第9話 食物の栽培化と動物の家畜化

(食物の栽培化)


 自由に生息する資源、管理された資源、そして完全に飼い馴らされた資源の組合せを基礎とする安定的で高度に持続可能な生業経済は、西アジアでの作物化・家畜化された動植物を基礎とする農業経済に結晶するまで、4000年以上にわたって根強く続いたように思われる。そこでは栽培作物や家畜動物は追加的な食料として利用された。野生の資源との違いは、確保する必要となるものが、狩りや採集ではなく繁殖だということだけだった。メソポタミアの沖積層にはレヴァント地方と同様にわずかな距離の違いで降雨と植生が大きく変化するという特徴がある。こんなところは世界でもほとんど見当たらない。季節による降雨の変化も並外れて大きい。こうした多様性はさまざまな資源をすぐ手に届く範囲にもたらしてくれるが、そうした多様性に対応するためには展開できる生業戦略のレパートリーが広くないといけない。

 また、それよりずっと大きなサイクルの気候事象もある。1万4000年前~1万2800年前ごろは温暖湿潤期だったが、それに続く1万2800年前~1万1500年前ごろは極端な寒冷期(ヤンガードリアス期)となった。定住地は放棄され、残った人びとは少しでも暖かい低地や海岸沿いの避難地へと後退した。ヤンガードリアス期の後の環境は全体としては狩猟採集民の拡大に適していたが、気候の揺り戻しもあって、8200年前ごろからは寒冷・乾燥気候が1世紀ほど続いた。寒冷・乾燥期の定住は利用できる避難地に人が集まり、温暖・湿潤期には人口が増えて拡散していった。多様性とリスクを考えれば、当時の人びとにとって、狭い範囲の生業資源に依存するのは理に合わないことだったはずだ。定住への社会的意志を当然視するべきではない。すでにいくつかの穀草やマメ類を作物化し、ヤギやヒツジも家畜化していたメソポタミア沖積層の人びとは、その時点ですでに農耕民であり、かつ遊牧民であって、狩猟採集民でもあった。

 種としての夜明け以来、現生人類は動植物種だけでなく環境全体を飼い馴らしてきた。その道具として突出していたのは、産業革命までは鍬ではなく火だった。長い目で見れば、作物化されたコムギやオオムギ、家畜化されたヤギやヒツジに基づく最初の社会がメソポタミアに登場するはるか前に、世界の大半が人類の活動によって形作られていたことは明らかだ。

 穀物が最初に作物化された決定的な瞬間を探すのが的外れな努力だとしても、7000年前までに肥沃な三日月地帯に数百の村があって、完全に作物化した穀物が主食として栽培されていたことは間違いない。なぜそうなったのかについては現在も激しい議論が続いている。とはいえ、なぜという疑問そのものは思ったほど重要ではないかもしれない。恐ろしいほど労働集約的でない限り、耕作も初期の定住集落では数あるテクニックの一つにすぎなかったのだろう。

 理由は何であれ、作物化された穀物と家畜化された動物への依存度が高くなったことは、人間社会が形質転換されることになった。耕地、種子や穀物の蓄え、人と家畜動物が前例のないほど密集し、すべてが共進化しながら誰にも予想しなかったような影響を生み出した。この後期新石器時代の集落に身を置いて姿を変えていない生物は一つとしてない。植物考古学者が注意を向けてきたのはコムギやオオムギといった主要穀物の形態的、遺伝的な変化だった。初期のコムギ、つまりヒトツブコムギとエンマーコムギをはじめ、オオムギや大半のマメ類、レンズマメ、エンドウマメ、ヒヨコマメ、ソラマメ、さらに亜麻は、どれも自家受粉する一年草で、野生原種とは容易に交配しない。耕し、種をまき、除草することで農地は全く異なる選択領域になる。農民は穂がはじけないでそのまま収穫できる穀物を求める。毎年連続的に選択され、植えつけられた栽培品種とその野生原種との形態学上の違いは時と共に大きくなっていく。農地や農園を耕す目的は、培養変種と競合する大半の変種を除去することにほかならない。鳥や草食動物は、追い払われるか、囲いをつくって締め出すかされる。そうして作りだされた特殊化された植物は人が世話しなければもう繁殖できなくなってしまった。

 現生人類が一つの亜種として登場したのは約30万年前で、アフリカを出てレヴァント地方に姿を見せたのは、どんなに早くても6万年前だ。植物栽培と定住コミュニティの最初の証拠が現れたのは1万1500年前ごろだった。それまでは採集民の小集団で暮らしていた。そして主要な基礎作物の栽培と定住が始まるのが9000年前ごろである。国家という形態に関心のある者にとってさらに驚きなのは、ティグリス・ユーフラテス川の流域に、小規模で、階層化した、税を集める、壁をめぐらせた国家が初めて生まれたのが、やっと5200年前(BC3200年)ごろだったこと、つまり、作物栽培と定住が始まってから4000年ほども後だったことだ。この大きなタイムラグは国家という形態を自然発生的なものと考える理論家を悩ませている。移動民がいたるところで永続的な定住に頑強に抵抗したことを示す膨大な証拠がある。遊牧民や狩猟採集民が永続的な定住と戦ってきたのは、これを病気や国家支配と結びつけて捉えたからで、その考えは往々にして正しかった。


 西南アジアのレヴァントのガリラヤ湖における考古学的記録では、農業は集落が栽培穀物の見つかる集落に入れ替わるとき、突然ではなく、もっとはるかに段階的な様相を呈していた。そこでは、狩猟採集民は何千年も魚とガゼルを食べて生きていたが、少しずつ段階的に秋に周囲の土地で刈り取った草の実に依存するようになっていった。当初、かける手間は庭仕事のようなものだったと思われる。コムギの祖先であるヒトツブコムギとフタツブコムギがたまたま交配し、その穂からとりわけ重い実を採った人もそれを意図していなかったのだろう。結果として生まれた交配種のコムギの実は、人間が手を掛けなければ散らばって生き残ることが出来ないほど重い、6倍体の遺伝学的奇形である。そしてその実が、人の手を借りた自然淘汰によって少しずつ数を増やした。つまり、より重くて脱穀は楽で、実は収穫しやすく、蒔くために保管される実は次の年に発芽する頻度が高くなる。こうして好循環が生まれた。ある意味で、植物が主導権を握ったのだ。農業は温暖で水の豊富なユーフラテス川や長江、ミシシッピ川の流域、あるいはニューギニアやアンデスの陽光降り注ぐ豊かな土壌で始まった。つまり農業は平和で豊かな場所で始まったのである。


 栽培作物の多くは、自然のままの状態ではそれらは全く食べられないか、たとえ食べたにしても不快な味がする。なぜ人びとは水に浸したり、ゆでたり、粉にいたりしなければ食べられない食糧を栽培しようと考えたのだろうか? これは基本的に生き残り戦略だったと考えられる。容易に手に入る食糧が不足した場合、手間のかかる食糧でも利用するしかなかった。人は穀類と呼ばれる小さくて堅い草の種などを選んだ。それらは生で食べれば消化できないし、毒性すらあるものもあったため、水に浸して毒性を弱めたり、粉にして水を加えて練り粉状態にしてから焼いてパンにしなければならなかった。新たな食糧源を利用し料理するには、頭脳が必要になる。そこが他の動物と人間との大きな違いだ。こうして栄養価のあるいくつかの基本食糧を栽培するようになり、かつてなかったほど大きな集団を維持できるようになった。

 一方、栽培農耕は定住が前提となる。1ヶ所に留まって農業を営む人は世界のどこであっても気候変動の影響を受けやすい。したがって、1万年前、どこの地に暮らす農耕民であっても、食糧や気候を司る神々を中心とする世界観を築いていたのは当然である。季節が例年通り巡り、豊かな収穫が安定してもたらされるようにするには、神々に常に慰めと祈りをを捧げる必要があった。1万年前ごろ、そもそも人間が農耕を始めるきっかけをつくった気候変動は、文明がメソポタミアのシュメールで誕生した5500年前(BC3500年)ごろから現在にいたるまで、種としての我々の生存を脅かしている。


[ユーラシアの利点]

 自然界にあるおよそ20万種の植物のうち人類の食用に向いている種はわずか数千種しかなく、しかもそのうち数百種のみが栽培化できる可能性がある。人類の歴史を通じて主食として世界各地で文明を支えてきた食糧は穀類だが、栽培化された穀類の基になった野生の草本植物は世界各地に万遍なく自生していたわけではない。最も栄養価に富む大粒の種を実らせる56種の草のうち、33種は地中海一帯とイングランドに自生し、6種は東アジアに、4種はサハラ以南のアフリカに、5種は中央アメリカに、4種は北アメリカに、そして南アメリカとオーストラリアにはそれぞれ2種ずつしか自生しない。このように農業と文明の黎明期からユーラシアは、人類が栽培化しやすく、増え続ける人口を支えるのに適した野生の草本植物に恵まれていたのだ。また、ユーラシアは東西方向に長く広がる大陸で、地球の円周の3分の1以上にまたがっている。気候帯と生育期間の長さを主に決めるのは地球の緯度であるため、ユーラシアの一部で栽培化された作物は、ユーラシア一帯に移植することが可能だった。例えばコムギの栽培はアナトリア(現在のトルコ)の高地からメソポタミア、ヨーロッパ、そしてインドにまですぐに広がった。一方、アメリカの南北両大陸は南北方向に位置しているため、別の地域への移植が困難だった。

 世界各地の文化に違いがあるのは、その地域の環境にそれぞれが適応した結果であり、優劣ではない。ジャレド・ダイヤモンドはその著書「銃・病原体・鉄」で、“西南アジアで人類最初の食物の栽培化と動物の家畜化が行われ、メソポタミア文明が出現したのは、その地に栽培化し易かった食物が自生しており、家畜化し易かった動物も存在していたという幸運があったからであり、その後、その栽培化と家畜化の技術と知識がユーラシア大陸の東西に伝播したのは、同じような気候帯がユーラシア大陸の東西に存在していたことが最大の理由である。一方、南北に長いアフリカ大陸やアメリカ大陸では違う気候帯を通過しなければならないため、伝播するのが難しかった。ヨーロッパ文明が世界を席巻した紀元後19世紀、20世紀において、アフリカ、アメリカそしてオーストラリア・ニューギニアの先住民との間に大きな文明ギャップが生じたのは、この地政学的な違いからであり、民族の違いではない”と述べている。



(動物の家畜化)


 1万1000年前のコムギの栽培化と同じころ、動物の家畜化も始まった。8000年前ごろまでには、ウシを家畜化して乳(ミルク)を搾るようになっていた。そこで問題が起こる。牛乳は赤ん坊には優れた食べ物でも、成人は牛乳の主要な糖である乳糖を消化することができなかったのだ。乳糖分解酵素の遺伝子は、離乳して必要がなくなったら、スイッチがオフになるようプログラムされている。牛乳は脂肪とタンパク質が豊富で、成人にとっても栄養価の高い飲み物だ。しかしある時、乳糖分解酵素の遺伝子が離乳してもスイッチオフにならない突然変異を起こした人が現れた。その人は他の人より牛乳を飲むことの恩恵をはるかにたくさん受け、強く健康に成長し、多くの子供を作った。その遺伝子は集団の中で優位に立つようになった。この乳糖耐性突然変異は、ユーラシア大陸とアフリカ大陸のいくつかの地域で目立つようになったが、常に酪農が発明された場所に近かった。酪農が遺伝子変化の淘汰につながったのであり、その逆ではないことは明らかだ。現在、乳糖耐性を持つ人びとが多数を占める地域は、西ヨーロッパと北ヨーロッパ、それにそれらの地域から移住した北アメリカである。次に多いのは、東ヨーロッパとヨーロッパ・ロシア、北アフリカを含む地中海沿岸地域、中近東、インド、そしてアフリカ中部地域である。


[乳糖分解酵素の遺伝子]

 なぜ人間だけが大人になってもミルクを飲むのか? 今日の大人の大部分、そして歴史上のほとんどすべての人類がミルクを消化する能力さえ持っていない。我々は皆LCTと呼ばれる遺伝子によって規定されるラクターゼという分解酵素を持っている。しかし、人類の歴史の大半において、このラクターゼは赤ん坊においてのみ活性を持っていた。離乳後、遺伝子の活性は急激に低下する。しかし、今のヨーロッパ人は例外で、一生を通じて働き続ける。この現象はラクターゼ活性持続症と呼ばれ、一握りのアフリカ人集団、東南アジアの一部や少数の中東の人びとの間にも存在する。それは1万2000年前~7000年前の間に起きた突然変異によるものである。その進化的な利点は、北方に住む人びとにとって、ミルクを飲むことでビタミンDを摂取し、日射量の不足を補うことである。遺伝子解析の結果、ラクターゼ活性持続が進化した最も確立の高い地域は、東ヨーロッパと特定された。これはポーランドとハンガリーの考古学遺跡からのチーズの痕跡とも合致する。7500年前ごろ、これらの人びとは農耕民でコムギ・エンドウ・レンズマメ・キビなどを育てていた。彼らはウシ・ブタ・ヤギを飼い、イノシシやシカ狩りをしていた。


 過去1万年間に人類が家畜化してきた大型動物の大多数がいずれも哺乳類のうち有蹄類という一つのグループに属する種である。驚くべき事実は、有蹄類を構成する偶蹄目と奇蹄目は、我々霊長目と同様にいずれも5550万年前のわずか1万年の間、つまり地質時代古第三紀(6600万年前~2303万年前)の暁新世(6600万年前~5600万年前)と始新世(5600万年前~3390万年前)の境界温暖化極大期、略してPETM(Palaeocene-Eocene Thermal Maximum)に、一斉に多様化が進んだときに出現したことである。この5550万年前のわずか1万年の間に途方もない量の二酸化炭素とメタンが大気中に投入され、強力な温室効果が生み出され、世界の気温は5℃~8℃一気に上昇した。この急上昇は深海の火山の噴火がきっかけとなり、深海のメタンハイドレートが融けだして大量のメタンガスが放出されて温暖化を引き起こし、さらに地上で野火が頻繁になるという相乗効果によるものと考えられている。この気温の急上昇によって世界は過去数億年間で最も暑い状態になった。環境がこれほど激しく揺さぶられたにもかかわらず、ペルム紀の終わり(2億5260万年前)や白亜紀の終わり(6600万年前)のような大量絶滅は引き起こされなかったが、それでも世界の生態系は様変わりした。熱帯の環境が遥か極地にまで拡がり、北極圏でも広葉樹が茂り、クロコダイルやカエルが生息するようになった。気温の急上昇は激しいものだったが、地質学的な観点からはごく短い1万年しか続かなかった。

 世界各地の大型動物の分布も同じように不均衡であり、ユーラシアはこの点でも有利だった。そこでは初期農耕文化が確立するとほぼ同時に、家畜化も本格化した。人間にとって有益な野生動物の特性には、栄養価が高くおとなしい性質で、人間に対して生まれつきの恐怖心がなく群れて行動し、適度の大きさで、繁殖させやすいということがある。世界中の体重40キロ以上の大型哺乳類148種のうち72種はユーラシアに生息しており、そのうち13種が家畜化された。アメリカ大陸に生息する24種のうち家畜化されたのはリャマ(アルパカはリャマの近縁種)のみの1種だった。北アメリカとサハラ以南のアフリカ、オーストラリアでは、家畜化された大型動物は皆無だった。人類史において最も重要な5種類の動物、ヒツジ・ヤギ・ブタ・ウシ・ウマは、特定の地域で輸送を担ったロバとラクダとともにユーラシアにのみ生息していた。これらの動物からは食肉だけでなく、乳・皮革・獣毛などの二次産物や畜力も得られた。


[アメリカ大陸の動物]

 ウマ科動物は北アメリカの草原で進化したが、最終氷期の終わりには、ウマ科で生き残ったわずか4つの系統はいずれもユーラシアとアフリカにいた。西アジアのアジアノロバ、北アフリカのロバ、サハラ以南のアフリカのシマウマ、そして中央ユーラシアのステップ地帯のウマである。同様に、現代のラクダの祖先はカナダの高緯度の北極圏という寒冷な気候帯に生息していたが、過去の氷期に海面が低下していた間にベーリング陸橋を渡ってユーラシアへ移動した。アジアにいるフタコブラクダはこれらのアメリカ大陸から移動してきたラクダの直接の子孫であり、アフリカとアラビアの暑い砂漠にいるヒトコブラクダは体の表面積最小限にして水分を失わないように進化した。これらのラクダは長距離の砂漠の交易路を支えた。ラクダ科動物はパナマ地峡を渡って南アメリカにも移動しリャマとアルパカに進化したが、リャマは人間と同程度しか荷を運ぶことができなかったし、アルパカは被毛のためだけに利用された。またアメリカ大陸の限られた地域ではモルモットや七面鳥が家畜化された。アメリカ大陸にもともといたウマやラクダは1万年前までに絶滅した。


 西アジアで最初に家畜化されたヒツジとヤギは、狩猟民が何万年、何千年にわたって獲物にしてきた動物だ。それを新石器時代の村人は、ただ殺すのではなく、捕らえ、囲いに入れ、他の捕食者から保護し、必要な時には餌を与え、繁殖させて子孫を増やし、生きているうちは乳や毛や血を利用したうえで、最後には狩猟民のように殺してその肉や内臓などを利用した。獲物から保護・育成される種への移行は、それに関わった双方の当事者にとって多大な影響をもたらした。獲物にしていた動物がすべて候補として適していたわけではない。一定の種は前適応していて、野生状態ですでに家畜化での生活になじみやすい特徴を備えていた。その特徴は、まず群れで行動すること、そしてそれに付随する社会的序列があること、監禁状態でも繁殖能力があること、そして外的な刺激に対する恐怖と逃走反応が比較的弱いことだ。主な家畜動物(ヒツジ、ヤギ、ウシ、ブタ)の大半が群れを作るし、役畜(ウマ、ラクダ、ロバ、スイギュウ、トナカイ)も大半がそうだが、群れで行動するからといってどれもが家畜化できるわけではない。例えば、ガゼルはそれまでの数千年で最も頻繁に狩猟の対象とされた動物だった。漏斗ろうとの形をした壁がメソポタミア北部で見つかっている。毎年移動してくるガゼルの群れを誘導して捕えるためのものだと考えられているが、ガゼルは家畜にしてしまうと生きてはいけない。

 人が家畜化するにあたっての大きな目的の一つは繁殖の最大化だった。現在の家畜でも行われていることだが、若いオスと繁殖年齢を過ぎたメスを処分して、繁殖力のあるメスの数と妊娠数を最大化するのだ。家畜化された動物と同時代の野生種との決定的な行動上の違いは、外的刺激への敏感さと、人間もふくめた他種への用心深さが少ないことだ。こうした特質がすべて人間による意識的な選択によるものではなく、一部には飼い馴らし効果があると思われる。こうした行動上の変化とともに肉体的な変化もある。たいていの家畜は雌雄差が小さくなっている。例えばオスのヒツジは角が小さいか全くない。これは捕食者を追い払ったり、メスをめぐって別のオスと争ったりしても、選択されなくなったからだ。また家畜動物は野生の近縁種と比べてはるかに繁殖率が高い。他にはネオテニー(幼形成熟)呼ばれるものがある。早く成熟するが、生体となってからも幼体の形態と行動が維持される。形態についてはとりわけ頭蓋骨が顕著で、顔と顎が短くなった結果、大臼歯が短くなって、いわば混みあった頭蓋骨になっている。脳容量も小さくなっている。例えば、ヒツジは1万年におよぶ家畜化の歴史の中で脳の大きさが24%小さくなっている。イヌ、ヒツジ、ブタの場合、脳の部分で最も影響を受けたのは、海馬、視床下部、下垂体、扁桃体などの辺縁系で、ここはホルモンの活性化のほか、脅威や外的刺激に対する神経系の反応を担当している。これにより、感情的な反応能力が全般に落ちているのだ。

 我々は種としての自分たちを飼い馴らし物語の行為主体として見がちだが、見方を変えれば、家畜化されたのは我々の方だともいえる。野生の動植物を飼い馴らしたことは、人間が自然界への注意力とそれに関する実践的知識を縮小させたこと、食糧の多様性が乏しくなったこと、空間が小さくなったこと、そしておそらく儀式生活の幅が狭まったことをも意味していると言えるだろう。


[イヌの家畜化と人間の家畜化]

 農業革命が起こったはるか昔、人類はイヌを家畜化した。世界中で人類の生態上の仲間になった最初の動物だ。相互利益のために人類の傍で狩りをし、後にさまざまな専門の役割のために品種改良された。イヌの家畜化はユーラシアで始まった。イヌの化石から採取したDNA分析によると、イヌはオオカミから約4万年前に分岐し、その後、約2万年前にイヌ科はユーラシアの東と西に二分したという。このことから、家畜化は4万年前~2万年前の間であるといえる。最終氷期の最寒冷期のピークは2万1000年前なので、現在よりはるかに寒冷な時期に、ユーラシアで暮らしていた人類が野生のオオカミと仲良くなり、役に立つ道具に変えたのだ。起こった場所は、西ヨーロッパか、東南アジアか、その中間のどこかだと思われる。家畜化の経緯の参考になる実験は、旧ソ連時代のシベリアで行われたギンギツネの選択飼育の研究だ。その方法はいたってシンプルで、世代ごとに一番人を怖がらないキツネから子を産ませることを半世紀続けられた。第4世代には尻尾を振りながら人に自発的に近づく子ぎつねが現れた、さらに数世代のうちに、人をなめるために駆け寄ってくる非常に従順なキツネも現れた。特に驚きだったのは、キツネの外観も変わったことだった。巻いている尻尾、垂れた耳、華奢な顔、額に白い斑、それらは家畜化されたウシやウマ、その他のペットによく見られるものと同じだ。さらに、そのキツネたちは、一度にたくさんの子を産み、季節に関係なく繁殖するようにもなった。実は、従順さを求めて選択するうちに、他の形質を伴う遺伝子変異も選択していたのだった。それは家畜化症候群と呼ばれ、具体的には発育中の動物の「神経堤」細胞の移動を意図せず遅らせていたのだ。キツネでは、毛皮を黒っぽくする色素芽細胞の移動が遅れ、結果として毛皮に白斑ができた。神経堤細胞の遅れは、垂れた耳と小さいあごの原因でもある。どの遺伝子が変化したのか? BRAF遺伝子は、ネコ、ウマ、そしてヒトにおける最近の強い進化的淘汰を示しており、これは神経堤細胞の移動と関連している。

 ハーヴァード大学の人類学者リチャード・ランガムは、神経堤細胞がストレス、恐怖、攻撃を制御する脳の部位にとっても極めて重要だという仮説を立てている。その影響を受けた動物個体は衝動的に反応的攻撃をする傾向が弱くなる。これはペットだけでなく、人にもある独特な特徴だと指摘されている。例えば、チンパンジーと違って人は互いに殺し合うことなく混んだバスに乗ることができるが、これはチンパンジーには不可能なことだ。人は生まれた時から驚くほど他人に寛容だ。都会で、農村で、または密な狩猟採集民の集落で、うまく生き残るために知らない人に反応的攻撃をしないように振る舞う。それはまるで家畜化された種のように思える。人は先史時代のいつか、神経堤細胞が迅速に移動して短気な反応をする人たちを排除したに違いない。排除の仕方はどうであれ、人は最近までそれを続けていたし、刑罰制度は現在もそうしている。現代の人間は祖先の猿人や類人猿と比べて、多くの家畜化症候群を呈している。顔つきはやさしく、顎が小さく、そのため歯並びが重なり、性差は小さく、性行為は発情期がなく頻繁で、脳も小さくなった。先史時代の頭骨は、人の脳がこの2万年で2割ほど縮んだことを示しているが、イヌを含めて他の種でも家畜化の間に脳が縮む。



(作物の栽培化と家畜化の歴史)


 家畜化の歴史は、西アジアの中でもカスピ海南岸とイラン高原で狩猟された野生のヤギとヒツジの骨から明らかになった。イラン高原の西に位置するクルディスタンの山岳地帯にある遺跡から出土した何千もの動物の骨の断片は、1万2500年前ごろに大量の野生のヒツジの子を殺したことを物語る。その後、1万年前には住民が家畜化したヤギの群れを飼っていた。それは遺物の骨が、オスは成獣に近い個体が多数で、メスは子を産めなくなった年齢の個体が多数だったことから確かめられる。寒冷で乾燥したヤンガードリアス期(1万2800年前~1万1500年前)の間、人びとの定住地は1年を通じて流れる川や湖、湧き水など永続的な水源の周りに集中するようになった。こうした場所には食べられる野草が豊富に見つかる。動物もまた水や野草を求めてやって来た。当然ながら狩猟者はそれぞれの群れを熟知するようになり、群れておとなしい性質を持つ特定の個体を見分けられるようになったと思われる。最初に飼い馴らされた動物は野生のヤギとヒツジだった。どちらも群をなし、強いリーダーに従って行動する極めて社会性のある動物であり、柵で囲われた環境にも耐えられ、餌を食べ繁殖する。動物の家畜化は1万1000年前ごろに温暖化が再び始まったころ、西アジアのいくつかの場所で同時に起こった。農耕と牧畜は必ずしも両立するものではない。牧畜民は牧草地と水をいくらでも必要として常に移動し続けるが、農耕民は自らの土地から離れないからだ。


 作物の栽培と家畜の飼育は、人びとの暮らしに革命的な変化をもたらした。どちらも1ヶ所で始まったのではなく、さまざまな時代にさまざまな地域で別々に始まったと考えられている。その後、いち早く作物の栽培と家畜の飼育が始まった地域から他の地域へその方法が伝わっていった。例えば、ヨーロッパへは、西アジアからバルカン半島を通ってドナウ川沿いに進むルートと、地中海沿岸に沿って進み7500年前(BC5500年)ごろに南フランスに伝わったルートがあった。こうしたヨーロッパにおける農耕の拡がり方を見ると、土器作りの拡がり方と密接な関係があったことが分かる。


[西アジアにおける食物の栽培化と動物の家畜化]


<1万5000年前>

 イヌの家畜化、食物の栽培化の前に狩猟や戦いに使われ、野獣や侵入者に対する警報装置の役割も果たした。

<1万4500年前~1万1500年前>

 西アジアのレヴァント地方でナトゥーフ文化が栄えた、ナトゥーフ人は何十もの野生種を食べて暮らしていた狩猟採集民だが、永続的な村落に住み、野生の穀類を集中的に採集・処理していた。彼らは石造りの家や穀倉を建てて穀物を蓄えておいた。野生のコムギを刈り取るための石の鎌や、コムギを挽くための石のすりこぎとすり鉢などの道具を発明した。

<1万1500年前~1万500年前>

 ナトゥーフ人の子孫たちは野生種を採集するだけでなく、栽培もするようになった。農耕への決定的な移行がいつ起こったのかは正確には分からないが、1万500年前には、アナトリアの南東部とイランの西部とレヴァント地方にエリコのような永続的な村落が点在しており、その住民は栽培化したいくつかの種を育てるのに時間の大半を費やしていた。ヒツジとヤギはティグリス・ユーフラテス両河の上流域に多く生息していたことから、1万1000年前ごろに家畜化されている。ウシとブタも同じころに西アジアで家畜化されたと考えられている。ブタはユーラシア大陸各地に存在していた。


[世界各地域における主な食物の栽培化と動物の家畜化の推定時期]


<1万1000年前>

 コムギ・オオムギ・オリーブ・ヤギ・ヒツジ・ウシ・ブタ(西アジア)

<1万年前>

 マメ類・亜麻(西アジア)、カボチャ・ヒョウタン(中央アメリカ)、ヒエ・キビ・アワなどの雑穀(中国北部)、コメ(中国南部)

<8000年前>

 ウシ・ニワトリ(南アジア)、ブタ(東アジア)、大豆(中国北部)、タロイモ・サトウキビ・バナナ(ニューギニア)

<7000年前>

 綿(南アジア)、マメ類・キビ(中央アジア)、モロコシ(ソルガム:イネ科の雑穀)・コーヒー豆(アフリカ)

<6000年前>

 ウマ(中央ユーラシア)

<5500年前>

 トウモロコシ・マメ類(中央アメリカ)、ジャガイモ・キャッサバ(南アメリカ)

<5000年前>

 ラクダ(西アジア)、リャマ・アルパカ(南アメリカ)、アカザ・ヒマワリ・カボチャ(北アメリカ)

<4500年前>

 綿(南アメリカ)

<4000年前>

 トウジンビエなどの雑穀・ギニアヤムイモ・アブラヤシ(アフリカ)、

<3000年前>

 七面鳥(メキシコ)


 栽培化された食物の中で圧倒的に重要だったのは、西アジアのコムギ、中国のコメ、中央アメリカのトウモロコシで、今日これら3つの穀物だけで世界中の人びとのエネルギー摂取量の半分近くを供給している。人間はこれらの硬い粒をそのままでは分解して栄養素を吸収することができないため、石臼で粉にしたり、パンに焼くためのオーブンやコメを炊き野菜を茹でるための鍋を作り、熱と火による化学的な変質能力を利用して栄養素を吸収できるようにした。

 家畜化は自然界で長期にわたってその動物と共存する過程でその習性を知った後のことだった。そうでなければ、人はこれらの動物の繁殖や餌やり、飼育に時間と労力を投じなかったはずだ。したがって、人類は死骸をあさることから狩猟へ、そして畜産へと移行していったのだ。動物の家畜化は長時間狩りを費やすことなく肉を安定して供給できるようになっただけでなく、二次産物革命と呼ばれる新しい資源ももたらした。乳はそのような新しい資源の一つで、まずはヤギとヒツジが、次いでウシが、文化によってはウマやラクダからも搾乳された。乳は脂肪とタンパク質に富むほかカルシウムも含み、そこから得られるヨーグルト、バター、チーズなどの産物はこれらの栄養素を長期間保存できる。獣毛も家畜から継続して収穫することができる。羊毛は品種改良により6000年前ごろから採れるようになった。リャマとアルパカは南アメリカで同様の役割を務めていた。

 さらに、大型動物の家畜化は輸送と牽引という別の重要な資源も提供した。荷を運ぶために最初に使われた動物はロバだったが、後にウマ・ラバ・ラクダなどもっと多くの荷を運ぶ動物を使用した。すきや荷車の牽引作業にまず利用されたのがウシだった。農耕民はくわや掘り棒などを使う人力による農業から犂の利用へ移行することができた。犂を牽く家畜によりそれまで農地にはあまり向かない土地と考えられていた耕作限界地が農地として利用されるようになった。平坦でない土地で荷を担ぐ動物や、平原で二輪や四輪の荷車を牽く動物は、輸送できる物資の量も種類も大幅に増やしたため、遠隔地との陸路の交易路を整備するうえで極めて重要となった。そのうえウマが牽く二輪戦車がBC2000年紀には中央ユーラシアや中東で戦争に革命を起こした。後により大型で力の強いウマが品種改良によって生まれて騎乗が可能となると、騎兵が最も効率の良い戦争の武器となった。

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