第33話 対戦:シーニス

目の前にシーニスがいる。


灰褐色の、見るからに分厚そうな皮膚に覆われた全身を誇示するように半立ちしている。

バクのように長い鼻をぶら下げながら、ゆっくりと円環の中央に向かい、歩を進めた。


脚を踏みしめる度に地響きが伝わってくるようだ。

二メートルを軽く越すその威容は、目の前にすると、まだ少し距離があるにも関わらず、物理的な何かに押し潰されそうな錯覚してしまうほどの圧力を感じる。


やや前屈みに、ゆっくりと歩いて来るが、その目は一瞬もこちらから離れない。

緊張からか、もしくはこれが殺気というものなのか?先ほどから、肌に痺れを感じるほどに、空気が張り詰めていることを感じていた。


俺を完全に敵として認識していることが、肌で分かる。


そう、殺す気なのだろう。

本来、殺生はルールで禁じている。

だから、それをしたらシーニスもルーパスからペナルティを課される可能性があるはずだが、損得勘定など、もう消し飛んでいるに違いない。


そして、何よりも恐ろしいのが。

目を見れば分かる。

あれは、微塵も油断のない目だ。

これから始まるのは、喧嘩ではない。


……殺し合い、なのだ。


「ずいぶんと、待たせてくれたな」


普段の、がらがらした大声ではない。

一オクターブくらい低めで、ゆっくりと確実な発声。


こちらも口を開き、応じようと思ったが、下顎が緊張でうまく動かない。

開くことすら、叶わなかった。


結果として、睨み合いが発生する。


俺は、呑まれているのだろうか?

かもしれない。

なにしろ、これから臨むのは、スポーツの試合ではないと、体が理解してしまっているのだから。


この重い空気は、当然、審判役のルーパスだって感じている。

眉間に皺を寄せ、俺に向かい問いかけた。


「……やる気か?

今ならやめることも出来るぞ」


気遣ってくれるのは嬉しいが、ここで退いたら、二度とシーニスに相対することはできない。

心でわかる。


俺は、ルーパスに視線を移して、ゆっくりとうなずいた。


それを見届けたルーパスは、今度はシーニスに向かい、注意事項を述べ始める。シーニスには、辞退の意思など聞かない。

俺には辞退を問い、シーニスにはそれをしない。つまり、ルーパスは、この勝負の結末をそのように見ている、ということだ。

この、百戦錬磨の魔王様が。


シーニスの視線がルーパスに移動した数瞬、ようやく俺の意識が周囲にも向けられる。

円環リングの回りでは、最高潮に歓声が上がっているのが聞こえた。

この舞台に入ってから、この大音声が聞こえていなかったことに、初めて気づいた。


大音声に混じって、エルナが、妖精が、蜂鳥が、それぞれの呼び掛けで応援してくれているのが聞こえる。

気に掛けてくれることを、素直に有り難いと思う。


岩の円環の内側、この喧嘩祭りの舞台に、再び意識を集中させる。

中央にいるシーニスを中心に、魚眼レンズで覗いたような視界の歪曲が感じられた。

そういえば、昔もこんなことがあったなぁ。あれは、初めて柔道で試合に立った時だったか。緊張から、視界が歪んで見える。


これから起こるであろう、生まれて初めての経験に、極度に緊張しているのだ。

改めて、思い知らされる。


だが、もう時間だ。

さあ、始めようか。


「両者、向き合え!」


ルーパスの掛け声が聞こえる。

既にシーニスは臨戦態勢。

そしてそれは俺も同じ。


ぎゅっ、と木剣の柄を握りしめる。

ゆっくりと、ルーパスが手を上げるのが見える。

その指先が天を指し示し、そして―――


「始めっ!!」


ばっ!!!


身を極限まで低くして、一瞬でシーニスとの距離を詰める。

手にした木剣の剣身をシーニスに隠すよう低く構え、渾身の力を木剣に籠めていく。

これと並行して、地面につきそうなほどに低く構えた木剣をはすに斬り上げる。


先手必勝!!


ぎゃんっ!


耳障りな音と共に、シーニスの腹の皮膚を薙いだ!!

たまらず、後ろによろめくシーニス。


上体と俺に少し空間ができたことを認めて、右足に溜めたバネで、大地を思い切り踏み切る。

狙い違わず、仰け反ったシーニスと跳び上がった目線が合った。


ここだ!


渾身の力を籠めた木剣を斜めに斬り下ろした!!

ガン、と確かな手応えを両腕で受け止める。

倒れこそしないが、シーニスは後ろに数歩、よろめいた。


「うおおおお!!!」


腹の底から声を絞りだし、シーニスを追い上下左右から撃ち尽くす!


十合ほども斬りつけただろうか、息を荒くつきながら、光がかなり弱まった木剣をだらりと下ろした。


どうだ?


まだシーニスは、倒れていない。

だが、これだけの攻撃を受け続けたのだ、ただでは済まないはずだ。

問題は、どこまでダメージを負わせることができたか、だが―――


「それで?」


強靭な後肢で大地を踏みしめ、上体を起こしながら、シーニスが言う。


「それでしまいか?

なら、次はオレから行くぞ」


やや前屈みになりながら、ぶらん、と両の腕を垂らし、シーニスが俺を睨む。


無傷―――!?


いや、そんなことはない。

シーニスの腹部を見れば、大小様々の赤い筋が入っている。

特に、左下腹部から右の鎖骨にかけ走る線は生々しく赤黒く、痛撃であったことが良く分かる。


だが、それだけなのだ。


痛撃であろうと、血が流れているわけでもない。

つまり、俺はシーニスの皮膚を通す事すら出来なかった。

さすがに、これは予想外だ。


シーニスの肩越しに、ルーパスが俺の目を見てくる。

あれは、試合の様子を窺っているのではない。俺に、ここで終わるかどうかを問うているのだ。


今ならまだ間に合う―――諦めろ。

そう言うことだろう。


いや、まだだ。

俺は首を横に振る。


ルーパスはそれを見て、少し目を細めた。

言葉にしてみるなら、さしずめ“この意地っ張りめ、死ぬぞ!”と言ったところかな?


違うんだ、と心で答える。


勝負に敗北するのが許し難いわけではない。

顔もろくに知らぬ人々のために命を張っているわけでもない。

ただ、ここでシーニスに負けることは、俺がこの世界に拒絶されるような気になる、と感じているためだ。

寄る辺ない俺に、この世界がシーニスの姿を借りて排除にきた。この勝負は、だから俺にとってはこの世界と、俺自身の存在を賭して戦っている。

そんな風に感じている。

だから、決して折れるわけにはいかない。


それが、思い込みや、あるいは錯覚だと言われれば、その通りと答えるしかない、かもしれない。

それでも、俺はそう思ってしまった。

だから、自己暗示でも何でも、俺は勝たなくてはならないのだ。


「っらぁ!!」


シーニスがダッシュした!


先ほどの猪魔人と同等以上の突撃。

とにかく、横っ飛びにかわす。


シーニスは速い。

ただし、それは直線的な動きだ。

小回りや機動性は高くない!


砂煙を巻き上げ、シーニスはいったん停止し、再度突撃してくる。

両手を広げ、それぞれの掌に炎を灯しながら、逃げ道を塞ぎつつ突っ込んできた。


その凄まじい圧力に辛うじて抗しつつ、左前に転がりながら逃れた。

背中が熱い。をシーニスの掌が掠めたらしい。


シーニスの攻撃から逃れることはできる。

だか、こちらに攻撃手段がない。

渾身の連撃を当ててなお、血を流させることすら出来なかったのだ。

何が出来るというのか。


逃げ続けて消耗を狙うなどできない。

こちらが先に力尽きるだろう。


「うるああああぁぁぁぁ!!!」


咆哮しながら、激しく炎を宿らせた両手で薙ぎ払おうとするシーニス。

時に身をかわし、時に木剣でいなしながら、辛うじて凌ぐ。

しかし、防御だけ。

攻撃を出せていない。

だから、フェイントなども出せず、単調な攻防にしかならない。


代わり映えのない攻防に、次第にシーニスが焦れてくる。

しかし、当初期待したほどの精神不安定性は見られない。

むしろ、こちらの方に焦りが生まれそうだ。

これは、まずい―――


「がはっ!」


シーニスの攻撃を避け損ねてよろめいたところを狙われ、腕全体に炎を纏わせた状態で薙ぎ払われた。

体格差は大人と子供よりもある。

軽く吹き飛ばされ、円環を成す岩に叩きつけられた。


胸元に、まともに炎を押し付けられ、さらに吹き飛ばされ背中を打ち付けて、呼吸ができない程の衝撃を受け、そのまま崩れ落ちる。

そして、そこに―――


「死ねぇ!!!」


十分に助走をつけたシーニスがタックルを掛けて、俺はシーニスと岩に挟まれた!


衝突の半瞬前に気づいて構えたため多少はマシであるとは言え、内臓が口から押し出されるかという衝撃。

岩半個分押し出されるが、なんとか場外は避けられたが、立つこともできない。


強化転生体だからか、なんとか生きている。転生前だったら、完全に原を留めない挽肉状態だろう。

しかし、それも時間の問題かも知れない。


仁王立ちしたシーニスは、凄まじい目で俺を見下ろしながら、炎が立ち上る拳を撃ち下した。

ろくに体が動かないので、木剣を突っかえ棒にして身を横倒す。

シーニスの拳が俺の上体があった空間を通り、背後の岩に当たり、ふた抱えほどもあろうかという岩が砕けた。


「こなくそっ!」


体がうまく動かないため、地面に横たわっている状態で、木剣を両手に持ち大振りすることで体の向きを変えた。


「ちっ!しぶてぇヤツだな!」


シーニスの延びきった腕に力が籠った木剣が掠り、二の腕に浅手を負わせ、嫌な顔をしてシーニスがこちらに向く。


あれ?


シーニスが掌に炎を溜めて、俺の頭を砕こうと叩き付けてきた。

俺は素直に倒れ、腕で反動をつけ半身ほど横に転がる。


次の攻撃は……なんとなく想像がついた。後肢を使った、蹴りか踏み潰し、だろう。

シーニスの全身を見るには不適な体勢だが、後肢は見える―――左後肢のみ接地している、あれは力を溜めているのだはなさそう。

ならば、踏み潰しか―――


そう判断した瞬間に、木剣で地面を押して、ゴロゴロと転がった!


半瞬遅れて、背後に地響きを感じた。

正解だったようだ。


この隙に、木剣を杖がわりに上体を起こして、円環の岩にもたれながら立ち上がった。

見ると、シーニスが憎々しげにこちらを睨んでいる。


「なんってしぶてぇヤツだ!

くたばっちまぇばいいもんを…!!」

「そう……簡単に……死んではやれ……ねぇな……

お前……の……弱点も……見えて……きたんだか……らな……」


ハッタリである。


「ほう、オレ様に、なにがあるって?適当なことホザいてんじゃねぇぞ!」


そう言いながら、歩いてくる。


「おう……いまなら……お前を斬りさけ……るぜ?

俺は……死ぬだろうが……お前の手足も……道連れにしてやるさ……!?」


そう言って、木剣をシーニスに向ける。

ここまでになんとか呼吸を整えて、体の力を整えておいた。

ハッタリの見せのためである。


――!!


木剣に力が籠もり、淡く光を纏い、ちいさくスパークする。

なんとか、見せを作ることができた。


それを見て、シーニスが少し嫌な顔をする。

一度、圧倒的優位に立ったせいで、後遺症を連想させる言葉に敬遠を感じ始めている。


……理性が優位に立って、計算が生まれた。


ここぞとばかりに、一度、木剣を大きく強く光らせ、見せつけ、その後で光を消してから、剣身を隠すように後ろに構える。

目だけは、シーニスを強く睨んだままに。


シーニスがゆっくり構えをとる。

アレにしては珍しく逡巡しているようだ。


この僅かに稼いだ時間で、呼吸を整える。いま、弾丸タックルされたら終わりだ。

とにかく、酸素を体の隅々まで行き渡らせ、力を回復させなくては。

そうしていると、不思議と全身が熱く、じわじわと力が細胞から染みだしてくるようで―――


「うらあああぁぁぁ!!!」


覚悟を決めたシーニスが突撃してきた。

岩を背にしていた俺も、シーニスに向かい、よろよろと駆け出す。


交差する直前に、俺は前方に倒れ込みながら、着地寸前の右後肢足首目掛け、全力で水平に薙いだ。

秘技、出足払い!


血飛沫が散り、バランスを崩したシーニスは空中で半回転しながら、顔から地面に激突、更に転がり背後の岩に激突して止まった。


俺は、片膝を地面につき、木剣にすがりながら、ひたすら呼吸を整えることに専念する。


今の攻撃は、見た目は派手だが、シーニスにはあまり効果がないことは、だいたい予想がつく。

どちらかと言うと、相手の怒りを触発して、より攻撃性を高めるだけだろう。


この試合、今の状況、ここまでに分かったこと、推測したことを、頭の中で整理する。


まず、自分の体の状態は?


シーニスとタックルと岩に挟まれたのだ、普通なら内臓破裂で死ぬか、良くて背骨をやられ半身不随だろう。

しかし、まだ生きて動けている。

この強靭な体のお陰だ。


そうは言っても、万全には程遠い。

少し動くだけで身体中が軋み、特に足は思うように動かない。

全力で踏み切ったつもりで、ようやく屈伸が利くくらい、てとこか。


反対に、痛くとも肩から上と両腕は、比較的言うことを聞く。

神術の発動も、まあ出来ている。


次に、分かったことの整理。

まずは、酸素を体の隅々まで行き渡らせ、全身が熱くなり、じわじわと力が細胞から染みだしてくるのを感じながら……


がらん。


硬いものが地面に落ちる、硬質な音が舞台に響いた。


割れた硬い岩の欠片を地に落としながら、シーニスが、仁王立ちしていた。


赫怒。


その単語が頭をよぎる。

先の逡巡など、もはやどこにもない。

怒りの化身が、そこにいた。


両掌に青白い炎を蓄え、背中からも赤く立ち上る淡く赤い光を纏う。

奴の力も、今まで見た中で、最高の様子を見せている。


もはや、言葉も発さない。

しかし、その目をみれば、言葉は不要である。


気圧されたら、負けだ。

神術とは、そういう力だ。

自分の全存在を込めて、シーニスの圧に抗う。


練り上げられた力を全身に纏いながら、静かに、歩み寄る。


途中で、ふと歩みが鈍る。

心持ち、シーニスの巨体が沈む。


『あああああああぁぁぁ!!!』


今までと格の違う、全霊を込めたタックル!

本当に、瞬きをする間の刹那で、その巨体が目前に迫った!


ある程度予想していた俺は、シーニスが消えた瞬間に既にモーションを始めている。

その凄まじい速度に合わせ、上体を後ろに倒しながら、片側を地面についた木剣の柄をシーニスの胸元に当てて―――


「せいやっ!!」


巴投げ!

もどき!!


木剣を梃子にして上体を浮かせ浮き、腹が晒されたところに、全力で蹴りを入れる。突進する力が強引にねじ曲げられ、シーニスの巨体が天高く舞い上がった。


数秒後、凄まじい大音声と地響きを添えて落下した。


――世界が回る。視界が霞む。

眩む頭を押さえ、軽く左右に振ってから、シーニスは立ち上がった。


これぐらいでは負けない。

ユウが何か仕掛けてくることは、簡単に想像できたことだ。

同じことを二度は喰らわない。

何度でも、ユウを吹き飛ばすまで、同じことを繰り返してやる。


そうシーニスは考えて、ユウがいた方を見遣った。

しかし、そこには広々とした舞台と、円環を構成する岩が並び立っているのが見えるだけだった。


――奴はどこだ?

慌てて左右を見回すが、シーニスに標的を見つけることができない。

奴は、オレ様の攻撃を受けて、立ち上がれないほどの怪我をしているはずだ。


シーニスは困惑した。


そしてそれが、命取りとなった。


「これで終いだ!!」


声が聞こえたように感じるのと同時に衝撃を受け、そのままシーニスは深い闇に引きずり込まれていった。

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