第6話 家
生暖かい空気が緩やかに流れるのを感じる。
重い目蓋を、意思を込めて開く。
薄暗い世界が徐々に輪郭を結び、やがて見慣れたリビングが目に写る。
あれ、ここは東京の自宅か?
変な世界に連れていかれて、苦労を重ねていたような…?
しかし、いつものリビングにしては、随分と整っている。
彼が無造作に置いた荷物とか、散らかったゴミなどがない。
整頓された、居心地の良い空間。
そうか、彼女が帰ってきたのか…。
そんな安心感に包まれ、由宇は再び目を閉ざし眠りに落ちていった。
***
今度こそ、目が覚めた。
懐かしい過去の夢を見ていた気がするが、現実に引き戻される。
柔らかい芝生に顔を埋めたまま、気を失っていたようだ。
上体を持ち上げると、ひんやりとした霧が頬を撫でてゆく。
体を起こし、各所を確認してみる。
服は汚れ、ほつれてはいるが、どこも大きな怪我はしていない。
深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。
ここに至る記憶を辿る。
湖で巨大な熊を見て、その後に狼の大群に追われ、必死で逃げて。
全力で走り抜けて、足がもつれ転倒、意識を失い今に至る。
狼に襲われずに済んだのは、ここの霧に期待した効果があったためだろうか?
それがなくとも、よくあの状態で転倒し大した怪我もなかったというものだ。
温かくなっていた胸の黒い石を握り、この僥倖を噛みしめる。
先ほどの懐かしい夢のせいだろうか。
変な話だが、まるで彼女が守ってくれているような気がした。
もう二十年近くも昔に、仕事でしばらく家を空け、帰ってきたら居なくなっていた彼女。
家庭を作りたいと思い、それを言葉にする前に訪れた、突然の終わり。
今も心の底、
しかし、それもこんな謎の世界に連れて来られてしまっては、もう……
頭をふり、思考を現実に引き戻す。
昔の事をいつまで引きずっているのやら、だ。
周囲の霧は薄まってはいたが、視界はなお悪い。
痛む腰や腿をさすりながら立ち上がり周囲を見回す。
?
ふと、気になるというか、何か呼ばれているような、そんな気がした。
どこからだろう?
辺りを見回す。
気になるのは、まさに霧が濃くなっている方向。
あちらに何かあるのだろうか?
行ってみたい。
でも、俺を拒否するかのような霧の、さらに奥に踏み入って大丈夫だろうか。
しかし気になる。
霧の外に狼がまだうろついているかも知れないという、現実的な懸念もある。
いまは、霧の奥の方に進もう。
そう決めて、その方向に足を向ける。
未だ濃い、乳白色の霧の、生暖かい湿った空気を感じながら、掻き分けるように歩いていく。
足元はまるで、よく整備された芝生のように平らかな草の感触。
ある程度歩いて、ふと、何かを感じた。
どんな、と問われても困るような未知の感覚。
まるで何かを通り抜けたような感じ。
更に歩くと、周囲の霧が徐々に薄くなって行く。
突然だった。
眼前に、大きな影が見える。
この形は……家……か?
上は三階建て……いや、四階建て?
横幅、縦幅も、東京ではなかなか見ることができないほど大きなシルエット。
心臓の鼓動が早鐘を衝く。
これは。これは。これは。
この世界に落とされてから、ずっと求めて止まなかったもの。
文明の証、人間の足跡。
震える足で更に近づく。
徐々に輪郭が像を結んで行く。
これは、家だ。
大きな、家だ。
形状は、洋館に近い。
やはり、三階建てくらいの高さだろう。
装飾はあまりないが、その佇まいは洗練されたシンプルなデザインハウスのようで、センスを感じる。
屋根を葺いているのは瓦でも石でも板張りでもなく、少し光沢のある硬質な濃緑色の素材。
柱と壁は木材でできている様子だ。
白っぽい壁は、ホワイトナチュラルとかいう名称で分類されるカラーに似ている。
ところどころに蔦性植物が絡む。
手入れは行き届いているようなので、装飾として配置しているのか。
窓もある。
ガラスだろうか、透明で硬質な板が窓枠にはまっている。
よく見ると、ガラスほどの冷たさを感じられないが、アクリルよりも透明感が高いよう感じられる、不思議な素材。
中を覗こうとするが、薄暗くて様子がわからない。
一周、ぐるりと回ってみる。
辺りは一面、よく刈り込まれた芝生のような草に覆われており、ゴミひとつ落ちていない。
生活感はない。
自分以外の足跡もない。
手入れされているのに、人の気配が感じられないという不思議。
一周してから、扉らしき場所に向かう。
家を正面から見上げる。
体が震える。
心臓が、不安と期待に、うるさい程高鳴っているのを感じる。
初めての文明の証。
しかし、ここまでの経緯から、何が住んでいるのか、想像もできない。
だが、ここまで来て入らないという選択肢はない。
これまでの短くもない人生で、最高に緊張している。
覚悟を決めて、扉に手をかける。
焦茶色のつるりとした扉についた大きな取手を握り、押す。
鍵は掛かっていないようで、抵抗なく扉が開いた。
ごくり、と喉を鳴らす。
「お邪魔しま~す……」
足を一歩、中に踏み入れる。
中の清涼な空気が、ひんやりと肌を冷やした。
一目で木造とわかる構造の広い玄関に入る。
床は外から続けて芝になっている。
しかし、屋内のそれはとても緻密な生え方で、上質な絨毯のように踏み心地が良い。
踏みしめると、若草のような爽やかな空気が立ち上る。
その清涼な空気を吸い込むと、体の疲労感が心持ち和らぎ、緊張が少しほぐれた気がした。
邸内は天然木を使いフレームを組み上げ、壁などは艶やかな生成りの板を使用しており、装飾としてか葉や蔦があちこちに見られる。
……建築様式は、どこの国のものとも違う、気がする。
靴を脱ぐ場所もシューズボックスもないので土足ではいるものと判断し、きょろきょろと辺りを見回しながら奥に進む。
廊下を進み、広間のような開けた部屋に入る。
三十畳もあろうか、家庭のリビングよりもかなり大きな空間。
天井は、場所によっては三階くらいまで吹き抜けになっている。
円形の大きなテーブルがあり、その向こうには、
家の中に樹?
不思議な構造だな。
近づいて見てみるが、やはり生の樹。
青々とした葉もついている。
見上げると、天井に大きな円形の窓がついている。
おそらくあそこから陽光を採っているのだろう。
樹の幹をぐるりと一周してみた。
樹の幹の入り口の方向側、人の腰の高さくらいに前に張り出している部分があり、奥に玉が埋め込まれている。
良く見ると、うっすらと光を放っている様子がうかがえた。
緩やかに明るくなり、暗くなり、あたかも樹の鼓動を示すように、ゆっくりとした周期で明暗を繰り返しているようだ。
幻想的な光景だった。
霧の中に佇む異世界の豪邸。
見たことのない、完成度の高い建築様式。
邸宅の中に
円卓の傍らで部屋の中を見回していると、ふと視界に違和感を感じた。
なんだ?
樹木の辺りに、ぼぅっと薄ぼんやりしたシルエットが見えたような?
慌てて視線を走らせると、樹木の傍らに、人らしき影が立っていた。
さっきまでは、何も居なかったと思うんだけど!?
緊張を感じながら、改めて観察してみた。
少し暗めの室内で薄ぼんやりと光っている人型の
それは、
これが、幽体というものなのか?
この地で初めて出会った人らしき存在、だが不可思議な存在。
しかし、そんなことは、いまの彼には
「……
樹木の傍らに立つ、白いローブを着た女性。
その姿は、彼の前から唐突に、忽然と姿を消した彼の最愛の女、そのものであった。
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