第10話 DNAから見た「農業革命」以降の東西のユーラシア人

 農業は西アジアにおいて、明確に区別できる複数の集団の間で1万年以上前に発達し、それらの集団はその後、あらゆる方向に拡散して、農業を普及させながら現地の狩猟採集民と互いに混じり合った。人間集団に起こった変化を明らかにする点で、ヒトゲノムの多様性の解析は近年、考古学の伝統的な手法である古代の人工遺物の調査を凌駕している。


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(西アジアのナトゥーフ人と基底部ユーラシア人)


 1万4500年前~1万1500年前にかけてナトゥーフ文化が栄えたレヴァント地方では、ナトゥーフ人は何十もの野生種を食べて暮らしていた狩猟採集民だが、永続的な村落に住み、野生の穀類を集中的に採集・処理していた。彼らは石造りの家や穀倉を建てて穀物を蓄えておいた。野生のコムギを刈り取るための石の鎌や、コムギを挽くための石のすりこぎとすり鉢などの道具を発明した。1万1500年前以降になるとナトゥーフ人の子孫たちは野生種を採集するだけでなく、栽培もするようになった。農耕への決定的な移行がいつ起こったのかは正確には分からないが、1万500年前には、レヴァント地方にエリコのような永続的な村落が点在しており、その住民は栽培化したいくつかの種を育てるのに時間の大半を費やしていた。


「基底部ユーラシア人」のDNAはまだ得られていないが、実在したのはわかっている。子孫に残したゲノム片についてはデータがあり、それに基づいて重要な事実がいろいろとわかっているからだ。基底部ユーラシア人の際立った特徴の一つは、ネアンデルタール人のDNAを全く持っていないことだ。したがって、ネアンデルタール人との交配は、どこで起こったにしろ基底部ユーラシア人から分岐した後に起こったと思われる。基底部ユーラシア人は明らかに人類の遺伝的多様性の主な源で、多数の下位集団が長い時間にわたって存続した。基底部ユーラシア人の故郷に関するヒントとなったのは、1万4000年前以降に西アジアの西南部に住んでいた狩猟採集民であるナトゥーフ人だった。初めて恒久的な住居に住んだことで知られている人びとで、狩猟採集民であるにもかかわらず余り移動せず、大きな石造りの建物を建て、自生する野生の植物を積極的に育てた。そしてやがて彼らの後継者が本格的な農耕民となった。ナトゥーフ人は石器だけでなく頭蓋骨も同時期の北アフリカ人のものと似ているため、北アフリカから西アジアに移住した人びとだろうと考えられている。2016年、イスラエルから出土した6体のナトゥーフ人の古代DNA の解析から、初期のイラン人狩猟採集民とともに、西アジアで最高比率の基底部ユーラシア人由来のDNAを持っていることがわかった。



(現代西ユーラシア人の遺伝的構成)


 現在、西ユーラシアの人びと、つまりヨーロッパ、西アジア、それに中央アジアの大部分にまたがる広大な地域の人びとは遺伝学的に非常に似通っている。西ユーラシア集団の身体的な類似に気づいた18世紀の学者はこの人びとを「コーカソイド」と呼んで同じグループに分類し、東アジアの「モンゴロイド」、サハラ以南アフリカの「ネグロイド」、オーストラリアおよびニューギニアの「アウストラロイド」と区別した。そうした身体的な特徴よりも強力な分類手段となるのが、2000年代に登場した全ゲノムデータである。ゲノムの集団間の変異頻度を地図上にプロットすると、ヨーロッパの大西洋側から中央アジアのステップ地方まで西ユーラシアは均一に見える。そして中央アジアで急勾配の変化があり、東アジアはまた別の均一な地域となる。


 現在の集団構造は1万数千年以上前に存在した構造からどのように変化して生まれたのだろうか? ハーヴァード大学のデイヴィッド・ライク教授の遺伝学研究室など古代DNA研究者たちは、2016年に今のような構造になったのは食物の生産者が拡散したためであることを発見した。


 1万2000年前~1万1000年前に現在のトルコ南東部とシリア北部で農耕が始まり、その地域の狩猟採集民がコムギ、オオムギ、ライムギ、エンドウマメ、ウシ、ブタ、ヒツジなど、今も西ユーラシアの多くの人びとが頼りにしている動植物の大半を栽培したり家畜化したりし始めた。9000年前ごろ以降に農耕が西に拡がって現在のギリシャに達し、ほぼ同じころに東にも拡がり、現在のパキスタンのインダス渓谷に達した。ヨーロッパでは地中海沿岸を西のスペインまで広がり、北西へはドナウ川流域を通ってドイツに達し、ついに北はスカジナビア半島、西はイギリス諸島と、このタイプの農耕牧畜活動が成り立つ極限の地にまで広がった。

 考古学的な資料からうかがわれるこうした変化が、どの程度人びとの移動によって推し進められたものなのかを知るため、古代西アジア人44体のDNA解析を行った結果、1万年前ごろに農耕が広がり始めたときの西ユーラシアの集団構造は、今日目にする遺伝的な単一構造とは程遠いものだった。イランの西部山脈地帯の農耕民はヤギを最初に家畜化した人びとと考えられるが、遺伝的には先住の狩猟採集民の直接の子孫だった。同じように、現在のイスラエルやヨルダンに住んでいた最初の農耕民は先住の狩猟採集民であるナトゥーフ人の子孫がほとんどだった。ところが、この2つの集団は遺伝的には非常に異なっていた。中東では農耕の拡散は単に人びとの移動によって行われたのではなく、遺伝的に非常に異なるグループの垣根を越えて共通の知識が広がることによって成し遂げられたという側面もあったのだ。1万年前に西アジアの人類集団の間に見られた大きな差異は、西ユーラシアの広大な地域全体にわたってより広範囲に見られたパターンの一例だった。


 およそ1万年前に西ユーラシアには少なくとも4つの主要な集団がいたことが発見された。

① 肥沃な三日月地帯の農耕民

② イランの農耕民

③ 中央および西ヨーロッパの狩猟採集民

④ 東ヨーロッパの狩猟採集民

 これらの集団はどれも、現代のヨーロッパ人と東アジア人くらい互いに異なっていた。但し、これらのグループはどれも、そのままの形ではもはや生存していない。


 植物の栽培や動物の家畜化の技術の目覚ましい進歩によって、狩猟や採集に頼っていた時代よりはるかに高い人口密度を維持できるようになったため、西アジアの農耕民は移住や近隣集団との交流を活発に行うようになった。しかし、1つのグループが他のすべてを押しのけて絶滅に追いやるという、かつてヨーロッパでの狩猟採集民の拡散の際に一部で見られた図式とは違い、西アジアでは拡散するあらゆるグループが先住のグループと混じり合い、後の集団のDNAに寄与した。アナトリア(現在のトルコ)にいた農耕民はヨーロッパにまで広がった。レヴァントの南(現在のイスラエルやヨルダン)にいた農耕民は東アフリカに拡がり、彼らの遺伝的遺産は現在のエチオピアに最も多く残っている。現在のイランにいた農耕民とその同族の農耕民は、黒海やカスピ海の北のステップ地帯はもちろんインドにまで達し、地元の集団と混じり合って牧畜に基づく新しい経済圏を打ち立てた。そしてこの農業革命によって農作物の栽培に適さなかった地域にまで農業が広がり、さらに異なる食物生産集団が互いに混じり合うこともあり、5000年前ごろの青銅器時代にさまざまな技術が発展してくると、交雑はさらに盛んになった。西ユーラシアの集団が互いに交雑した結果、青銅器時代には遺伝的な差異が現在見られるような非常に小さいレベルにまで下がった。これは農耕牧畜という技術が単に文化的な均一化だけでなく、遺伝的な均一化にも影響したことを示す驚くべき例と言える。産業革命や情報革命によって我々自身の時代に起こっている変化は、人類の歴史において決して特異な出来事ではないことがわかる。


 こうした非常に異なった集団が融合して今日の西ユーラシア人になったことは、青い目に白い肌、金髪という典型的な北ヨーロッパ人の風貌と見なされるものにはっきり表れている。古代DNAの解析によって、8000年前ごろの西ユーラシアの狩猟採集民は青い目に濃い色の肌、黒っぽい髪という今では珍しい組合せの風貌だったと判明している。ヨーロッパの最初の農耕民のほとんどは肌の色は明るかったが、髪は暗い色で茶色の目をしていた。つまり、ヨーロッパ人の明るい肌色は主に移住してきた農耕民から来ている。典型的なヨーロッパ人の金髪をもたらした変異の最古の例として知られているのは、シベリア東部のバイカル湖地帯で見つかった1万7000年前の「古代北ユーラシア人」だ。今日の中央および西ヨーロッパにはこの変異のコピーが何億も存在するが、その起源は古代北ユーラシア人のDNAを持つ人びとの大規模な移住だった可能性が高い。

 今日我々が目にするさまざまな人種や民族という区分は最近現れた現象で、その起源は繰り返し起こった交雑と移住にある。古代DNA革命で明らかになった事実からすると、交雑はこれからも続くだろう。それは「我々は何者」という問いに答えるために欠かせない要素なのだ。起こったという事実を否定するのではなく、受け入れる必要がある。



(ゲノムから見た西ユーラシア人の起源)


 最初のヨーロッパ人は4万年前にアフリカを出て、ユーラシア中部を経て北上した狩猟採集民(クロマニヨン人)で、土着のネアンデルタール人と重なり合い交配した。9000年前から7000年前の間に、東方の農耕民がこの集団と出会った。この二つの集団が隣り合って生活したわけではないが、同じときにあるものは狩猟民、あるものは農耕民であったことがわかっている。そして狩猟民の遺伝子がゆっくりと農耕民のゲノムに統合されていった。その後、5000年前ごろになると、東方からもう一つの大きな波が到達した。ヒツジを追い、馬車に乗り、青銅器の宝石を作り、埋葬儀礼の一部として死者に顔料を塗ったユーラシア・ステップの「ヤームナヤ(竪穴慕)文化」の遊牧民がロシア南部のステップ地帯からやって来た。彼らは速やかに中部ヨーロッパに拡がり、その文化と遺伝子と色白の肌をもたらした。ヨーロッパでは農耕が支配的となり、最終的には狩猟採集生活に完全に取って代わった。

 少なくとも11の遺伝子が、人の肌色と髪の色を決めるうえで直接的な役割を果たしていると思われ、それは全体としてメラニンの濃度とタイプに帰着する。メラニンには二つのタイプがある。一つはユーメラニンで、これがあると黒色または褐色になる。もう一つのフェオメラニンは赤色になるもので、赤毛のもとになる。今日のスコットランド人のおよそ40%はこの対立遺伝子のコピーを少なくとも一つ持っており、10人に1人は赤毛であるが、世界的に見ればこれは最も珍しい髪色である。皮膚の基部にはメラノサイトと呼ばれる色素細胞があり、太陽からの紫外線露光を受けてメラニンを合成する。5万年前にアフリカから中東と南ヨーロッパに移り住んだ人びとは黒い肌だったことは確かだ。また、8000年前ごろのヨーロッパの狩猟採集民は青い目に濃い色の肌、黒っぽい髪という風貌だったと判明している。この二つの年代の間に遺伝的な白い肌の痕跡はない。一方、7700年前ごろのスウェーデンの洞窟から出土した一族は、白い肌と金髪の遺伝子の変異型と青い目の変異型ももっていた。スウェーデン人はずっと昔からあのような見かけをしていたのだ。

 2015年、ハーヴァート大学の遺伝子研究者たちが、スペインの北海岸から現在のトルコ、さらに北ヨーロッパからロシアを経てアルタイ山脈までの8500年前から2300年前の230名の人骨を調査した。東のユーラシア・ステップから広まってきた白い肌は急速にヨーロッパ中に広まり、時を経るとともに人口構成は、人びとの見かけと農業技術の変化に伴って激変したことがわかった。また、ヨーロッパでは白い肌と青い目の遺伝子が選り好みされる自然淘汰も見つかった。身長の高い遺伝子は、ユーラシア・ステップのヤームナヤ文化の遊牧民たちが4800年前ごろに東方からヨーロッパに持ち込んだこともわかった。但し、これが起こったのは主として中央ヨーロッパとその北方地域だった。イタリアやスペインでは、自然淘汰は背が低くなる方を選り好みした。これらの研究が示しているのは、ここ1万年間に人類のなかで作用していた自然淘汰による進化だということである。こうした古代人遺伝子の解析は、アジアや南北アメリカ、さらに人類が最後に移住した南太平洋やニュージーランドへも適用されるようになるだろう。歴史学、考古学、そしてDNAが混然となって、単に移動だけでなく、我々の進化、つまりいかにして現在のような存在になったかについて新しい図式を築きつつあるのだ。



(ゲノムから見た東アジア人の起源)


<農耕以前(5万年前~1万年前)>

 中国、日本、東南アジアにまたがる広大な東アジアは人類進化の大きな舞台の1つだ。現在、世界人口の3分の1を擁し、言語の多様性においても同じくらいの比率を占める。土器は少なくとも1万9000年前にこの地域で発明された。人類が1万5000年前にアメリカ大陸へ進出した出発地点でもある。9000年前ごろには東アジア独自の農業が始まっている。最古のホモ・エレクトスの骨格が中国で見つかっていることから、東アジアが少なくとも170万年にわたって人類の故郷だったことがわかる。インドネシアでも同じくらい古い人骨が発掘されているが、これらの旧人類は骨格の形が現生人類とは異なっていた。

 西アジアでは5万年前より後のどこかの時点で現生人類(ホモ・サピエンス)が中東で幅の狭い精密な長い刃の石器を作り始め、それが後期旧石器時代の始まりとなった。そこからヨーロッパや北ユーラシアに急速に広まったが、中央アジアや東南アジア、オーストラリアの最初の現生人類は後期旧石器様式の石器を使わなかった。彼らが使ったのは別の様式のもので、その一部は何万年も前にアフリカで使っていたものに類似していた。こうしたことから彼らは5万年よりずっと前にアフリカを出て、インド洋の沿岸を巡り、アンダマン諸島、マレーシア、フィリピン、ニューギニア、オーストラリアの先住民の祖先になったという仮説は、今では広く認められている。

 現生人類が北アフリカから西アジアのレヴァント地方経由でユーラシア全域に拡散したのは5万年前ごろで、そのころに非アフリカ人の主要な分岐が極めて短い間に起こった。ネアンデルタール人と非アフリカ人の祖先との交配は5万4000年前~4万9000年前、その後、東アジア人(モンゴロイド)と西アジア人(コーカソイド)が分岐、その後さらに、デニソワ人と東アジア人(モンゴロイド)の交配は4万9000年前~4万4000年前で、デニソワ人のDNAの3%~6%が現代のニューギニア人に受け継がれているが、他の東アジア人にはごくわずかしか含まれていない。これらすべての分岐と交配が5万年前後の数千年の間に起こったという。このように比較的短い期間に立て続けに系統分離が起こったことから、現生人類がユーラシア全土で自らの生活様式で拡散可能な環境に次々に移動し、すでに住んでいた旧人類に取って代わったと考えられる。このときの東アジア人は農耕以前の狩猟採集民で、5万年前~1万年前にかけてインドを経て中国平野や雲南・ベトナム、さらに北東アジアを経てアメリカ大陸へと拡散していったと考えられている。日本の縄文人もこの時代の東アジア人の一部と考えられる。もう一つの集団はインドネシアを経てニューギニア(パプア人)とオーストラリア(アボリジニ)へと拡散していった。

 現生人類はアフリカから拡がった時点では、熱帯の環境条件や食糧や病原体に適応していた。ユーラシアへの拡散は、進化的時間で見れば比較的速い数千年で起こったと思われるため、アフリカ以外の新たな条件に適応する時間は限られていた。入植する現生人類にとって、ヨーロッパやアジアの新たな病原体や食糧や環境条件と対峙するのは困難だったに違いない。しかし、交雑した地域では、何十万年も前からすでにアフリカ以外での生活に適応していたネアンデルタール人やデニソワ人から遺伝子を獲得することができたため、現生人類にとって交雑したことは、実はとても重要だったはずだ。旧人類の遺伝子がシャッフルされて現生人類のゲノムの中に入り、そのうち有益なものが自然選択によってより多くの現生人類へ広まったのだろう。一部の研究者はヒトゲノムの中にある旧人類由来のDNA断片は重要な機能を持っていると推測しており、そのリストの最上位に来るのがいくつかの免疫遺伝子である。


<農耕後(1万年前~5000年前)>

 現代と古代の東アジア人のDNA解析を行った結果、現代の東アジアの大多数が3つのグループで説明できることがわかった。

① 中国東北部とロシアとの国境にあるアムール川盆地に住んでいる人びとで、この地域には8000年以上にわたって遺伝学的に近い人びとが住んでいる。

② ヒマラヤ山脈の北の広大なチベット高原に見られる人びとである。

③ 東南アジアを中心とした人びとで、中国の南の沖に浮かぶ海南島や台湾に住む先住民族に最も強く特徴が現れている。


 さらに解析を進め、現代の東アジアのこの3つのグループとアメリカ先住民、アンダマン諸島人、ニューギニア人との関係について可能性のあるモデルを検証した。

 アメリカ先住民、アンダマン諸島人、ニューギニア人の集団は東アジア本土人の祖先とは最後の氷河期以降接触がなく、彼らの東アジア関連DNAはその時代の古代DNAの代わりとして十分に使える。その解析結果は、現代の東アジア人の大多数のDNAが、非常に古い時代に分離した2つの系統のさまざまな比率の混じり合いに由来するというものだった。この2つの系統の人びとがあらゆる方向に拡散し、お互い同士や遭遇した集団と混じり合って、東アジアの人類の様相を変えたのだ。その2つの系統とは、南の「揚子江集団」と北の「黄河集団」である。


 農耕は世界の一握りの地域で独自に始まったが、中国はその1つだ。考古学的証拠によると、9000年前ごろから中国北部の黄河の近くで嵐に吹き寄せられた堆積土を農耕民が耕し、雑穀などの穀物を育て始めた。同じころ、南の揚子江付近でも別の農民グループがコメなど別の穀物を栽培し始めた。揚子江の農業は2つのルートで拡散し、一方は5000年前ごろから陸路でベトナムとタイに達し、他方は同じころに海路で台湾に達した。中国のこの2つの農業は、北は中央アジアで、南はインドで、西アジアから拡がった農業と初めてぶつかった。

 言語のパターンからも人びとの移動があった可能性がうかがえる。今日、東アジアの言語は少なくとも11の大きな語族から成る。シナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロネシア語族(台湾から太平洋の島々)、オーストロアジア語族(東南アジア)、モン・ミエン語族(中国南部から東南アジア北部の山岳地帯)、日本語族、以上の6つの分布は東アジアの農耕民の拡散に一致する。農耕民が移動しながら言語も広めていったようだ。インド・ヨーロッパ語族、モンゴル語族、テュルク語族、ツングース語族、朝鮮語族の5つは大きな移動を伴っていない。

 遺伝子学から言えることは、東南アジアと台湾ではDNAの大半またはすべてを同じ祖先集団から受け継いでいる集団が多い。それらの集団は揚子江流域からの稲作の拡散地域と一致するため、「揚子江集団」に適合する。一方、人口12億以上という世界最大のグループである漢族は「揚子江集団」とは異なる別の東アジア人系統からもDNAを大きな比率で受け継いでいる。そのDNAを最大の比率で持つのは北部の漢族で、漢族の祖先が北から拡散し、南へ拡がるにつれてその比率が下がるため、それは先住民との交配度合いを現わしているといえる。BC221年に中国を統一した秦を広義の漢族とすれば、彼らはそれ以前の華夏族に起源を持つと信じられているが、華夏族もまた中国北部の黄河流域にいたそれ以前のグループから生まれた。黄河流域は中国で農耕が始まった地域の一つで、ここから西のチベット高原に3600年前ごろから農耕が広がった。漢族とチベット族はシナ・チベット語族によっても結びついている。彼らは「黄河集団」といえる。


<東アジア周縁地域での大規模な交雑>

 中国平野の中核的な農業集団である「揚子江集団」および「黄河集団」が形成されると、両者はあらゆる方向に拡散し、その何千年か前に到達していたグループと交配した。チベット高原に住む人びとはこの拡散の1つの例で、そのDNAの約3分の2は漢族に寄与したのと同じ「黄河集団」に由来し、この地域に農耕を始めて持ち込んだ人びとである。DNAの3分の1は東アジア人の初期の分岐に由来し、それはチベット土着の狩猟採集民に相当すると考えられる。

 拡散のもう1つの例が日本人で、日本列島では何万年にもわたって狩猟採集民が優勢だったが、2600年前ごろにアジア本土起源の農業が行われるようになり、同時代の朝鮮半島の文化と明確な類似性のある文化が栄えた。遺伝学的データによって日本列島への農耕の拡散が移住を仲立ちとして起こったことが裏付けられた。現代日本人は古代に分岐した東アジア人起源の2つの集団の混じり合いで、1つは現代朝鮮人と関連のある集団で、もう1つはアイヌと関連のある集団だ。アイヌは今では日本の最北端にしかおらず、そのDNAは農耕以前の狩猟採集民のDNAに類似している。現代日本人のDNAの約80%は農耕民由来で、20%が狩猟採集民由来であると推定される。この2つの混じり合いの平均時期はおよそ1600年前で、この年代は農耕民が最初に到来したころよりかなり後で、狩猟採集民と農耕民との間の社会的な障壁の打破に1000年もかかったことがうかがえる。この時期は日本列島の大部分が単一の規範(大和朝廷)の下に初めて統一された古墳時代に相当する。おそらくこれが今日の日本の大きな特徴である同質性の始まりを画する出来事だったのだろう。


<オーストロアジア語族とオーストロネシア語族>

 古代DNAによって東南アジア本土の古代人の歴史も明らかになっている。ベトナムの4000年前の遺跡で見つかった古代人のDNAのすべてが、早期に分離した東ユーラシア人系統と「揚子江集団」系統の混じり合ったもので、この2つの系統由来のDNAを、現在オーストロアジア語族の言語を話している人びとと同じような比率で持っていた。オーストロアジア語族は東南アジア各地に散在する。これらの結果は、オーストロアジア語族の言語が中国南部から稲作農耕民の移動によって拡がり、農耕民が先住の狩猟採集民と交配したという説と一致する。今日でもなお、オーストロアジア語族を話すカンボジアやベトナムの大きな集団は、この狩猟採集民のDNAを比率は小さいながらもかなり持っている。

 拡散しながらオーストロアジア語族も広めた集団は、現在これらの言語が話されている地域の外にまで遺伝学的な影響を与えた。現在オーストロネシア語族が優勢なインドネシア西部では、DNAのかなりの部分が東南アジア本土のオーストロアジア語を話す人びとの一部と同じ系統に属している。このことから、オーストロアジア語を話す人びとが最初にインドネシア西部に入り、続いてオーストロネシア語を話す全く異なる系統の人びとが来たと考えられる。 

 オーストロネシア語の拡散は東アジアの中核地域から周辺地域への農耕民の移動を示す最も印象的な例だ。現在オーストロネシア語は遠く太平洋の何百という島々を含め広大な地域に拡がっている。考古学、言語学、遺伝学のデータを総合すると、5000年前ごろに東アジア本土の「揚子江集団」の農耕が台湾に伝わった。台湾ではオーストロネシア語族の最古の分岐が見られる。この農耕民が南に拡散して、およそ4000年前にフィリピンに達し、さらに南のニューギニアやその東の小さな島々に達した。おそらくアウトリガーの付いたカヌー、つまり横に突き出した丸太によって荒海での安定性を増した舟(ボート)を発明して、外海を航海できるようになったと思われる。3300年前以降、ラピタと呼ばれる様式の土器を作る人びとがニューギニアの東に現れ、すぐに太平洋に拡がり始めて瞬く間にニューギニアから3000キロ彼方のバヌアツに到達した。そこから200年~300年のうちにトンガやサモアなどの西ポリネシアの島々に広がり、その後1200年前までの長い休止期間を経て、太平洋の最後の移住可能な島であるニュージーランドやハワイに向かい、800年前にはイースター島にまで達した。オーストロネシア語の西方への拡散もこれに劣らず目覚ましく、少なくとも1300年前にはフィリピンから9000キロ西にあるアフリカ沖のマダガスカルに達していた。現代のほぼすべてのインドネシア人はもちろん、マダガスカルの人びともオーストロネシア語族の言葉を話す理由はこれで説明がつく。オーストロネシア語族を話す現代人のほとんどに見られるあるタイプのDNAを追跡マーカーにすれば、この語族の拡散を辿れる。彼らは東アジア本土のどの集団よりも台湾の先住民と密接な関係にあることがわかったのだ。これはオーストロネシア語が台湾地域から拡散したという説を裏付ける。


 このように古代DNAを解析できるようになったおかげで、東アジア地域の集団が現在の姿になった経緯が次第に明らかになってきている。しかし、今のところ東アジア本土で何が起こったかについては、限定的な知識しか得られていない。東アジアから得られている古代DNAデータが、発表された全データの5%にも満たないためである。この差の原因は古代DNA解析テクノロジーがヨーロッパで開発されたこと、そして中国や日本では政府の規制や国内研究者主導の研究を好む傾向などのため、サンプルを持ち出すことが事実上不可能なことにある。これらの地域は古代DNA革命の恩恵を浴する機会を失っている。イデオロギーよりも科学が優先される日を待ち望みたい。



(ゲノムから見たインド人の起源)


 インド亜大陸は世界有数の穀倉地帯の一つで、現在世界人口の4分の1を養っている。しかし農耕はインドで生まれたわけではない。今のインド農業はユーラシアの2大農業システムがぶつかり合って生まれたものだ。中東の冬期降雨に適した穀物であるコムギやオオムギの栽培がインダス渓谷に普及したのは9000年前ごろ以降である。その後、5000年前ごろに地元の農耕民がモンスーン地帯の夏期降雨パターンに合うように改良した結果、インドの半島部に広まった。中国のモンスーン型夏期降雨に適した穀物であるコメと雑穀も5000年前ごろにはインドの半島部に到達した。インドは西アジアと中国の穀物栽培システムが出合った初めて場所かもしれない。

 言語も混じり合った。インド北部のインド・ヨーロッパ語はイランおよびヨーロッパの言語と関連がある。南インドで主に話されるドラヴィダ語は南アジアの外の言語とは密接な関連がない。インド北部の山岳地帯にはシナ・チベット語を話す人びともいるし、東部や中央部にはカンボジア語やベトナム語に関連のあるオーストロアジア語を話す部族の住む小さな孤立地帯もある。これは南アジアと東南アジアの一部に初めて稲作をもたらした人びとの言葉に由来すると考えられる。インドではこうしたいくつもの言語が少なくとも3000年~4000年にわたって接触を持っていたようだ。本土から数百キロのベンガル湾に浮かぶアンダマン諸島に住むネグリトの人びとの話す言葉はユーラシアのどの言語とも非常に異なっており、互いのつながりをたどれるような類似は一切ない。また外見も近くに住む人びととは全く違っていて、体つきが小柄で、華奢で、髪がきつく縮れている。アンダマン人は今日の非アフリカ人のほとんどの祖先のもととなった5万年前ごろの移住のその前にアフリカを出たのかもしれない。

 インドでの最初の遺伝学的調査では一見矛盾する結果が出ている。母親から伝えられるミトコンドリアDNAの大多数はこのインド亜大陸独特のもので、それは何万年も前に南アジアの外部で優勢だったタイプだった。これは母系についてはインド亜大陸の内部に長い間隔離されていて、西や東、北の隣接する集団と混じり合わなかったことを示唆している。ところが、それとは対照的に父から息子に受け継がれるY染色体のかなりの部分は西ユーラシア人との密接な関係を示し、ヨーロッパ人や中央アジア人、中東人との交雑をうかがわせる。


 次に、混血の割合や集団の成立時期などミトコンドリアDNAやY染色体より多くの情報を提供する細胞内の核DNAから単一塩基多型(SNP)を調査した。その結果、今日のインド人は2つの非常に異なった集団である「祖型北インド人(ANI)」と「祖型南インド人(ASI)」の混じり合いの結果生まれたことがわかった。混じり合う前の2つの集団は互いに非常に異なっていた。ANIはヨーロッパ人、中央アジア人、中東人、カフカス(コーカサス)の人びとと関連があるが、ASIはインド外の現代のいかなる集団とも関連のない集団の子孫であり、ANIとASIがインドで劇的な混じり合いをしたことが立証された。アンダマン人は遠い関係ではあるが、ASIとはつながりがある。DNAの混合比率は過去の出来事を知る手掛かりとなる。インド・ヨーロッパ語を話すグループはANI由来DNAを多く持ち、ドラヴィダ語を話すグループはASI由来DNAを多く持っている。これはANIがインド・ヨーロッパ語を広め、ASIがドラヴィダ語を広めたことを示唆している。さらに社会的権力をめぐる性差の歴史につても明らかになった。インド人男性の約20%~40%と、東ヨーロッパ人男性の約30%~50%が同じY染色体を持っている。変異の密度を解析すると、そのタイプは6800年前~4800年前の間に同じ男性祖先から受けついだものと推定される。対照的に、女系に受け継がれるミトコンドリアDNAはほぼすべてインド国内に限定されていて、たとえ北部であってもほぼすべてがASIから来ている。こうした結果に対する唯一可能な説明は、青銅器時代あるいはその後の西ユーラシアからの大規模な移住である。このY染色体タイプを持つ男性移住者が極めて多くの子孫を残したのに対して、女性の移住者のほうはごくわずかしか遺伝子に寄与しなかったということだ。

 集団の混じり合いにこうした性的な非対称性が見られるのはよくあるパターンである。アフリカ系アメリカ人のゲノムにはヨーロッパ人由来のDNAが約20%含まれているが、それは約4対1の比率で男性側から来ている。コロンビアのラテンアメリカ人の場合、ヨーロッパ人由来のDNAは約80%で、50対1の比率で男性から来ている。力のある集団の男性が力の弱い集団の女性と交配する傾向があるという事実は、遺伝的データが過去の出来事の社会的側面をあぶり出すからわかることの一例といえる。

 この遺伝子の分析結果は次のようなものになる。インドでの最初の交雑が4000年前ごろに北で起こり、続いて以前から定住していた集団と、西ユーラシア人DNAを多く持つ集団とが、境界地帯で繰り返し接触して、インド北部で何度も交雑が起こった。インド北部での最初の交雑で生まれた人びとが何千年にもわたって南インドの人びとと交雑したり移住したりした。その後も西ユーラシア人DNAを持つ人びとと北インド人グループとの交雑が続いた。つまり、4000年前と、インダス文明が滅び、「リグ・ヴェーダ」が編纂された3000年前ごろとの間に、それまでは離れていた集団の間で大規模な交雑があったと考えられる。現在のインドでは、話す言葉や出身階級が異なる人は、異なる比率のANI由来のDNAを持つ。そして現在のインド人のANI由来DNAは女性より男性に由来している。このパターンはまさにインド・ヨーロッパ語を話す人びとが4000年前以降に政治的・社会的権力を掌握し、階層化された社会において先住の人びとと混じり合った場合に予想されるパターンだ。権力を持つグループの男性が権力を剥奪されたグループの男性よりも配偶者をうまく確保できたのだ。こうした古代の出来事が何千年もの歴史を経てもなおゲノムにはっきりとした印を残しているのは、伝統的なインド社会の最も際立った特徴であるカースト制度によるものと思われる。カースト制度は伝統的なヒンドゥー教社会を根底から支えるもので、「リグ・ヴェーダ」に続いて編纂された聖典「ヴェーダ」に詳細に記されている。



(ヨーロッパとインド、2つの亜大陸の物語)


 遺伝学の研究結果から、ユーラシアの同じような大きさの2つの亜大陸であるヨーロッパとインドが先史時代に驚くほど似た経緯をたどったことがわかった。どちらの地域でも農耕民が西アジアの中核地域から、ヨーロッパではアナトリアから、インドではイランから、9000年前以降に移住して生活を一変させるような新しい技術をもたらし、すでに定着していた狩猟採集民集団と交配して、9000年~4000年前にかけて新たな交雑グループを形成した。

 その後、5000年前以降に、ヨーロッパとインドの両亜大陸ともステップに起源を持つ人びとによる2度目の大規模な移住の影響を受けた。このときインド・ヨーロッパ語を話すヤームナヤ文化の牧畜民がすでに定住していた農耕集団と途中で出会って交雑し、ヨーロッパでは縄目文土器文化と結びつけられる集団を形成し、インドではやがてANI(祖型北インド人)を形成した。ステップ集団と農耕民のDNAを持つこれらの交雑集団が、その後それぞれの地域ですでに定住していた農耕民と交雑して、今日両亜大陸に見られる交雑の勾配を作りだした。すなわち北はヤームナヤ文化の牧畜民の遺伝子の比率が高く、南に行くほどその比率が低くなるという勾配である。ヤームナヤ文化人は遺伝的データによれば、ヨーロッパとインド双方におけるステップ系統の源と密接な関係があるが、ユーラシアのこの両亜大陸にインド・ヨーロッパ語を広めた候補と考えられる。しかし、インドでは、カーストの一番上の階級で、ANIの10%程度を占めているバラモンの人びと、すなわちインド・ヨーロッパ語で書かれた古代の聖典の管理者としての役目を担う人びとはASI(祖型南インド人)との交雑が認められなかった。それは強固なカースト制度によって何千年もその系統が保存されたためであろう。この結果は、ステップ起源の祖先を持つ人びとによってインド・ヨーロッパ文化がインドに広められた可能性が高いことを示している。

 インドにおける人口移動の絵図は南アジアの古代DNAが欠けているため、ヨーロッパに比べればまだまだ不鮮明である。特にわからないのはインダス文明の担い手の素性だ。4500年前~3800年前にかけてインダス渓谷と北インドのあちこちに拡がり、古代人の大きな流れの交差点にいたのどんな系統の人びとだったのだろうか? インダス文明の人の古代DNAが手に入ればすぐにわかることだろう。



(ゲノムが語る人類史)


 最新の人類の移動パターンは、きれいな放射状にではなく、どんな時にもあらゆる方向に移動し、複雑に絡み合った形で、勝手気ままに遺伝子を流出させたというものである。海洋と山岳は遺伝子の流動にとって障壁であるが、開けた大きな大陸では地平線だけが境界である。

 かつて遺伝学は人種差別や優生学と繋がったこともある。しかし、現在では最大の遺伝的差異は人種間にではなく、いわゆる同じ人種に属する人間の間に見られる。突然変異によって白い肌が現れたのも、歴史的に見ればここ2000年から3000年のうちのことであり、ミルクを処理する遺伝子の出現と同じ頃でしかないことがわかっている。人種という概念を実証するような単一の遺伝子は存在しない。同じように、人の複雑な形質のどれか一つのための遺伝子というのは極めて少なく、19世紀末に人種をカテゴリー化したコーカソイド・モンゴロイド・ネグロイドと呼ばれるような集団が互いに目に見えて異なるようにする大まかな身体的差異をもたらすような遺伝子もほんのわずかしかない。つまり、いかなる特定の人間のグループについても人種と特定できるような本質的な遺伝的要素は存在しないし、遺伝学に関する限り人種は存在しないのだ。個人の家系はあまりにも拡散しており、人類の歴史はあまりにも絡まり合っており、人びとはあまりにも動き過ぎる。遺伝子のカードは何度も何度もシャッフルされてきた。人びとの肌の色や身体的特徴のような見た目の違いは地理的条件と文化に応じてクラスター(塊)を成しているが、遺伝学はそうしたクラスターが人種という概念と合致しないことを示している。


つまり、次のようなことがいえる。

・現代人が持つ変異遺伝子の4分の3はここ5000年以内に生じている。

・人類は常に移動する種である。

・生物の進化のすべてはDNAに刻まれている。

・人類は今でも淘汰の力による進化の対象である。変わることのない種はすでに絶滅している。


[スタークラスター]

 1人の祖先が多数の子孫を残すY染色体によるスタークラスターの例として、チンギスハンと中世アイルランドの将軍ニールがいて、それぞれ千数百万人と数百万人の子孫を残している。また、5000年前ごろ、つまり青銅器時代が始まり、古代文明が起こった時期にも、東アジア人、ヨーロッパ人、中東人、北アフリカ人に多くのスタークラスターが見つかっている。

 中央アジアステップ地帯の人びとの中で、西の黒海北岸の人びとは、5300年前以降、考古学的にヤームナヤ文化人と呼ばれ、東のアルタイ地域の人びとはアファナシェヴォ文化と呼ばれる。4500年前ごろ、カスピ海と黒海北岸に土塁や周溝の防御施設を持つヤームナヤ文化が広まった。この時代には西アジアから車輪が伝わり、移動性の高い効率的な牧畜を行う条件が整えられていった。墓からは、丸太を輪切りにした車輪や、ウマの口にくわえさせるはみ留め具が発見されている。ヤームナヤの社会はそれまでにないほど社会的な権力における性的バイアスのある階層社会だった。ヤームナヤは巨大な塚を残しているが、その約80%には暴力的な傷痕がある男性の遺体が短剣や斧とともに埋葬されている。ヤームナヤ文化のヨーロッパへの到達は両性間の権力関係に転換をもたらすきっかけとなった。これは古いヨーロッパ、つまり暴力の痕跡がほとんどなく、至る所で出土するヴィーナス像で明らかなように女性が中心的な役割を果たしていた社会の凋落を意味していた。古いヨーロッパは男性中心の社会に取って代わられたが、それは考古学的な証拠に表れているだけでなく、ギリシャや古代スカンジナビア、ヒンドゥーの神話にもはっきり表れている。ヤームナヤのY染色体には少数のタイプしかなく、限られた人数の男性が遺伝子を異常に多く拡散させていたことがわかる。対照的にミトコンドリアDNAには多様な配列が見られる。ヤームナヤやその近縁者の子孫は自分たちのY染色体をヨーロッパとインドに広げたが、その影響は非常に大きく、青銅器時代以前にはなかった彼らのY染色体タイプが今ではヨーロッパでもインドでも優勢となっている。その最も驚くべき例が南西ヨーロッパのイベリア半島に見られる。ここには4500年前~4000年前の青銅器時代の初めにヤームナヤ由来のDNAが到達した。この時代の古代DNAを解析した結果、イベリア人集団の30%近くがステップDNAを持つ個体に置き換わっていたが、Y染色体ではそれがはるかに劇的に起こっていた。男性の約90%がこの時代以前にはイベリア半島になかったステップ起源のY染色体タイプを持っていた。明らかにステップからヤームナヤ文化が拡大した際に高度な階層性と権力の不均衡を伴っていたのだ。

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