謝のほどを示している。そのすぐ東にもう一つダゴン神殿がある。ダゴンはもともとメソポタミアの豊穣の神でウガリトで崇拝されていた。アッカドの王サルゴンはメソポタミア西部での数々の勝利をダゴンの加護によるものとし、旧約聖書ではペリシテ人はダゴンを民族の神にしたとしている。この2つの神殿の間に建つのが、「高位の神官の文書庫」と呼ばれる館である。そこからは74点の青銅器の武器と道具が出土し、その中には1930年にウガリト語の解読に使われた奉納文が刻まれたすき1本、手斧4本もあった。だが、最も重要な出土品は粘土板文書で、神話の詩文が記されていた。「バァール神話」「ケレト王伝説」「アクハト叙事詩」といったウガリト文学の金字塔ともいえる作品群が含まれている。このウガリト文書は、ウガリトのみならず、後のイスラエルを含む南のカナン一帯でも崇拝された多くの神々の姿を詳述する。ウガリト語はメソポタミアとカナンをつなぐ言語学上の架け橋である。したがって、旧約聖書の中の多くの物語の起源や、旧約聖書に登場する多くの神々の来歴を知ることができる。


 ウガリトの人びとも読み書きの能力が人にいかに大きな力を与えるかを知っていた。しかし彼らにとってメソポタミアの楔形文字は、海洋貿易に携わる多忙な商人たちが用いるにはあまりに複雑で面倒過ぎた。港湾都市はどこも同じだが、常に海外からの商人、船乗り、冒険家など、一時滞在の外国人であふれていた。各国の船舶がウガリトの港にやって来ては出てゆく。商人たちは港で取引し、商談がまとまると品物が船に積まれて目的地へと運ばれる。それらの荷物を記録する人びとは母国語で記録するとは限らない。こうしておそらくBC1400年ごろ、ウガリト語のアルファベット文字が考案された。その結果さほど教育のない者でも素早く簡単に字が書けるようになった。発音の仕方がわかれば文字に記すこともできる。商業や徴税に関係する文書では30の異なるアルファベット文字が、さらに宗教的・文学的文章ではわずか27の異なる文字が用いられているだけである。その中でも後者は数世紀後の旧約聖書の文学にも影響を与えた。ウガリトのアルファベット文字の発明は画期的であり、港湾で働く役人や船の責任者たちに計り知れない恵みをもたらした。だが、歴史的にウガリトのアルファベット文字はまもなく廃れる運命にあった。同じ頃、もう一つの海洋民族フェニキア人の間でもアルファベット文字が発明された。フェニキア人はウガリト人のように楔形文字は使用せず、独自のアルファベット文字を用いた。それはその後、ギリシャ人によって採用され、現在のアルファベット文字の基礎となった。

 1950年以降、ウガリトの住居や王宮から重要な文書保管所が多数発見されている。これらの文書は粘土板に書かれ、使われている言語はさまざまでアッカド語、ヒッタイト語、エジプト語、ミタンニのフルリ語、さらにウガリト語やキュプロ・ミノア語(キプロス島の言語で未解読)が見られる。このことからも当時のウガリトがいかに包容力のある国際都市だったかがわかる。ヘブライ語と近親関係にあるウガリト語はドイツ人のハンス・バウアーによってすぐに解読され、そこには2種類の最古のアルファベット文字が使われていた。一つはフェニキアのアルファベットと同様文字数は22だが、もう一方はさらに8つの文字が付け加わっていた。その文字配列は1949年に30の完全な文字が連続して並んだ粘土板が発見されて明らかになった。この順番は一部に欠けている文字があるものの現在のアルファベットと同じである。これらのウガリト語の文書には、住民の日常生活や思想、神々の名前、代々の王の名前、王家同士の結婚やその嫁入り道具、などが記されている。


 ウガリトはその歴史を通じて、王も有力な市民も活発な交易を行っており、ここは国際的な貨物の集散拠点になっていた。BC14世紀前半はエジプトに属していたようだが、ヒッタイトのシュッピルリウマ1世がBC1350年からBC1340年にかけてこの地域を征服してからはヒッタイトの属国になっていた。ここの粘土板の文書のほとんどはウガリト最後の半世紀(13世紀後半)のもので、ウガリトとその他の国々、エジプト、キプロス、アッシリア、ヒッタイト、カルケミシュ、テュロス、ベイルート、アムッル、マリ、さらにエーゲ海の国々など大小の国々との関係が記録されている。ウガリトから輸出される製品、染めた羊毛、亜麻の衣服、油、鉛、銅、青銅器などが具体的に記され、その輸出先として特に、メソポタミア北部のアッシリアがあがっている。また、フェニキア沿岸のベイルート、テュロス、シドンとの広範におよぶ交易関係についても言及されている。ウガリト自体からは、エーゲ海域、エジプト、キプロス、メソポタミアからの輸入品が出土している。例えば、ミュケナイの壺、エジプトのファラオ、メルエンプタハの名が刻まれた青銅の剣、何百というアラバスタ―の壺の破片、その他の贅沢品、さらにワインやオリーブ油、コムギなども、シナラヌのような商人たちがウガリトに運んでいた。シナラヌはBC14世紀半ばにクレタへ船を行き来させていた商人だ。ウガリトは経済的に大いに潤っていたから、毎年ヒッタイトへの貢ぎ物として黄金500シェケル、染めた羊毛、衣類を納めていたほか、ヒッタイトの王、王妃、高官たちのために金銀の盃を送っている。

 ウガリトはその港によって国際交易の中核となり、ギリシャ、エジプト、キプロスの地と交易して栄えた。またキプロスから輸入した銅で見事に細工された青銅器でも有名だった。にもかかわらずこの文化については正式な記録がない。ウガリトの支配する領域はおよそ3370平方キロ、約200の村を要する都市国家であったことに加えて、錫と銀が豊富な南部アナトリア地方への入口を抑えていたことから、その南に位置するフェニキアの諸都市にとっては、魅力的な市場でもあり、競争相手でもあった。それがBC12世紀に入ってまもなく、突然破壊されて放棄された。これらの遺跡からは、東地中海およびエーゲ海全域の産品が出土している。



(ビブロス)


 ビブロスあるいはビュブロスは単にフェニキアの都市国家の名というだけではなく、パピルスという紙の原材料を表わすギリシャ語でもあった。後に、それからビブリオン、すなわち本という表現ができ、最後にビブル、すなわち聖書になった。その他、ビブロスはセム語の名ゲバルで、旧約聖書にも出てくる。

 1922年春のある朝のこと、フランスの考古学者たちは興奮したアラブ人の人夫に起こされ、ジュバイルの港の南にある険しい海岸の崖に連れて行かれた。そこには夜の雨で地滑りが起こって、かなり広い地面が12メートル沈下していた。そこに小さな洞窟が現れた。これが自然にできたものではなく、人間の手で造られた墓室であることは一目でわかった。墓室の中には大きな石棺が一つあって、その周りの地面にたくさんの副葬品が散らばっていた。その上、そこから他の墓室へ道が通じていた。そこからは全部で9つの墓が発見された。その中の2つは地下通路でつながっていた。構造上の特徴は皆同じで、竪穴が垂直に下へ掘り下げられ、それから横へ拡がって、棺を置ける中空の部屋になっている。墓のうち4つはすでに古代に盗掘されていた。しかし未盗掘墓からは、黄金の枠にはめた黒曜石の花瓶、銀のサンダル、銀の器、銀の鏡、飛んでいる一羽のタカと坐っている2人の王の姿を刻んだ黄金の胸当てなどが発見された。さらに青銅と陶器の壺、銅の三つ又鉾、人骨なども出てきた。しかし、最も重要だったのは5号墓にあった3つの棺のうちの1つである。それは他の棺と大きさばかりでなく、形も違っていた。この棺の4つの側面には歩いたり坐ったりしている人間の精巧なレリーフが施され、その上方に蓮の装飾線が巡らされていて、下の四隅には獅子の顔が突き出ていたのである。蓋にはフェニキアのアルファベット文字で記された一行の銘文があり、その中に石棺に納められている人物の名前が書かれていた。


「この棺はビブロスの王アヒラムの息子、イトバールが父の永遠の休息所として造ったものである。どこかの支配者あるいは総督あるいは軍司令官がビブロスを攻撃して、この棺を掘り出すようなことがあれば、彼の王笏おうしゃくは折られ、彼の王座は転覆させられ、平和はビブロスから去ることになる。しかし彼自身に関して言えば、浮浪者が彼の銘文を眺めるのは勝手である」


 こうした話し方をするのは、強大な自負心あふれる君主である。イトバールはBC1100年ごろのビブロスの王である。ついにフェニキア人の足跡が突き止められたために、ビブロスの発掘はその後何年もの間続けられた。

 ビブロスとレバノン山脈西麓の細長い地帯は、険しい斜面にモミの木やイト杉やレバノン杉が繁茂し、雪を頂いた2~3千メートル級の山々がそびえ立ち、激しい渓流が流れ、農耕に適した温暖で肥沃な土地にはイチジクやオリーブの木が生えていた。野生の獣も豊富で、豹から熊、ヒツジに到るまで有り余るほどいた。この印象的な背景の前には青い海面がキラキラと光っていた。森と海の組合せこそこの土地の特徴である。この地には大小の移住の波が何度も起こったが、その中から後のギリシャ人をあれほど魅了した独特な商業民族が生まれた。最初の移住はBC3500年ごろ、彼らに青銅をもたらした人びとであっただろう。


 これは西アジアとエジプト全体にいえることだが、レヴァントの歴史の中でも中期青銅器時代の終わりは重大な転換期だった。BC1550年ごろ、上エジプトのファラオ、イアフメス1世は、エジプトからヒクソス(異国の支配者)を一掃した。全エジプトの支配を回復したことでイアフメス1世(在位:BC1550年~BC1525年)は新たな系譜、第18王朝(BC1550年~BC1295年)と新たな時代である新王国時代(BC1550年~BC1069年)の幕を開いた。新王国はその後400年続くことになる。このエジプト人とアナトリアのヒッタイト人、それにシリアのミタンニ王国に住むフルリ語を話す人びとが、後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)のレヴァントの歴史的展開に大きな役割を果たしていくことになる。イアフメス1世の後継者たちは強力な遠征軍を編成してユーフラテス川まで進出し、レヴァント地域をエジプトの属州にし、ビブロスを国の港にした。レヴァント各地で発見されている火災や破壊の跡は、エジプト軍がヒクソス人の追放に続いて、シリア・パレスティナへ侵攻した経路を示している。エジプトの軍事的介入はトトメス3世(在位:BC1479年~BC1425年)の時代にはより強化され、その軍事的努力によって、エジプト黄金時代の基礎が築かれた。エジプト人はもう買い手としてではなく、徴税者としてやって来ることになった。彼らが要求した税の大部分はレバノン杉の形で支払わなければならなかった。トトメス3世は公式記録の中でそのことに言及し、「毎年」と記している。


“余のために生粋のレバノン杉が切り倒されて宮廷に運ばれる・・・・・余の軍隊が戻ってくるときには、すべての外国を私に委ねた父の計画に基づいて私が獲得した勝利のレバノン杉を項税として持って帰る。余はその一つをもアジア人に渡すことをしなかった。なぜなら、それは父が好む資材だからである”


 芳香を放つ木材をファラオが好んだばかりに、カナン人は多額の金を払わされた。彼らの森は国有に移され、船は強制収用された。この状態は新王国時代末期まで続いたようだ。トトメス3世の年代記は、エジプトが早くからフェニキア海岸の港町や港湾施設を狙っていたことを明かしている。特に北部のアルワドとビブロスは重要な町だった。アルワドにはアッカル海岸平野とエレウテロス河畔への交通の便という商業上の利点があった。そこまで行けば内陸部へ直行でき、さらにユーフラテス川中流域へとまっすぐ効率的にたどり着ける。その点ではその南のビブロスも同じだった。また、ビブロスはフェニキアの2つの商圏の中間点にある。一つはトリポリスから北の主としてシリアとメソポタミアを相手とする地域、もう一つはベイルートから南のパレスティナ南部の海岸平野とエジプトを得意先とする地域である。このように2方面に商圏を持っていたことが後期青銅器時代のフェニキアの海岸都市の発展を大きく左右していく。ビブロスはフェニキア海岸の主要都市の中で青銅器時代初期のBC3100年ごろから切れ目なく人が住んでいたことがわかっている唯一の都市である。BC19世紀~BC18世紀にはすでに経済的繁栄を誇り、北のウガリトと並んで地中海最大の商都としてエジプト、エーゲ海、メソポタミアと直接取引を行っていた。エジプト第15王朝(BC1650年~BC1550年)としてデルタ地域を占領していたカナン語を話すヒクソス人とも商業的結びつきは固かったようだ。BC14世紀後半のエジプトのアマルナ文書では、テュロス、シドン、ベイルートといったフェニキア南部の都市はいずれもれっきとした王家や議会や商船団を持ち、かなり繁栄している政体にみえる。行政的・軍事的にはエジプトに従属していたが、地域間の交易にはかなりの自治を保っていた。

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