第63話 エジプトと近隣諸国

(エジプトと北方地域)


 エジプト王朝時代の世界観によると、エジプトの北限には大海原が広がっており、ウアジュ・ウル(大きな緑の地域の意)あるいはハウ・ネブ(意味不詳)という名で呼ばれていた。この2つの呼び名は、デルタ地帯北部の低湿地をさすのにも、海および海の向こうにある国々をさすにも使われたようだ。後のプトレマイオス朝時代(BC305年~BC30年)には、ハウ・ネブは直接ギリシャをさす語として使われることもあった。例えば、ロゼッタ・ストーンでは、ギリシャ語で「ギリシャの」を意味する「ヘレニコス」という語が、ヒエログリフでは「ハウ・ネブの」という表現に訳されている。アレクサンドロス大王がBC332年にアレクサンドリアを建設するまで、エジプトの地中海沿岸には都市は全く存在せず、デルタ地帯の北辺に広がる低湿地は、北方地域との接触を許さない防壁あるいは障壁になっていた。地中海を航行するのは、他の民族ばかりだったらしい。エジプト語では航海用の船をさすのに、フェニキア語の「メネシュ」か、あるいは外国の地名をつけた「ケペニ」、つまりレヴァントのビブロス船や、「ケフティウ」、つまりクレタ船という表現が使われている。


 青銅器時代初期のBC3000年ごろにエジプトと北東地中海世界との間に接触があったことを示す証拠はほとんどないが、それもおそらくは、川に沿って発展したナイル文明と地中海との間に低湿地が存在していたためだろう。青銅器時代中期(BC2100年~BC1600年)になると、クレタ島で発展したミノア文明の土器が、エジプト中王国時代(BC2125年~BC1650年)の遺跡から出土し、中王国時代の彫像1体とスカラベ(印章)約20個がクレタ島で見つかっている。しかし、これらの物だけではクレタ島とどのような接触があったのかはわからない。

 注目すべきなのは、1990年にデルタ地帯北東部のテル・エル・ダバア遺跡(アヴァリス)で発見されたミノア文明様式の壁画である。製作されたのは、デルタ地帯北東部にセム族が住み、後世からヒクソスと呼ばれる異国の王たちに支配されていた第2中間期末期のBC1550年ごろだと特定されている。この発見により、ヒクソスとミノア文明期のクレタ島との間に交流のあった可能性が強まった。クレタ島のクノッソスからは、ヒクソスの王キアンの名が記された壺の蓋が出土しており、これがクレタ島に来たのはその王の治世中だとという説が有力である。


 後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年ごろ)でもある新王国時(BC1550年~BC1069年)に入ると、ハトシェプスト女王とトトメス3世の共同統治時代、テーベのトゥーム・チャペル(神殿付大型貴族墓)にある壁画には、「ケフティウ」と名づけられた人々の絵が登場し、その服装と運んでいる品物からミノア文明期のクレタ人だと考えられている。さらに一部の絵にはミュケナイ文明の要素も見られる。文献資料でも言及は少ないが、第18王朝(BC1550年~BC1295年)のパピルスには、薬の材料として「ケフティウ豆」が挙げられており、健康を祈る呪文は未解読のケフティウの言葉で記されている。またトトメス3世単独時代の文書にも、ケフティウ船に関する記述2つと、筆記板に記されたケフティウ人の名前の一覧がある。

 ミノア文明(BC3000年~BC1350年)の遺物に比べて、キプロスやエーゲ海周辺のミュケナイ文明(BC1600年~BC1200年)の文物はエジプトで大量に出土している。下エジプトのメンフィスの西に位置するサッカラにある第18王朝初期の墓の一つには、ヌビアのケルマで製作された土器から、キプロスの取っ手付水差しに到るまでさまざまな土器が納められていた。またミュケナイ文明の土器も、第18王朝や第19王朝(BC1295年~BC1186年)の遺跡で見つかっている。特に第18王朝のアクエンアテン時代の都アマルナでは大量に出土している。こうした外国製土器は、一部は食器のようだが、大半はその土器に入れられた食料や油などを輸入するためだったと思われる。これらエジプトで見つかるミュケナイ文明の品々と、キプロスやエーゲ海周辺で見つかるエジプトの品々は、これらの地域と交易ネットワークがあったことを示す証拠となっている。


 東地中海地域は後期青銅器時代末期のBC1200年ごろに激しく動揺した。第19王朝と第20王朝(BC1186年~BC1069年)の文献に、北方のさまざまな異民族に関する記述が登場する。いわゆる「海の民」である。第19王朝のメルエンプタハ王は、治世5年に西方の首長メリアウイが率いる連合軍と戦ったが、このとき敵の連合軍には、ルッカ人、シェルデン人、テレシュ人、イケウェシュ人が含まれていた。その約30年後、第20王朝のラメセス3世は治世5年と8年に敵の連合軍と地上や海上で戦ったが、このときの敵にはデネン人、ペレセト人、チェケル人、ウェシェシュ人が含まれている。この第2次侵略では、かつて来襲した民族も登場しており、シェルデン人のようにエジプト軍に味方するものもいれば、シェケレシュ人のように侵略軍に参加しながらあまり目立たない地位を占めていたものもいたが、全く姿を見せない民族もいた。テーベのラメセス3世の葬祭殿には、この戦勝の記録が文字だけでなく大規模な絵でも記されており、そこに描かれた侵略者たちは、顔の特徴や頭飾り、服装、武器などが互いに異なっている。こうした証拠が豊富にあるにもかかわらず、この北方からの侵略者たちがどこから来て、最終的にどこへ行ったかについては、正確にわかっていない。通説ではエーゲ海周辺とアナトリアが故地だとされており、パレスティナまたはペリシテ、サルディニア、シチリアといった地名がエジプト語に外来語として入って、それぞれペレセト、シェルデン、シェケレシュと変化した可能性も考えられる。「海の民」に関するエジプトの文献は、エーゲ海周辺とレヴァント地方全域で後期青銅器時代の都市が崩壊し、続く鉄器時代初期のBC12世紀に入って、例えばエーゲ海周辺に起源を持つペリシテ人の文化がパレスティナで生まれたように、新たな文化が各地で登場したという歴史的事実と関連付けることができるだろう。


 鉄器時代初期のBC12世紀には、北方との接触を示す証拠はほとんどないが、レヴァント地方の土器がデルタ地帯を中心にエジプトの遺跡で見つかっており、交易は続けられていたらしい。「ウェンアメン航海記」にはエジプト人ウェンアメンが乗った船が嵐に見舞われ、流されてイレスという港に上陸し、地元住民との関係が険悪になったところを、その地の女王に救われるという話が出てくる。このイレスは新王国時代の文書にもたびたび登場し、その一つであるアマルナ文書では、楔形文字で書かれた地名アラシアの訳として記されている。この地名は、文書中で銅と関連付けられていることもあって、古代で銅の産出地だったキプロスとされる。



(エジプトと西アジア)


 東部砂漠とシナイ砂漠は、ナイル河谷の東側を守る防御壁になっていたが、この壁は突破不可能というわけではなかった。砂漠を放浪する遊牧民は、ナイル河谷を自分たちや家畜の食べ物を手に入れる場所と考え、ときにはその地に住民の意向を無視して食料を奪っていくこともあった。その一方で遊牧民たちは、交易ルートで中継者の役割を担うこともあった。交易ルートはエジプトの歴史の早い段階で形成されていた。シナイ半島北部を通る陸上ルートや海上ルートでシリアとつながっていたのは間違いないが、シナイ半島南部と上エジプトを海路と陸路で直接結ぶ交易ルートも存在していた証拠がある。アフガニスタン産のラピスラズリが先王朝時代(BC3100年以前)の墓で発見されているが、これもメソポタミアとアラビアを経由した交易ネットワークが存在していた可能性を示している。先王朝時代時代末期のBC3100年ごろには、メソポタミア文化の影響が認められる。例えば、美術上のモチーフで共通する様式が登場し、レンガで壁龕へきがん、つまり彫像などを置くため壁に設けられた窪み(ニッチ)が作られ、円筒状の印章が用いられた。また文字の成立もきっかけはメソポタミアからの影響だったと考えられている、


 ナイル河谷に強大な統一国家が成立すると、王たちは東方の国境をある程度管理したり、鉱物資源を探しにシナイ半島へ遠征隊を送ったりした。第1王朝(BC3100年~BC2890年)には、西アジア人との衝突に関する記録がある。なかでも有名なのは「デン王のサンダル・ラベル」と名づけられたカバの牙から作られた5センチ四方の薄い四角形で、今日の名刺のようなサンダル用のラベルである。そこには西アジア人捕虜を打つ図が彫り込まれている。また第3王朝(BC2686年~BC2613年)から第6王朝(BC2345年~BC2181年)の王たちを刻んだレリーフが、シナイ半島のワディ・マガラに残っている。初期王朝時代(BC3100年~BC2686年)に海路でシリア沿岸と交易が行われていたことは、アビュドスの王墓造営のため木材が輸入されていることや、第2王朝のカセケムイ王の壺が地中海に面する主要港ビブロスで発見されていることからも明白である。ビブロスとの交易は古王国時代を通じて常に盛んだった。航海用船舶が木材を積んで何隻も到着したことが、第4王朝(BC2613年~BC 2494年)スネフェル王の時代に記録され、第5王朝(BC2494年~BC2345年)のサフラー王とウニス王の葬祭殿にあるレリーフには、こうした交易の行程を描いたと思われる図がある。また、ビブロスでは銘文中に第5王朝と第6王朝の王たちの名が確認されているし、ラピスラズリ交易の中継点だったと思われるシリアの都市エブラの遺跡からは第4王朝のカフラー王と第6王朝のペピ1世の名前が入った壺が出土している。もっとも、こうした品々があるからといって、エジプト人自身がここに来ていたということにはならない。ペピ1世の時代には、レヴァント南部パレスティナに対して征伐目的と思われる遠征が実施されているが、これはエジプトがこの地域一帯を支配下に置いていたことを示しているのではなく、国境の安定に気を配っていたことを意味するものだ。しかしだからといって、レヴァント地方との互恵的な交易が阻害されることもなかった。現在では、この交易によってパレスティナで都市化が進んだものの、古王国時代(BC2686年~BC2125年)が終焉して交易関係が途絶えたことで、同地域での定住生活も後退したというのが通説になっている。この当時のパレスティナは、後のフェニキアとイスラエルを合わせた地域のことである。


 第9王朝から第10王朝の南北分裂時代である第1中間期(BC2160年~BC2025年)にエジプトで社会的混乱と内戦が続いたため、国境付近にいた西アジア系遊牧民がデルタ地帯東部へ侵入してきた。こうした状況が変わるのは、第10王朝末期にエジプトがデルタ地帯東部の支配を回復し、シリアへの海上交易ルートが再開されてからである。交易が再開したことは、第10王朝の都ヘラクレオポリスの文化で特徴的だった大きな彩色棺に、材料としてレバノン杉が使われていることからもわかる。

 中王国時代の第11王朝(BC2125年~BC1985年)になりメントゥホテプ2世の下でエジプトが再統一を果たすと、おそらくこれがきっかけとなって、エジプトによるシナイ半島への遠征も復活した。今度はトルコ石の鉱脈が目的だったが、この地域にエジプト人が来た確実な証拠は第12王朝(BC1985年~BC1795年)のものしかない。デルタ地帯に西アジア人が東方から続々と侵入してくるのを防ぐため、第12王朝の始祖アメンエムハト1世は、「支配者の壁」と呼ばれる要塞を建設した。しかし、ベニ・ハサンで見つかった有名な絵が示すように、西アジア人交易商は依然としてエジプトに入ることを許され、西アジア人の居住地がデルタ地帯東部のアヴァリスにあったことも確認されている。交易は実際にはビブロスとウガリトを経由して行われ、両都市の支配者はエジプト文化の強烈な影響を受けた。第12王朝の時代にはときどきパレスティナへ軍を進めれば、それだけで東部国境の安定を維持し、この一帯の支配者としてエジプトの威信を守るには十分だと考えられていたらしい。この情勢は第13王朝(BC1795年~BC1650年)でもしばらく続いたものの、やがて変化が現れる。まず王の座が何らかの理由で揺らぎ始め、統治能力が弱体化した。その一方で、デルタ地帯東部のアヴァリスにあった西アジア人居住地のエジプトにおける影響力が増していった。最終的にデルタ地帯東部の西アジア人は別の王朝、第15王朝(BC1650年~BC1550年)を建てた。それがヒクソス(異国の支配者たち)である。その名が記されたスカラベ(印章)が、スーダンのケルマやパレスティナで見つかっているほか、クレタ島では広口瓶のふたが出土しており、ヒクソスの交易範囲の広さがうかがわれる。ヒクソスの王キアンの名が記された花崗岩製のライオン像や、リンド数学パピルス(古代エジプトの数学文書)は、もう一人のヒクソス王アペピの時代に書かれたもので、こうした異国人系の支配者たちのエジプト化が進んでいたことを示している。アペピの時代にテーベ王セケンエンラー・タア2世との間で戦争が勃発した。タア2世はこの時のヒクソスとの戦闘により死んだのかもしれない。しかし、次のテーベ王カーメスは中エジプトの大部分を回復した。このテーベを首都とする南王国が第16王朝と第17王朝(BC1650年~BC1550年)である。ヒクソスの第15王朝をエジプトから追放して、全エジプトの支配を回復したのがアハモセ(イアフメス1世)で、第18王朝の創建者となった。ここから古代エジプトの黄金時代、新王国時代(BC1550年~BC1069年)が始まった。


 西アジア系の王によるエジプト支配は、エジプト人の心に深い傷を残したが、勢いを取り戻したエジプトは、今後同じような問題が起こるのを未然に食い止めるため、支配地域を拡大して北の西アジア人も勢力下に収めようとした。その手始めにイアフメス1世は、勝利の3年後、パレスティナにあったヒクソスの拠点シャルヘンを包囲して開城させた。西アジアへの攻勢という新たな積極方針は、イアフメス1世の後の王たちにも受け継がれ、特にトトメス1世はユーフラテス川にまで進んで強国ミタンニを破り、川の東岸にステラ(石柱の記念碑)を建てている。その後のトトメス3世の時代には、レヴァント諸都市の起こした反乱をパレスティナのメギッドで制圧すると、この戦勝に続けて、十分の計画を練って次々と軍事遠征を実施し、エジプトの支配地域を東はユーフラテス川対岸、北はヒッタイトとの国境にまで拡大させた。その後の王たちも西アジアにおけるエジプトの威信を保ち、エジプトの地位を強固にするため、ミタンニと講和し、その関係を政略結婚で固めた。占領地の支配は、信頼できる各地の諸侯に任せられ、多くの場合は忠誠を守らせるため、兵を伴ったエジプトの外交使節が常駐した。諸侯の一族から何人かが、エジプトで教育を受けさせるため連れて行かれた。もちろん人質の意味もある。パレスティナとシリアでエジプトの支配が確立されたことで、交易や文化交流が増えた。またクレタ島やエーゲ海地域との交易も安定的に行われた。


 その西アジア情勢が劇的に変化するのは、第18王朝末期である。ヒッタイトが勃興し、ミタンニを事実上滅ぼすと、エジプトに服属していた西アジア諸侯に臣従を求めてきたのである。現にシリアのアムッルとカデシュの支配者たちはヒッタイト側に寝返っている。第19王朝(BC1295年~BC1186年)の王たちは、エジプトのパレスティナ支配を改めて確保し、失地を回復しようとした。セティ1世は、ヒッタイト軍を打ち破ったものの最終的にはカデシュの南に軍を引いた。次のラメセス2世は、治世4年に新たな攻勢に出て、翌年には大規模な攻勢を実施、その結果、地中海に注ぐシリアのオロンテス川沿いのカデシュでBC1274年に大決戦が行われた。この戦いの結果は、ヒッタイト側とエジプト側で説明が異なっており、最終的にエジプト軍が撤退したものの、どちらの側も決定的な勝利を収めることはできなかったようだ。それでもラメセス2世は自らの武勇によって勝利したと主張し、戦闘の様子はエジプトとヌビアにある無数の神殿の壁に描かれた。その後もラメセス2世はたびたびシリアに遠征軍を派遣したが、結局治世21年(BC1259年)にヒッタイトと条約を結び、北方の支配地域を失ったことを認める代わりに、両国間に講和が成立した。この両国の関係は、その後ラメセス2世とヒッタイトの王女が結婚することでさらに固められ、第20王朝(BC1186年~BC1069年)初頭のBC1180年にヒッタイトが滅亡するまで守られた。


 パレスティナ全域とシリアの一部を確保し、他国からの干渉を受けなくなったことで、BC13世紀中ごろにパレスティナとシリアのエジプト支配地域の行政組織は再編され、中核となるエジプトの拠点と恒久的な駐屯地が設けられた。一時不穏な動きがあったが、ラメセス2世の跡を継いだメルエンプタハに鎮圧された。この時期、エジプト本国と西アジア属領との間で文化交流が活発に行われている。西アジア人はエジプトで職を求め、エジプト風の記念碑には本名とエジプト風の名前の両方が記されている。なかにはエジプトの宮廷に地位を得る者もいた。西アジアの神々がエジプト神話に取り入れられもした。ラメセス2世は、長女に「ビント・アナト」というセム系の名前をつけ、息子の一人はシリア人船長の娘と結婚した。また、この時期のエジプト語にはセム語からの借用語が数多く見られる。こうした国際色溢れる時代は、しかし突然終わりを告げる。内ではエジプトで内乱が起こり、外ではヒッタイトを滅ぼした「海の民」が侵入してきたからである。「海の民」はシリアとパレスティナの一部を蹂躙したが、第20王朝のラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)によりエジプトから撃退された。その後エジプトは、パレスティナにある拠点を数か所、しばらくの間は何とか確保していたものの、ついにラメセス6世(在位:BC1143年~BC1136年)の時代に西アジアの属領をすべて失うことになる。



(エジプトと西隣地域)


 リビアという名称は、現在ではエジプトの西にある民族国家を指すが、古代ギリシャ・ローマの文献では、ナイル河谷の西にある砂漠の縁から向こうの地域を指すのに使われていた。この地域には遊牧民が暮らしており、古王国時代(BC2686年~BC2125年)と中王国時代(BC2125年~BC1650年)には、この場所も人も「チェヘヌ」あるいは「チェメフ」と呼ばれていた。エジプトとの関係を示す証拠は少ないが、第5王朝のレリーフにはチェヘヌの首長を戦いで破った様子が描かれているし、「シヌへの物語」は、第12王朝のセンウセレト1世(在位:BC1965年~BC1920年)がチェヘヌに勝った場面から始まっている。中王国時代の「呪詛じゅそ文書」では、王の敵として国内や西アジアやヌビアの敵がずらりと並んでいるのに対し、西方の遊牧民はほとんど記されていない。証拠がほとんどないのは、資源のないサハラ砂漠にエジプト人が関心を持たなかったせいなのだろう。新王国時代後期と第3中間期になると、新たな民族名がエジプトの文献に登場する。なかでも多く出てくるのが、リブ族とメシュウェシュ族だ。こうした新たな民族は、第19王朝のラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)やメルエンプタハ(在位:BC1213年~BC1203年)が戦った地中海の諸民族が連合した「海の民」の一翼を担っていたし、新王国時代末期には第20王朝のラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)と戦って敗れている。こうした諸民族がデルタ地帯や河谷地帯で定住生活を送る人びとにとって脅威だったことは、ラメセス2世がデルタ地帯西端に築いた要塞群や、砂漠の遊牧民がもたらす危険や混乱について記したテーベ出土の第20王朝の文献からうかがい知ることができる。第19王朝と第20王朝のラメセス王朝時代に王が建てた記念物で勝利が大々的に宣言されているにもかかわらず、リブ族とメシュウェシュ族は、実際にはかなりの人数がデルタ地帯や中エジプトに侵入しており、続く第3中間期(BC1069年~BC656年)には、ファイユームに近いヘラクレオポリスなど、いくつかの都市では有力家門に名を連ねている。



(プント)


 プントに関する記述ほど、エジプトの文献史料の中で魅力に満ちているが謎も多い問題はないだろう。プントという言葉は、エジプト人が香木や香料、没薬もつやく(殺菌作用を持つ香の一種)などエキゾチックな品々を調達する際の相手国を指すのに使われている。資料は、古王国時代のものからギリシャ・ローマ支配時代のものまであるが、最も詳しく描写されているのは、ディール・アル・バハリにあるハトシェプスト葬祭殿の壁に描かれた記録画だろう。そこにはハトシェプスト女王(在位:BC1479年~BC1457年)の派遣した遠征隊が、香料など神殿での儀式に用いる品々を作るのに必要な珍しい木を持ち帰った様子が記されている。壁画によると、遠征の途中で船に乗っており、描かれた魚などの水生生物から、紅海に沿って進んだものと考えられている。

 中王国時代には、プントに関する文献も含め、いくつかの資料にテーベの北東に位置するワディ・ハンママートの奥に紅海にのぞむ港があったことが示されており、紅海を航行したという描写はこうした証拠と一致している。全時代を通して証拠が非常に少ないため、プントがどこにあったのかを特定することはできないが、ハトシェプスト葬祭殿のレリーフからは、プント遠征隊が目にした社会の一端がうかがえる。例えば、木の上に住居があり、プントの支配者の妻は目を疑うほどの肥満女性として描かれている。またヤシやキリンなど熱帯地方の動植物も描かれており、そのため大半の学者は、プントは紅海南部のアフリカ沿岸にあったと考えている。しかし、ハトシェプスト遠征隊の描写には誇張があると思われ、この描写だけではプントの場所は特定できない。考古学的研究によって、紅海沿岸地域の古代史が解明されないか限り、プントは王朝時代のエジプトの南東にあった交易相手を漠然と指す謎の地域であり続けるだろう。



(エジプトとヌビア)


 第1急湍きゅうたんから南に広がる現在のエジプト・アラブ共和国からスーダンにまたがる広大な地域をヌビアという。かつてここは、熱帯アフリカで最も進んだ古代文明が栄えた地だった。また経済的にも重要な場所であり、そのためエジプト人とは長期的な関係を築くことになった。ヌビアが経済的に重要だったのは、ナイル川から遠くない場所で貴重な鉱物資源がとれたことが大きな理由だった。特に需要が高かったは、金、銅、アメジストなどの半貴石、閃緑岩などの硬石である。さらにヌビアは、サハラ以南のアフリカで採れるエキゾチックな品物や高級品、ヒョウの皮、キリンの尾、生きたキリン・サル・ヒョウ・ライオン、ダチョウの羽と卵、黒檀、象牙、獣皮で出来た盾、そして黄金などを北の地中海へ運ぶ主要ルートの途中にあり、その意味で戦略的に重要な場所を占めていた。ヌビアの自然環境は過酷で、エジプトのように多くの住民を養うことは不可能だった。アスワンから南は、不毛の砂漠と比較的肥沃で農業に適したナイル川の氾濫原とが交互に存在している。しかし、古代には、耕作可能な土地は大変狭く、しかも途切れ途切れになっており、気候も暑さが厳しく降水量は極端に少なかった。肌が黒色のヌビア人は、話す言葉こそ違うが、北のエジプト人とは共通の民族的背景を持ち、両地域の物質文化には共通点が数多く見受けられる。


 ヌビアとエジプトの関係は、時代によって何度も変わった。但し、その基本的枠組みは、エジプトがBC3000年ごろから文化面でも政治面でもヌビアを引き離すようになると固まり、以後、両者の関係は数千年にわたってこの枠組みの中で変化していくことになる。まずエジプトの支配者たちは、天然資源を直接採掘することと、富をもたらす交易ネットワークを支配することを目指して南方を手中に収めようとした。その結果、ヌビアの広い地域が併合され、中王国時代と新王国時代にはエジプトにより王の直轄地として支配された。その一方で、ヌビア人が独立を保った時代もあり、特にエジプトが弱体化した時期に最大勢力を誇ることが多かった。こうした時代にヌビア人は、交易の仲介者として需要の高い交易品を統制して繁栄した。また異国人ともたびたび接触していたため、ヌビアの地は地中海世界とサハラ以南のアフリカの間にあって、文化的特徴を伝播する重要な中心地となった。


 旧石器時代、ヌビアはエジプトと同じく移動生活を送る人びとが暮らしており、狩猟・漁労・採集に頼って生きていた。最初の定住社会は中石器時代から新石器時代にかけて現れ始める。この時期に定住生活へ移行した証拠は、最初期のヌビア土器に見ることができる。手で作った球状の容器で、外側の表面には魚の骨か刻印を押した跡とみられる波状模様が施されている。この種の土器は新石器時代特有のもので、ヌビア砂漠にある遺跡や、その南にある現在のカルツーム周辺で見つかっている。カルツーム新石器文化の人びとは、早くもBC4000年ごろには、家畜化したウシを飼い、穀物を栽培していた。こうした進歩があったにもかかわらず、ヌビア中央部での定住はBC3000年ごろに途絶えてしまったらしい。

 エジプトがBC3000年ごろに、中央集権体制と書き言葉を持った階級社会として台頭してくると、エジプトの王たちは南方の産物をそれまでのように交易で手に入れるのではなく、直接手にしようと次第に襲撃を繰り返すようになった。第1王朝の初めには、ヌビアへの襲撃と略奪は規模も回数も増えたようだ。こうしたエジプトからの脅威に加え、おそらく気象条件の悪化もあって、ヌビア人はナイル河谷からの移住を余儀なくされ、砂漠の縁辺部へ立ち去ったのだろう。彼らの物質文化は、第1王朝時代のエジプトの南に隣接する下ヌビアの考古学的記録から実質的に消滅している。エジプトによる拡張政策の要点は、下ヌビアに恒久的な入植地を築き、同地域の鉱物資源を採掘することにあった。第4王朝時代には、エジプト人の入植地で、下ヌビアの南部の町ブヘンで銅が製錬された。古王国時代にはアスワンの南の町クバンにも集落があったことがわかっている。また閃緑岩が、下ヌビアの中ほどに位置するアブ・シンベルに近いトシュカの西にある採石場から切り出され、クフ王やカフラー王などの葬祭殿を飾る王の彫像を製作するのに利用された。


 その後、500年から600年の空白期を経て、今度は西部砂漠から再び下ヌビアに人びとが移住して河谷地帯に定住するようになった。この新たな住民の物質文化は下ヌビアに根づき、第18王朝まで続いた。一時的に風雨を凌ぐだけだった住まいは石と編み枝で作った壁を持つ恒久的な住まいへと次第に変わり、埋葬地も墓穴の上に石造りの上部構築物を持つ墓になった。トシュカ近郊での採石作業は、第5王朝の後は行われなくなり、ブヘンのエジプト人入植地もやがて放棄された。それでも、アフリカ産の高級品の交易を通じた接触は維持されていた。それを主に支えたのが第1急湍の北にいるアスワン総督の活動で、何度か交易目的で遠征隊を率いてヌビアを訪れている。第6王朝でエジプト人が実施した大半の交易遠征は、上ヌビアの「ヤムの国」と呼ばれる地域を目標にしていた。この国は第3急湍の南に位置するドンゴラ周辺にあったと考えられている。持ち帰った品物として、黒檀、香料、油、ヒョウの皮、ゾウの牙などの記録が残されている。ヤムの支配者は、間違いなく強力な人物で、南と東と西の3方から集まってくるアフリカの品々をコントロールしていた。現在の説では、ヤムはケルマ遺跡のことではないかと考えられている。なぜならケルマはすでにBC25世紀には先進的な土着文化の中心地として栄えていたからである。


 混乱の第1中間期(BC2160年~BC2025年)が始まると、エジプトと上ヌビアの通商関係も途絶えたようだ。しかしエジプトは中王国時代に入って国力を回復すると、下ヌビアの支配を目指して野心的な政策を推し進めた。第12王朝のセンウセレト1世(在位:BC1965年~BC1920年)とセンウセレト3世(在位:BC1874年~BC1855年)の時代、軍事遠征が繰り返し行われ、南は第2急湍の南側のセムナに到るまでの下ヌビア全地域が完全にエジプトに併合された。エジプトは新たな国境を守り、下ヌビアを管理・開拓するため、日乾レンガ造りの巨大な要塞がナイル川に沿って次々と建設され、特に第1急湍周辺と第2急湍周辺には集中的に設けられた。こうした要塞や砦は、城壁と濠に囲まれ、あちこちに土塁を築き、入口には跳ね橋のついた堅牢で巨大な門を配するなど、徹底した防御システムを構築している。砦にはエジプト兵が駐屯し、定期的に交代したほか、河川交通によって食料などの必需品が常に補給されていた。第12王朝の時代、下ヌビア東部砂漠のワディ・アル・アラキとワディ・ガブガバにある金鉱では採掘が開始され、銅はアブ・セイヤルで採れ、トシュカの西にあった閃緑岩の採石場も操業を再開した。要塞はこうした活動の基地となった。ワディ・アル・アラキの河口に位置するクバンの要塞では、金の製錬が行われ、できた金はこの要塞に保管された。また第2急湍周辺にある他の要塞からは、黄金を量るための天秤と分銅が見つかっている。


 しかし、国境の安全を脅かす最大の脅威は、第3急湍の南、上ヌビアのケルマ盆地で新たに力をつけてきた「クシュ」と呼ばれる勢力から着実に迫って来ていた。ケルマは、ヌビアのナイル川流域でもとりわけ肥沃な土地に位置し、東部砂漠、サハラ砂漠、ナイル川上流部の各地域から人や物資が集まるという戦略的に重要な場所にあったという点が、クシュ王国が着実に勢力を広げていくうえで重要な要因になったと考えられる。中王国時代(BC2125年~BC1650年)、上ヌビアのクシュとエジプトは時に関係が悪化することはあったが、それでも象牙や黒檀などのアフリカ産品は、クシュを経由して再びエジプトに大量に入って来ていた。一方、ケルマからはエジプト産の品々が大量に出土しており、この交易が相互に利益をもたらしていたことを示している。古代都市ケルマはBC2500年ごろからBC1500年ごろまで同じ位置に存在していた都市で、都市化した共同体としては熱帯アフリカ最古の一つである。この遺跡で最も目を引く建物は巨大な日乾レンガ造りの建造物で、ケルマの中心的な宗教施設だったようだ。その周辺には、工房地区、公共建築物、住民の住居などがあった。クシュ人は書き言葉を持たなかったが、来世観については、その一部を墓からうかがい知ることができる。墓は墳丘墓で、遺体は革服とサンダルおよび装身具を身に付けさせて、木製のベッドの上に安置することが多かった。武器が墓に納められることも多く、通常ヒツジが生贄いけにえとして死者と共に埋められた。後の時代になると、ヒツジに代わって、次第に人間が生贄とされるようになった。生贄にされたのは主人の召使いだったようだ。


 第2中間期(BC1650年~BC1550年)の北のヒクソス(異国の支配者)と南のテーベ王朝に分裂していた時代に、エジプトとヌビアで生活していた人びとの中で、ひときわ異彩を放っているのが遊牧民である。なかでもメジャイは文献に詳しい記録が残っている。メジャイの集団は、BC3000年紀からBC2000年紀にかけてさまざまな時期にヌビア東部砂漠からナイル河谷に移動し、おおかたエジプト軍に兵士として雇われた。しかしメジャイは単純な部族社会だったため、個々の集団は結束が固く排他的で、下エジプトで働くエジプト人坑夫や探鉱者にとっては常に脅威となっていた。また、メジャイとは別に平鍋型墓の遊牧ヌビア人もいた。この集団は中王国時代後期から第2中間期にかけて南エジプトと北ヌビアに大挙して進入し、その地の社会に溶け込むまで数世代にわたって独自の文化を保持し続けた。この時代、ケルマのクシュ王国は下ヌビア全域をアスワンまですべて併合しており、ヌビア全域を統治していた。


 BC1550年ごろに南のテーベ王カーメスの跡を継いだアハモセ(イアフメス1世)が、北のデルタ地帯のからヒクソスを追い出して新王国時代となり繁栄を取り戻すと、ヌビアは再びエジプトによる植民地拡大の標的となった。カーメス王とイアフメス1世の時代に下ヌビアへ軍を進めたのは、北のヒクソス攻撃に集中できるよう前もって南部国境の安全を確保しておくためだったのだろう。ヌビアへの軍事作戦はエジプト再統一後も続き、ついにトトメス1世(在位:BC1504年~BC1492年)の時代にクシュの軍事力は壊滅し、どうもケルマも略奪されたらしい。強引なエジプト支配に対する抵抗はその後数世代にわたって続いたが、トトメス3世(在位:BC1479年~BC1425年)の時代にヌビア全域がエジプトの支配下に入った。第4急湍周辺がエジプト新王国の新たな国境に選ばれ、そこからアスワンまでの全地域は完全にエジプトに併合された。第4急湍から第5急湍までの地域は緩やかに支配されていたようである。ヌビア支配はエジプトの植民地政府が担当した。行政組織の長は総督で、正式な称号は「南の国々の監視者」と「クシュの王子」だ。征服した地域は、北のワワトと南のクシュに分割され、それぞれを副総督が統治した。さらに小さな行政単位は地元の首長が支配した。

 ヌビアの金鉱は新王国時代に徹底的に採掘された。埋蔵量が最も多かったのは、ワディ・アル・アラキの鉱脈だった。また新王国時代にはエジプトがレヴァント地方の強国と外交交渉する際に、切り札として黄金がますます重要となってきたため、他の地域でも金鉱を見つけて採掘しようとする試みがなされた。カルナック神殿にある、いわゆるトトメス3世年代記には、ヌビアから大量の黄金が定期的に貢納されていたことが記され、テーベの役人のトゥーム・チャペルには、壁画にヌビア人が南方からの品々と並んで黄金もファラオに差し出している場面が描かれている。アフリカ内陸へ通じる交易ルートは、初めてエジプト人によって直接管理されるようになり、墓や神殿にある壁画やレリーフや銘板は、手に入れた高級品の種類の多さを前面に出して描いている。

 鉱物資源や動物の他に、捕虜となった人間もエジプトに連れてこられ、多くの場合、宗教施設や公共施設の建設労働者か、召使いや兵士として働かされた。エジプト人は計画的にヌビア人のエジプト化政策を推し進めた。小さな地域を治める地元首長の息子は、人質としてエジプトへ送られて宮廷で教育を受け、エジプト語を教わり、エジプト風の名前を与えられ、エジプト風の衣装を身に着けた。やがて地元に戻って首長の地位を継いだとき、住民のエジプト化を進めてくれるだろうとの計算である。下ヌビアでは、ヌビア人固有の伝統は事実上消え去り、代わってエジプト様式を模した住宅や墓や工芸品が広まった。一方で、エジプト文化の浸透に抵抗したと思われる地域もあり、そうした場所では土着の葬送習慣が守られた。

 第18王朝では、ヌビアにおいて要塞に代わって町や神殿がエジプト王朝の存在感を示すものとなった。町は行政の中心や採掘活動の基地として機能して、次第に城壁で囲まれていき、石造りの神殿はなにより目を引く建築物となった。神殿のうち最も威風堂々としているのが、アメンヘテプ3世(在位:BC1391年~BC1353年)と王妃ティイを礼拝するために建てられた2つの神殿である。ラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)の時代には岩窟神殿が数か所に造営された。なかでも最も見事なのが、王の巨大座像が4体あるアブ・シンベル大神殿と、その近くに建てられた小神殿である。小神殿のほうは、ハトホル女神と同一視された王妃ネフェルトイリが礼拝の主な対象だった。こうした建造物はすべて信仰の中心であると同時に、巨大なプロパガンダとして機能し、エジプトの王と神々の力でヌビアの人民を威圧しようという狙いがあった。

 新王国時代末期の100年間に、ヌビアにおけるエジプトの活動は衰えた。下ヌビアでは、厳しい気象条件と人的資源の酷使が一因と思われるが、人口が大幅に減少したらしい。金鉱の産出量は落ち、これにエジプト経済の深刻化と国家存亡の危機が重なったため、やがてエジプト人入植地は放棄され、植民地政府も第20王朝末には本国へ引き揚げた。

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