第10話
「お前がそばにいた時間が、本当にその後の彼女にとってなんにもならないと思ってるのか?」
「…だって」
「だとしたら、本物の馬鹿だ。よく、考えてみろよ。お前は考えて生きてきたんだろう?」
ぽん、ぽん、と頭を叩く軽い振動が、僕の記憶を揺らした。彼の働き者のもう片方の手は、薪を火にくべていた。ぱち、と大きく火の爆ぜる音が響く。暗闇の中で、ここは暖かい。
羅々のおじさんが、旅立った朝を思い出していた。
おじさんの置いた手は大きかったけれど、震えていたのかもしれない。小さな頭では、それを受け取り切れなかっただけで。眩しい、煌めくような光に濡らされた、子供目線の記憶。あの日に彼女が負ったのは、責任だけではなかったのかも知れない。 顔を上げる機会を逃したままでいると、薄い眠気が、頭の芯の周りに霧のように包みだした。
このまま眠ってしまったら、彼と話す機会を失うかもしれない。
それが惜しくて、僕は口を開いた。
「ねぇ、羅々には妹がいるんだ」
「へぇ、じゃあ美人姉妹だな」
「うん、本当に」
「名前は?」
彼も僕に賛同してくれているように、話を継いでいってくれる。
「満光。満ちる、光。で、みつる」
「きれいな名前だな。由来を聞くまでもなく」
「羅々と同じ優しさの種類なのに、どこか自分に否定的なんだ。賢くて、行動力だってあるのに。どこか申し訳なさそうにしている時がある」
「理由を、知ってるのか」
僕はぐっと力をこめて顔を上げる。
「たぶん、知ってるのは僕だけかもしれない」
昼に近い時間、畦道のそばで小さく二人で座り込んだときに話してくれたこと。それまでずっと、彼女が気にしていることを、僕は気にしないようにしてきたことを竜胆に話した。満光が抱えているものを知って、傷つくのは羅々だから。これ以上彼女の肩に、年齢に合わない重みが増していかないように願っていたから。だから、見えていた感情に視線を合わせないようにしていた。僕は、これからの時間で、成長していく過程で、満光がそれを納得するなり、丸々呑みこんでしまえるようになるのではないかと、思いたかった。浅くて、非情な期待だった。
花に会いたい。
そう言った彼女の本心を、僕は聞こえていたのに。 今までのことを更地にして、彼女は僕に悩めるきっかけを与えてくれたのに、僕は射した影の色の深さによろめいた。
彼女は。
「満光は、羅々とおばさんが幸せになるために、自分が邪魔だと思いこもうとしているんだ。それが家族に対して裏切りになることも分かっていて、それでも、そう思っていることを許してほしいんだ。それを許してもらえないならば、確かな証拠が欲しいって、思ってる。ずっと、願ってるんだと思う」
「ずっとか」
「うん、たぶん何年も」
山茶花のおばさんが話していたのを聞いたと言っていたけれど、それが初めてだったのか。そんな噂を聞かなくても彼女は、うっすらと事実を知っていたのかもしれない。
それが真実なのかどうかは、おじさんと花にしか分からないというのに。
知らないままの真実より、示された可能性のほうが、彼女には大きく重たく感じただろう。僕と同じように。
「僕。満光に言われたんだ。花に会いたいって。そんなこと許されないのを満光だって知っているのに、一人で行動を起こさずに、僕にわざわざ伝えたのは、僕が花を手折りにいくのが早いことを知っていたからなんじゃないかと思う」
静かな夜だった。夜空は球体のように、中に完全に世界を包み込んでいる。静かな中には、様々な高さの音が飛び回っている。その合間で僕たちの焚火が燃えていた。「満光と羅々のおじさんは、満光が生まれてすぐ花を手折りに行って、戻ってこなかった。それを満光は自分が生まれた所為だって考えてる」
「それは正しいのか?」
「分からない…」
そんなことは分かるわけがない。僕がいくら早く死ぬからって、早く大人になれるわけではないのだ。
だけど竜胆が問いたかったのはそう言うことではなかった。
「羅々のおじさんは、そういう人に見えたのか?」
僕が思わず彼のほうを見た。それを、まっすぐに彼は迎え入れた。途方に暮れそうな気持ちを、その目が許さない。そう感じた。
真っ暗な空は、星を瞬かせてしんと冷えている。夜の全体が傾けられた耳のように、静寂が満ちていた。
竜胆の向こうに垂れた屋根代わりの布の上、炎に揺らされた彼の影が揺れる。まるい頭はその頂を不安定に揺らされていた。森の夜が似合うほど、彼はこうやって夜を超えてきたことを知った。
「僕が知っているおじさんは、羅々やおばさんの持っている優しさとはちょっと違う。包むような、でも甘えるような、やさしいさの人だった。羅々も僕も、たくさん遊んでもらった。仕事で疲れていても、僕が夕飯に呼ばれていたら必ず肩車をしてくれた。そのままぐるぐる回るから怖くて、でもそこから見る世界は、自分の知っているものより小さくて可愛くて、とても安心した。怒鳴ったりしないけど、怒っているときは、ずっと静かな目で僕や羅々を見つめているんだ。おじさんががっかりするのが辛くて、必死に謝ったな。そしたらおじさんは、目を細めてすごく鮮やかに笑うんだ。もういいよ、って。だからその瞬間に、本当に許してもらえたのが分かって、涙が引っ込んじゃってた。僕も羅々もおじさんが大好きだったよ」
「あの子のおやじさんらしい」
そうだ。羅々はおばさんにも似ている。僕を気遣って、満光を気にして、おばさんの支えになって。
でもおじさんにもよく似ている。鼻筋や髪の色、笑い方の鮮やかさ。彼女の人を許すときの、心の向かい方。怒った時の、瞳の中に見える一本通った芯は、揺れることなく立ち続けるところが。
焚火の暖かさが、おじさんの手の平の温もりを、思い出す手助けを買って出た。あの朝に残された、重たさの残らない頭の撫で方。羅々に残した重たい触れ方。あれらは。
「おじさんは帰って来るつもりだったんだと思う?」
「来の話を聞いて、帰ってこないつもりだったなんて、疑えるところはなかったよ」「でも」
言い募ろうとする僕の肩を、竜胆は緩やかに拳で叩いた。あかい皮膚の、温度は確かに彼のものだ。
「そりゃ子供が見た大人なんて、ある程度勝手な誇張がされているものだろうさ。でも、それを全くの嘘にしてしまうのは、本当の愚か者だ。お前が触れた、その人を勝手に後からの憶測や、勘繰りで塗りつぶすな。人の記憶なんて当てにならない。だから、自分で大切に守るしかないだろう?」
下ろされた彼の腕に、僕への信頼が乗っていた。それを目にして僕は自然な気持ちで問う。
「どうして竜胆は僕のことそんなに信じてくれるの?」
ああ、と彼は照れくさそうに眉を下げて笑った。そんなことも分からないのか、と冗談のように口にしながら、枝を折って火に放り込む。
口元が笑ったまま、彼は目を焚火に吸い寄せながら言った。声の温度が分かるくらいやわらかに。
「お前が、俺の髪をきれいだって喜んでくれたからさ。おやじさんの言うことは本当だったって教えてくれたんだ」
この髪はお前のものだ。これをきれいだと本心から言う人もいる。だからその他の誰が非難して、同情をして、聞こえないと決め込んでいる声で囁き合うことなんて、通り過ぎた小石とでも思っていればいい。
大丈夫だ、と何度も聞かされたのだと、彼は言った。
それは彼にどうしても残しておきたい言葉だったのだろう。
「竜胆も、その髪の色、好きでしょう?」
彼は大きな口で、力いっぱい笑った。
「ああ、当たり前だろ」
彼だから、僕はその色をきれいだと思ったのだ。
それはずっと小さなころ。彼にその秘密を教えてもらった時。夕日の別れ、あの時の僕も、力いっぱい笑って言うだろう。
当たり前でしょう?
僕たちは交代で眠り、合間に少し話し、やがて浅い朝が肩に手を置くころ互いに身支度を整え始めた。
彼にパンを、今度こそ食べさせる。
渋る彼を、もうすぐ花には会える気がするから、と笑って丸め込んだ。
若い草に付いた朝霜の滴。鳥が鳴き始めるのを聞いて、僕たちは別れた。
彼は朝の森に深くなじみ、僕のこれからを信頼している、と笑って体を翻した。進むべきの方向からは、けして振り返らなかった。
僕は長くそれを見送ってしまったけれど、彼の背中が茂みに消えた後は名残を残さず肩に下げた鞄とともに歩き始めた。
彼が教えてくれた小川を目指し、水筒にその清水を汲んで、顔を洗った。冷たい水に漱がれた顔や手は、自分の熱を奮い立たせる。
花に、会いに行く。それを強く意識した。
花と少年 とし総子 @tosi-souko
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