第62話 エジプト(新王国時代)第19王朝・第20王朝:ラメセス朝
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第19王朝(BC1295年~BC1186年):ラメセス王家
BC13世紀に入ると、メソポタミアでは、アッシリアがカッシート朝バビロニアと戦い、アッシリアが勝利した。一方、エジプトではラメセス王家による第19王朝が始まった。ラメセス朝の王たちは、その出自に背かず「軍人ファラオ」だった。エジプトが異国に持っていた領土は、アマルナ時代にはどちらかと言えば放置されており、今や立ち向かうべき新たな脅威として強国ヒッタイトがレヴァント北部からシリアに姿を現していた。そこで第19王朝の初期の王たちは、レヴァント、シリアにおけるエジプトの支配を再び確立するために一連の軍事遠征を行った。当時のエジプト軍は、傭兵や異国の出身だがエジプトに定住してエジプトの習慣を受け入れた兵士たちにかなり依存していた。実際、ラメセス朝のエジプトは明らかに国際社会であった。そこではパレスティナ・シリアや東地中海、リビア、ヌビアから来た、あるいは戦争捕虜として連れてこられた人びとが何世代にもわたりエジプトで生活するうちに同化し、土着のエジプト人と共存していた。民族的背景は出世の妨げにはならず、社会のあらゆる階層で、異国出身の人びとは重要な位置を占めるようになっていた。エジプトはヒッタイトと長期にわたり戦ったが、結局は決着がつかず、アッシリアの台頭を前にして、ラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)の治世21年にあたるBC1259年にヒッタイトとの間で世界最古の和平条約が締結された。
第20王朝(BC1186年~BC1069年):ラメセス朝の衰退
その後、BC12世紀に入ると東地中海全域で「海の民」が混乱をもたらし、その中でBC1180年ごろにヒッタイトも滅んでしまった。「海の民」はエジプトにも二度にわたり侵入してきたが、第20王朝のラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)が撃退に成功した。しかし、新たな民族が登場したことで、近隣諸国に対するエジプトの統制力は弱まり、それと同時に国内経済も衰えたようだ。第19王朝と第20王朝の王家の間に血縁関係はないと考えられているが、この両王朝の時代にラメセスと名乗る王が君臨したため、現代の考古学者は両王朝をまとめて「ラメセス朝」と呼んでいる。
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(第19王朝)
トゥトアンクアテン(ツタンカーメン)が跡継ぎを残さず死去したことで、ナイル河谷のケメト、つまり黒い土地を2世紀余りにわたって支配してきた血統も途絶えることになったが、王座争いは支配者集団の中で決着がついた。ホルエムヘブの次に即位したのは老将軍パラメッスゥで、彼はホルエムヘブの軍隊における同僚であり、副官・行政長官の役を務め、短期間ホルエムヘブの共同統治者となった。その後、パラメッスゥはラメセス1世(在位:BC1295年~BC1294年)として即位し、第19王朝を開くことになった。
この新王朝は過去と決別するのではなく、受け継がれた伝統を守る役目に徹していた。BC1500年からBC1300年にかけて黒い土地の人口は2倍に増加し、おそらく400万人を超えていたと思われる。メンフィスの通りは人であふれ、なかには特殊な技能を持って他所から移ってきた者もいた。船乗り、商人、馬の調教師、傭兵、ガラス職人、翻訳者などだ。古代の文献を見ると、バビロニアやギリシャ、リビア出身の名前が出てくる。もっともエジプトの伝統的な社会構造は、市民生活のレベルから国の中枢であるファラオや宮廷に到るまで揺らぐ気配はなかった。ファラオは国内外の官吏を報奨し、ファラオの後ろ盾である神々の神殿はかつてないほど規模が大きくなっていった。だが、国際関係は流動的だった。ミタンニは、北からヒッタイト、南からアッシリアの圧力に屈した。ヒッタイトのシュッピルリウマ1世が率いる軍隊は、エジプトが支配する領域に侵入し、カデシュに達した。フェニキアやオロンテス川流域の首長たちは動揺した。
第19王朝の創始者である将軍パラメッスゥはラメセス1世として即位後、1年ほど単独で統治したが、治世の最後の数ヶ月は息子のセティ1世(在位:BC1294年~BC1279年)がパレスティナへの軍事遠征を指揮した。すでに老年であったラメセス1世は、上下エジプトの王座に就いてから2年もたたないうちに没した。セティ1世の治世初年にはパレスティナに対する大規模な軍事遠征が行われた。その後、さらにパレスティナ北部からシリアにまで軍を進めた。また、治世8年には南のヌビアへの軍事介入の必要に迫られた。このセティ1世が行った一連の遠征で改めてエジプトの覇権をヒッタイトやヌビアに認識させ、さらにセティ1世はカデシュでヒッタイト軍と衝突した。しかし、完全に勝負の決着がつく前にセティ1世は死去し、事態の収拾は息子のラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)に引き継がれた。
セティ1世は建築活動においても積極的で、特に、アマルナ時代に閉鎖され、荒廃したエジプト各地の伝統的な神々の神殿の復興を徹底してやり遂げたのがセティ1世であった。セティ1世はテーベ、アビュドス、メンフィス、ヘリオポリスといった各地の主要都市で大規模な建造物を造営した。エジプト芸術の中で際立った作品のいくつかは彼の時代のものである。例えば、1817年に発見されたセティ1世の王墓は、「王家の谷」の王墓のうち最大規模を誇る。全長は140メートル以上あり、冥界を主題とする美しい彩色レリーフが見事である。とりわけ玄室天井の北天の星座図と南天の星のリストは、古代エジプトの天文学の貴重な資料である。王の石棺には初めて方解石(アラバスタ―)製の人型棺が採用されている。しかし統治15年で没したため、多くの建物が未完成のまま残された。彼の後継者ラメセス2世は建築活動を継続しただけでなく、それを67年という長い統治期間を通じて大規模に展開した。それにはエジプトからヌビアまでの全土における建設や、北のデルタ地帯に位置するかつてのヒクソスの要塞都市アヴァリスの北数キロの場所に建てた新首都ペル・ラメセス(ピラメセス)が含まれる。
[ラメセス2世]
ラメセス2世は実に67年もの間エジプトを支配し、繁栄したエジプト新王国の黄金時代を統治した人物だった。彼は幸運に恵まれていた。90歳以上まで生き、100人(48~50人の息子と40~53人の娘)ほどの子供をもうけ、その治世中はナイル川の定期的な氾濫も適度で豊作続きだった。数々の功績も成し遂げた。BC1279年に王位に就くとすぐに、南北両方面に軍事行動を起こして各地に記念建造物を建てた。偉大な支配者と見なされていたため、後に9人のファラオがラメセスの名を継いでいる。1000年以上を経たプトレマイオス朝のクレオパトラの時代にもラメセス2世はまだ神として崇拝されていた。
ラメセス2世はヌビアでも自らを神格化し、神殿で奉納した神と共に祀らせている。なかでも最大の神殿は、ナイル川流域の岩壁を削って新たにアブ・シンベルに造営した大小2つの神殿である。その主神殿は正確に東に面して建てられており、そのため2月22日と10月22日の夜明けには太陽光線が至聖所に射し込み、そこで礼拝される4柱の神々のうち3体、アメン、ラー、そしてラメセス自身の像を照らし出す。冥界の神であるプタハの像は日陰になったままである。また、正面の岩に彫られた高さ20メートルの4体のラメセス2世の巨大な座像は、後に多くの人を鼓舞し、真似させることになった。主神殿の北側には、ラメセス2世がネフェルトイリ王妃とハトフル女神に奉げた小神殿がある。いずれの神殿も、1960年代にユネスコのヌビア遺跡救済キャンぺーんにより、ブロックに切り分けられた後、アスワン・ハイダム建設後にできたナセル湖の水が届かない崖上に移築された。
最も輝かしい業績の一つは、現在のルクソールに近いテーベに建設された記念建造物群だ。そこは自分を埋葬するための墓ではなかったが、生前からそこで崇められ、後には神として永遠に祀られた神殿だった。そこには神殿、宮殿および宝物殿があった。巨大な権力を度々見せつけることは、ここを訪れる役人や神官に圧倒的な影響力を及ぼしたに違いない。エジプトの巨大な彫像や建造物は、膨大な数の人が関わって共同で成し遂げたことを一緒になって称賛する行為でもあった。ラメセス2世像の彫像に使われた花崗岩は、ナイル川を南に150キロ以上さかのぼったアスワンから採石されており、1つの巨大な塊として切り出されている。もともとの彫像全体は20トンほどの重量があったのだろう。その石は大まかに削られてから石切り場で木製のソリに載せられ、それを大勢の労働者が引っ張ってナイル川に浮かぶ
ラメセス2世は戦争に常に勝利したわけはないが、テーベには勝利のメッセージを伝え続けた。ラメセス2世はプロパガンダの名人のようでもあるが、エジプトの人びとは強い指導者が強い王になることを望んでいたからそうしたのである。ラメセス2世の成功は、交易網と税制を活用してエジプトの優位を維持したためにもたらされただけではない。多数の神殿や記念建造物を建てることに豊かな収益を注ぎ込んだおかげでもある。ラメセス2世の目的は自分の永遠の偉大さを語る遺産を作り出すことだった。
[カデシュの戦い]
ラメセス2世は治世4年に軍事遠征をレヴァント地方に対して行い、翌年のBC1274年にはヒッタイトと有名なカデシュの戦いを繰り広げている。メソポタミア北部とエジプトの間に位置するレヴァント地方の北方で、地中海に面するウガリトは、BC14世紀中ごろからアナトリアのヒッタイトの勢力圏内にあり、その服属国になっていた。ヒッタイトのシュッピルリウマ1世のころに両国の間で条約が結ばれ、服属国として果たすべき義務が定められたのだ。ヒッタイトは穀物の大半をシリア北部から調達しており、 ヒッタイトの支配圏はさらに南のカデシュ地域(現在のシリア南部で、レバノンとの国境辺り)にまで達した。しかし、そこから先はエジプトの支配圏だった。
古代の大きな戦争の一つとして有名なヒッタイトとエジプトとの対戦はBC1274年にシリア中部オロンテス河岸のカデシュ近郊で行われた。この戦いでは、敵をかく乱するために意図的に偽情報が用いられたことでも有名で、古代世界でそのようなことが行われた最初の例の一つと言われている。戦ったのは、ヒッタイトのムワタリ2世とエジプトのラメセス2世である。ムワタリ2世はヒッタイトの領土をさらに南のカナン(現在のレバノン・イスラエル・パレスティナ)にまで拡大しようとし、ラメセス2世は数十年前に定められたカデシュの国境を死守しようとしていた。この戦闘については、具体的な経緯や結果がほぼ完全に判明している。ヒッタイト側の記録は残っていないものの、エジプト側の記録はエジプトの5つの神殿に2種類の文章で残されているからだ。それによれば、この戦闘はとりわけ激戦で、ヒッタイト軍は3500台の二輪戦車と、正規軍と王国全土から招集された部隊、それに傭兵含め総勢4万7500名、一方、エジプト軍は各師団5000人から成るヘリオポリスのラー師団と、メンフィスのプタハ師団、テーベのアモン師団、タニスのセト師団の4個師団、総計2万人から編成され、前年のBC1275年春、デルタ地帯東部のピラメセスからカデシュまで1ヶ月の道のりを一列縦隊で出陣した。双方で多くの死傷者を出しながら、最後には膠着状態に陥った。
ラメセス2世によるシリアへの軍事遠征はその後も続いたが、アッシリアの台頭を前にして、歴史的変化はそれから15年間後に起きた。治世21年のBC1259年に、国境はカデシュのままで、ラメセス2世とムワタリ2世の弟で新しくヒッタイトの王位に就いたハットゥシリ3世の間で和平条約が結ばれたことである。ムワタリ2世は戦闘の2年後に亡くなっていたのだ。そこには領土不可侵だけでなく、互いに第3勢力から攻撃を受けた場合には軍隊を派遣する相互軍事援助の条項が書き加えられた。さらに、相互の合法的な王位継承の規定を承認して、逃亡犯罪者引き渡しに関する前例のない協定を結んでいる。協定を確実なものとするために、エジプトとヒッタイトの王家の主要な人びととの間で友好書簡が取り交わされた。
「
この条約は世界で最初の和平条約で、「銀の条約」として知られ、複数の写しが今に伝わっている。ヒッタイト側とエジプト側とでそれぞれに作られたからである。ヒッタイト版はアッカド語で書かれて純銀の板に刻まれてエジプトに送られ、そこでエジプト語に翻訳され、ラメセス2世の葬祭殿とカルナックのアメン神殿の壁に刻まれた。同様に、エジプト版はアッカド語に翻訳され、純銀の板に刻まれてハットゥシャに送られた。これはほんの数十年前に考古学者によって発見されている。その13年後の治世32年(BC1248年)には、ラメセス2世はハットゥシリ3世の娘を妃に迎え、王家同士の結婚式を挙げて、条約を強化するとともに両国の絆を固めた。ヒッタイトとエジプトが和平条約を結んで互いに争うのをやめたのは、おそらく両国ともBC1250年ごろに起こったとされる別の事柄に目を向ける必要があったからと思われる。ヒッタイトは小アジアでの争い、つまりトロイア戦争、エジプトはラメセス2世が高齢となり、西のリビア人との争いである。こうして新王国の残りの時代は神に与えられた平和が続くことになった。
ラメセス2世の治世の特徴は、王の家族の公表、王子たちによるメンフィスとヘリオポリスの大祭司職の掌握、神殿における王の子供たちによる行進の重要性などがより顕著になったことである。ラメセス2世の時代、複数の王子が皇太子の称号を授与されたが、最後に皇太子となったメルエンプタハは、父ラメセス2世の11番目か12番目の息子で、母イセトノフレトはラメセス2世の2番目の王妃だった。彼が王位に就けたのは、彼より年長の王子たちが皆彼よりも先に亡くなったからだった。王になったとき、彼はすでに60歳ぐらいだったが、その少し前から年老いたラメセス2世の代理を務めていた。しかし、メルエンプタハが有能な軍事指導者であり、弱りかけていたエジプトの威信回復に貢献したことは確かである。
ラメセス2世の息子で、後継者メルエンプタハ(在位:BC1213年~BC1203年)が統治した10年は波瀾に満ちていた。特に治世5年には、リビア人と地中海の諸民族が連合した「海の民」の侵入を阻止しなければならなかった。また、飢饉に苦しむヒッタイトに食糧を送っている。これはおそらく、ヒッタイトとの間で結ばれた和平協定が依然遵守されていたということだろう。なお、メルエンプタハの北方遠征を記した戦勝記念碑には、平定された諸民族の1つとしてイスラエルがあげられており、その名がエジプトの文献に登場するのは唯一これだけである。
[メルエンプタハの「イスラエル碑」]
これは第19王朝の王メルエンプタハの戦勝記録である。「メルエンプタハ勝利碑」と呼ぶ方がより適切であるが、イスラエルの民に言及した現存する最古の史料であることから、一般に「イスラエル碑」の名で知られている。高さ3メートルの石碑は19世紀末の1896年、テーベで発見された。石碑頭部には、メルエンプタハがテーベの3柱神、アメン神とその妻ムト、息子コンスと対面している場面が描かれている。この碑文は、リビア人とその同盟者「海の民」に対するメルエンプタハ軍の大勝利を記念するために建てられた二つの碑文のうちの一つである。この碑で特に強調されているのは、リビア軍の敗走場面である。戦闘は外国人の侵略を受けて今や荒地と化したデルタ地帯西部の放牧地ペリレ郊外で行われた。この石碑はイスラエルについてわずか一言述べているに過ぎないのだが、その一言が聖書学者たちの強い関心を呼んできた。現在、大半の学者の見解は、「イスラエル」およぶ「その種子」がユダヤ人の先祖であるイスラエルの民を指すとする点で一致している。当時、彼らは半遊牧的生活を営んでいたと思われる。
“王は何千何万のエジプト将兵に勇気を与え、恐怖に慄いていた者たちを安堵させた・・・リビア人を打ち負かし、エジプトの土地から大量に追い出した。今や彼らの心はエジプトに対する恐怖に震え慄いている。敵の先方部隊は総崩れとなり、彼らの足は逃走にしか役立たない。彼らの弓兵は恐怖のあまり武器を捨て、命が助かることしか考えなかった。士気は失せ、水用皮袋や背のうを捨てて一目散に逃げ去った。最低の人間であるリビア人の王は命欲しさに夜陰に紛れ逃げ出した。あまりに慌てたためサンダルも履かず裸足のまま駆け出し、王の頭飾りまで置き忘れる始末だ。王は水も食料も持たずに逃げ、自分の家族や将軍たちを恐れ、こうして彼らは互いに衝突し合った。彼らの天幕は灰塵に帰し、彼らの物資は余の兵士に捕獲された。リビアの王を英雄として迎える者は一人もなく、ただ恐怖とエジプトのファラオに打ち負かされた不運な指導者に対する嫌悪の念があるだけであった・・・。
エジプトにとり驚異的な出来事が起きた。神聖なるファラオの優れた判断と統帥力のおかげで、エジプトを攻撃した者たちはその捕虜となった。・・・ファラオは敵の町で捕虜となっていた者たちを解放した。宮では犠牲を捧げ、神々の前に香を焚いた。貴族のために失われていた彼らの地所を、貧しい者たちのために彼らの家を取り戻してやった。・・・エジプトは喜びに沸き返った。すべての町でリビア人に対するメルエンプタハ王の勝利を祝う歓喜の声が上がった。
カナンは略奪し尽され、アシュケロンは占領され、ゲゼルは捕獲され、ヤノアムは消滅、イスラエルは荒れ果て、その種子は絶やされた。”
第19王朝の後半はセティ1世やラメセス2世の栄光に満ちた時代からの悲しい下降の時代であった。その中心的出来事は、アメンメセス(在位:BC1203年~BC1200年)なる人物による王位簒奪であった。彼はメルエンプタハの死を機に、後継者のセティ2世を出し抜いて王位に就いた。アメンメセスの治世が4年ほど続いた後、セティ2世(在位:BC1200年~BC1194年)は復帰している。その理由はよくわかっていない。しかし、セティ2世は治世6年目に亡くなってしまった。セティ2世の死に続く時期における主要人物は大蔵大臣バイで、彼はシリア出身であったらしい。新王のサプタハ(在位:BC1194年~BC1188年)はセティ2世に敗れたあのアメンメセスの息子だったと思われる。サプタハは10代初めにセティ2世の未亡人になったばかりのタウセレトの摂政の下で統治しただけである。大蔵大臣バイがタウセレトと対等の立場にあったことは、タウセレトのレリーフに同じ大きさで刻まれていることから明らかである。エジプトでは人物像の大きさはそれぞれの人物の社会的地位の高さに対応するので、その事実は非常に重要である。サプタハが死ぬと、タウセレト(在位:BC1188年~BC1186年)が女王として即位した。やがて内戦が始まり、最後に出自不詳のセトナクトなる人物が勝利を収め、第20王朝を創立した。サプタハも女王タウセレトも歴史から消し去られ、セティ2世がセトナクトの実質上の前任者と見なされた。
(第20王朝)
セトナクトがタウセレトから政権を奪ったとき、彼はおそらく中年を過ぎて老年に入っていたと思われる。第20王朝の創立者セトナクトの統治(在位:BC1186年~BC1184年)は極端に短命で、その息子のラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)が後を継いだ。治世5年にはリビア諸部族の軍が西デルタに迫ってきた。戦いが始まり、ラメセス3世の軍は全体として勝利を収めた。何千人もの敵兵が殺され、それ以上の敵兵が捕虜となった。しかし、穏やかに西デルタ地帯に入り込むリビア人の数はその後も増え続け、やがてエジプトの王座を奪う勢力の基盤を形成する。エジプトにとって、リビア人以上に深刻な脅威は出自不明のチェケル人やペレセト人などの「海の民」の侵攻であった。「海の民」はエーゲ海地域の民の連合で、すでにシリアや小アジアの主要国を滅ぼしていた。ラメセス3世はパレスティナ南部に防衛ラインを築き、地上・海上いずれの戦いでも敵の撃退に成功した。ラメセス3世の治世が25年をすぎると、気候が不安定となり作物の不作が続き、穀物の価格が高騰した。このような経済状態の悪化や官僚の腐敗がラメセス3世の政権を揺さぶり、それを背景に王の暗殺計画、自分の息子の王位継承を狙う王妃の一人による、いわゆる「後宮の陰謀」が企てられた。さらに労働者たちの反乱も画策されたが、最後は王の殺害となった。その陰謀の首謀者たちは裁判にかけられ有罪となった。
新しい王は嫡出の息子ラメセス4世(在位:BC1153年~BC1147年)で、何らかの海上の戦いがあったことを示す証拠があり、そのころ「海の民」が最後の攻撃を仕掛けてきたのかもしれない。ラメセス4世はさまざまな建築活動を開始したが、彼の治世は6年で終わった。同様にラメセス5世(在位:BC1147年~BC1143年)の治世も短命だった。天然痘が原因だったらしい。ラメセス5世には跡継ぎがいなかったため、ラメセス4世の弟の王子がラメセス6世(在位:BC1143年~BC1136年)として即位した。ラメセス6世はシナイ半島のトルコ石採掘遠征を行ったことがわかっている最後のファラオであり、カルナックのレリーフやその勇姿を刻んだいくつかの彫像で知られているが、その外交についてはっきり記したものはない。しかし、新たな民族が登場したことで、近隣諸国に対するエジプトの統制力は弱まり、それと同時に国内経済も衰えたようだ。これ以降、ラメセス7世(在位:BC1136年~BC1129年)の治世になって何度かパレスティナ遠征が行われたものの、それは実際の軍事行動というより、むしろ戦略的な力の誇示の意味合いが強かった。
王の宮廷では、19王朝末以来ずっとラメセス王家を長期にわたって苦しめ続けた王朝内部の陰謀がはびこっていた。治世20年代後半になってラメセス3世は陰謀により殺害されてしまった。その後は、ラメセス4世(在位:BC1153年~BC1147年)からラメセス11世(在位:BC1099年~BC1069年)まで短命の王が続き、最後は将軍ピアンキが上エジプトの大部分を統治し、実質上の軍事独裁者となり、「誕生の繰り返し(再生)」という独自の年号を用い、新王国の終焉を告げる第20王朝最後のラメセス11世の統治が終わるまで使用した。この時代はまた、もう一人の将軍で大司祭のヘリホルがテーベを支配した時代でもあった。事実上エジプトは、上エジプトのピアンキとラメセス朝の下エジプトに分断され国家としての活力を二度と取り戻すことはなかった。ここに新王国時代は終わりを告げるのである。古代エジプト文明はこの時点で、実質的に幕を閉じたといってもよいと思われる。
異国との関係が厄介な状態になっていることを別にすれば、ラメセス朝のエジプトは活気に溢れた繁栄した国だった。古くからの都市である南のテーベと北のメンフィスに、第3の都市としてデルタ北東部のラメセス朝の拠点都市ペル・ラメセスが加わり、宮廷文化の3大都市を形成していた。
ペル・ラメセスは王の式典の中心地であり、ラメセス2世が高官たちを迎えてその祝祭の多くを挙行した所である。このペル・ラメセスは旧約聖書の「出エジプト記」で言及されているヘブライ人が重労働を課せられたとされるピラメスであると考えられている。ペル・ラメセスはパレスティナにつながる戦略的に重要な場所にあっただけでなく、軍事拠点と国際交易の中心地でもあった。そこには多くの外国人が居住し、異国の神々が信仰されていた、彼らの中にはエジプトの高官になる者もいたし、職人たちもいた。
メンフィスは依然として政府の所在地であり、メンフィスの墓地には多くの官僚たちの墓地が造営された。しかし、ラメセス朝の考古学上の記録において優位を占めているのはテーベである。ラメセス2世も父王のセティ1世もともにカルナックのアメン・ラー大神殿に大規模な増築を行わせており、テーベ西岸に造営された第19と第20両王朝の王たちの葬祭殿は、その先駆けとなった第18王朝の葬祭殿よりもいっそう荘厳なものだった。
第20王朝最後のファラオ、ラメセス11世(在位:BC1099年~BC1069年)の末期、「ウェンアメン航海記」が成立したのは新王国の最後の時代だった。それによると、エジプトに最も友好的だったフェニキアのビブロスの首長は歴史をこう振り返っている。
「こうしてアメンはすべての土地を整えたが、それはあなたがたが今やって来たエジプトの地を作り上げてからのこと。その地で芸術が始まり、今私がいるところに到達した。学問もその地で始まり、今私がいるところまでやって来た」
この通りだとすれば、エジプト的な価値観を世界に広めたのは新王国ということになる。ファラオの下で、エジプトの神々は地の果てまで支配した。おかげで近隣のヌビア、リビア、パレスティナも安全が保障され、富を得ることができたが、それと引き替えに下位の立場に甘んじなければならなかった。紅海と地中海、アナトリアから西アジアまでの地域でも、ファラオを信奉し、規範とし、あるいはファラオに挑戦することで富と地位を高める国々が出現した。エジプト人は、金と象牙と香を積んだ隊商や船とともに、芸術や思想、さらには詩までも運んだ。その詩の言葉が後に旧約聖書の「詩篇」へと結実していく。
*「ウェンアメン航海記」については、後のエピソード「フェニキア人」で詳しく述べる。
***
古代エジプトは他のどんな古代文明より強く人びとを魅了してきた。1798年にナポレオンが行ったエジプト遠征は、西欧に数多くのエジプトマニアを生み出すきっかけになった。ギリシャの歴史家ヘロドトスをはじめとする古代の著述家たちも、エジプトの文化と歴史、つまりヒエログリフやミイラ、ナイル川の求心力、それに何より数々の遺物に心を奪われた。しかし、それらに比べると、エジプト王国が強大な力を振っていたことは余り注目されていない。古代エジプト、なかでも新王国時代(BC1550年~BC1069年)のエジプトは、南はヌビア、西はリビアの東部、東はレヴァント、北はクレタ島やキプロス島を含む地中海を越えたエーゲ海域にまで影響力を持っていた。強固な交易網と、鉱物資源や農産物が生み出す圧倒的な経済力、王を中心に深く根を下ろした宗教的イデオロギーに支えられた超大国、それが古代エジプトだった。
当時世界一豊かな国というエジプトの地位を裏打ちしていたのはヌビアで産出する金だった。広範囲にわたる交易網は、アフリカ北東部、西アジア、地中海諸国との友好関係が支えていた。古代エジプトの政治・宗教・芸術が安定したのは新王国の時代になってからだ。第18王朝のトトメス3世や第19王朝のラメセス2世は、それぞれ54年間、67年間の長きにわたってファラオだった。トトメス3世は、領土南端に作った記念物に自らの成功を振り返ってこう記している。「これは我が父アメン・ラーのなせるわざであり、人間の行いではない」
このように歴代ファラオは、アメン・ラーをはじめとする神々への感謝のしるしとして、神殿に広大な領地と労働力を与え、税収の手段や商業特権を確保し、祭事を一任した。新王国の統治者はこうして現代の我々が想像する古代エジプトを建設し、引き継いでいった。
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