第6話 現生人類の発展と世界への移動

 人類の生命はアフリカで芽生えた。我々の祖先はここで最初の石器を作り、獣の肉をはぎ取り、骨を叩き割り、骨や木を刻んだ。このように自分たちが作る事物への依存を高めたことが、人間をその他すべての動物とは異なる存在にした。物を作る能力によって人はさまざまな環境に適応し、アフリカから中東、ヨーロッパ、アジアへと広がった。最終氷期の最中の3万2000年前ごろに、人は世界で最初の具象芸術を生み出した。氷河期には世界の海水面が下がり、シベリアとアラスカの間に陸橋が露出して、人間が初めてアメリカ大陸まで到達できるようになり、南北アメリカ大陸へと急速に居住範囲を広げた。


 我々は今日地球上にいる唯一の人類、すなわち現生人類(ホモ・サピエンス)に属する。現生人類は5万年前ごろ以降にユーラシア全域に拡がり、他の人類を駆逐あるいは絶滅させた。このときアフリカ内部でも大規模な移動が起こったようだ。今日生きていて我々に一番近い仲間はアフリカの類人猿、つまりチンパンジーやボノボ、ゴリラだが、いずれも複雑な道具を作ったり、概念的言葉を使ったりする能力は持っていない。現生人類のDNAのほぼ99%はチンパンジーと全く同じである。ヒトとチンパンジーが共通祖先から分かれた後の600万年余りの間に変化したのはわずか1500万個だけで、全ヒトゲノム30億対、全部で60億個の1%にも満たない。1998年にピューリツァー賞を受賞したジャレド・ダイヤモンドは現生人類をチンパンジー、ボノボに次ぐ第3のチンパンジー(The Third Chimpanzee)と呼んでいる。チンパンジー、ボノボ、さらに言えばネアンデルタール人との生物学的なほんのわずかな差が、10万年ほどの間に、なぜこれほどの、圧倒的と言える種としての数、そして技術・創造性・文化の違いを生み出したのか? それはまさにファンタジーと言ってもいいかもしれない。 


<16万年前>

 すべての現代人の祖先にあたる「ミトコンドリア・イヴ」と呼ばれる1人の女性は、ミトコンドリアDNAの解析からサハラ以南のアフリカで16万年前に誕生したと推定されている。また、現代人につながるY染色体・アダムの誕生は20万年前~15万年前と考えられている。だが遺伝的なアダムとイヴという概念は少し紛らわしい。彼らが生きていた時代を正確に特定するのは不可能だからだ。むしろ、当時生きていた大勢の人たちの中から、たまたま1人の男性のY染色体と、1人の女性のミトコンドリアDNAが代々受け継がれ、今日の人類まで伝わったという方が近い。


<14~11万年前>

 エーミヤン間氷期は13万5000年前~11万年前と2万5000年も連続していたが、気候変動が激しく、降水量が十分でなかったため照葉樹林が拡大しなかったので、現生人類は文明を発展させられなかった。エーミヤン間氷期の海面水位は地域により差はあるものの現在とほぼ同じである。


<7万年前>

 11万年前から始まった最終氷期の厳しさと乾燥化、7万3500年前のインドネシア・スマトラ島北部のトバ山の巨大噴火の火山灰による世界中での何年にもわたる冬期化現象、さらに7万1000年前~6万年前の寒冷化と乾燥化と相まって、現生人類は数百人~数千人程度になってしまったが、ここから会話、すなわち単語など意味を持つ単位を組み合わせて文を作る統語法を獲得したことにより発展し始めた。「認知革命」である。同じ頃にネアンデルタール人もヨーロッパから南と東に拡散し始めている。そしてデニソワ人も、インドネシアのフローレス島の小さなフローレス原人も生きていた。おそらく当時生きていて、まだ発見されていない旧人類もいたのだろう。

 7万年前からの氷期はヴェルム氷期と呼ばれている。この氷期が終わるのは1万4000年前になるが、この間、寒冷な時期が変わることなく続いたわけではなく、気候は20℃くらいの幅で数千年ごとに寒冷な時期と温暖な時期が繰り返されていた。寒冷地に住む動物の個体数は気候の変動とともに上下し、温暖な時代には増え、寒冷な時代には減少していた。


<6万年前>

 現生人類の急増はアフリカで6万年前ごろに起こった。6万年前ごろはまだ寒冷化の影響により現在より100mほど海面が低く、紅海先端の海峡「嘆きの門」の幅は約11km(現在は50km)だった。5万年より数千年前に一部の集団がアフリカを出て、紅海先端の海峡を渡り、インド洋の沿岸を巡り、ベンガル湾に浮かぶアンダマン諸島、マレーシア、フィリピン、ニューギニア、オーストラリアの先住民の祖先になったという仮説は、今では広く認められている。この集団に属する人だけがL3というミトコンドリアDNAを持ち、アフリカ人を除く現代人の誰もがこのL3グループの子孫に属する遺伝子的特徴を持っている。このことからアフリカから世界へ拡がった現生人類の拡散の波は、明確な言語を巧みに操る集団による6万年前ごろのものと考えられる。


<5万年前>

 現生人類が北アフリカから中東のレヴァント地方経由でユーラシア全域に拡散したのは5万年前ごろで、そのころに非アフリカ人の主要な分岐が極めて短い間に起こった。ネアンデルタール人と非アフリカ人の祖先となる現生人類との交配は5万4000年前~4万9000年前で、交配が起こったのは中東のどこかで、その後、東アジア人(モンゴロイド)と西アジア人(コーカソイド)が分岐している。そしてデニソワ人と東アジア人との交配は4万9000年前~4万4000年前に中国南部あるいは東南アジアのどこかで起こったと推測されている。

 最終氷期の中でも5万年前ごろは海面が低く、スンダランド(現在のインドシナ半島とインドネシア西部と中央部の島々の大半はすべてつながっていた)と、サフール大陸(現在のニューギニアとオーストラリアとタスマニアが一つの大陸だった)が出現していた。人類が東南アジアのスンダランドからウォーレス線という海域を渡ってサフール大陸へ上陸したのは5万2000年~4万7000年前ごろと考えられている。

 人類と他の生命体との大きな違いの一つは、他の生命体の分布が地球上の特定な環境に限られているのに対し、人類だけは地球上にまんべんなく分布していることである。その現生人類が5万年前ごろなぜ地球全体に拡散するような移動をはじめたのか? この時代の生態学的背景として氷河期に草原の拡がりがあったことにも注目すべきだ。5万年前から1万年前に到る時期は、最終氷期(11万5000年~1万4000年前)が一段と厳しくなる時期にあたる。この時代、地球上からは鬱蒼とした森はほとんど消え、草原や砂漠が広がっていた。それは人の移動にとって極めて有利な空間だった。そのうえ草原には多くの狩猟対象の動物がいた。


<4万5000年前>

 現生人類がヨーロッパに入ったのは4万5000年前ごろのことで、その後、数千年でネアンデルタール人は絶滅した。氷河の発達期は最寒冷期の前の4万1000年~3万5000年前と考えられる。


<4万年前>

 4万年前のネアンデルタール人と現生人類の交雑体が現在のルーマニアで発見されている。しかしその後、ネアンデルタール人は絶滅した。イベリア半島の南で最後まで生き残っていた少数のヨーロッパ最後のネアンデルタール人が姿を消したのは3万9000前ごろである。その直接的な原因は現在のイタリアのナポリ近くにある巨大火山が大噴火し、火山灰をヨーロッパ中に降らせ、古代の地層にくっきりした境界を残した。火山が引き起こした気候の激変によって寒さが何年も続き、それが現生人類との生存競争に拍車をかけてネアンデルタール人を絶滅に追い込んだのではないかと推測されている。


<3万年前>

 3万年前の狩猟採集民にはリーダーの存在や埋葬の仕来りなどの社会政治的基準がすでに存在していた。現生人類は約3万年前ごろから生殖期間が延び多くの子供をもうけられるようになり、さらに孫もできるようになった。長命になった理由は未だ不明である。


<2万年前>

 最終氷期の末期は2万5000年前~1万9000年前で、その最寒冷期のピークは2万1000年前である。地球全体の平均気温は現在より5℃低く、北半球の高緯度地域では12℃~14℃も低下していた。海水面は現在より100メートル以上低下していた。シベリアのバイカル湖近くのマリタ遺跡から出土した2万4000年前の人骨はヨーロッパ系である。現在のアジア系とどこかで交代したと思われる。シベリアでは1万4500年前に乾燥した草原から湿地草原に変わり、また石槍を持った人類によって生き残ったマンモスも9000年前に絶滅した。一方、熱帯地域では最終氷期の寒冷化の影響は少なかった。


<1万6000年前>

 現生人類のアメリカ大陸への移動の第1派は1万6000年前ごろにカナダ西部の沿岸を通り到達、その後1万3000年前ごろには第2派がカナダの無氷回廊を通って北アメリカへ、そしておよそ1000年で南アメリカ南端まで進出した。第3波は8000年前に東アジアから北アメリカ西部へ移動した。


<1万4000年前>

 晩氷期と呼ばれるヤンガードリアス期(1万2800年前~1万1500年前)はあったものの、1万4000年前には氷期が終結し、現在の間氷期へと移行した。氷河時代の動物(バイソン、トナカイなど)や植物(落葉樹など)は後退するツンドラとともに北方へ移動していった。この時期の激しい気温変動に伴う不安定な生態環境は生物にとって極めて苛酷だったと思われる。こうした不安定な状況は新石器時代の狩猟採集民を農耕に向かわせたともいわれる。完新世(1万1700年前~現在)における温暖化は、1万1500年前に急速に生じ、世界の気候は温暖で湿潤になり、より安定性の高いものになった。まさにこの安定性の高さこそが農耕に有利な状況となった。


<1万1000年前>

 農耕が始まり新石器時代となる。「農業革命」である。植物の栽培化と動物の家畜化、それに伴う永続的な定住が始まった。この頃の人口は世界全体でも200万~400万ほどで現在の数千分の1程度だった。イスラエルのナトゥーフ文化のコムギ、中国のコメとアワ、メソアメリカのトウモロコシなどが代表的な栽培作物である。約1万1500年前、晩氷期から後氷期への移行期に、海面の上昇によって東アジアでは狩猟漁労採集民が大移動した。この時マンモスも絶滅した。日本海の海面も9000年前に急上昇した。東南アジアのスンダランドとサフール大陸は1万4000年前から縮小が始まり、東南アジアの島々とニューギニア、オーストラリアを残して6000年前に消滅した。1万年前、サハラ砂漠一帯は地中海地方と同じ種類の植物相に覆われていた。居住跡がいくつか発掘された結果、広大な湖の岸辺には漁猟社会が存在したことがわかった。BC3000年ごろまでサハラ地方にはゾウやカバが暮らしていた。また中央サハラにはBC2000年ごろまで定住型の農耕を行う部族がいたこともわかっている。現在では世界最大の砂漠が広がるこの地域は、当時は緑豊かなサバンナ(熱帯地方の大草原)だった。


<6000年前>

 6000年ほど前に中国南部あるいは台湾にいた先住民が農耕をたずさえて南下を始め、3500年までに東南アジアの海岸線からパプアニューギニアの東にあるソロモン諸島に到達、そこから南太平洋に進出、3000年前にフィジー、1300年前にハワイ・イースター島、700年前にニュージーランドへ到達した。


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 人類として新しい段階に到るような大きな変化はアフリカで起きている。アフリカは人類発生の地で、人口も多かったので突然変異の機会が多く、進化する可能性は高かった。言葉や音楽、そして芸術など、世界中の現代人集団が持つ共通性は太古のアフリカにいた共通祖先がパッケージとして持っていた。この共通祖先が拡散して、違う土地で暮らすようになり、違うことを始める。これが文化の多様性の起源と思われる。現生人類の世界への拡散過程でユーラシアやアフリカにいた原人(ジャワ原人・フローレス原人・北京原人など)や旧人(ネアンデルタール人・デニソワ人など)が絶滅した。肌の色や顔の形はわずか数千年単位で変わり得るものである。最近発見された4万5000年前ごろの遺跡証拠から分かることは、アフリカから出た現生人類は海岸線に沿ってオーストラリアへ向かっただけでなく、ヒマラヤ山脈の南側を通って東南アジアからオーストラリアへ向かったルートもあり、また北へ向かい中央アジアからロシア平原及びアルタイ山脈地域へも拡散している。したがって、現生人類のユーラシア拡散はかなり爆発的なものであったと考えられる。DNA分析からは、現生人類は北アフリカから中東のレヴァント地方経由でユーラシア全域に拡散し、今のヨーロッパ人や古代の北ユーラシア人、東アジア人、オーストラリア先住民の祖先となったことが判明している。


 現生人類の出アフリカは、10万年前ごろのイスラエル地域の居住遺跡(カフゼーとスフール)があるが、5万年前ごろまで西アジア地域にはネアンデルタール人が分布しており、その地へ進出した最初の現生人類は何らかの理由で絶滅したと考えられている。次のアジアへの渡来は、7万年前ごろに始まる沿岸移住による南アジアへの進出と、5万年前ごろのユーラシア全体への拡散である。2009年には核DNAとミトコンドリアDNAから、最初のアジア人はヒマラヤ山脈の南側を移動してきたことが分かった。そして、南アジアのミトコンドリアDNAの多様性が極めて高いことから、南アジアで劇的に人口を増やしユーラシア各地へ拡散したと解釈されている。この南アジアの集団の一部がオーストラリアまで達したという仮説が最も妥当性が高い。ボルネオのニア洞窟遺跡から発見された4万5000年~3万9000年前の化石はアボリジニやニューギニア人に類似している。

 もう一つの拡散のルートは、食料源として海産物を利用し始めた現生人類の集団の一部が、6万年~5万年前に現在よりも100mくらい海面が低かったとき、アフリカからオーストラリアへは沿岸のスーパーハイウエイと呼ばれる道があり、それを利用してインドへ到達し、そこからスンダランドを経由してオーストラリアまで移動したという仮説である。 


 なぜ現生人類だけが生物学的な進化によらず、知識と経験の蓄積による文化の力で世界の隅々にまで拡大できたのだろうか? 知力・芸術的能力・気性などの人間の能力は世界拡散が始まる7万年前までに獲得していたと考えられている。人類の移動は食料を求めて行われ、気候変動の影響を大きく受けた。前進と後退のくり返しのなかで移動を志向する気質が生じた可能性があり、現生人類が多様な環境に移動できたのは、道具を作り出す能力を持ち、情報を伝達して共有する能力もあったからである。オーストラリアに渡るのに、おそらくいかだのような海上移動手段を持っていたし、3万年前ごろの北ユーラシアへの進出には、寒く強風の吹き荒れる冬季を乗り切るために、重厚な住居や機能的な衣服の発明が伴っていた。寒さをしのぐための衣服を作るための糸を通す穴のある縫い針は動物の骨から製作された。この小さな道具が極寒の環境のなかで生きのびる現生人類の能力に大変革をもたらした。それぞれの体格に合った衣服を作るだけでなく、複数の動物の毛皮を組み合わせることも可能となり、さらに重ね着もできるようになり、人類は北方の地特有の極端な気温の変化にも対処し得るようになった。このように新しい文化や技術を創造する力こそが、現生人類が世界へ急速に拡散することができた秘訣である。


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(シベリアへの進出)


 モスクワから東へ200キロに位置するシベリアのロシア平原で、2万8000年前のスンギール遺跡から発見された2体の子供の墓から、おびただしい数のマンモスの牙製のアクセサリーや道具類が副葬されていた。狩猟採集民であったが、身分の序列があり、特定の人びとに富が集中していたと考えられる。シベリアへの本格的適応を果たしたのは2万8000年前ごろで、質の高い野外の構造的な住居とフード付きのつなぎ服の防寒衣を発明し、これらの材料として大量の動物を、葉形尖頭器を槍先として使う石器で、狩ることができるようになってからのことである。これらを証明したのが、バイカル湖の西にあるマリタ遺跡とウスチ・コヴァー遺跡である。その後、2万1000年前ごろバイカル湖周辺で細石刃と植刃尖頭器という革新的な道具が生み出され、シベリアだけでなく、日本を含む東アジア、そしてアラスカにも広がった。

 シベリアのバイカル湖近くのマリタ遺跡(2万4000年前)の時代にはトナカイ狩猟と並んで本格的なマンモス狩猟が行われていた。シベリアへの進出を可能にしたのは、石器の効率的生産と狩猟用具の改良・発展に導かれたものである。とりわけ小さな細石刃から大きな道具を作る「植刃尖頭器」の考案が大きく貢献した。この石器の小型化が石材の入手・運搬を容易にし、極地への拡散を加速させる役割を果たした。

 マンモスゾウが出現したのは25万年前ごろとされ、13万年前からの後期更新世には完全に寒冷地に適応していた。当時シベリア南部と北アメリカ南部に広大なステップ(草原)が広がっていた。そこにはマンモスゾウのほかに、ヘラジカ・バイソン・トナカイ・ケサイ・ウマ・オーロックス・ホラアナライオン・ホラアナグマ・サイガ・クズリ・キツネなど、多くの哺乳類が棲んでいた。寒冷のピークは2万1000年前で、その後は次第に温暖化し、1万1700年前をすぎて完新世になると気候はさらに温暖化して現在とほぼ同じ状態になった。この気候の変化により広大なステップは急激に縮小し、タイガとツンドラが広がることとなった。

 1万8000年ごろになるとマンモスハンターは北上を開始し、1万3000年前ごろまでに北アメリカの大氷床の狭い通路、無氷回廊を通ってアメリカ大陸に進出し、無数にいた大型哺乳類を獲り尽くして、1000年ほどで南アメリカの南端に達した。この大量絶滅は環境変化による衰退と人類による最後のとどめにより引き起こされたと考えられる。


[シベリアのマリタ遺跡と古代北ユーラシア人]

 2013年にシベリアのバイカル湖近くのマリタ遺跡から出土した2万4000年前の少年の骨(マリタ・ボーイ)のゲノムはヨーロッパ人およびアメリカ先住民と最も強い類縁関係を示し、現在その地域に住んでいるシベリア人とはごく弱いつながりしか示さなかった。これはその存在を予測していた古代の北ユーラシア集団に一致した。そのゲノムの解析で、アメリカ先住民のDNAの約3分の1が古代北ユーラシア人から来ており、残りが東アジア人から来ていることがわかった。ヨーロッパ人が遺伝的に東アジア人よりもアメリカ先住民のほうに近いわけはこの大規模な混じり合いで説明できる。北ユーラシア集団とヨーロッパ人の祖先は姉妹関係にある。2万4000年前のマリタの住民は北ユーラシア集団であり、現在そこに住んでいる東アジア人とその後のどこかで交代したと思われる。人類の歴史には至る所に行き止まりの道がある。過去にある場所に住んでいた人びとを、今そこに住んでいる人びとの直接の祖先だろうと考えてはいけないという良い例である。


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(アメリカ大陸への移動)


 北米における氷床の発達時期にベーリンジア陸橋が出現していた。その時期は2万7000年前~1万1000年前と考えられている。氷期が終わり、地球が温暖化すると、2つの氷床、カナダ北東部のローレンタイド氷床と、アラスカ南部からカナダ南西部の沿岸地域のコルディラ氷床に分かれ、その間に無氷回廊が出現した。それは1万3000年前ごろで、そこを渡って最初の人類が移動したはずである。しかし、南米のチリの中南部にあるモンテ・ベルデ遺跡が1万4600年前と推定され、1万2000年以前に、別の移動ルートがあった可能性が高くなった。それは第1派の1万6000年前ごろの北西海岸ルートであるが、氷期に露出していた大陸棚は今や海の底であるため検証が難しい。また、シベリア経由で移動してきた集団の規模がきわめて小さかったこともある。3万年以上前にベーリンジアに到達した集団が、最寒気にシベリア側とアラスカ側に発達した氷河に阻まれて数千年間隔離され、2万年前ごろにアメリカ先住民特有の遺伝的特徴を獲得し、その後の温暖化に伴ってアラスカ側に5000人未満の集団で進出して、現在に続く先住民集団になったと考えられる。


[アメリカ先住民の祖先]

 人類がなかなかアメリカに到達しなかった原因は、ユーラシアとの間を隔てていた地理的な障壁にある。寒く厳しい不毛のシベリアがどこまでも広がっていたうえ、アメリカ大陸の東も西も海だったのだ。2万年前の最後の氷河期になってやっと極寒の地で生きのびるのに必要な技能と技術を持った人びとがシベリアの北東端にやって来る。このとき海面が下がって今のベーリング海峡のところに陸橋が現れアラスカに歩いて渡ることができるようになった。アラスカに渡った移住者たちはかろうじて生き延びたが、まだ南へ移動することはできなかった。何キロもの厚さの氷床が合わさってできた氷河の壁が立ちはだかっていたため、少なくとも陸路では不可能だった。カナダは氷床の下に埋もれていたのだ。シベリアのバイカル湖周辺や東アジアからベーリング陸橋に来た人びとはここで足止めされ、1万6000年前に北米の西海岸に氷のない沿岸ルートが開けるまで少なくとも4000年間はベーリング陸橋とその両側の地域に留まらざるを得なかった。この期間に「最初のアメリカ人」と呼ばれるDNAが形づくられた。それは3分の2が東アジア起源で、3分の1が北ユーラシア起源の人びとで、現在のすべてのアメリカ先住民はこのDNA配列を受け継いでいるが、現在のアジア人にはない。その3000年後の1万3000年前ごろには氷床が融けて裂け目ができて、この不毛の地に植物が茂る回廊ができた、それが無氷回廊である。それは植物や動物の遺物の存在や氷河含有物の放射性炭素年代測定によって証明されている。


 1920年代と1930年代、最後の氷河期の末期にアメリカの温帯地域に人が住んでいたことを示す科学的な証拠がニューメキシコ州のフォールサムやクローヴィスの遺跡で見つかった。それ以来、クローヴィス様式の槍の穂先が北米の何百か所もの遺跡で見つかっている。遠く離れた場所から似たような様式のものが出ていることは、人類の拡散が急速に起こった様子を思わせる。クローヴィス文化の出現は地質学で証明された無氷回廊の開通時期である1万3000年前ごろである。クローヴィス文化の担い手が氷床の南に現れた最初の人類であり、今日のアメリカ先住民すべての祖先であると考えるのが自然のように思われた。ところが、1997年に南米チリのモンテ・ベルデ遺跡から解体されたマストドンの骨、木造構造物の遺構、結び目のある紐、古代の炉のほか、北米のクローヴィス文化の人工遺物とは様式の全く異なる石器が含まれていた。放射性炭素年代測定によると、ここの人工遺物の一部は1万4000年前ごろのもので、無氷回廊が何千キロも北で開いた時期より前である。無氷回廊の開通以前にもアメリカ大陸に人類がいたことを示す他の例として、米国北西部オレゴン州のペイズリー洞窟群での発見もある。乱れのない地層中にあった古代の排泄物がやはり1万4000年前ごろのものとわかり、ヒトのミトコンドリアDNA配列も得られた。

 無氷回廊の開通以前に人類はどのようにして氷床の南に到達できたのだろうか? 2万年前の最後の氷河期の最盛期には氷河が海の中にまで突出し、カナダ西部の沿岸に何千キロにも及ぶ障壁を創り出していた。しかし、1990年代に地質学者と考古学者が氷床の後退時期を推測した結果、1万6000年前には沿岸の一部が氷のない状態になっていたことがわかった。現在の沿岸にはこの時代の考古学遺跡として知られているものはない。氷河期以降に海面が100メートル以上上昇しているので、かつては海岸線に沿って遺跡があったとしても水没してしまっているからだ。人類はこの時代以降、氷のない沿岸線を歩くことができ、氷のある部分はおそらく小舟や筏で越えて無氷回廊を通る内陸ルートが開ける数千年も前に氷床の南に到達できたのだろう。このことは、今では古代DNAの解析からも明らかになっている。2014年、モンタナから発掘された1万2600年前の幼児の遺骸から全ゲノムが解読された。解析の結果、この幼児が多くのアメリカ先住民と祖先集団を共有することはわかったが、さらにこのころにはすでにアメリカ先住民集団の間にはっきりした分岐ができていたこともわかった。この幼児は現在のメソアメリカ(中央アメリカ)と南アメリカの先住民すべてのDNAに最大の寄与をした系統に属しており、分岐のもう一方の系統には現在カナダの東部と中央部に住んでいる先住民が含まれる。つまり1万3000年前のクローヴィス文化の前にこうした主要な系統を生んだ集団がいたとしか考えられない。

 2012年にアメリカ先住民のさまざまな52の集団のゲノム解析が行われた。52の集団のうち5つの集団は北極圏またはアラスカやカナダの太平洋岸北西部の集団で5000年前以降にアジアから来たエスキモーに由来するDNAを示したが、残りの47の集団については現在のアジア人とのつながりに差は見られなかった。これはカナダ東部の集団はもちろん、メキシコ以南の集団も含め、現代のアメリカ先住民の圧倒的多数が共通の1つの系統の子孫であることを示していた。つまり、現代のアメリカ先住民の間にある大きな身体的差異は、共通祖先集団から分かれた後に生じたもので、異なる起源集団がユーラシアから移住してきたわけではない。この共通祖先集団は「最初のアメリカ人」と名づけられた。彼らは海岸ルートを通ったか、無氷回廊を抜けたかして、初めて氷床の南に拡がった人びとの祖先で、それほど大きくない集団であった。


 アメリカ先住民の言語の驚くべき多様性については17世紀にすでに注目されていたが、グリーンバーグは3つの語族に分類でき、その遠い過去のつながりを辿ることができると主張している。このうち2つについては議論の余地がない。シベリア、アラスカ、カナダ北部、グリーンランドの先住民の多くが話している「エスキモー・アレウト語族」と、北米北部の太平洋岸、カナダ北部内陸部、米国南西部に住むアメリカ先住民部族の小集団が話す「ナ・デネ語族」だ。3つ目の語族はアメリカ南北の先住民の90%が話す語族で、グリーンバーグは単語の共有率が高いことから「アメリンゴ」と名づけた。これには多くの批判があったが、ゲノムデータから発見された「最初のアメリカ人」にほぼ一致した。グリーンバーグが言語に基づいて最も密接なつながりがあると推定したグループのうち、データが入手できた集団については実際につながりがあることが遺伝子的パターンによって確認された。また、今のアメリカ先住民の言語が細かく分かれていることも、大多数の集団が1回の移住者集団の拡散によってできた子孫であるという歴史を反映している。アメリカ大陸の言語地図はユーラシアやアフリカの言語地図とは質的に異なる。アメリカ大陸では狭い範囲でしか使われない何十もの語族がひしめいているのに対して、ユーラシアやアフリカではインド・ヨーロッパ語族、アルタイ語族、シナ・チベット語族、オーストロネシア語族、バントゥー語族というように密接なつながりのある言語を話す人びとが広大な範囲に住んでおり、これは大規模な移住と集団置換を反映している。アメリカ大陸では「最初のアメリカ人」の拡散が余りにも急速だったため、言語間のつながりは熊手のような構造になっている。これらのことから、遺伝学と言語学両方の証拠から現代のアメリカ先住民集団の多くが、最初に人類が渡ってきた直後にその地域に住んだ集団の直接の子孫であるということが裏付けられる。これは最初の拡散の後、アメリカ大陸ではユーラシアやアフリカに比べて集団の置換が非常に稀だったことを示唆している。

 遺伝学的データによってグリーンバーグの説は概ね裏付けられたが、異なる点もある。エスキモー・アレウト語族とナ・デネ語族の人びとはアジアからの別の流れのDNAを持っているため、遺伝学的にはその他のアメリカ先住民とは区別できるが、両者とも大量の「最初のアメリカ人」のDNAを持っているのだ。エスキモー・アレウト語族は60%、ナ・デネ語族は90%の「最初のアメリカ人」のDNAを持っている。つまり、「最初のアメリカ人」が現在のアメリカ大陸のあらゆる先住民に人口学的な意味で圧倒的に大きく寄与しているのである。しかし、一つだけ例外がある。アマゾンの森に住む一部の集団から地理的に非常に離れているオーストラリアのアボリジニやニューギニア人、アンダマン人と共通するDNAに由来するDNAを1~6%、残りは「最初のアメリカ人」のDNAを持つ謎の集団が見つかっている。それを集団Yと呼ぶことにした。この遺伝的データからは、アジアから最低2つの非常に異なったグループが、おそらく別々の時代に別々のルートでアメリカ大陸にやって来たことを示している。もし集団Yが「最初のアメリカ人」の前に南米の一部に拡がったとしても、その後、「最初のアメリカ人」が進出して、完全にまたは部分的に取って代わった可能性は大いにある。

 アマゾンの少数集団Yは別として、あらゆるアメリカ先住民系統に寄与したのはわずか2つの祖先系統だった。1つは「最初のアメリカ人」、もう1つは5000年前ごろにアメリカ大陸に新しい細石器と最初の弓矢を持込み、古エスキモーの始祖となった集団である。この2つの集団の交雑によって3つの始祖集団が生まれた。それぞれエスキモー・アレウト語族、ナ・デネ語族、そして南北アメリカ先住民の90%が話すアメリンゴである。 


 コロンブスがアメリカ大陸を「発見」した当時、およそ9000万人の人びとが暮らしていたと推定されている。アメリカ大陸への移動第1派は、1万6000年前ごろにカナダの無氷回廊ではなく、大陸棚を通る北西海岸ルートを通ってアメリカ大陸へ、その後およそ1000年で南アメリカ南端まで進出した。アメリカ大陸での縦断がかくも急速に達成されたのは、北米へ最初に渡った集団はすでに酷寒のシベリアへ適応する技術・文化を備えた人びとであったため、温暖な南の方向へ進出していくのは、さして困難なことではなかったと考えられる。新参者がやってきた土地には氷河時代の大型動物がまだ多数生息していた。しかし、マンモス・マストドン(ゾウ)などの大型動物は衰退の危機にあった。急速な温暖化と生態系の大きな変化、および干ばつがこれまでにないほど深厚な打撃を大型動物に与えていたからである。1万3000年前ごろまでには、北アメリカに木の葉型尖頭器のクローヴィス文化、南アメリカにも魚尾型尖頭器を携えた人びとが広がった。その後、500年もたたないうちに、北アメリカのマンモス・マストドン(ゾウ)・ウマ・ラクダ・サーベルタイガー・アークトドゥス(クマ)、南アメリカのマストドン・ウマ・オオナマケモノ・巨大アルマジロなどの大型動物が絶滅してしまった。急速に気温が上昇し、以前は水の豊富だった地域が乾燥したために死んでいったのだ。人類の進出が繁殖に時間のかかる動物の絶滅時期を早めたかもしれないが、人間による捕食は絶滅を引き起こした2次的な原因でしかない。アメリカの大型哺乳類で1万3000年前以降も生き残ったのは、草原バイソン1種だけだった。

 数十か所で採集した花粉化石には、カナダ北東部のローレンタイド氷床がカナダの中部および東部で後退するにつれて、植生が大きく変化したことが記録されている。このころには冬は現代よりも短く温暖になり、夏は涼しくなった。氷河時代の他の動物と異なり、バイソンはロッキー山脈の東にある丈の低い草原で数を増やしていった。そして北アメリカでは、1万年前ごろ、大分化と呼ばれる爆発的な地域文化の多様化が起こった。アメリカ大陸に人類の定住地ができたことにより、熱帯アフリカの原初の故郷から移動を続けた現生人類の大離散の旅は完結した。太平洋の孤島と、むろん南極大陸だけは無人であり続けたが、前者に関しては、それもアウトリガー付きのカヌーが開発され、保存の容易な食糧を栽培できるようになるまでのことだった。

 北米ワシントン州で発見された9200年前の「ケネウイックマン」はその骨の形態からコーカソイドといわれていたが、現在ではコーカソイドよりも日本のアイヌや縄文人に近いとされている。これらのことから、現在、縄文人は髭や体毛が多いことに加えて、骨の形態からも東アジアの多数派であるモンゴル人・中国人より、コーカソイドに近いと考えられている。


 ***


(オーストラリア大陸および太平洋諸島への移動)


 人類はアジア東南部のウォーレシア多島海地域で最初の海洋地域への進出を果たした。オーストラリア各地で、今から5万年~4万年前の遺跡が多く見つかっている。当時は最終氷期にあたり、海面は現在より70~80メートル低かった。そのため、インドシナ半島からジャワ・スマトラ・ボルネオを含む大きな大陸棚、スンダランドが形成され、ニューギニアとオーストラリアも陸続きでサフール大陸を形成していた。過去12万年で最も海面が下がったのは、1万8000年前の最大氷期で、海面は現在より130メートル低かった。しかし、その当時の海岸線と5万年前のそれとを比較すると、この地域ではほとんど変わっていない。その場合でも、少なくとも8ヶ所で、30~70キロメートルの海を渡ることは必要だった。おそらく東南アジア原産の太い竹などを縛り合わせた筏などで海を渡り、サフール大陸の西端に上陸した人類は、オーストラリア大陸を速いスピードで移動し、タスマニアまで2000年ほどで達した。アボリジニの人びとはその子孫である。狩猟採集民だった彼らによって、アメリカ大陸と同様にオーストラリア大陸でも大型動物は絶滅した。そこには大型有袋類、巨大なディプロトドン(2.5トンもあるウォンバット)、ジャイアントカンガルー、フクロライオンなどや、ダチョウの2倍もある大型の飛べない鳥たち、背丈2メートル、体重200キロのゲニオルニス・ニュートニなどや、ドラゴンのようなトカゲ、長さ5メートルに達するヘビがいた。

 サフール大陸北岸を移動した人びとは二手に分かれ、ニューギニア高地と、海を渡って3万5000年前にはニューギニア北東のビスマルク諸島へ、2万9000年前にはソロモン諸島にまで移動していた。その当時の遺跡のほとんどは海岸部の洞穴遺跡で断続的な住居例も多い。


 1万8000年前以降は温暖化が進み、海面が急上昇した。6000年~5000年前ごろには現在より数メートル海面が高くなり、沿岸の低地は水没した。日本では縄文海進として知られている。この頃に、中国南部の海岸から押し出されるように台湾を経由してフィリピン・インドネシアなどへ移動を始めた集団がいた。言語的にはオーストロネシア諸語(オセアニア語)を話す人びとで、土器を作り、植物を栽培し、動物を飼育する新石器農耕民だった。

 太平洋の島々(オーストラリアとニューギニアを除く)で話されているオセアニア語は台湾先住民やフィリピン・インドネシアの主要言語と類似している。その言語はマレー半島、ベトナムやカンボジアの一部地域、さらにはアフリカのマダガスカル島にまで及んでいる。新石器時代の東南アジアの農耕民は3500年前にニューギニアの東にあるビスマルク諸島に最初に進出した。彼らはの直接の起源地は分かっていないが、ラピタ土器を使用したラピタ集団と呼ばれている。彼らはイヌ・ブタ・ニワトリ、それにタロイモ・ヤムイモ・ココヤシ・バナナ・パンノキの苗や実を舟に乗せて、太平洋の新しい島を目指していった。フィジーに3000年前、サモアに2850年前、ポリネシアのマルケサス諸島・タヒチに1600年~1300年前、ハワイとイースター島に1300年前、ニュージーランドに700年前に到達している。ミクロネシアのマーシャル諸島にはサモアから2000年前に到達。実はポリネシアにはサツマイモやパパイヤなどアメリカ大陸由来の作物が存在する。これらはポリネシア人が南アメリカへ到達し、持ち帰ったものである。また、南米のチリからポリネシアのニワトリと同じDNAをもつ1300年前~1400年前のニワトリの骨が出土している。彼らは三角帆を持ったマスト付きのアウトリガーカヌーを用いて遠洋航海を行った。メラネシア東部とポリネシアでは、船体を2つ並べて間に甲板を張ったダブルカヌーが頻繁に利用された。ポリネシアの人びとは東南アジア出身だが、長距離航海の寒さに適応するため、大柄で筋肉質の体になったと言われている。

 ゲノムから見たポリネシア人は、男性の4割はオーストロネシア(東南アジア)系で6割はニューギニア先住民系である。一方、女性のほとんどはオーストロネシア(東南アジア)系である。

 ときどき、テレビのドキュメンタリーでマダガスカル島の動植物を紹介する番組がある。それを見ていると現地の人びとの容貌は、どことなく東南アジア的との印象を受ける。数千年前に舟で東南アジアから移動したのか、あるいは5万年前ごろに海岸沿いを歩いてアフリカからアジアへ移動した人々と同じグループの人びとが、その後に孤立した島になったマダガスカル島で生き残ったのか、どちらしかないように思われるが、言語の系統からは東南アジアから移動したと考えられている。


 ***


 こうした冒険に踏み切った祖先たちの勇気には真に驚きを禁じ得ない。徒歩でツンドラや山岳地帯を踏破しただけでなく、カヌーを操り大洋に漕ぎ出したのだった。ポリネシアの船乗りたちは、太平洋を何千キロも旅して、南米チリの海岸から3200キロの地点に位置する遥か彼方のイースター島に到達している。氷期は、新大陸への道を開いただけでなく、人類の文明の夜明けをもたらす契機にもなった。この時期にはマンモスをはじめとする大型動物が広く繁殖したが、これらを狩るためには、社会の中での緊密な協力と結束が欠かせなかった。同時に、死者を武器や道具、食料と共に埋葬する習慣も始まった。これは死後の世界という考え方が生まれたことを示している。

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