第10話 拾った責任

窓から眺める雪化粧も徐々に薄くなり、ぽつぽつと地面が見え始めてきた。

家を出て外の空気を胸いっぱいに吸い込むと、冷たい冷気と共に、木々の湿った薫りがほのかに感じられる。


春が、もうそこまで来ているのを感じる。

これでようやく、この世界を見て回ることができる。


神樹の家の居心地はとても良い。

だが、情報に不自由がある。


ユイは文字を教えてくれるのだが、書庫にある本を紐解いても、すぐに良く分からない単語が出てきて読み進められない。ユイも、どうも故意に一部の単語を教えないようにしているようなのだ。

それに、書庫にある本のほとんどは何かよく理解できない専門書の類のようで、何が書いてあるのか、まったく理解できない。


更に、ここにいると、外の情報が全く入ってこない。

新奇なものがなくて飽きないのか、と聞いたら、植物の在り方とはこういうものだと返された。

百年経ってもあのままなのではないかという気がする。


俺は、植物でないから、この世界について知りたい。

だから、世界を見て回りたい。

そんなことをユイに相談したところ、好きにすれば、と一言で終わった。


仮契約者の資格を得た今、外の霧の結界は、俺には干渉しない。

好きなときに出掛けて、好きなときに戻ってきて良い、とのこと。

帰る場所があるというのは、ありがたい。


そういったわけで、冬の間、引きこもっていたせいで鈍ってしまった体のリハビリがてらに、周囲を探索する毎日を過ごしている。

紙とペンを持ち出し、周囲の地形をおさえつつ行動範囲を広げる。

そんな毎日を重ね、徐々に周囲の地形を知っていく中で、遂に道らしき場所に出ることが出来た。


「…………!」


見つけた時は、感動で声が出なかった。

あの神樹の家以外で、ようやく見つけた文明の片鱗。

ここがどんな世界であれ、知的存在が文化的生活を営んでいる証、と言えるのではないか。

それが人間であるのか何なのか、そこはまだ分からないのだが。


この道はどこまで続いているのだろうか。

もしやローマまで続いていてくれやしないだろうか。


くだらないことを考えつつ、道が延びるその先を見やる。

短い芝が道を覆っている。

屈んで触るとかなりしっかりした葉であり、地下茎が地面を補強しているようでとても固い。

ごく淡い若葉色に彩られた道は、爽やかな香りを放ち、歩きやすそうであった。

いくつかのわだちのような筋が真っ直ぐに伸びており、車輪の存在を予想させる。


この道の先に文明がある。

そう確信が持てる、確かな手応えがある。


思わず、道をたどって、どこまでも歩いて行きたくなったが、まだ早い。

数日間は歩き続けられる装備と、食料に水、そして身を守るための武器。

これらは最低限、必要だ。


はやる心を落ち着けつつ、帰途につく。

湖の様子を確認してから戻る予定だ。

これが良くなかったのだが。


***


この世界で、初めて目覚めた湖畔に立ち、湖を眺める。

相変わらず深い青の湖面は微かに揺らぎ、きらめく。

涼やかで透き通った空気を、胸一杯に吸い込む。


ここは、彼が生まれた世界ではない、異世界なのだろう。しかし、異なる世界と考えると、逆にこの世界は元の世界と良く似た構成な気がする。


何しろ、異なる世界と言うのなら、火星のような赤一面の大地にタコのような異世界人が生活を営んでいても良いわけだし、深海で粘性海洋生物が独自の生態を築いている可能性だったある訳だ。

そういった極端なパターンを想像するならば、この緑と水に囲まれた美しい世界は、彼に優しいとすら今なら思える。


ひとまず、彼を受け入れてくれる存在と、帰れる場所ができた。

明日から、彼自身の世界を広げるために踏み出す。

そして、この世界がどんな世界なのか、なぜ連れてこられたのか、その理由を探すんだ。

そう、目標を定めた。


――相変わらずの美しい眺め。


しばらくは、この始まりの場所からの眺めも見ることができないだろう。

しばし感傷に浸ったあとに、景気付けに腹の底から声を出す。


「絶っ対に、負けないからなああああぁぁぁ!!!」


思い切り叫んですっきりして、帰途につこうと、周囲をぐるりと見回した。


ふと、少し離れた湖畔の一部に霧が立ち込めているのが見える。

自然現象にしては、おかしな様子だ。

立ち止まり、目をすがめて、観察した。


見えづらいが、霧の傍ら、湖畔に銀色の丸いもふもふした物体が見える。

あれは、何だ?

よぉく見てみると、丸いもふもふが変形し、縦長になる。


――あれは。


いつぞや見た、銀毛の大きな熊。

それが、のそりと体を起こしている。


いつか見た光景が思い出された。そして、嫌な感じがした。

以前は、銀熊を見たあとに、大型の狼の群れに遭遇し、そしてそれらに追われて神樹の家に辿り着いた―――


やばい。

慌てて駆け出す。

首を回す間すらも惜しむ。


走りながら、耳で確認する。

草や枝を踏む複数の音。

徐々に迫ってくる息遣い。


今回は吠えずに、静かに取り囲んでいるようだ。

そのせいで、気づくのが遅れた。

本気の殺意を意味しているように感じられ、恐怖が心臓を鷲掴みにする。


肺の苦しさ、体の痛みなど気にしていられず、全力で走る。

しかし、所詮は人間と狼の足の違い、距離はどんどん詰まっていくことを感じる。


神樹まではそう離れていない。だがまだ少し距離がある。

アレらの気をらせるような、何かないのか。

走りながら懐をまさぐる。

有効と思われるようなもの。動物は火を怖れる。ライター?


この脆弱な道具では頼りないが、ないよりマシかと、右手に握る。


他に何かないか?

犬の訓練士が腕に巻いている何か。ふとそれが頭に浮かんだ。

少しは凌ぐ役に立つかも知れない。

コートを脱ぎ、御守り代わりの黒水晶を握った左腕に巻きつける。


いまだ冷たい空気が肺を刺す。

心臓が痛いほど働いている。

体の各所が悲鳴をあげているが、狼達を振りきれないのでどうしようもない。


狼が飛びかかってくるのを感じた。

咄嗟に左腕を突きだし、巻き付けたコートで襲撃を防ぐ。

その鼻っ面に右手に持ったターボライターの火をつけ押し付けた。

流石にびっくりしたようで、悲鳴を上げて飛びすさる。


右後ろに位置する狼が、今にも飛びかかろうとしているのを感じる。後方にはおよそ五、六匹の狼がいる気がする。

位置取りに気を付け、飛び掛かられるのを少しでも回避。

たまに、妙に勘が冴えるときがあるが、今それが来ている。この勘がなければ、既に死んでいたところだろう。ありがたい。


しかし、そんなその場しのぎは、そう長くは続かない。


「がっ!!」


狼の攻撃をかわし損ねた。

左足に攻撃が掠った。

傷口が熱い。


傷はどこにできたのか、深さはどれくらい?

気になる。

しかし、ここで走るペースを落とすわけにはいかない。

足が動く限り、動かせ。

必死で自分に言い聞かせ、ひたすら足を動かす。


「うわっ!?」


横合いから、肩口に噛みつかれる。

咄嗟に左手で狼の鼻面を叩く。

驚いた狼が悲鳴をあげて口を開き、崩しかけた体勢をなんとか立て直す。


「ぎゃあ!!」


遂に右手首に噛みつかれた。

ごりっ、と変な音が聞こえる。

右手がありえない方向にねじまがり、ターボライターを落としてしまう。


半分、恐慌を来しながら、左拳でなぐりつける。

ばぢっ、と変な音が拳からして、狼が悲鳴をあげて逃げていく。


なんとか、目先の難は逃れたが、完全にパニックに陥ってしまった。


怖い、怖い、死にたくない!


自分の左右の足に狼の牙が立つのを感じた。

背中を、爪が斜めに切り裂く。

首の後ろに気配を感じる。


やばい、このままでは首を噛み千切られる……!!


そのとき、由宇の周囲を霧が取り囲んだ。

乳白色の、濃密な霧。

周囲で、何か弾けるような音が聞こえる。あとは、狼が、訳の分からない声を上げながら混乱し右往左往する気配。


どうなっているのだろう。

目が霞む。

身体が急速に冷たくなっていく。

もう、何も考えることができない。


やがて、由宇の周囲に暖かい空気が満ち、そして意識は遠ざかって行き……


***


(これは…ひどいものね)


目の前には、ズタズタになった男が地面に横たわっている。

外套を巻き付けている左腕以外、衣服は切り裂かれ、血がこびりついていた。

右手首は抉れてあらぬ方向にねじれ、骨が少し見える。

背中は斜めに大きな傷が走る。

両足は左右とも肉が裂けて、執拗に攻撃を受けたことが見て取れる。


何より、最後に霧で覆う直前に首筋へ牙を立てようとしており、かばいきれずに首に大きな傷跡が残されていた。

更に、意識を失い転倒した直後に右脇腹に食いつかれ、すぐに追い払ったものの、ひどい状態だ。

全体的にこんな様子なので、当然、血もかなり流れ出ている。


現在は、ユイが光のもやのようなもので由宇を包んでおり、血の流出を抑えている。

しかし、ここまで損傷がひどいと、それでも長く持たせることは出来ない。

ユイをもってしても、彼を治癒することは困難だ。


つまり……彼の肉体は、もう救いようがない。

今は、その失われてゆく肉体のわずかな残り火で命を繋いでいるだけだ。


しばらく、ユイは宙に浮いた由宇を包む光のもやを見ていたが、ひとつ溜息をつくと、それを神樹の家に運び込む。

玄関を抜け直ぐ右手の扉、由宇が入れなかった扉を開き、宙に浮いたままの由宇の肉体を二階に搬送、そのまま最奥の部屋に入る。


部屋の中央に、二つに割れた、人が入れそうなほどの大きなさやがある。

脇に木がそそりたち、部屋全体を植物の蔓や葉が覆っており、それは天井にも密集している。

中央に置かれた大きなさやを、鬱蒼と茂る植物が囲んでいるように見える。


その二つに割れたさやの中に、光る靄に包まれた由宇を横たえ、ユイは改めて溜め息をついた。


「こいつの生を繋ぐためには、いままでみたいに適当な対応だとダメ、だろうなぁ……

本当に面倒だけど、拾った責任はちゃんと取らないといけないからね……」


そう言いながら、ユイの姿が空中に溶けて、消えた。

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