第8話 契約

夢を見た。


まだ、結依ゆいと暮らしている頃。

たまに行く公園で芝生に寝転んでいた。

若草の薫りと近くにたたず結依ゆいの気配。

幸せを感じていた時代。


しかし、これが夢であると心のどこかで理解している。

夢の中で、結依ゆいがそっと俺の左胸に手を当ててくる。

心臓が温かくなり、鼓動が安らぐような、そんな不思議な感覚。

心も、身体も軽くなっていくような、そんな快い時間に身を委ねた。


しばらくそうして微睡まどろんでいると、心身に力が浸透したような、充実した手応えを得る。

いつまでもこうしていたいが、結依ゆいに甘えすぎるのは良くないだろう。目を覚まして、現実に帰らなくてはならない。


優しい世界にいとまを告げ、重い目蓋をそっと開いた。


***


薄暗い部屋の中、柔らかい草の香りに包まれながら、ゆっくりと目を開ける。

吹き抜けの天井から釣り下がった球体が、柔らかい光を放っているのが見える。

広い部屋に絨毯のような芝生、そしてそそり立つ樹木。


上体を起こすと、お腹に鋭い痛みが走る。……いや、これは痛みではなく、空腹感、かな。

倒れる前も、そう言えば夕食前だった。


よいしょ、と立ち上がると、先程まで居なかったはずの女がすぐそばにたたずんでいた。


『随分と遅いお目覚めね?』


ニコリと笑いかけてくる。

どれくらい寝ていたのかと聞くと、丸一日と半日、だそうな。

倒れる前が夜だったから、いまは朝ということか。

どおりで、腹が減るわけだ。


『……話をする前に、少し落ち着いた方がいいわね。

ちょっと、こちらにいらっしゃい』


そう言って、樹木の奥を抜けて廊下に出て左手方向にある、なんとなくキッチンを思わせる部屋に入る。


目の前は火を扱うガス台のような設備がある。

ガスコンロやツマミこそ無いものの、やや灰色がかったエナメル質のような台に窪みがあり、その窪みの上を覆うように五徳のような黒い爪がついている。


女はその台を素通りし、左手奥の壁に近づく。

壁から生えた突起に手をかざすと、音もなく壁の一部が引き出しのように手前にせりだす。

中には、葉でくるまれた棒状のものがギッシリ詰まっており、そのうち一つが、独りでにひょいとこちらに飛んでくる。


笹団子を剥くようにそれを開くと、中からカロリー摂取用携行食のようなものが現れた。


ひとくち、かじる。


外側は固めでサクサクし、ほんのりと甘い。

中は一転しっとりとして、ムースのように滑らかだ。


ふわん、と、桃のような、メロンのような、芳醇な果物の香りが鼻腔に満ちる。

軽く甘味があり、ざくざくと食べられて、しかも腹にたまる。


「なにこれ、美味しいな」


素直に驚くと、女はニヤリと笑い、腕を組み胸を反らして言った。


『私から生ったのだから、美味しいのは当たり前でしょう?』


……なんかちょっと聞かなければ良かった単語があったような……


腹は死ぬほど減ってるし、美味しいのは事実なので、聞かなかったことにして、無心で食べた。

いくらでも食べて良いそうなので、お言葉に甘えて。


そのあとは、『臭いから』と言われ、追いたてられるように”沐浴場”に連行された。


巨大なさやえんどうを半分に割ったような草色の湯船に、薬湯のような独特の匂いがする、少しとろみのついた液体が張られている。

液体自体の温度はぬるいのだが、液体に身を沈めると、液体に触れている部分が暖まってきて心地よい。

薬湯のような匂いも、やがてフローラル系の香りが混ざり、緊張が解けていく。

何の作用か筋肉も弛緩し、ともすると寝てしまいそうなくらいにリラックスできた。


上がる頃には液体は白く濁っていた。

……この濁りの元が何なのかは考えてはいけない。


沐浴から上がると、いつの間にか、白い貫頭衣のような服にズボンまで用意されている。

白い麻のような生地は通気性がよさそうで、触ると上質の麻のように優しい手触りだ。


口は悪いが、持て成しは素晴らしい。

ただ、なぜこのように扱ってもらえるのか、さっぱりわからない。

はっきり言えば、不気味だ。

後で何かを請求されなければ良いのだが。


人心地つき、浴室からでたところで、すぅっと女が現れる。

何もないところから、フェードインしたかのように現れる様は、まさに幽霊そのもの、と思ってしまっても仕方がないだろう。


『死者の魂と一緒にするなんて、随分と失礼じゃない?』


腰に手を当てて怒りを見せる様は、どうみても人間の仕草そのものだ。

とても樹木の化身とは思えない。


それはともかく、今のはこちらの失礼。

素直に謝ると機嫌を直して、大樹の部屋まで導かれた。


テーブルにつき、大樹の女と相対する。


『最初に聞きたいのだけど、あなたは何者なの?』


いきなり先手を取られた。


同じ質問をこっちがしたいのだが、仕方がない。

自己紹介の代わりと思うことにして、ダイジェストを語ることとした。


「俺の名前は時任ときとう由宇ゆう、日本の東京からきた」 


拉致されてきたこと、放置されていたこと、サバイバルしてきたこと、獣に追われてすんでのところでこの家にたどり着いたこと。

そこまでを一息に語る。


我ながら、苦難に満ちた行程だったと思う。

慰労されてもいいと思うんだが。


『ふ~~~ん?』


つまらなさそうに返された。


『あんたが、間抜けで無力で生活力がないことは良くわかったわ。

何かあっても、頼り甲斐はゼロね』


……言い返せなかった……


打ちひしがれている俺を見て、口吻を少しだけ吊り上げ、それはもう楽しそうに追い討ちをかける。


『まあ、汚い身なりで、土足で人の家に上がって、泣きわめいた挙げ句に食料を貪り食うようじゃあ、お里が知れるというものだわね』


そう言って楽しそうに、ほほほ、と笑う。

お里が知れるって……お前こそ、どこの生まれだ……


『ま、いいわ』


ぐうの音も出ない俺をみて満足したのか、話を進め始めた。


『私は、前にも言った通り、この神樹の精神体。

名前は無いわ。

この私の家の守護と管理をしている。

本来であれば、あんたを入れることなど無いはずだったのだけど……』


ここで言葉を一旦切り、こちらを見る。


『……何故か、本能が反応したの。

入る資格がある、ような?ないような?

良く分からないのだけれど、明確に否定もできなかった。

放っておいたら死んでしまいそうだったし、不本意ではあるのだけど、仕方がないから家に入れてあげた、というわけ』


言って、やれやれとばかりに首をふる。

樹のくせに、やけに人間臭い……

いや、前回よりも、絶対に人間臭さと性格の悪さが深化している。


「どういうことだ?

管理をしている、というが、この家の主はお前ではないのか?

もし違うのなら、この家の主は誰だ?」


口を尖らせて、見て分かるくらい嫌そうな表情を見せる。


『……この家は私のものなのだけど、それだけではないの。

私はね、この家の主を待つことになっているのよ。

でも、それがどんな存在なのかは知らされていない。

その者が来れば分かる、としか言われて無いの』

「来ればわかる?

なら、俺がそれだっていうことか?」


ふぅ、と溜め息をつかれる。


『言葉も通じなくて、念話するくらいでぶっ倒れるような相手が?

そんな相手をずっと待たされたのだとしたら、なんて可哀想な私……』

「その程度の男で悪かったな!」


しかし、だ。

この女は、確か、本能が反応して、俺を家に入れた、と言った。

つまり、俺がこの家の主の資格を持っていると考えても良いのではないだろうか。


『確かに、本能的に、引かれるものを感じたから家に入れてあげた。

でも、聞いていたのとは違う。

もっと、確実に分かるようになっていたはず……

今回感じたのは、せいぜいその絞りカスくらいしか……』

「もうちょっと、他の言い方はないの?」


カス扱いになってしまった。

何でもないような表情でこの内容、悪意なくこの暴言ディスりを紡いでいるようで、その思いが更に俺をへこませる。

しかし、凹んでいる場合ではなく、確認しなくてはならない言葉があった。


「『言われている』とか、『聞いていた』とか、『待たされた』とか。

お前は、誰に何を命ぜられていたんだ?」


これは核心だ。

真剣な面持ちで問う。


『禁則事項よ』


どの記憶から持ち出してきたんだ、その単語。

咄嗟に反論が出せない。


かなり馬鹿にされているような気がする。

この調子では、対等な関係を築くのは難しいのではなかろうか?


だが、これからいよいよ厳しい季節に差し掛かりそうな気候の変化から、ここでこの文明の力をみすみす逃す贅沢など許されない。


なにより……こんな扱いでも、他者とのコミュニケーションを味わってしまったいま、また孤独に戻れるほど、俺は強くはない。


なんとか、後につなげなくてはならない。


く、と顔を上げる。


頬杖をついて、こちらを見ている女の目が見える。

思わず、コクリと唾を飲む。


「あの……」

『貴方、私と契約を結ばない?』


言葉が重なる。

え?契約って?


『あまり詳しいことは言えないのだけどね。

私は、私の親から、パートナーを待て、と指示されているのよ。

そのパートナーと契約を結び、サポートすること。

それが私の使命……なんだけどね』


そう言って、やれやれという感じで頭を振り、続ける。


『待てと言われてはや十年……

待てど暮らせどその人は来ず。

御姉様方は既にパートナーを迎えているのに、私だけはさっぱり。

でも、相手と契約を交わさないと、私は落ち着けないの。

だから、この際、貴方で妥協してあげるわ。

感謝なさい』


そう言って、女は胸を張る。


……残り物みたいに言われた。


でも、こっちの心の声は筒抜けで、弱音を全て聞かれた上で、言われたわけで。

あれだけこき下ろされたにも関わらず、契約、とやらの相手と認めてもらえた訳で。

口は悪いが、何となく上手くやっていける相手なんだ。……といいなぁ。


「契約の内容は?」


『私が貴方を正式な契約対象として確信が持てない以上、仮契約、という扱いになるわ。

仮契約の規定は、あまり具体的なことが頭に入ってないのだけど、一応そういうことは可能なようなのよ。

簡単に言うと、私が持っていたり、この家に保管されていたりする情報は、開示できないの。あと、家の設備についても私が定めた設備のみ使用可能。

使って良い物は私が許可を与えるから、それらは好きに使って構わない。

最後に、あくまで仮だから、もし今後、本当の契約者が現れたら、私の一存で解約させてもらう。

あ、私の気に食わなくても、やっぱり解約するからね。

反論は一切認めないわ』


やたらと弱い、借り主の権利である。

現代日本の強い権利が懐かしい。


『まだあるわ。

私以外にも神樹は六本あるの。

それぞれのマスターが私の設備を使用したいと希望したい場合、あなたの意向に関係なくその使用を認めることになるわ。

私の家に住む仮契約者よりも、別の神樹の本契約者の方が強いからね。

例え貴方の持ち物だったとしても、この家の中にある限り関係なく対象になるから、もし使われて困るものがあったら、ここに置かないでね』


所有権や私的財産権すら認められないらしい。

現代日本人には、なかなか過酷な世界のようだ。


しかし、この樹以外に六本、樹があると言っていたが……


『他の神樹の情報も、仮契約の間は情報開示できないから、聞かないでね』


ニコリと笑いながら、スパンと切って捨てられた。

まだ口にも出してないのだが。


しかし、契約というからには対価が必要なはずだ。

この無一文、無財産の俺が払える対価とはなんだ?


恐る恐る、俺は女を見た。

それを見て、女はニィッと笑ってから言った。


『話が早いわね。

この仮契約の対価として、貴方の血をいただくわ』


「血!?

お前は吸血樹か何かなのか!?」


思わず椅子から飛び退りながら叫ぶ。

道理で話がうますぎると思った!


そんな俺を見て、女はクスクスと笑いながら言った。


『血、と言っても、一滴、それも最初の一回切りよ。

正確に言えば、対価というより、登録ね』


……あー、からかわれているのか。


ふう、と溜息をつく俺を見て、楽しそうに笑っている。


なるほど、なんで仮登録してもらえたか、少しわかった気がする。

要するに、暇潰しか。


『正解。

たぶん、正規の契約者なんてもう来ないだろうし、待ち続けるだけなんて暇でしょうがないからね』


そう言って、ニコニコと笑う。

そうやって笑っていれば美人なのに、その性格が残念である。


『失礼なこと考えるのね。

最後に、正式な契約を行うための条件だけど、マスターから正式に承認を得るか、もしくは正式な契約者二名以上が了承すれば、認められるわ』


そう言って微笑む。


『と言っても、マスターは消息不明の行方知れずだし、他の契約者も不在がちで、しかも音信不通らしいから、難しいとは思うけど頑張ってね!』


……それは無理だろ。

なかなかいい性格をした女だこと。


「ちなみに、そのマスターが何者なのかというのも、やっぱり……」

『禁則事項♪』


ですよねー。


『さて、そうなると、いつまでも女と呼ばれるのもいい気分しないわね。

私の呼び名を決めないと』


「そうだな、それなら何か考えて――」


そこまで言いかけた俺に向かい、良い笑顔をして言った。


『私のことは、ユイと呼んでくれれば良いわ。

ユイという女性の外見だから、ちょうど良いわね』

「ちょっと待て、それだけは――」


俺の記憶の聖域を侵さないでくれ!


『反論は認めないわ。

私はユイという名前を気に入ったから、そう呼んでちょうだい。

いいわね?』


そう言って、とてもイイ笑顔を見せる。

俺は言い返そうとして、自分の立場の弱さを思い知り、絶句してしまう。


これからの生活を予想し、溜め息をひとつ盛大につく。

彼女の前で俺に残された自由は、きっとこれくらいなのだろうから。

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