第5話 野獣との遭遇
寝床にしている木の洞から顔を出す。
吹き抜ける風が頬をよぎると、ぴり、と肌に刺すような痛みが走る。
しん、と引き締まり透明感を高めた空気。
ふと吐いた息が白くけぶる。
いよいよ冬の本番の入口だ。
この世界に来て、はや四週間を過ごした。
ここ数日でめっきり冬の気配が強くなってきたが、とはいえ日課の探索は毎日欠かさず行っている。
が、いまのところ、全く文明の欠片も認められない。
このさい骸骨でもいいから何か見つからないかと思うのだが、ないものはない。
これから冬は本番を迎えるだろう。
ようやく慣れてきた、手製の狩猟用の武器。
記憶の断片を集め、抜けを想像力で補いながら作った罠。
日々の生活を凌ぐだけでは足りない。
来るべき冬に備えて食料を確保し、住環境を整える。
これが目下の課題。
正直、あの木の洞を改造した住居で越冬できるかというと不安しかない。
雪が降っても大丈夫なように住居を補強し、厳しい寒さに耐えらえるよう着衣を整え、燃料を確保し、食料を貯蔵しておく。
時間なんか全く足りない。
ただ、この作業に没頭することで、精神的な平衡を保てているのかも知れない。
毎日、思考と体力を限界まで酷使し、寝支度が済むかどうか、という状態で深い眠りに落ちてしまい、夢も見ずに朝まで寝ていられるのだから。
そんなギリギリの日々を過ごしている。
木の洞から身を乗り出し、本日の散策に出る。
朝晩の冷え込みも厳しく、足の裏で、じゃり、じゃり、と霜が音を立てる。
今日は、まず湖の方に向かう。
水の調達が主な目的である。
木々が途切れ、目の前に南海の海を思わせる碧色を湛えた水と、朝日を受けた湖面のうねりが重なりあい、きらきらと輝く。
こんな状況ではあるが、この湖は、何度見ても飽きさせない美しさがある。
湖を眺めつつ、いつもどおり水を汲もうと水際でひざまずいた。
ん?
一瞬だが、何かが気になった。
何だろう?
周囲を見回す。
右手前方、何かがある?
弧を描く汀線の向こう側に、日差しを受け鈍く輝く、柔らかそうな何かが見えた。
目を
昨日はなかったはずの、何か。
あれ?
見ていると、少し形が変わったような?
日差しが邪魔して良く見えない、手のひらをかざして更によく見る。
あれは…
「!?」
突然、背後から狼の遠吠えらしき音が聞こえる。
近い!?
狼の遠吠えなど聞いたこともないが、肚に響くこの大きさ、かなり大きな体を持つ個体なのではないか?
頭をよぎる、湖畔の泥濘で見かけた、多数の巨大な肉球の痕跡。
あいつらが近づいているのではないか!?
慌てて声の反対側に逃げようと振り向く。
目に入ってきたのは、想像していたのと異なる光景。
視界の殆どを覆う、銀色の巨大な壁が、すぐそこにあった。
え、いつの間に??
ほんの少しだけ、顔を持ち上げると、そこには顔があった。
その顔つきは、記憶にある。
あの顔つきは――熊。
銀色の熊!?
先ほど見た鈍く光る何かが、少し余所見をしただけの合間に接近し、今はすぐ側に立ち上がってその巨体を晒していた。
しかもでかい。
あれは身長が二メートル以上あるのではないか?
湖畔にのっそりと立つ銀色の熊は、午前の日差しを浴び鈍く輝いていた。
そして、知らない間に湖から靄が這い出してきたのか、少しずつ、見ている間にも銀熊を霞ませていく。
美しい青い湖畔に佇む、巨大な銀の熊。
それが霧を従えるように身を覆っている。
非常に幻想的とも言える光景だ。
と、そんなことを言っている場合ではなかった。
前門の熊、後門の狼の群れ。
これ、死亡確定では?
水音が聞こえる。
再び背面に目をやると、湖畔沿いに水を蹴るように走る狼の群れの姿が目視できた。
やばい、もうあんなに近づいている!
バケツ替わりにしていた果物の殻を投げ捨て、脇目もふらず、森の中を目掛けて逃げ出す。
しかしどこへ?
今の自分の寝床に逃げても、追いつかれて蹂躙されるのがオチだろう。
木の上に逃げたところで、取り囲まれてお仕舞い。
今から湖の中に逃げ込む勇気はない。
当然、走って逃げきれる道理もない。
とにかく木々が生えている方向に向かい走る。
しばらくして、後ろから狼の悲鳴が聞こえる。
銀熊と狼が戦っているのか!?
あの熊が狼達を追い返してくれれば…と祈りつつ、走る。
しかし、湖畔から離れるにつれ、後方から何かが近づいてくる音が聞こえた。
そうして逃げる合間に、何か獣の声とは異なるイントネーションが聞こえる。
あれは――人間の声?
日本語ではないが、どこかの国の言葉だろうか!?
一緒に人間がいる?
その想像をした瞬間、心臓が跳ね上がる。
確認したい。
が、速度を落とし振り向いたら、その瞬間に終わる。
そう、今はただ逃げる以外の選択肢など、ない。
走る。逃げる。全速力で。
しかし、どこへ?
ふと脳裏に、あの森の中の、霧に覆われた空き地が思い浮かぶ。
何度か赴いたあの場所は、常に乳白色の霧が立ち込めていた。
不思議な場所で、その霧に分け入っていくと、心が沈静化して行く。
何故かその場から立ち去らなくてはならない、そんな気持ちが湧き上がるのだ。
もしこれが、例えば何かの植物から分泌される成分が脳内物質に作用し、そういった感覚を誘発しているのであれば――あるいは、狼にも効果があるのではないだろうか?
根拠はなく、理論的とも言い難いが、今はこれに縋りたい。
ここからそう遠くもないはずだ、そこに逃げ込もう!
背後の気配はどんどん近づいているのを感じた。
振り切るよう、必死で走る。
とにかく、あそこへ。
頭でその場所を思い描き、ひたすら足を回転させた。
それだけを考えて走っているせいか、まるで導かれるように足が体を運んでくれる。
やがて、視界が白く滲み始める。
これが、酸素が欠乏して視界が白くなってきたのか、それとも期待していた霧が出てきてくれたのか、もはや自分でも判然としない。
だが、やることはひとつ、ひたすら足を動かすのだ。
もう、後方の音はすぐ間近に迫っている。
獣の息遣いが聞こえてくるほどに。
今、余計なことを考えたら死ぬ――。
考えるな。
足を動かせ。
視界がどんどん、白で塗りつぶされていく。
他の五感も、既に何も感じられない。
気持ちが落ち着いて行くような、不思議な感覚で満たされる。
もう、犬どもの息遣いも足音も聞こえない。
ふと、動かしていた左足が、前に出てこないのを感じた。
意識を下に向けると、右足に引っかかっているのが分かる。
ああ、転ぶんだな……
そう思うのと同時に、すっと意識が暗転した。
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