第4話 人類の進化と発展

 人類学者たちは初めて類人猿が出現した時期を700万年前ごろと考える。それは主としてその頃の化石証拠が今日のチンパンジーとの共通祖先から類人猿が分離してきたことを示すことによる。


[猿人・原人・旧人・新人]

 類人猿と人類を、猿人・原人・旧人・新人という区別で呼ぶのは日本だけだが、ここでは便宜上この呼称を使用する。日本では、サヘラントロプスとアルディピテクスは初期猿人、アウストラロピテクスは猿人、ホモ・ハビルスとホモ・エレクトスは原人、アジアで有名なのはジャワ原人・北京原人で、彼らはホモ・エレクトスである。ホモ・ハイデルベルゲンシスとネアンデルタール人、デニソワ人は旧人、ホモ・サピエンスは新人となる。しかし現在、ホモ・サピエンスは新人と呼ばれることはなく、現生人類と呼ばれる。それは現代人のことでもある。


 次にあげるのは、猿人から現生人類までの代表的な人類種であるが、同時期には他のいくつかの人類種も生きていたことがわかっている。700万年前ごろからこのように直線的に進化したわけでもない。長い間、数少ない化石を基に人類の起源を研究していた研究者たちは、初期人類の進化は直線的なもの、つまり進化は1本の線に沿って起きたと考えていた。ところが1970年代に入る頃には、東アフリカ、そしておそらく別の地域でも、ヒト族には1本どころではない多様性があり、そのほとんどが未知の存在なのだということがわかってきた。今では、700万年前から200万年前ごろのアフリカ東部で、非常に多様なヒト族が栄えていたことがわかっている。人類の歴史は固有の適応力を持ったさまざまな種や亜種たちの共存の物語である。


 初期のヒト族は東アフリカの谷や高地を中心に生息していたが、やがて大地溝帯からチャド湖方面と南アフリカ方面の2方向へ拡散していった。その多くはまだ謎に包まれているが、なかでもアウストラロピテクスはとにかく広く生息していたようだ。多くの化石が出土している現在、人類の進化は無数の枝を持つ1本の樹と考えられている。どこにもつながることのなかった枝が大半だが、何本かは初期ヒト族からホモ・エレクトスを経て、最終的には現生人類へと伸びてきた。我々現生人類、すなわちホモ・サピエンスにつながる系統が誰なのかは、まだ推定の域を出ていない。したがって今後、新しい発見があって人類の進化図に新たな種が追加される可能性は大いにある。


700~600万年前(サヘラントロプス)

 600万年以上前にチンパンジーとの共通祖先から分かれたころの類人猿の一つにサヘラントロプスがいる。頭骨化石は2001年に西アフリカのチャド、サハラ砂漠の南側に広がるジュラブ砂漠で発見された。人類学者以外には大型猿との違いはよく分からないが、樹上と地上の双方で生活し、地上では拳を地面につくチンパンジーやゴリラのようなナックル歩行者ではなく、立ち上がって二足歩行をしていた。歯からは、植物中心の食性だが、昆虫やトカゲなども食べる雑食だったと考えられている。彼らは当時ゆっくり乾燥しつつあったアフリカ東部の森林にいたと考えられている。


550~440万年前(アルディピテクス・ラミダス)

 エチオピア北部に生息していたアルディピテクス・ラミダスは樹上能力と地上での直立二足歩行の双方を持った初期の猿人である。現代のチンパンジーとほぼ同じ体格で、脳の大きさも同等で、歯からは雑食であったと推定されている。また、関連する化石群からは木の多い環境が示唆されている。アルディピテクス属として知られている古代種は2つしかない。どちらも樹上能力と地上での直立二足歩行の双方の特徴を持っている。ラミダスについてはわかっていないことも多いが、人類の進化の中で重要な位置を占め、アフリカ類人猿から分岐した最初のヒト族に近い。


420~190万年前(アウストラロピテクス)

 アウストラロピテクス(南のサルの意)、直立二足歩行で、脳容量は現生人類の3分の1ほどで類人猿なみ。ケニア北部のトゥルカナ湖岸で発見されたアウストラロピテクス・アナメンシスは疑問の余地なく直立の足歩行した420万年前~390万年前の最古のヒト科の化石である。その下腿骨は現代人のように膝側が補強されており、効率の良い二足歩行の動きに欠かせない基本的な条件をすでに獲得していたことを示している。彼らは水辺に近い森林や低木林地帯で暮らしていたと考えられ、最初の二足歩行の獲得が草原に適応する過程で成し遂げられたという考え方をより強固にする。エチオピアのディキカと呼ばれる発掘地で発見された330万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス(セラムと名づけられた3歳の幼女)は二足歩行していたが、夜に樹上で眠り、また好物の食べ物を採取するするために、樹上生活の習慣を残していたと考えられる。当時そこは水の豊かな扇状地で近くには森や草地が広がっていた。また、同じくエチオピア北東部のハダールで比較的完全な骨格(約40%)が発見され、容姿が復元され有名になった320万年前のアウストラロピテクスの「ルーシー」も、おそらく自由になった手で木の棒を握って動物や物を叩いたり、細い枝で木の中の幼虫を穿うがり出したりしていたと推測され、ずいぶんと人間らしさが感じられるようになる。「ルーシー」は小柄で、身長は110 cm、体重30キロ程度で、腹が大きく、大きい歯とものを噛み砕くのに適した顎を持っていたので、硬い根や種子、皮の固い果物を主な食料とする草食性だったと考えられる。また、タンザニア北部のラエトリで見つかった2つの個体による70個の足跡には土踏まずが存在し、親指と他の指の間が離れてはいるものの平行にならんでいた。彼らは「ルーシー」と同じ種である。

 アウストラロピテクス類は明らかにヒト科の仲間だが、直立歩行に適した現生人類のような骨盤と脚に特殊化していながら、類人猿のように小さな脳頭蓋と前方に突出した大きな顔面を併せ持っていた。さらに、エチオピアのディキカにある川をいくらか上流に遡ったミドル・アワシュ・バレー地域のブーリと呼ばれる250万年前の遺跡から発見されたアウストラロピテクス・ガルヒはその腕と脚の骨、そしてルーシーよりも若干長い後肢を合せると、四肢の力が強かったことがうかがえ、より進歩したアウストラロピテクスで、ホモ属の直接の祖先の可能性が高いと考えられている。そのブーリの堆積層から出土したいくつかの哺乳動物の骨に鋭い石の破片でつけられた明らかな傷があった。ブーリでは石器は見つからなかったが、260万年前の石器が近くのゴナから発見されている。このことはヒト科の間に画期的な行動の変化が起きた証しである。

[南アフリカ、もう一つの人類の揺りかご]

 2010年、ヨハネスブルグ北部のマラバ洞窟でアウストラロピテクスの新種、アウストラロピテクス・セディバの化石が発見されたと発表された。この発見で注目すべきはその化石年代の新しさだ。アウストラロピテクス・セディバは初期のホモ属であるホモ・ハビルスや、エチオピアやケニアなど東アフリカ北部のアウストラロピテクス類、噛む力が強い頑丈型猿人のパラントロプスと同じ頃となる240~190万年前に生きていたのだ。いくつにも枝分かれした人類の系統図を構成するすべての種がそうであるように、アウストラロピテクス・セディバもさまざまな解放学的特徴が混在し、アウストラロピテクスに似ている部分もあれば、ホモ属に似ている部分もある。だがセディバの一番の特徴は、完全な二足歩行できるように形が変わった骨盤である。人類史の3分の2近くにおいて脳の発達の兆候は見られないが、二足歩行はそれぞれの種が独自に発達させた。つまり、人類の進化は決して直線的ではなく、さまざまな共通の祖先、遠い親戚種などの個体群が局所的な生態系の変化や絶滅、行き詰まり、共生を経験する中で何度も枝分かれし、その中で生き残った一系統が今の我々なのだ。人類の歴史は、自ら直面した環境における可能性の追求や環境の活用法が如何に多様だったかを物語っている。


240~180万年前(ホモ・ハビルス)

 最初のホモ属であるが、それ以前の猿人並の小柄で華奢な体型のままだった。体毛はすでに少なくなっていたと推測されている。ホモ・ハビルス(器用な人の意)は小石を割って角をとがらせた最古の道具、すなわち打製石器を使用した。しかし、2015年にケニアの遺跡から330万年前の打製石器が発見された。それはホモ・ハビルスよりも古い時代に石の道具を作る能力があったことを示している。タンザニアのオルドヴァイ渓谷で発見されたホモ・ハビルスは現生人類の半分ほど(600~800cc)に大脳化していた。気候変動により森林が後退しつつあった時代に広大なサバンナに住んでいた。石器を使って肉も食料にしていた雑食だった。ホモ・ハビルスの見た目は、最後のアウストラロピテクス類や頑丈型猿人のパラントロプスに似ていた。


190~100万年前ごろ(ホモ・エルガステル)

 新しい身体構造を有するホモ属のホモ・エルガステルは、体が細くて軽く、完全な二足歩行を行い、脳の容量が600~800ccとホモ・ハビルスと同様に発達していた。このようにホモ・エルガステルはホモ・ハビルスとは見た目が異なっていた。190万年ほど前、北半球に氷河ができ始めた影響で東アフリカと南アフリカは乾燥化が進み、見渡す限りサバンナで覆われるようになっていた。すると効率的に体を冷やすことができ、手作業に長けた新しい人類が現れる。それがホモ・エルガステルだった。彼らは複雑な社会集団を作って暮らし、雑食で、そして何より長距離を歩ける能力を有していた。

 また、体毛が少なくなったことにより発汗作用を獲得し、草原を長い時間走って狩をすることができるようになっていた。おそらく小集団で狩猟採集生活を送り、火を扱うことのできた最初のホモ属でもあった。さらにホモ属として初めて石や木で斧やナイフなどの道具を作り、狩りもするようになり、肉を食料にする機会を増やした。アフリカのケニアのトゥルカナ湖畔で発見された160万年前の化石はホモ・エルガステル(働く人)と名づけられた。1984年には少年の大部分の骨格が発見され、トゥルカナ・ボーイと呼ばれている。身長は160センチで体重は68キロと推定されているこの少年は現代人によく似た体のバランスを持っており、完全な直立二足歩行の体型である。しかし脳の容量880ccや頭蓋骨と下顎骨は原始的である。樹上の生活を完全に放棄した証しはその骨格のいたるところに現れている。彼らはサバンナを生活拠点にしていた。これだけ広い地域に分布していたということは、環境の変化に対応する能力を獲得していたことになる。さらにハンドアックス(握り斧)を発明したのも彼らと思われる。


180~5万年前(ホモ・エレクトス)

 ホモ・エレクトス(直立する人の意)はアフリカだけでなく、ユーラシアでも発見された最初のホモ属で、現生人類の3分の2ほどに大脳化し、身長は150~170センチほどで手足も長く、顎と歯も縮小化していた。脳が大きくなると、頭蓋骨も大きくなる。その結果、女性の骨盤の形が変化した。それでも成熟した胎児を出産するのは困難だったため、未熟な段階で生まれるようになった。幼児期の長期化が始まったのはおそらくホモ・エレクトスからと思われる。またメスの発情期が消滅したのもホモ・エレクトスからだと考えられている。発情期のメカニズムが完全になくなった動物は人類以外にはない。これは幼児期がのびたことに起因する。もし子育て中に発情期がきたら、子供は放ったらかしにされて命を落としかねないからである。子孫を残すためには遺伝的に発情期をなくす必要があった。ホモ・エレクトスがアフリカから外へ移動できたのは、この体型の大きな変化と考えられる。また当時の乾燥化した気候が生息環境の拡大に拍車をかけた可能性がある。ほぼ同じ時期にアフリカからユーラシアへ他の哺乳動物も拡散している。

 ホモ・エレクトスは環境の変化への順応性が非常に高かったことは明らかだ。カフカス(コーカサス)地方のジョージアのドマニシから180万年前の化石が見つかっている。さらにヨーロッパ各地でも発見されている。ホモ・サピエンス到来前のアジアにいたジャワ原人は180万年前~160万年前にジャワへ到達し、5万年前ごろまで存続していた。北京原人は70万年~40万年前ごろに生息していたと考えられている。北京原人やジャワ原人は脳容量が800~1200ccと猿人の倍かそれ以上あり、身長も160~170cm程度と、猿人(100~150cm)より大型化していた。眼窩上隆起で脳頭蓋(ずがい)は前後に長く高さは低い。これらの原人集団は約5万年前以降にアフリカ起源のホモ・サピエンスに取って代わられた。

[ホモ・フロレシエンシス]

 2003年にまったく予想外の場所で、予想外の人類が発見された。それはインドネシア西部のウォレス線の東側海上にあるフローレス島で発見されたホモ・フロレシエンシス(フローレス原人)である。彼らは70万年以前にフローレス島にやって来て、深い海によって隔離状態になった人びとだ。身長は105~110cmで、脳容量がチンパンジーや猿人並みの400cc程度で、現代人の3分の1、原人の半分ほどしかない。彼らは100万年前ごろにフローレス島に渡ってきた原人の子孫で島嶼化によって縮小したと考えられ、7万4000年~5万年前ごろまで生息していた。

[ホモ・ナレディ]

 さらに、最近になって人類進化の系統樹にホモ属の新種が加わった。それはヨハネスブルグ近郊の洞窟で発見された。このホモ・ナレディと呼ばれる人類の化石は、脳が小さく、歯には原始的特徴が見られ、指は曲がっているが、現生人類のような足・脚・手首・腕をしている。広い範囲を巧みに歩くことができて、必要に応じて丸まった指を使って木に登ったようだ。この身体構造は鬱蒼と木々が茂る森と、何もない開けた荒野や草原が交互に存在する環境に適応した樹上型と地上型のハイブリッドだ。2017年にホモ・ナレディの生息年代が33万5000年~13万9000年前と発表された。これは本当に驚くべき発見だ。アフリカでは、ある人類の集団がホモ・サピエンスとして進化する一方、その南部では現生人類の3分の1の大きさの脳しか持たないホモ属が、樹上生活も送りながら、乾燥する環境に適応を果たしていたのだ。


140万年~80万年前(ホモ・アンテセッサー)

 スペインのアタプエルカで発見された100万年前ごろの人骨をホモ・アンテセッサーと名づけ、ネアンデルタール人と現生人類両方の特徴がみられることから共通祖先集団の骨であると指摘されている。現在、このホモ・アンテセッサーからホモ・ハイデルベルゲンシスが分岐し、そのホモ・ハイデルベルゲンシスからネアンデルタール人、デニソワ人、そしてホモ・サピエンスに到る系統の3つに分かれたという説が議論されている。さらに今後、もう1つか2つ未発見の別系統の化石が見つかる可能性も指摘されている。


80~30万年前(ホモ・ハイデルベルゲンシス)

 100万年前ごろの化石ヒト科の系統図はあまりはっきりしない。アフリカの関連化石がこの頃のものはごくわずかしかなく、また広範囲に散らばっているためだ。しかし、ホモ・ハイデルベルゲンシスの最古の形跡がある60万年前ごろには格段にはっきりしてくる。最初に発見されたはドイツで、その後、フランス、エチオピア、ザンビア、ギリシャ、中国、その他の地域で見つかっている。彼らは狩猟民で、がっしりとした体格でさまざまな点でネアンデルタール人の骨格の前身を思わせる。アフリカからユーラシアに拡がっていったと考えられる。ホモ・ハイデルベルゲンシスの脳容量は現生人類であるホモ・サピエンスと同程度となり、小屋を建て、火を炉で本格的に使用し、木槍、石刃などの道具も製作していた。イスラエルで80万年前の炉の痕跡が見つかっている。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの共通祖先である。火の使用は人類の進歩に革命を起した。火がもたらしてくれる暖かさと明るさのおかげで、活動範囲は寒い場所や暗い場所にも拡がった。例えば、洞窟は火を使えば悪天候もしのげるし、野生動物からの攻撃を防ぐこともできた。また、火を使って調理すると、生では消化できない種子や苦くてまずい草なども食べられるようになった。このように、火は人類の共同生活に欠かせない道具になった。ホモ・ハイデルベルゲンシスが支配していた時代、およそ60万年前~30万年前はホモ属にとって多くの生活様式と技術革新の舞台となった。


60~3万年前(ネアンデルタール人、デニソワ人)

 全ゲノムからの分析では、77万年~55万年前に現生人類の祖先がネアンデルタール人やデニソワ人と分岐し、続いて47万年~38万年前にネアンデルタール人とデニソワ人が分岐したとされる。ネアンデルタール人とデニソワ人は現生人類(ホモ・サピエンス)のサブグループと位置づけられる。なぜならその2つが現生人類と実際に交配していたことが今ではわかっているからだ。

[ネアンデルタール人]

 ネアンデルタール人の系統が生きていた時代のヨーロッパにホモ・ハイデルベルゲンシスもまた存在していた。ネアンデルタール人は25万年前にヨーロッパで進化し、その後西アジア・中央アジアへ進出、20万年の間それらの地域の主だった。その化石はジブラルタルやイスラエルなどの南方でも見つかっている。アフリカの熱帯・亜熱帯域で誕生したホモ・ハイデルベルゲンシスから分かれ、ヨーロッパの氷期環境に適応したのがネアンデルタール人である。したがって、寒さをしのぎ、暖を取るために衣類その他の文化的装備に頼っていたと思われる。彼らの石器はムスティエ文化と呼ばれ、硬質な石英であるフリントやチャートの上質な破片を調整しハンドアックス(握り斧)、スクレーパー(こそげ採るためのへら状の石器)、尖頭器(槍先)を作ったが、それ以上の技術的な進歩を遂げなかった。その長い存在期間を考えると驚くほど新しい工夫が見られない。基本的に10人前後の家族集団で生活し、その居住跡にはあまり特徴がないが、灰の集積があることから日常的に炉で火がたかれており、狩猟で手に入れた肉や採集植物に熱を通したり、危険な捕食動物を遠ざけることをしていたと考えられる。

 身体的特徴は、幅広の大きな鼻、前後に長く上下に低く横に膨らんで後頭部が突き出た大きな脳頭蓋(脳容量は現代人の平均値より大きい)、顔面部が前方部に突き出る長い顔、アーチ状に隆起する目の上の骨、大きな前歯、頤(おとがい、顎の突き出し)のないのっぺりした下顎、幅広の胸部と幅広の骨盤を持つ胴長短足の体躯で、身長は高くなかったが、腕や脚の関節部が大きく、骨太で筋肉隆々の体つきをしており、DNA分析から肌は色白で髪は赤毛だった。その脳構造は、さまざまな認知機能を司る前頭葉はあまり発達していないが、視力関連機能が集中する後頭部は現生人類(ホモ・サピエンス)より大きかった。また成長期は早期ヒト科と比べれば長くはなったが、それでも現代人よりは3~4年早く成熟していた。このような特徴を持つネアンデルタール人の化石がヨーロッパから中央アジア、西アジアで300体以上発見されている。ネアンデルタール人の骨の傷から、彼らはまだ投げ槍を使用せず、突き槍で至近距離から獲物を仕留めようとしたと考えられる。死者のための埋葬の痕跡が各地で見つかり、ホモ属で初の葬儀がとり行われていたことが分かった。彼らの平均寿命は35歳程度と短く、アジア西部とヨーロッパの広大な地域に居住していたわりに、全人口が7万人に達することはなかったことが遺伝的研究で明らかにされている。

 現生人類のうち、ヨーロッパ人とアジア人はその核DNAの1.5%~2.1%をネアンデルタール人と共有するが、サハラ以南のアフリカ人はそうでない。すなわち、現生人類が出アフリカを果たした後、ヨーロッパ人(コーカソイド)とアジア人(モンゴロイド)が5万年前ごろに分岐する前に、ネアンデルタール人から遺伝子流入があったと解釈できる。現在、その年代は5万4000年~4万9000年前と分析されている。現生人類は、寒冷な環境への適応とされる、肌を白くする、皮膚を厚くする、体毛を多くする遺伝子はネアンデルタール人から受け継いだと考えられている。ネアンデルタール人の消滅と現代人の拡大の要因の一つとして、気候変動への適応能力の差がある。最終氷期後半、5万年から1万2000年前にかけて、気候の急激な変化や変動の繰り返しがあり、遺伝学的に健康によくないとされるゲノムの多様性が少ない血縁関係のある小集団で活動するネアンデルタール人は、狩猟に適した土地が狭まる中で、次第に生息数を減らしていき、およそ4万1000年前から3万9000年前の間に絶滅した。現生人類であるクロマニヨン人の登場から数千年で絶滅したことになる。

[デニソワ人]

 2008年に発見されたシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟出土の5万年~3万年前のデニソワ人はネアンデルタール人ともホモ・サピエンス(現生人類)とも異なる。デニソワ人の場合、発掘された身体遺物(数本の歯と小指の先端の関節1個)がとても少ないので、その骨格はよくわかっていないが、臼歯が大きいことから硬い生の植物を多く含む食事をとっていたと考えられる。そのDNAの3%~6%が現代のニューギニア人に受け継がれていると推定される。ネアンデルタール人由来の約2%という値より多い。つまり、ニューギニア人のDNAのうち、合せて5~8%が旧人類から来ていることになる。これは旧人類の寄与として現代の集団の中では最大の値である。デニソワ洞窟での発見は、現生人類がアフリカや中東から移住する際に旧人類と交配したのは例外的な出来事ではなかったことを示している。おそらく中国南部あるいは東南アジアのどこかでデニソワ人と現生人類との交雑(生物学的異種間交配)があったと推定される。シベリアとニューギニアは遠く離れている。ではどこで交配は起こったのだろうか? デニソワ人由来のDNAはヨーロッパや中東、アフリカでは検出されていないが、アルタイ山脈から東および南アジアでは少ないが検出されている。ニューギニアは、氷河期においてもアジア本土側のスンダランド(現在のインドシナ半島とインドネシアの島々がつながっていた地域)とニューギニアを分ける深い海溝による境界線であるウォレス線の東側にある。この線の両側に住む動物に違いがあることはすでに19世紀に発見されている。アジア本土で交配が起こり、アジア本土ではその後にデニソワ人のDNAを持たない現生人類の第2派が押し寄せて、そのDNAを持つ集団に取って代わったと考えられる。交配がアジア本土のどこで起こったかについてはまだわかっていない。考古学的には、東南アジアからは大きな脳を持つ旧人類の遺骨は見つかっていないが、中国北部や中国南東部からは20万年前ごろの旧人類の遺骨が発見されており、それらがデニソワ人の骨だとしてもおかしくはない。しかし残念なことに、中国では骨格試料の国外持ち出しが禁止されているため、まだDNA解析が行われていない。交配で獲得されたデニソワ人由来DNAは生物学的に重要な意味を持っていた。それは赤血球細胞で活発に働く遺伝子の変異で、アジア本土にいたデニソワ人の一部が高地への適応性を持っていて、チベット人の祖先がデニソワ人との交配を通じてその遺伝子を受け継いだのではないかと推測されている。


30万年前~現在(ホモ・サピエンス)

 2004年にモロッコで発見された約30万年前の頭骨などが、解剖学的現生人類と共通の特徴を持つ最古の化石とされることから、ホモ・サピエンスの誕生がそれまでの20万年前から30万年前に遡った。

 ホモ・サピエンス(現生人類)はホモ(ヒト)属のサピエンス(賢い)種、すなわち「賢い人」の意である。ホモ・サピエンスはアフリカで出現した。おそらく1つの孤立した集団から始まったと考えられているが、その誕生の状況や場所はまだわかっていない。種の新たな特徴として細身の体、1400ccを超える脳容量、石器製作技術、発達期間を長くする遺伝子(ネオテニー)の発現が挙げられる。このような特徴も他のホモ属とは異なるが、すべての生き物とホモ・サピエンスを大きく分ける象徴化の認知体系が全く違う。その体型と認知体系は同時に獲得されたものではない。骨の構造から見て現代人と同じような化石は、1960年代の終わりごろにエチオピア南部で見つかった頭骨でおよそ20万年前のものである。ごく最近にもエチオピア北部から16万年前とされる3点の頭骨が発見された。この20万年前~16万年前という年代幅は、分子人類学者がミトコンドリアDNAで計算した年代と一致している。1987年に世界中の多様な人びとから採取したミトコンドリアDNAの文字列を解析することによって母型の系統樹を再現した結果、すべての現代人の祖先にあたる「ミトコンドリア・イヴ」と呼ばれる1人の女性の誕生は16万年前のサハラ以南のアフリカであると結論づけられた。

 2018年1月にはイスラエルで19万4000年前~17万7000年前とみられるホモ・サピエンスの化石を発見したと、イスラエルや米国などの研究チームが発表している。アフリカ大陸の外で見つかったホモ・サピエンスの化石としては最古になるという。ホモ・サピエンスがアフリカを旅立った年代が従来の説より少なくとも5万年遡り、20万年前ごろになる可能性がある。アフリカ以外では、これまでも12万年前~9万年前のものが今回の発掘場所近くのイスラエルで見つかっていた。しかし、これら初期のユーラシアのレヴァント地方への移住者たちは体格の良いネアンデルタール人との競争に破れ、その地に定着できなかったようだ。この地域のネアンデルタール人の遺跡は16万年前~4万5000年前のものである。

 人類誕生700万年の歴史の中で類稀たぐいまれな現代人的な感性を獲得したのは、徐々にではなく、突然かつ最近のことだったという事実が次第に明らかになりつつある。それは7万年前までにはアフリカで獲得されたと思われるが、その地域はまだ確定されていない。我々の祖先はさまざまな情報を処理して伝達する非象徴的かつ非言語的なやり方から今日享受している象徴的かつ言語的状況へと想像を絶するほどの変化を遂げた。それは人類の歴史に前例のない認知状態の質的な飛躍、つまり「認知革命」である。象徴的活動とは、芸術や技術など目に見える形で表現されたもので、例えば、芸術では貝殻から作られたビーズのネックレスなど、技術では柄が付いた銛などの骨器や細石刃などである。

[クロマニヨン人]

 クロマニヨン人は認知的に我々現代人と同じだったと判断するにたる証拠をすべて残している。クロマニヨン人がヨーロッパに入ってきたのは4万5000年前ごろで、ヨーロッパにおける上部旧石器時代の物質文化を持込んだ。ショーヴェ、ラスコー、アルタミラの洞窟にある驚くほど躍動的な動物壁画は有名である。彼らの遺跡の数や大きさに示される人口密度の高さから環境をうまく利用できた能力の高さがうかがえる。彼らが登場してから数千年でネアンデルタール人は絶滅してしまった。クロマニヨン人がほぼ間違いなく言語を持っていたのに対し、ネアンデルタール人はそうではなかった。言語は最高度の象徴化で物事を捉える活動であり、おそらく現代人の象徴的意識を獲得するために中心的な役割を果たしたと考えられる。クロマニヨン人は鼻が低く、頬骨も大きく、浅黒い肌を持つなど現代の典型的なヨーロッパ人とはやや異なる。平均身長は184cmあり、かなり高かった。ヨーロッパにおける上部旧石器文化(4万2000年前~1万3000年前)はクロマニヨン人の文化であり、細石刃や木の葉型の尖頭器などのすぐれた石器、繊細な骨角器、貝や動物の歯で作ったビーズ、マンモスの牙を彫刻したペンダント、洞窟の中や野外の見事な壁画や線刻画など自分たちの精神世界を芸術で表現した。クロマニヨン人は投げ槍を使用し、1万8000年前ごろには片側にフックをつけた投槍器を発明した。槍は1万1500年前ごろに弓矢が利用されるまで最重要な狩猟具であり、その機能向上はクロマニヨン人の繁栄の大きな一因となった。また、彼らは動物の肉だけでなく、毛皮も利用した。狩猟用の網を発明して小動物を捕獲したり、角製の返しがついたモリ先でサケ・マス・スズキ・ウナギなどの漁を行っていた。また、クロマニヨン人の部族間には交易網や情報網が存在した。1万3000年前ごろには、細石器というはめ込み式の小さな石器を中心とするヨーロッパにおける中石器時代(1万3000年前~9000年前)がはじまった。そのときまでに温暖化はかなり進展し落葉樹林帯がヨーロッパに広がり、マンモスやケサイやバイソンはすでに絶滅し、それぞれの土地でより多彩な食資源に目を向けるようになったが、壁画などは途絶えてしまった。クロマニヨン人による狩猟社会は消滅したのだ。そしてヨーロッパでは9000年前以降の新石器時代になり、西アジアから伝わってきた新しい生業形態である農耕・牧畜がヨーロッパでも始まった。

[東アジアへの進出]

 東アジア地域への進出がいつ達成されたかはあまり明らかでないが、北京近郊の周口店遺跡群からは、4万年前のホモ・サピエンスの化石人骨が見つかっており、日本列島への渡来も3万8000年前ごろと想定される。シベリアの北極海に近いヤナ河の下流域では3万1000年前のヤナ遺跡が発見されている。ウラル北部でも4万2000年前ごろに人の居住が始まっているらしい。但し、彼らが定着したとは言えない。この時期はやや温暖な時期に相当し、ヤナの周辺でも動物相が豊かであった。しかし、これ以降、この地域の居住条件は悪化し、やがては極地砂漠のような状態へと変化していった。シベリア北部の次の遺跡はベレリョフ遺跡で、すでに氷期は終結に向かい気温が上昇してきた1万6000年前である。一方、氷期の寒さが厳しさを増しつつあった2万8000年前ごろ、バイカル湖周辺では、マリタやウスチ・コヴァーなどの遺跡で知られている文化が発展し、大量の動物を狩る技術が発達し、豊かな動物資源を利用して、質の高い機能的な住居や防寒衣が作られるようになった。


 ***


 このように、人類の進化の過程で数多くの類人猿やホモ属が存在していた中で、なぜホモ・サピエンスだけが生き残ることができたのか? それは、進化の過程で手に入れた形質や認知能力、そして環境への適応能力であったと推定されている。


 ホモ・サピエンスへの進化の過程で手に入れた形質をまとめると、次のようになる。

 頭蓋は球のように丸く大きい(大脳化)。顎が小さく華奢になり、顎の先端部のおとがい(chin)が前に突き出ている。それは発声に必要な筋肉を支えるためとか、下顎を引いたときに気道を圧迫しないためと言われている。体毛が類人猿に比べて極端に薄い。その理由は、汗腺を発達させ大量の汗をかけるようにして、効率的に体温を調節できれば、暑い昼間に長時間歩いたり走ったりすることができるからである。粘膜でできた唇や女性の胸が膨らんだのは、直立により見えなくなった生殖器を補完するためで、唇は生殖器の、乳房は臀部の擬態だと言われている。また、他の哺乳動物に比べ、人類は相対的に頭が大きく、骨盤が小さい。胎児は産道を通れる大きさで生まれるため、未熟のままであり、独り立ちするまでに長い期間が必要となる。こうした人類の変化は変動が激しい特殊な環境や何度も繰り返された生息域の拡大の中で起こった。

 またホモ・サピエンスの台頭に伴い、過去10万年間に初めて人類は食物連鎖の頂点へと飛躍した。頂点への道のりにおける重大な一歩は、火を手なずけたことだった。一部の人類種は80万年前にときおり火を使っていたかもしれないが、約30万年前には、ホモ・エレクトスやネアンデルタール人と、ホモ・サピエンスの祖先が日常的に火を使っていた。人類は頼りになる光と暖かさの源泉と、餌食えじきを求めてうろつくライオンたちに対する恐ろしい武器とを同時に手に入れたのである。だが、火の最大の恩恵は調理が可能になったことだ。イモ類や穀類といった、そのままでは人類には消化できない食べ物も、調理することで主要な食料となった。また、噛むのも消化するのもぐんと楽になった。長い腸と大きな脳は、ともに大量のエネルギーを消費するため、両方を維持するのは難しい。調理によって腸を短くし、そのエネルギー消費を減らせたおかげで、図らずもネアンデルタール人とホモ・サピエンスの前には、脳を巨大化させる道が開けた。ホモ・サピエンスが新しい土地に到着するたびに、先住の人びとはたちまち滅び去った。

 人類の脳は加熱調理によって大きくなったとも言われている。人類は生ものを常食とすることはできず、その体は加熱した食べ物に適応していて、おそらくそうなってから200万年近く経過している。それが暗示するのは火の制御だ。加熱調理は食べ物を予め消化する。デンプンをゼラチン化し、可消化エネルギーをほぼ2倍にする。タンパク質を変性させ、卵やステーキを食べることによって得られるエネルギーを約4割増しにする。外部に追加の胃を持つようなものだ。したがって、なぜ人の歯は小さく、胃も小さく、消化管は他の霊長類に比べて体重あたりで半分ほどしかないのか、その理由は加熱調理で説明がつく。この消化管を生かしておくのに燃やすエネルギーは他の霊長類と比べて1割少ない。これは人類の脳の拡大における極めて重要なステップだった。脳を大きくするにあたって、初期のヒト科は肝臓と筋肉を犠牲にすることはできなかったが、胃と消化管を節約することはできた。火を通す料理が大きい脳の実現性を解き放ったのだ。大きい脳と小さい消化管への変化は、ホモ・ハビルスがホモ・エルガステルやホモ・エレクトスに取って代わられた190万年~180万年前ごろに起こったようだ。

 

なぜアフリカで道具イノベーションが始まったのか?

 石器技術を含む新しい道具はアフリカで生まれた。例えば、小型の石器や石刃、骨器、そしておそらく交易による道具の長距離移動も現れた。クロマニヨン人がヨーロッパに入ってきたのは4万5000年前ごろで、ヨーロッパにおける上部旧石器時代(4万2000年前~1万3000年前)の物質文化を持込んだ。投げ槍や片側にフックをつけた投槍器、狩猟用の網、角製の返しがついた銛(モリ)先、部族間での交易網などである。しかしそれは、アフリカから持ち込んだ新しい道具類のことだった。そのおかげでクロマニヨン人はネアンデルタール人との競争に打ち勝ったともいえる。

 では、アフリカのどこでいつ道具革命が起こったのか? 人類学者のカーティス・マリアンは数年前、南アフリカ南東の海岸にあるピナクルポイントの洞窟に注目した。そして16万年以上前、つまり現在の間氷期の前の間氷期にも人間が住んでいた証拠を見つけた。さらに、推測より何万年も早くに人間の複雑な行動が始まっていた証拠も発見した。つまり、さまざまな専用の石器を取りそろえ、着色材料を使用し、道具を強くするために火を使用するということだ。他の地域ではもっとずっと遅くに初めて出現する類のものである。そこの人びとが魚介類を食べていた証拠もたくさん見つかった。その1例が細石器の使用だ。これは大きな石塊から小さい欠片を削り取り成形し、火を使って硬くすることによって殺傷能力のある投てき武器の先端にしたものだ。マリアンはこれをピナクルポイントで7万1000年前の洞窟堆積物から発見した。南アフリカに住んでいた初期現生人類には、こうした複雑な手段のテクノロジーを考案し、後世にしっかりと伝えるための認知力があった。細石器のおかげで人間は、けがのリスクを負わずに遠くにいる動物を殺すことも、敵を排除することもできた。そのテクノロジーがヨーロッパに到達したとき、その敵にはネアンデルタール人も入っていったかもしれない。しかし、なぜピナクルポイントだったのか? 栄養豊富な寒流がたくさんの魚、アシカ、甲殻類を運んでくる南アフリカの海岸地域は、カラハリ砂漠が拡大して極度に乾燥したときにも緑豊かな土地のままだった。そのおかげで人間社会は密集し、定住性になり、そして縄張り意識を持ったことで、イノベーションに乗り出したのだ。海岸での狩猟採集という生態的地位を得たことで、人びとは海岸の特定区域を守るためにかなり大きな集団で定住することができた。保存食が充実し、豊富な物資があり、人びとが集結している「村」で生活していると、ライバルにとって襲撃の標的となり、それが槍投げ器や弓の発明を促したと考えられている。


[ネアンデルタール人とホモ・サピエンス]

 コネチカット大学のサリー・マクブレアティとジョージ・ワシントン大学のアリソン・ブルックスの仮説によれば、石器時代中期(Middle Stone Age: 25万年~5万年前)のアフリカにおいて「現代人的行動」が出現したと考えられている。言語能力については未だ証明されていないが、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスには次の点において相当な差があったと推定されている。

1.抽象的思考:芸術作品、埋葬

2.優れた予知・計画能力:大型獣の計画的な狩猟、貯蔵穴の作成、燻製の技術

3.創造性:行動上、経済活動上、技術上の発見・発明能力(長距離交易、細石器、返しのついた尖頭器(釣針など)、骨器、すり石、石刃、漁、貝の採集、など)

4.象徴能力:シンボルを用いて知識伝達する行動(顔料の使用、ビーズ、線刻、画像、など)


 また、ホモ・サピエンスによる石器時代後期(Late Stone Age: 5万年前以降)のユーラシア全体への拡散が実現した要因として3つの仮説がある。

1.脳内神経系になんらかの遺伝的な変異が起こり、人類の認知能力が飛躍的に向上した。(神経仮説)

2.数学的なモデルでは、人口が多いほうが文化的な創造性が高まる。(人口仮説)

3.拡散先でこそ行動が変革する(フロンティア仮説)。例えば、ネアンデルタール人と競合したことによるクロマニヨン人の適応の強化。


 しかし、このような違いがあったものの、ネアンデルタール人は想像していたよりも我々に似ていて、おそらく我々現生人類特有のものと考えている行動の多くを行う能力があったとも考えられる。現生人類との文化の交流があったに違いないし、それに伴って交配も起こっただろう。ネアンデルタール人からはまた、ユーラシアのさまざまな環境に適応するための遺伝子などが、アフリカ人以外の現生人類に伝えられたこともわかっている。

 約5万5千年前からユーラシアの気候は温暖から寒冷へ、また温暖へと、数十年単位で激しく揺れ始めた。そして4万年前には気候が比較的温暖なイベリア半島の南のほんの数か所にネアンデルタール人が生き残っているのみだった。だがこれらの集団も自らを持続するためには小さく分断されていたため、2万年前の最終氷期の前には姿を消していた。


ネアンデルタール人と現生人類の生死を分けたものは何か? ネアンデルタール人がなぜ絶滅したのかについては諸説あるが、その中で有力なのは次の説である。

 ネアンデルタール人は少人数からなる特定の集団で暮らし、各地域に独自の道具の製法があった。彼らはきつい肉体労働を強いられ、狩による骨折も多く、極めて厳しい生活を送っていたため、たいていは30歳代で生涯を終えた。その平均寿命が短いうえに、数十人に及ぶ多集団での活動もなく、小集団による生活のままだったため、先人の知識をあまり生かすことができなかった。そのため生業である狩の工夫・進歩が乏しかった。急激な環境変化により獲物の数が減ると、ネアンデルタール人はその体格からより多くのカロリーを必要としたこともあり、生きのびることができなくなった小集団がしだいに多くなり、絶滅に到ったと考えられる。

 一方、現生人類は針を使って寒さをしのぐ衣類やテントを作るなど、文化的適応の幅が広かったことから肉体的に負担の少ない生活を送ることができた。その結果、生殖期間が延び多くの子供をもうけられるようになり、さらに孫もできるようになった。多くは50歳代まで生き、長命となった祖父母からの知識の蓄積と社会的ネットワークも拡大した。これらのことがネアンデルタール人とホモ・サピエンスの生死を分けたと考えられている。


 ***


 こうして類人猿の誕生から現生人類(ホモ・サピエンス)までの進化過程を眺めて見ると単純のように見えるが、今ではDNAの研究から、過去は現在に劣らず複雑だったことが明らかになっている。例えば、ホモ・エレクトスから現生人類に到るまでの旧人類を取っても、その中は多様性に富み複雑である。DNAの解析からは未知の旧人類の存在も推測されているほどだ。このDNA分析の分野は速すぎるほどのスピードで今も進んでいるため、新種の旧人類あるいは現生人類のDNAにおける新しい発見によって、今後まだ知られていない交配がさらに明らかになるかもしれないし、人類進化の内容が書き換えられる可能性は大いにある。


 180万年前のホモ・エレクトスの誕生以降、アフリカからさまざまな集団がユーラシアに渡って来ていた。そうした集団が姉妹グループに分かれ、異なる進化を経た後、再び混じり合ったり、新しくやって来た集団と混じり合ったりした。そのようなグループのほとんどはやがて絶滅し、少なくとも純粋な形では残っていない。骨格や考古学的遺物によって、現生人類の出アフリカの前に非常に異なる旧人類がユーラシアにいたことがしばらく前から知られている。デニソワ人やネアンデルタール人の多様性は、互いに遺伝学的に何十万年も隔たっているシベリアのデニソワ人、南方のデニソワ人、ネアンデルタール人という少なくとも3つの集団から採取されたDNA配列からすでに明らかである。その多様性を考えると、これらの集団は緩やかに結びついた家族の一員と見るのが正しいのだろう。

 遺伝学的データからすると、現生人類がアフリカから出て世界中を席巻したグループの子孫であることは明らかだが、ユーラシアで旧人類といくらか交配があったことも、今ではわかっている。シベリアのデニソワ洞窟での発見は、現生人類がアフリカや中東から移住する際に旧人類と交配したのは、例外的な出来事ではなかったことを示している。5万年前より前のユーラシアは活気のある場所で、緩やかな関係にある旧人類と現生人類が共にユーラシアという広大な地域に住んでいたのである。


 これまで人類の歴史は、往々にして勝ち残った人類種の叙事詩として記されてきた。しかし近年、言語学・遺伝学・古人類学といった幅広い分野の研究成果から、人類の歴史はさまざまに枝分かれし、地球の歴史や環境の変化と密接に結びついていることが明らかになってきた。古代は何種類もの人類が生きているのが当たり前の時代だったのだ。人類は我々しか存在しないという見方は古く、そのような状況は長い地球の歴史から見れば、ごく最近の3万年前のことでしかない。

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