第2話 歴史の始まり

 ユバル・ノア・ハラリは「サピエンス全史」の中で、“今からおよそ135億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。我々の宇宙の根本を成すこれらの要素の物語を「物理学」という。物質とエネルギーは、この世に現れてから30万年ほど後に融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがてその原子が結合して分子ができた。原子と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。およそ38億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく、入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。そしておよそ7万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成し始めた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という”と述べている。


 人類は歴史が始まるはるか以前から存在していた。ホモ属である現生人類(ホモ・サピエンス)と非常によく似た動物が初めて姿を現したのは、およそ240万年前のことだった。だが、数え切れぬほどの世代にわたって、彼らは生息環境を共にする多種多様な生き物のなかで突出することはなかった。先史時代の人類について何をおいても理解しておくべきことは、彼らが取るに足りない動物にすぎず、環境に与える影響は微々たるものだったということだ。

 東アフリカでとりわけ賢く、意思伝達の上手な知恵者の類人猿の1種としてのホモ属の進化を促したのは地球の活発な地質学的エネルギーであったし、変動する地球の気候によってホモ属は世界各地に移住できるようになり、地球上で最も広範に生息域を広げた動物となった。

 30万年前に現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生してから、1万年前に農業や牧畜を始めるまでの非常に長い間、人類は他の動物と同じように遺伝上の性質と習性だけを頼りに生きてきた。そうした遺伝によって受け継いだ能力だけでなく、人間が意図的な選択によって自然に働きかけることによって自らの環境を変えようと試みたとき、そのとき初めて人類の歴史が始まったと一般的には理解されている。

 人間には明らかに他の動物とは違った特別な能力がある。他の動物たちは自然界の中で何とか自分たちの居場所を見つけようと努力し、その結果、あるものは滅び、あるものは生きのびてきた。ところが人間は自分を環境に合せるのではなく、自分たちの都合に合わせて自然に手を加え、環境を変化させることで繁栄してきた。人類の歴史とは、人間が自然を操ろうと試みたそうした努力と、その過程で経験せざるを得なかった数々の失敗や悲劇の物語と、その結果もたらされた変化の歴史ともいえる。


 人類の歴史の道筋は3つの重要な革命が決めた。7万年前ごろに会話、すなわち言語を獲得し歴史を始動させた「認知革命」、1万年前ごろに歴史の流れを加速させた「農業革命」、そしてわずか500年前に始まった「科学革命」だ。


 この3つの中で言語は最も人間的な創造物である。言語の使用による会話能力と思考力が十分に発達したとき初めて我々は人間になり得たのだと言えよう。それが「認知革命」である。


 気候は人間の生活に大きな影響を及ぼし、人類はそのたびに移動を余儀なくされたが、智恵や技術を駆使して生きのびてきた。1万5000年前ごろ、長い氷河期が終末期に入った頃、人類は狩猟・採集社会から農耕社会への第一歩を踏み出した。そして晩氷期と呼ばれるヤンガードリアス期(1万2800年前~1万1500年前)が終わった後の直近1万年は気候が安定し、農業が発展した。それが「農業革命」である。


 3つ目の「科学革命」は、歴史に終止符を打ち、何かまったく異なる展開を引き起こす可能性が十分あると言われているが、紀元後の話なので本編では扱わない。


 文明がなぜ生まれたのか? 文明というものには欠かせない基本要素は、文字、富の蓄積、都市、この3つであるといわれる。これに異論を唱える歴史家はいない。文字の誕生は言語を獲得した「認知革命」の結果であり、富の蓄積は「農業革命」の成果である。この2つがあって都市が生まれた。これら3つはすべてBC3500年ごろ、西アジアのメソポタミア南部、つまりティグリス・ユーフラテス両河の下流域のデルタ地帯、古代のシュメール地方という名で知られるところで始まった。


 では、なぜメソポタミア南部でこれらの3つが実現されたのか? BC1万2500年~BC9500年にかけてナトゥーフ文化が栄えたレヴァント地方(メソポタミアとエジプトとの中間にある地中海東岸とその周辺地域)では、狩猟採集民が定住生活を行い、野生の穀類を集中的に採集・処理していた。また、ティグリス・ユーフラテス川の上流域にあたるアナトリア(現在のトルコ)南東部にあるBC9500年ごろのギョベクリ・テペ遺跡の近くから栽培化されたコムギの一種であるヒトツブコムギが発見されている。それは世界最古の巨石遺跡であり、そこでは狩猟採集民による祭祀儀礼が行われていた、農業革命が起きていたのである。この記念碑的建造物群を建設し、使用した人びとを養うためには膨大な量の食べ物が必要だった。この遺跡は、まず神殿が建設され、その後、村落がその周りに形成されたことを示唆している。それは食糧という富の蓄積の始まりであったが、まだ都市や文字は発生していない。

 富の蓄積が本格化したのは、ティグリス・ユーフラテス川の下流域、それもペルシャ湾に近い古代のシュメール地方だった。そこは、天水農耕が可能で資源を自給することができるティグリス・ユーフラテス川の上流域とは全く異なる、灼熱の太陽が照りつけ乾燥した苛酷な地域で、人が住めるような土地ではなかった。

 シュメール人がどこから来たのかは分かっていないが、出土した楔形文字資料には海側(ペルシャ湾側)から来たと記されている。彼らは雨量の少ない地域などでも農業が可能な灌漑の技術や方法を知っていたようだ。シュメール人は灌漑農耕の改良に取り組み、ムギの高い生産性を実現した。これは富を得るための、自然からの挑戦とそれに対する応戦であったと言える。


 文明がなぜある時ある場所に生まれたのか? その答えとしてその人種や技能が優秀だったからという人種・技能説と、その苛酷な環境が文明誕生を促したという環境説とがあるが、イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーはその有名な著書「歴史の研究」で、“人種も環境も文明誕生の原因ではない。人間において成否の分岐を画する要因は、人種ではないし、技能でもない。それは人間自身が宇宙に出現したことの結果として人間の環境となったところの自然総体の挑戦に対して人間がいかに応戦するかという精神である”と述べて、その2つを否定し、その代わりに「挑戦に対する応戦」という概念で文明の誕生を説明している。


 トインビーはまた、“「挑戦と応戦」は、個人あるいは社会の生における新しい出発を引き起こす諸力の自由な働きを表現する一つの方式である。効果的な挑戦は人間を創造的行為へ向かわせる刺激となるが、必然の結果として、既存の調和をかく乱することになり、当初は悪であると見られるかもしれない。安易な環境は人間にとって挑戦たりえない。創造的活動の刺激となるような挑戦には苛酷な自然環境や、貧困・奴隷の身分・移住・社会的制裁・刑罰・迫害などといった社会的困難がある。それらが大きな刺激となり、文明が誕生し、さらに成長を促す。その挑戦に対する応戦が成功していくとき文明は成長する。その時には創造的少数者が出て、一般大衆は彼らを尊敬し模倣する”と述べている。但し、“ある文明が存在するようになるには強い刺激が必要であるが、この挑戦は創造性を窒息させるほどにまで厳しいものであってはならない”と付け加えている。

 さらに、“文明の誕生の原因は単一でなく多数であり、実体でなく関係なのである。関係とは2つの人格間の出会いである。創造は出会いの結果であり、誕生は相互作用の関数である。出会いの結果は予言しえず、予定されているようにも見えない。それは新たなる創造と同様に、出会いそれ自体から生ずるものだ。文明は人間や技能、自然環境や複雑な人間社会など多数の要素の出合いから生まれるが、それは必然ではなく偶然から生じる。そして歴史を作るのは個人としての人間であり、そこに創造的エネルギーに満ちた天才が出現し、人びとがその人を尊敬し模倣するとき文明は成長する”とも述べている。つまり歴史を作るのは個人としての人間であって、人間の社会ではないというわけだ。


 シュメール人たちが住んでいたメソポタミア南部では、焼けつくような日差しが肥沃な泥だらけの平原に降り注ぎ、豊富な収穫が得られ、次々に町が出来て栄えた。住民の数が増加し、複雑な社会が出現し始めると、彼らの営みを調整するために従来とは全く異なる種類の情報が不可欠となった、数である。この問題を最初に克服したのは古代シュメール人だった。彼らは小さな粘土製トークンを使って物資の数を記録していた。トークンは今の伝票に似た勘定道具と考えられる。BC4000年ごろ、シュメール人社会では、支配者たちの収入と支出の処理や管理をしなければならず、新しい方法が必要になった。そして名も知れないシュメール人の天才が世界最古の図形的象徴、すなわち絵文字を発明した。これによってシュメール人は都市の出現への道を開いた。それは複雑な社会からの挑戦とそれに対する応戦であった。


 文明の3つの基本要素の中で特に重要なのは都市である。そもそも文明を指す「civilization」という単語はラテン語で市民を意味する「キヴィス(civis)」や都市国家を意味する「キヴィタス(civitas)」から派生している。イギリスの人類学者で考古学者でもあった V・ゴードン・チャイルドが初めて提唱した「農業革命」というものが旧石器時代から新石器時代への転換期を示したとすれば、「都市革命」は石器時代から青銅器時代へ、つまり先史時代から有史時代への転換期を画していた。死海に近い遺跡エリコや現在のトルコのアナトリア高原のチャタル・ホユック遺跡、そしてまだ知られていない遺跡などで早期の都市化へのかすかな試みが見られるが、本格的な都市化はシュメールで始まった。巨大な建造物の周囲に人びとが群れ集い、防御壁の内側に居住するようになったことで必然的に生じた刺激によって都市革命がもたらされた。それは文明とって一大進歩であった。

 都市という概念は楔形文字の長い歴史を通じてただ一つの単語だけで表現されてきた。シュメール語で「ウル(uru)」、エブラ語で「イラム(i-la-mu)」、アッカド語で「アール(alu)」、ヒッタイト語で「ハッピラス(happiras)」で、それぞれその本来の意味は「市場」である。


 本来、人間は多様であり、それを武器として生きのびてきた。人間の歴史は出来事の羅列ではない。自分たちが生き残るための「挑戦と応戦」の物語といえるだろう。

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