第7話 幻影の女

邸内の樹木は、高さはおよそ五、六メートルくらいだろうか。

三階くらいまでの吹き通しの天井に収まっている。

幹は太く、正面から見ておそらくは横幅で二メートルくらいはある。

枝は大きく両側に張り出していて、やはり直径で四、五メートルくらいはありそうだ。


その幹の傍らに、女性が佇んでいる。

遠目から見たその姿は――


その姿が脳髄に届いた瞬間、電気ショックを受けたように自分の足が動き、気が付くと女性の目前に立っていた。


女性にしては高い身長、背中まで届く、緩いウェーブのかかったライトブラウンの柔らかそうな髪。

切れ長の眼に、髪と同系統の焦げ茶色の瞳。

スレンダーな体を白色の緩いローブで包んでいる。


そして、背景が薄っすら透けて見える身体。


身体が僅かに透過していることを除けば、二十年近く前に失踪した想い人そのもの。


膝が、ガクガクと勝手に震えた。

自分のものでなくなったかのように、まるで言うことを聞かない。


声を掛けようとした。

だが、顎も同じく震えて、うまく声が出ない。


自分は誰を相手にしているのか?

どこに居て、何を見ているのか。


結依ゆい……?」


それでも、俺は喉の奥から絞り出すように、懐かしい名を呼んだ。


女は、少し時間をおいてから小首を傾げる。

口を開き、語り始めた。

その声は、記憶にある、懐かしい声音そのもの。


そして、その内容は――


何を……言っているのだろうか?

声は聞こえるが、全く理解できない。


言語が違う?

少なくとも日本語ではない。

英語でも、中国語でも、耳にしたことのあるどの言語の響きとも違う気がする。


……やはり、ここは知らない異世界なのだろうか。


だとしたら、この目の前の女は何なのだ?


自分の記憶の中にある容姿と寸分たがわない外見。

声も同じ、仕草も雰囲気さえも、記憶にあるままだ。


なのに、自分の知らない言葉を語り、ずっと怪訝な表情のまま。


このギャップが胸を衝く。

俺は、相手の目を見て、凍り付いたように動けない。

女は、口を閉じて、こちらを見ている。


……?


その時、何かを感じた。


経験のない感覚。

脳内に、ノイズが走り抜けるような、嫌な感覚。

思わず頭に手を当てる。


…………!


また来た!


今度は先ほどより弱く、しかし長い衝撃が、脳内をかき乱す。

三半規管をぐるぐると揺さぶられたような、吐き気を催すような感覚。

思わず膝をつき、口を手でふさぐ。

度重なる衝撃をうけ立っていられず、顔を俯け、膝をついた。


そんな俺をみて、女は溜息をひとつつき、目を閉じる。


『………』


先程よりもかなり抑えられた刺激を感じる。


『……聞こえ…る……?』


頭の中に声が響く。

紛れもない、懐かしい彼女の声。


結依ゆい!」


名前を呼び、立ち上がって思わず肩をつかもうとして、空振りをした。

姿が透過状態なだけでなく、実際にその場に身体は無いようだ。


バランスを崩して、無様にも再び地面に倒れ込んだ俺の頭の中に、その声は響いた。


『……私は……あなたの知る……存在……ではない……

少し……待つ……なさい……』


***


その後、時間をかけて女とコミュニケーションを取ることができるようになった。


ようやく慣れてきたその感覚は、いわゆる精神感応。

心同士で想念を送ることができるというもの。

念話と呼ぶようだ。


もちろん、俺はやり方が分からないので、想念を送られる一方だが。

向こうは俺の心を読んでコミュニケーションを成立させている。


つまり、相手は俺の心を読み放題。

こわっ!


『しかし、言葉も通じないのに、こうして念話をしていると、日本語で会話ができている。

なんでだ?』


なかなか慣れないが、頭の中で文章を組み立てると、それを相手が読み取ってくれる。

そうやって会話を成立させていた。


『私が貴方の言葉を送っているわけではないの。

送っているのは、言ってみれば想念そのもの、で通じるかな……?

こういうことを話したい、と言語化する前の、意思の状態。

それを、貴方自身が、貴方の頭の中で理解可能な言語に変換しているの』


つまり、言葉が通じない者同士でも、意思疎通ができる。

これは便利な。

翻訳機がいらないではないか。


……あれ?でもそうすると……


『そうすると、ひょっとして動物とかとも意思疎通ができたりするのか?』


動物好きにはたまらない夢の能力、動物とのコミュニケーション力。


『ええ、できるわよ。

ただ、相手の思考回路によって受け入れられる概念が異なるから、難しいことは伝えられないけれど、ね。

他にも、目で見た映像情報や、耳で聞いた音情報も伝えられる。

ただし、相手の理解力や予備知識、先入観なんかによって情報の整形が失敗したり、歪められたりするから、正確に伝わったかどうかは分からないけどね』


デメリットはあるものの、素晴らしい能力だ。

この世界では、誰でもこの能力を使えるのかな?


『こんなに正確に思考を読み取ったり、逆に送ったりするなんて、できるのは私と私の姉妹くらいよ。たぶん』


考えただけで返事が返ってきた。

ちょっと怖い。


ただ、今の話で思い出した、最初に聞かなくてはならないこと。


『君は、いったい何者なんだ?』


そう念じると、女は俺のことをしばし見詰めた後、ゆっくりと語りだした。


『私は、この後ろにある樹、そのもの。

貴方が見ているこの姿は、貴方の記憶から借りた姿。

私達はね、相手の記憶の中から、その者が最も心安らぐ姿や声なんかを感じ取り、それを取り込んで、相手とコミュニケーションを取るようになっているの。

だからね、私のこの姿、この仕草、この喋り方が、貴方にとって最もいやされるはずなのよ。

そうでしょう?』

『いや、そんな姿で急に現れたら、みんな混乱するよ!

勝手に人の記憶を漁るなよ!思わず泣きそうになったじゃないか!

肖像権と個人情報の侵害だよ!』


反射的にクレームを入れてしまう。

それを感じ取ったのか、女は小首を傾げて顎に人差し指を当て、すこし困り眉になって言った。


『あー……やっぱり、そう?

なんか不評なのよね~、このもてなし。

同族からも、だいたいみんな同じような反応をする、と聞いているわ。

せっかく、頑張ってやっているのに』


あ、ダメだこれは。

全然、人の心の機微を分かっていない。

……そういえばこの方、樹ということは植物だったっけ。


『ところで、ショーゾーケンシンガイ、って何?』

『いやそこは気にしないで』


説明が面倒くさいので、スルーしてもらう。

やはり、言葉の全てが伝わっているわけではなさそうだ。

文化的バックボーンが共通していないと、そりゃ理解できない概念とかも出てくるだろうなあ。


『話が脇道に逸れた、君が誰か、の続きを教えてくれ。

この家は、誰の家なんだ?

君は、その家の者と、どういう関係なんだ?』

『え?この家は、私の物よ?

私一人で住んでいるわよ?

何か問題でも?』


えー……。

この世界って、樹が家を持つ世界なの?

しかも一人って、数え方がおかしい……と、これは俺の脳内変換だっけ。


『いやごめん、俺の故郷では、植物は家を持たないから、ちょっとびっくりして』

『それなら大丈夫、ここでも同じよ。

私は特別なのよ!』


そう言って胸を反らす。

この辺の仕草も、俺の記憶から取っているのだろうか……俺の知る結依ゆいは、そんな言葉づかいも行動も、取らなかったはずなのだが?

つまり、記憶の中の性格を完全トレースするものではなく……


いや、そんなことはどうでもいい。


まずは、俺にとってこの世界の核心的なことを知る必要がある。


『この世界に……俺と同じ、人間はいるのだろうか?

もしくは、言語を持ち、文明を築いた、知的生命体は?』


この回答で、今後の俺の生活が決まるかもしれない。

緊張で口の中が渇くのを感じる。

女は、小首を傾げて、少し不思議そうに眺めている。


『私は生まれてから、ここから動いたことないもの。

他の種族のことなんて知らないわよ?』


箱入り娘さんでした……。


『それなら、この家の周囲を覆っている霧のことは知っているか?

あの霧に包まれると、現在位置や方角が分からなくなって、記憶まで曖昧になるのだけれど』

『そう、それよ!

そのことよ!

貴方、どうやってあの霧を越えてきたの!?』

『どう、と言われても……

迷っているうちに、何かに呼ばれたような気がして、歩いていたら辿り着いて』


身を乗り出して聞いてくる女。

突然の剣幕に少しびっくりしながら答える。


その回答をどう受け取ったのか、胡乱うろんそうにこちらを眺めてくる。

やがて、幻影のクセに溜息をついて、話を再開した。


『この館の周囲には、私の力で結界が張ってあるの。

近づこうとしている者の意識に干渉して、ここから出ていくように仕向ける。

力の弱いものには、意識を朦朧とさせて、外に向かって歩くように誘導するの。

これにかかったら記憶もほとんど残らないから、霧に入ってからすぐに霧から抜けた、と思うはずよ』


なるほど。

今の話し方から、彼女は俺を力の弱いものに分類していて、だから記憶が残っているのがおかしい、と言われているのだろう。

これだけ記憶を読まれ放題なのだから、力が弱いのは、その通りなのだろうが。


『ちなみに、力がある者が相手の場合は?』

『どうでもいいでしょ』


つれない返事が返ってきた。

余計なことは知らなくてよろしい、ということか。


『つまり、貴方は招かざる客、ということなのよ。

お分かり?』


そう言って、腰に手を当てた。

この辺の仕草も、俺の記憶から読み取って再現しているのだろうか。


その後、いくつか質問をして、いずれもケンモホロロな対応に終始。

当たり前だ。俺は部外者であり、招かれざる客。

懇切丁寧な対応など、望むべくもない。

相手の容姿につられて、つい警戒心が緩んでしまうだけだ。


相手から有益な情報をこれ以上得られないと理解し、ふぅと一息つく。

緊張と興奮が静まり、代わって疲労感がのしかかってくる。


思えば、突然この世界に連れて来られて、放り出されて。

未知の大自然の中でサバイバル生活を強いられ、来る冬の生活への備えに奔走し。

ずっと、不安や緊張の連続であり、心身共に疲弊していたところへ、今回の獣の襲撃と逃走劇。


本当に、疲れたんだ。

ここまでの事を思い出しただけで、身体から力が抜けた。

立っていられず、思わずその場で跪いてしまった。


少し視線を上げると、急に跪いたためか少し驚いた表情で、こちらを見続ける双眸。

懐かしい顔。


そうだ、俺は念願の文明に出会い、中身が異なろうとも、十数年も待ち望んでいた相手の姿と出会った。

そして、こちらの世界に来てから初めての話し相手に出会えた。例えそれが、冷淡な対応であったとしても、例えようもなく嬉しかった。


しかし、これからは?

ここから立ち去り、またあの森に一人で戻らなくてはならないのだろうか。


一瞬だけ忘れていた孤独感、文明への渇望感が、またこの身に湧き上がってきた。


他者の存在を渇望し、目先の問題解決で耐え難い寂寥感せきりょうかんから目を逸らし続けた毎日。本当は、押し潰されそうなほど、怖かったんだ。


やっと、探し求めていた、話ができる相手や、文明の一端に出会えたのに。


やっと。


「……あれ?」


身体を支えきれず、そのまま俺はその場に座り込んでしまう。

俺はあわてて立ち上がろうとするが、震えてまともに起き上がれない。


「……あれ……」


力が抜けてしまい座り込んだ状態で、俯く俺の顔から何かがこぼれ落ちた。

震える手を顔に当てると、涙で頬が濡れそぼっていた。


ぐしょぐしょに、気づかない間に。

ただ、泣いていた。


見上げると、最愛の相手の顔をした自らを植物と称する女が、呆れた表情で彼を見下ろしている。


…みっともないなぁ…


例え中身が違うと分かっていても、この顔の存在を前に、恥ずかしい格好をしたくなかった。でも、どうしようもなかった。


疲労。恐怖。動揺。懐古。安堵。

様々な感情に押し流され続けた俺は、もはや自力で感情を制することができず、頭の中がぐるぐると回り続ける。


やがて泣きつかれた俺は、意識を手離して暗闇に包まれて行った。

どんなに呆れられようとも、その愛しい表情に見守られながら落ちていく嬉しさを噛みしめながら……

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