第8話 農業革命

(狩猟採集民時代から農耕・牧畜時代へ)


 我々の性質や歴史・心理を理解するためには、狩猟採集民だった祖先の頭の中に入り込む必要がある。人類は種のほぼ全歴史を通じて狩猟採集民だった。進化心理学の分野では、我々の現在の社会的特徴や心理的特徴の多くは、農耕以前のこの長い時代に形成されたといわれている。我々の食習慣や争い、そして性行為は、すべて狩猟採集民の心と現在の脱工業化の環境との相互作用の結果である。例えば、今日の豊かな社会には肥満の問題がある。なぜ人は高カロリーの食品をたらふく食べるのか? 祖先である狩猟採集民の食習慣を考えると、このなぞは解消する。3万年前の典型的な狩猟採集民が手に入れられる甘い食べ物は1種類しかなかった。熟れた果物だ。我々のDNAは我々が依然としてサバンナにいると思っている。だから我々は甘い物や脂肪分の多い物を貪り食べる。

 食料資源が豊かな場合には、集団はそこに定住したり、永続的な野営地を置いたりすることがあった。最も重要なのは、水産物や水鳥が豊富な海沿いや川沿いに人類が永続的な漁村を作り上げたことだ。これは農業革命よりはるか以前の出来事だった。漁村はインドネシアの島々の海岸に4万7000年前に現れたかもしれない。そこからオーストラリア大陸へ進出した可能性がある。

 人類の集団は「狩りをする」という一般的なイメージに反して、採集こそが主要な活動で、それによって人類は必要なカロリーの大半を得るとともに、火打石や木・竹などの原材料も手に入れていた。平均的な狩猟採集民は現代に生きる我々の大半よりも身近な環境について幅広く、深く、多様な知識を持っていた。何が狩猟採集民を飢えや栄養不良から守ってくれていたかといえば、食物の多様性にあった。古代の狩猟採集民の間では一般にアニミズム(精霊信仰)が信じられていたと考えられる。アニミズムは魂や霊を表す「アニマ」というラテン語に由来するが、それはあらゆる場所や動植物、自然現象には意識と感情があり、人と直接思いを通わせられるという信念である。アニミズムの信奉者は人と他の存在との間に壁はないばかりではなく、厳密なヒエラルキーもない。

 狩猟採集民の社会政治的世界についてはまだよくわかっていないが、一つの例がある。1955年、ロシアの考古学者がモスクワから東へ200キロ離れたシベリアのロシア平原のスンギールで、マンモス猟文化に属する2万8000年前の埋葬地の遺跡を発見した。墓の一つにはマンモスの牙でできた3000ほどの珠を糸に通したもので覆われた55歳ぐらいの男性の骨が納まっていた。その頭にはキツネの歯で飾った帽子がかぶせられ、両手首にはマンモスの牙で作られた腕輪が25個はめられていた。さらに同じように飾られた少年と少女の骨も見つかっている。その理由はどうであれ、スンギールのその男性や子供たちは、人類が3万年前~2万8000年前に、DNAの命令や、他の人類種と動物種の行動パターンをはるかに超える社会政治的基準を考案し得たことを示す有力な証拠の一つである。

 ホモ属の人類は240万年にわたって植物を採集し、動物を狩って食料としてきた。これらの動植物は人類の介在なしに暮らし繁殖していた。だが、1万年ほど前にすべてが一変した。それは、いくつかの動植物種の生命を操作することに、ほぼすべての時間と労力を傾け始めたときだった。人は日の出から日の入りまで、種をまき、作物に水をやり、雑草を抜き、青々とした草地にヒツジを連れて行った。こうして働けば、より多くの果物や穀物、肉が手に入ると考えてのことだ。これは人の暮らし方における革命、つまり「農業革命」だった。

 農業革命によって人間と自然界の関係は変貌した。均衡のとれた生態系の脇役としての暮らしを離れて、人は環境に手を加え、自然を支配しようと試み始めた。西アジアでは温暖な気候が続いて豊かな草地が拡がった。いったん定住すると、種子が茎についたまま穀類を刈り取るようになり、これらの種子を集めてまくことで、人びとは意図せずして非常に初歩的な遺伝子操作を行っていたのだ。ほとんどの野生種の種子は茎から落ちて風によって簡単に運ばれるか、鳥に食べられてしまうが、その地に定住した人びとは種子が茎に残ったままのムギの穂を選んでいた。それが栽培するだけの価値のある食物であれば、これは非常に重要な特性だった。人びとは残っている種子をしごき落し、殻を取り除き、中の粒を挽いて粉にした。その後、残しておいた種をまくようになった。農耕が始まったのである。


 農耕への移行は1万1500年前~1万500年前ごろに、アナトリアの南東部とイランの西部とレヴァント地方の丘陵地帯で始まった。1万1000年前ごろまでにオオムギとコムギが栽培植物化され、ヤギが家畜化された。エンドウマメとレンズマメは1万年前ごろに、オリーブの木は7000年前までに栽培化され、ウマは6000年前ごろまでに家畜化され、ブドウの木は5500年前ごろに栽培化された。ラクダやカシューナッツなど、さらにその後、家畜化されたり栽培化されたりした動植物もあった。今日、我々が摂取するカロリーの9割以上は我々の祖先が1万1500年前から5500年前にかけて世界中で栽培したほんの一握りの植物、すなわちコムギ・イネ・トウモロコシ・ジャガイモ・キビ・オオムギに由来する。我々の心が狩猟採集民のものであるなら、料理は古代の農耕民のものといえる。

 農耕はさまざまな場所で、それぞれ完全に独立した形で発生した。中央アメリカの人びとはトウモロコシとマメを栽培化し、南アメリカの人びとはジャガイモとラマの育成の仕方を身につけ、中国ではイネとキビを栽培化しブタを家畜化し、北アメリカではカボチャを栽培化し、ニューギニアではタロイモやサトウキビとバナナを栽培化し、西アフリカではトウジンビエやモロコシ(ソルガムともいうイネ科の雑穀)を自分たちの必要性に適合させた。では、なぜ農業革命はこれらの地域で始まったのか? その理由は、ほとんどの動植物種は家畜化や栽培化ができないからだ。農耕や牧畜の候補として適したものはほんのわずかしかなかった。それらは特定の地域に生息しており、そこが農業革命の舞台となった。


 農業革命は人類にとって大躍進だったのだろうか? 人類は農業革命によって手に入る食糧の総量を増やすことことはできたが、食糧の増加はより良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。狩猟採集民の生活集団は、より強力な集団に圧倒されたら、自らよそへ移動できた。ところが、農村が強力な敵に脅かされた場合には、避難すれば畑も家も穀倉も明け渡すことになるため、農耕民はその場に踏みとどまり、あくまで戦いがちだった。やがて、都市や王国、国家という、より大きな社会的枠組みの発達を通して、人類の暴力は抑え込まれたが、そのような政治構造を築くには何千年もの月日がかかった。歴史の鉄則の一つに、「ぜいたく品は必需品となり、新たな義務を生じさせる」というものがある。

 本来、人類は多種多様な食べ物を食べる雑食性の霊長類だ。農業革命以前は、穀物は人類の食べ物のほんの一部を占めていたにすぎない。穀物に基づく食事はミネラルとビタミンに乏しく、消化しにくく、歯や歯肉に悪い。また、農耕民の暮らしは狩猟採集民の暮らしほど安定していなかった。狩猟採集民は何十もの種に頼って生きており、たとえ保存食品の蓄えがなくても困難な年を乗り越えることができた。一方、農耕社会はごく最近までカロリー摂取の大半をわずかな種類の栽培化された品種に頼っていた。コムギやジャガイモ、コメなど単一の主要食糧だけに依存している地域も多かった。もし雨が十分に降らなかったり、イナゴの大群が来襲したり、ある種の菌類が冒すようになったりすると、農耕民は何千から何百万という単位で命を落とした。


 農業革命は歴史上最も物議を醸す出来事である。この革命で人類は繁栄と進歩への道を歩み始めたと主張する学者がいる一方、地獄行きにつながったとする人もいる。否定的な人たちは、これを境に人類は自然との親密な共生社会を捨て去り、強欲と疎外に向かってひた走り始めたという。しかし、たとえその道がどちらに向かっていようと、もはや引き返すことはできなかった。農耕のおかげで人口が急激に増大したため、狩猟社会に戻っても自らを維持することはもはやできない。農耕へ移行する前の1万2000年前ごろ、地上には放浪の狩猟採集民が200万~400万人ほどいた。それが紀元後10世紀になると、狩猟採集民は主にオーストラリアと南北アメリカ、そしてアフリカに100万~200万人しか残っておらず、それをはるかに上回る2億7000万もの農耕民が世界各地で暮らしていた。

 農耕民の縄張りは、古代の狩猟採集民の縄張りよりもはるかに狭かっただけでなく、人工的でもあった。農耕民の空間が縮小する一方で、彼らの時間は拡大した。狩猟採集民はその日暮らしで、食べ物を保存したり、所有物を増やすことが難しかったため、未来のことをあまり考えなかった。一方、農耕経済は季節の流れに沿った生産周期に基づいていたため未来はそれ以前とは比べようもないほど重要になった。また農耕民は不作の年に備えるため蓄えを残す必要もあった。農耕民が未来を心配するのは、心配の種が多かっただけでなく、それに対して何かしら手を打つ必要があったからである。このような農耕のストレスが大規模な政治体制や社会体制の土台となった。食糧の余剰は政治や戦争、芸術や哲学の原動力となり、宮殿や砦、記念碑や神殿が建った。近代後期まで、人類の9割以上は農耕民で、毎朝起きると額に汗して畑を耕していた。彼らの生みだした余剰分を、王や役人・兵士・聖職者・芸術家・思想家という少数のエリート層が消費していた。歴史書を埋めるのは彼らエリートだった。歴史とは、ごくわずかの人の営みであり、残りの人びとは畑を耕し、水桶を運んでいた。



(なぜ農耕が登場したのか?)


 農業によって人類は、捕食者と採集者のまばらな集団から、土地の景観も生態系も変える高密度集団へと変わった。ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、ガンジス川、長江などの流域は主に人為的な生態系になり、そこでは特殊化した穀物やマメ類の世話や植えつけをする仕事を人間が行うようになった。一方、アジアの中央部のステップと丘陵では、人に守られ世話されるウシやヒツジやウマが主役になった。遊牧民は定住し、人口密度は飛躍的に上昇し、それを抑えられるのは、新しい病気か飢饉が突然発生するときだけだった。

 人類は少なくとも7ヶ所、西アジア、中国、アフリカ、南米、北米、中米、そしてニューギニアで、それぞれ全く無関係に農業を始めた。このほぼ同時発生から推測されるのは、当時の状況に農業を可能にする何か新しいものがあったということだ。実際特別なことがあった。それは「気候」である。

 1万2000年前以前、世界は厳しい氷河時代にあった。ヨーロッパも北アメリカも厚い氷床に覆われて現在よりはるかに寒かった。しかも乾燥していた。なぜなら、冷たい海からは水分が蒸発しにくいので、降雨は頻度も量も少なかったからだ。アフリカでは干ばつが長引いて砂漠の状態が何十年も続き、ビクトリア湖は1万6000年前にすっかり干し上がり、カラハリ砂漠は拡大して乾燥が進んだ。アマゾンの雨林は縮小し、間に草地の拡がるまだらな森になってしまった。多くの水分が氷に閉じもめられていたため、海水面は今よりはるかに低かった。海は冷たくて層を成していたので、二酸化炭素は海水に溶け込み、最終氷期の極大期には大気中にわずか0.02%しかなかった。そのため植物は育ちにくかった。コムギやコメのような穀物はたとえ水と養分を十分に与えられても、通常のおよそ3分の1の収穫しかできなかったことが実験でわかっている。頭が大きくて消化管が小さく、エネルギーを大量消費する人類が、食物を食べて生きて行こうとするには向かない時代だった。特殊化した草食動物、ウマ、バイソン、レイヨウ、シカの小さな群れにできるだけたくさんのカロリーを集めさせ、それが凝縮された肉の塊を食べるほうが得策だった。場所によってはイモなどの塊茎や木の実があったかもしれないが、気候が極端に変わり易かったため栽培化するのは容易でなかった。こうしたことは近年、南極とグリーンランドからの氷床コアが入手できるようになって初めて分かったことである。また、地中海の花粉記録は氷河時代の気温変動が直近の数千年と比べて激しかったことを示している。これでは農業は不可能だ。

 農業は氷河時代の更新世(259万年前~1万1700年前)には不可能だったが、間氷期の完新世(1万1700年前~現在)には必須だった。気候が温暖で湿潤になり、しかも安定した状況になって、二酸化炭素濃度が高くなるとほぼ同時期に、人びとは植物の多い食事に移行し始め、人びとの食べ物を集中的に生産するように生態系を変えていった。完新世における自給自足強化の軌跡は漸進的であり、最終的には耕作限界の環境でない限り、農業が主要な戦略になった。その意味で、農業は必然であり不可避だったからこそ、多くの異なる場所で発生したのだ。


 なぜ農耕が登場したのかを改めて考えると、次の2つの要因を挙げることができる。


1.意図的な植え付け作業と栽培の季節性がなければ、世界のどこであれ農耕は始まらなかったことで、植え付け作業は明らかにまず野生植物を対象に始まった。野生型が分布する地域から外に持ち出されることで、栽培化への流れは確実かつ安定したものになった。

2.食糧生産が始まった熱帯と温帯において、氷河期終了後の温暖化と、完新世(1万1700年前~現在)に気候が温暖かつ湿潤なものに安定化しなければ、農耕はおそらく起こり得なかった。2万年前~1万1500年前の時期の後氷期の気候は概ね寒冷で乾燥しており、その一方で極めて変動の激しいものだった。実際、文字どおり10年単位で気温や湿度が大きく変化したと考えられている。こうした推測は、現在では氷床コアや深海コア、それに陸における花粉分析からなされている。そうした気候条件の下では、植物を栽培化しようとするいかなる初歩的な試みも頓挫せざるを得なかっただろう。完新世における温暖化は、1万1500年前に急速に生じ、世界の気候は温暖で湿潤になり、より安定性の高いものになった。まさにこの安定性の高さこそが農耕に有利な状況となった。気候が安定することで、まず野生食料が増加し、集落の安定性と人口が増した。一旦農耕の流れが始まると、もうほとんど後戻りはなかった。


 しかし、これですべてが説明できるわけではない。というのは、その時期に世界中の人びとの集団がすべて突然に農耕社会へ切り替わったわけではないからだ。現在、多くの研究者は個人間や集団間の社会的競争とそのストレスによる食料需要の増大はあったが、それよりも人口の増大によるストレスが農耕にに向かわせたとしている。最終氷期以降、農耕開始に先んじて、世界のさまざまな地域で狩猟採集民の人口が実際に増加した証拠が明らかに存在する地域はいくつかある。しかし、農耕の地域的発生にはさまざまな変数が含まれていたに違いない。すなわち、農耕に先行した定住性、豊かな環境下での社会的な競争、人と野生植物との共進化、環境変化や食料供給の周期的な変動ストレス、人口圧、そして栽培に適した種の入手可能性などである。環境の変化と安定化はおそらく最も重要な背景だが、これも社会的背景と動植物との組み合わせがなければ、決定要因とはなり得ないだろう。したがって、農耕起源についての単純な説明は難しいといえる。



(狩猟採集民を背景として農耕・牧畜を始めた5つの地域)


 狩猟採集民の多くが、山に火を入れたり、植え替えを行ったり、排水路を築いたり、おとりとなる動物を留めおいたり、家畜イヌを飼うなど、周辺環境をある程度改変して食料を増加させる行動を取ることが観察されている。それは原初的農耕に類似した資源管理技術と言えるかもしれない。農耕民もまた、そのほとんどが機会さえあれば狩猟を行うし、考古学上も常にそうだったといえる。こうしたことは、食料採集と食料生産との間にある程度まで重なり合っていることを示すよい証拠である。しかし、問題はどのレベルの食糧生産かということである。遊動狩猟採集民が自由自在に農耕あるいは牧畜依存の生活様式へと乗り換えたり、元に戻ったりできるなどという考えは非現実的である。なぜなら二つの生活様式の根底に関わる資源利用、移動、活動の年間スケジュールの違いがあり、変更は容易でないからである。考古データによれば、原則として外部からの伝播に依らず、狩猟採集民を背景として農耕・牧畜を始めた5つの地域とその作物がある。


1.西南アジアの肥沃な三日月地帯

(コムギ、オオムギ、ライムギ、ソラマメ、エンドウマメ、ヒヨコマメ、レンズマメ、オリーブ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシ)

2.中国の長江と黄河の中・下流域

(イネ、アワ、多くの根菜・果実類、ブタ、家禽類)

3.ニューギニアの内陸高地

(タロイモ、サトウキビ、パンダナス、バナナ、家畜はいない)

4.メキシコ中部と南アメリカ北部(中央アメリカ)

(トウモロコシ、マメ類、カボチャ、マニオク、多くの果実・根菜類、家畜は少ない)

5.アンデス山脈とアマゾン

(ジャガイモ、キャッサバ、リャマ・アルパカ)


 これに加えて、おそらくサハラ以南のアフリカ中部で雑穀の初期農耕、西アフリカの熱帯雨林の北でヤムイモとモロコシ(ソルガム)を基盤とした農業が現れた。同様のことは南インドでもいえる。西南アジアのレヴァント地方における農耕への移行については多くのことがわかっているが、他の地域ではレヴァントのモデルは当てはまりそうにない。つまり農耕への移行は実に多様だったのである。


 西南アジア、特にレヴァント地方(現在のトルコ東南部、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル、パレスティナ)とキプロス島の農耕は、中国で起こった農耕と同様に、その後の人類の活動に非常に強い影響を与えたという意味において、世界の中でも重要性が特に高い。西南アジアにおける農耕起源の舞台は、考古学で有名な「肥沃な三日月地帯」であり、野生穀類とマメ類を伴った疎林と草原であった。肥沃な三日月地帯はヨルダン渓谷から北へ、シリアを抜けてトルコ東南部に到り、そこから東へ折れ、イラク北部をかすめてさらに東南に走り、イラン西部のザクロス山麓まで達するちょうど三日月を伏せたような形の土地をいう。この地域は本来的に沖積土壌の広大な土地の緩やかな傾斜地帯であり、手の込んだ灌漑をする必要のない天水農耕の可能な気候条件である。


 肥沃な三日月地帯における農耕と動植物の栽培家畜化の移行について非常に重要な点は、次の6つにある。


1.最終氷期が終わった1万1500年前~9500年前ごろの初めての安定的かつ持続的な時期に密接に関連している。

2.冬期降雨という非常に際立った季節性がみられる地域で起こった。

3.穀類、マメ類、動物の家畜化のセットという、世界の先史時代の中では生産力において比類ない組合せを持っている。

4.栽培家畜化は土器のない先土器新石器時代に起こった。すなわち初期の段階では土器がなく金属もなかった。

5.おそらく定住に類した居住形態を伴う狩猟採集という生業複合を基に生じた。

6.西ユーラシア(ヨーロッパ)と中央ユーラシア(中央アジア)と北アフリカの文化に、時宜的(ちょうど良い時期に)かつ甚大(非常に大きな)な影響を与えた。


 花粉分析やその他の指標を総合すると、西南アジアの過去2万年の気候と植生の変遷がわかる。肥沃な三日月地帯の最終氷期の最寒冷期は、寒く乾燥した時期で、木の少ないステップが拡がっていた。平均気温は現在よりも4度以上も低く、野生穀類は明らかに生存環境の良い所にだけ生育していた。1万7000年前~1万4000年前に気温と降水量、二酸化炭素量が上昇し、ほぼ今日の水準にまで増大したが、それは一時的なものだった。1万3000年前ごろに急速かつ激しい気候変動が起こり、寒冷乾燥な気候へと引き戻されて1万1500年前までその状態が続いた。この寒冷期はヤンガードリアス期(1万2800年前~1万1500年前)と呼ばれる。1万1500年前の直後に気温が7度も上昇する温暖期に入った。温暖で湿潤になり冬期の降水量が増え、南方地域では夏期モンスーン降雨が増加するという気候条件になった。このような条件は野生穀類やマメ類の分布拡大に最適だった。さらに気候の安定化も加わった。1万1000年前~9300年前に、栽培穀類、マメ類、家畜動物が西南アジア全域において人びとの生業の中で急速に重要になった。

 西南アジアは世界最大の地中海性気候帯(夏期の高温乾燥、冬期の低温湿潤)であり、この気候区分の中では最大の標高幅を持った地域でもある。また西南アジアには、他の地中海性気候を持った地域と比べて最も多くの大粒の野生穀類や、さやをつけるマメ類(ソラマメ、エンドウマメ、ヒヨコマメ、レンズマメなど)が見られる。そのすべてが遺伝的に湿潤で短日な冬の条件下で発芽成長し、高温乾燥の夏には地下で休眠するようにプログラムされている。1年生穀類は、多年生のものに比べて大きな穀粒を持つ傾向にあるが、それは穀粒が休眠期間中の蓄えとしての機能を持つためである。人間にとって幸いなことに、最終的に栽培化された穀類やマメ類は自殖性のものだった。言い換えると、栽培種を野生種から離して育てていれば、人間の管理の結果として発達した有用な形質が祖先野生種との交雑で消えてしまうことが少ない。西南アジアの穀類に見られるこのような植物学的な利点は根本的に重要なものであった。


 西南アジアにおいて、農業革命により人類は自然を効率よく利用できるようになった。狩猟と採集を行っていたころは、1つの家族が暮らしていくのに約1000ヘクタールもの土地が必要だったが、農耕と牧畜を始めたことで、10ヘクタール程度の土地があれば十分になった。その結果、狭い地域に大勢の人びとが暮らせるようになり、人口が急増し、やがて村と呼べるような集落が発生した。このころから食糧の余剰をほぼ確実に生みだせるようになり、食糧生産以外の仕事にたずさわる人びとも現れた。やがて余剰食糧が交換されるようになり、本格的な交易へと発展するなかで、社会的な役割分担が出来上がっていった。



(農業革命の功罪)


 農業革命のころには、複雑な分子の消化を開始させる酵素である唾液中のアミラーゼを規定している遺伝子の重複と拡大が見られる。人間の中にはこの遺伝子を18個も持つものがいるが、チンパンジーは2つしか持たない。アミラーゼはデンプン質や炭水化物を多く含む食物を消化し、それらからグルコース(糖)を作るのを助けるが、それは人間にエネルギーを供給する。アミラーゼは調理された炭水化物に対しては何倍も効率よく作用する。こうしたアミラーゼ遺伝子の拡張、火で料理された食物の存在、および脳の拡大は旧石器時代(5万5000年前~1万5000年前)の進化を通じてすでに観察されていた。

 作物はその性質上季節に依存するため、農業を存続させるには計画を立て、食物を保存する必要が生じる。そうした計画性によって、いつしか余剰が生じ、その強みが他の人間を豊かな共同体へと引きつけることになり、共同体は成長し繁栄したと考えられる。


 農業が生活の中心になると、人びとは穀物の栽培にほぼ全面的に依存するようになった。その依存ぶりがどの程度かは、女性の骨から判明した症状に歴然と現れている。村の女性たちは来る日も来る日も、つま先を立ててひざまずき、鞍型のり台に身をかがめた姿勢で何時間も過ごした。体重をかけて穀物をき、つま先で踏ん張りながらその動作は続けられた。そのために膝、手首、腰に多大な負担がかかった。必然的に多くの女性が腰の関節炎を患い、その他にもつま先の骨の変形などさまざまな症状が現れていた。男性にはそうした痕跡は見られなかった。しかし、男女いずれの骨にも頸椎けいついの肥大は見られた。重い物を日常的に頭に載せていた結果である。

 女性が植物性食物を集め、加工していたことは何ら目新しい事実ではない。狩猟採集社会では、女性は植物性食物を採集して加工し、男性は狩猟や漁に出かけるものだからだ。開墾などの農作業は男性が中心だったと考えられるが、種まき、雑草取り、刈り入れは女性中心だったようだ。男性には別の仕事、牧畜や治安の維持、家の建築や維持、などもあった。

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