我々は何者(人類と文明)

武内司(たけのうちつかさ)

第1話 はじめに

 自分はなぜここにいるのか? 子供の頃2階の窓から1階の屋根に上り、寝ころんで夜空を見上げ、宇宙に浮かぶ地球の不可思議と自分の存在に不安を感じることがあった。人類や民族の歴史に興味を抱くようになったのは、そのような不安の根源を理解したいという思いから来たように思う。宇宙科学が発達した今、宇宙の中の地球の存在については理解できるようになったが、自分がなぜここにいるのかについては未だによくわからない。


 人類の進化や文明の誕生と発展の歴史は、人が生来持っている好奇心から生まれた歴史ともいえる。アリストテレスは、“人は生来知ることを欲している”と述べている。我々はいったい何者で、どこからやって来たのだろうか?

 人類はみな同じアフリカの小集団から生まれ、能力と対応という大きな財産を共有している。したがって、アメリカ先住民も、オーストラリア原住民も、ユーラシアの多様な民族も、そしてアフリカの人びともみな、過去の気まぐれな気候変動に同じように対応して生きのびてきた。そして歴史上知られている最初の偉大な文明の創造者である古代メソポタミアの人びとは、文字を発明し、法を考え出し、そして思想体系や世界を説明するあらゆる体系を創り出した。これらは事実としてすでに証明されている。


 また近年、人類の進化の解明における科学的な分析、特にDNA解析の進歩には革命的なものがある。そのゲノム革命は我々に共通の歴史を差し出してくれる。それによれば、


 1)現代人において、遺伝学的な人種の違いを論ずるのはもはや無意味となっている。遺伝学的には人種という言葉は存在しないし、現生人類はみな同じ種に属している。今日のようにグローバル化した社会ではすべての人が自由に移動できるし、誰とでも結婚し、子供をつくることができる。もちろん、経済的事情や文化的制約があるという人もいるが、それは本質的な問題ではなく、そのような社会的・個人的な障壁はなくしたり、乗り越えることができる問題だ。重要なのは個人の自由な意志と行動である。今日でも自由に国外に出ることが許されていない国はごく少数存在するが、人類の歴史を見てみると、そのような強制社会が長く続いた例はない。アメリカの遺伝学者デイヴィッド・ライクはその著書「交雑こうざつする人類」の中で、“私たちは今、今日生きているほぼすべてのグループが何千年、何万年にもわたって繰り返し起こった集団の交雑(生物学的異種間あるいは民族間の交配)の産物であることを知っている。交雑が人類の本質であり、どの集団も純血ではないし、その可能性もない。個々の人の祖先が誰かは重要ではない。もし私たちがしっかりと注意を払うなら、それは人種差別主義やナショナリズムという悪しき伝統の代りとなるものを与えてくれて、私たちすべてが人類の遺産を引き継ぐ資格を等しく持っているのだとわからせてくれるはずだ”と述べている。


 2)19世紀末に言及されたネグロイド(黒人種)、モンゴロイド(黄色人種)、コーカソイド(白人種)という分類は、遺伝学的にはもはや意味を成していない。形態学的な外見の違いはほんの些細なことである。現在ではこの分類は科学的に否定されている。人種という概念を実証するような単一の遺伝子は存在しないのだ。要するに人種は文化の産物で、現実ではなく頭の中にあるものなのだ。形態学的な外見の違いを強調するのは人種差別的であるし、最初のヨーロッパ人の肌色は白色ではなく褐色だった。しかし、東アジア人を「モンゴロイド」、西アジア人やヨーロッパ人を「コーカソイド」、サハラ以南のアフリカ人を「ネグロイド」という言葉は便宜上現在も使用されることがあるが、それは過去の分類がまだ頭に残っている人がいるからだ。


 3)文明も文化も、異なる地域の民族間の相互交流と交雑から成り立っていることは自明のことである。シュメールから始まるそれぞれの文明は単独で成立し発展したわけでは決してなく、そこには人の移動と交雑、文化の相互作用が必ずあった。古代のエジプトもギリシャも、そして中国の殷や周もそうであった。我々はグローバル化を遂げつつある現代に生きているが、そこに人の移動と文化の相互作用が存在するのは今も変わらない。人は歴史を通して自分のアイデンティティを主張することに努めてきたが、今日のアジアやアフリカの存在感をみると、グローバル化は西洋化とは違うということは明白である。


 4)今日、我々は民族や宗教の違いで分断されることに余りにも慣れてしまい、お互いが異なっている理由をいつも探している。しかし人類の進化や文明の発展の歴史をより良く知れば、我々はみな同じ幹から、同じ源からやって来たことを再確認できる。そうすれば、過去に抱いてきた多くの偏見は拭い去れるはずだ。「我々は何者?」という問いには、人類の進化と文明の誕生、そしてその伝播の過程を通して答えが見出せると信じている。


 我々は、人類や文明の誕生とその発展、つまり過去を知るためには考古学の誕生を待たなければならなかった。過去を知るための考古学は宝探しから始まった。盗掘した彫刻物や金銀・青銅製品を金持ちの収集家に売りつけていたのだ。考古学が誕生したのはおよそ250年前のヨーロッパと地中海沿岸で、まだ聖書に書かれた天地創造が広く信じられていた時代だった。考古学が重要なのは、何千年という長い時間をかけて人間社会がどのような変化を遂げてきたかを知る唯一の方法だからだ。


 考古学の始まりは宝探しだったかもしれないが、そのうちに過去を真剣に探究するようになってきた。その探求は今や世界規模となっている。1世紀前までの無遠慮な穴掘りは、厳しく管理され綿密に計画された発掘に取って代わった。考古学は我々人類というものを定義する。考古学がなかった時代、誰もが人類の歴史はわずか6000年と思っていた。それはキリスト教会が聖書からはじき出した数字である。それが今では420~200万年前のアウストラロピテクスにまで延び、さらに昔へ遡りつつある。どれほど学識豊かな人でも、予想外の考古学的発見が過去を鮮やかに蘇えらせるたびに、驚嘆の念に打たれるものだ。だが、考古学だけでは古代文明を復元することはできない。本格的な古代文明研究には、穴を掘る者と、碑文や文献の形で残る記録を調査する者の協力関係が必要だった。

 幸いにも近年、特に1990代以降、考古学における新たな発見や歴史言語学における進歩、さらに放射性炭素年代測定法やDNA解析の確立、ヒトゲノムのDNA全塩基配列の決定、極地氷床コアの成分分析などにより、従来の論争に終止符を打った問題が数多く出てきた。例えば、遺跡や遺物の年代の決定、古代人や農耕民の移動経路、金属の伝播経路、言語系統図の確定、気候変動の人類への影響などである。また、1991年に「鉄のカーテン」が開かれたことで、中央アジアのステップ草原の研究も進み、ウマの家畜化とその伝播、騎馬の始まりの問題も明らかになりつつある。それが重要なのは、ステップ草原で発展したと考えられているPIE(Pre-Indo-European)、つまりインド・ヨーロッパ祖語の拡散は、古代文明のユーラシア大陸における伝播・拡散に大きな役割を果たしたからだ。西アジアから中央アジア経由で中国へ伝播したと考えられているものとしては、コムギ、ヒツジ、甲骨を焼く占い、絵文字、彩陶土器、冶金技術、車輪、ウマなど文明の発展に不可欠で重要なものがすべて含まれている。

 それでもまだ謎に包まれている大きな問題が2つある。シュメール人がどこから来たのか、そしてインダス文明である。インダス文明の起源と全容はまだ解明されていない。ひょっとすると、シュメール人は冶金技術と車輪を携えてインダス川流域からメソポタミアへ来たのかもしれないと考えたくもなる。それほどシュメール人のメソポタミアへの到来は突然のことだった。


 まだ未解明の事柄も含めて、考古学・文献学・言語学・宗教学・遺伝学・気候学などの第一人者とされる研究者の方々やこれらの分野の著作を通して本編で理解を深めていきたい。


 ところで、古代ギリシャ・ローマの世界はなぜ現代の我々にも魅力的に映るのだろうか? その科学的で合理的な考え方とともに、そこは人間味あふれる多神教の世界だった。一神教は新王国時代のエジプトに初めて誕生し、そこからユダヤ教が生まれ、さらにキリスト教そしてイスラム教へとつながっている。ユダヤ教とイスラム教は今も厳格な戒律を伴う一神教を守っているが、キリスト教は戒律も比較的少なく、さまざまな偶像崇拝も許容するなど、必ずしも一神教とは言えない側面も持っている。特にローマ・カトリックとプロテスタントの世界では古代ヨーロッパの原始宗教で崇拝されていた聖人や物語と共存している。そこには古代ギリシャ・ローマの世界を彷彿とさせるような人間味豊かな物語や芸術、美術や音楽などがある。

 古代ギリシャの共同体は、それぞれの都市が独自の政治的経験を積み重ねていった結果、彼らは神に認められた王たちが統治を行うという従来の体制と決別し、政治制度は市民の意思によって選択できるという新しい思想に到達した。そしてアテナイで発展した市民による民主政は、自由と平等の理念のもとに絢爛たる文化を開花させた。その基本的な理念は、今日の世界に受け継がれ、多くの人びとから理想的な社会を形作るための規範として認められている。それは現代の言葉でいえば「ソフトパワー」ということになる。国家が軍事力や経済力などの対外的な強制力によらず、その国の有する文化、つまり文学や美術、教育、娯楽、政治的価値観、政策の魅力などに対する支持や理解、共感を得ることにより、国際社会からの信頼や、発言力を獲得し得る力のことである。

 古代でも現代でも、国家モデルと権力システムが魅力的でない国が、人びとから好かれないのは当然のことである。そのような国は遅かれ早かれ孤立し、やがて衰退することとなる。


 地球上の動物で人間だけが思想のために命を投げ出す。その思想とは、自らの経験や学び、あるいは社会から得られた倫理や信条だ。自由と平等、寛容の精神、そして国際性と多様性のない社会に魅力的な文化は育たない。人びとを魅了するような成果を目指して多様な人びとが切磋琢磨する社会こそ健全な人間を育てる。民主政の根幹は平等と均衡にある。均衡とは権限を分散して相互に牽制することによって得られる均衡のことである。

 今日でもまだ自分たちの国や民族のためというスローガンを掲げた一部の支配者集団による権威主義的な全体主義を容認している国々もあるが、そのような社会は世界の人びとを惹きつけない。1991年のソビエト連邦の崩壊を「偽神の失墜」と断じた哲学者がいたが、当を得ていると思う。


「我々は何者?」という問いの答えを見出すために、ここで古代文明社会の人びとが何を目指して戦い、何を得て、何を失ったかを見てみるのもいいのではないかと思う。


 ここに連載するシュメールから始まる古代文明の物語は、個人的なまとめノートともいうべきものとなっている。しかし本編の構成上、本文の中で誰々によればという文言を頻繁に入れていない。巻末に掲載する「主要参考引用文献」をもって、その内容の抜粋や要約に対してご容赦願いたい。


 人類史上初の文明であるシュメール文明は世界中に拡がり、さまざまな困難に直面しながらも結果として、人類の生活を豊かにしたことは確かである。この壮大な人類の営みを過去にさかのぼって解き明かすのは並大抵の知識や努力ではできない。そこにはホメロスの叙事詩やマネトの歴史書「エジプト誌」、そして旧約聖書などに記載された物語や出来事を愛し信じる人たちに、考古学者や文献学者、歴史言語学者、人類学者、遺伝学者、地質学者、気候学者、植物学者、動物学者などが加わり、古代の謎解きに対して情熱と意欲、執念を持って立ち向かった勇気ある人たちがいた。これら先人たちが達成した成果を享受させてもらいながら、人類の進化の過程やそれぞれの文明の成り立ちを書き綴っていきたい。

 描く時代は、700万年前の人類の誕生からほぼ現代の人間社会の姿が見えてくる紀元ごろまでとし、大きな章立ては次のような内容となる。紀元前の話がほとんどすべてなので、紀元前は、以下BC(Before Christ)と表記する。


 ・歴史の始まり

 ・人類の誕生

 ・現生人類(ホモ・サピエンス)の発展

 ・【地理的名称】

 ・時代区分と気候変動

 ・新石器時代

 ・文明の誕生

 ・青銅器文明の時代(BC3100年~BC1600年ごろ)

 ・文字の歴史

 ・PIE(インド・ヨーロッパ祖語)の発展

 ・青銅器王朝文化の時代(BC1600年~BC1200年ごろ)

 ・青銅器から鉄器への移行期の混乱の時代(BC1200~BC1000年ごろ)

 ・完全な鉄器時代と新たな文明発展の時代(BC1000年~BC500年ごろ)

 ・統一帝国の時代(BC500年~紀元ごろ)

 ・【気候大変動と人間の歴史】

 ・【考古学と発掘の物語】

 ・文明が人間にもたらしたもの


 また、地域としてはユーラシア全域、北アフリカ、地中海に及ぶ。

 ・西アジア

  ・メソポタミア

  ・アナトリア

  ・イラン

  ・レヴァント(メソポタミアとエジプトとの中間にある地中海東岸とその周辺地域)

 ・エジプト

 ・中央ユーラシア(北は西のハンガリー平原から東は内モンゴルまでのユーラシアの草原地帯、南は黄河・崑崙山脈・パミール高原・ヒンドゥークシュ山脈・イラン高原・カフカス(コーカサス)山脈で区切られた広大な地域)

 ・地中海世界

  ・エーゲ海とギリシャ本土などの東地中海地域

  ・イタリア・シチリア・イベリアなどの西地中海地域

 ・インド(現在のパキスタンとバングラディッシュを含む)

 ・中国(内モンゴル、新疆、チベットを除くほぼ現在の中国)


 このように、長大な時間軸と広大な地域を扱う長い物語なので、エピソードの数もそれだけ多くなりますが、興味があればお付き合いください。


 なお、このサイトでは図表の貼り付けができないため、場所や年代の詳細などについては、お手数ですが必要に応じて読者の皆さんご自身でネット検索のうえご確認ください。


 ところで、私の前作「倭王の系譜」では古代日本を取り上げましたが、今回はそこにつながるまでの人類の進化、古代文明の誕生から伝播を取り上げます。日本の源流を理解するうえでも必ず役に立つと思います。

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