第9話
竜胆が荷物の中から取り出した、細い縄を手の届く枝に結びつけ、僕の被っていた布を合わせて即席の屋根を作った。その簡素な屋根の下で、僕たちは濡れそぼる森を眺めていた。
時々会話が生まれ、自然と消えていく。そのままに任せた。積極的にそれが続く努力をしたりはしなかった。
竜胆のいる左側は静かに温かかった。
僕は、朝、慈円さんに貰った木の実を彼に分け、彼はもう少し石畳から離れた場所にある小川を教えてくれた。
そこで汲んだ水を分けてくれながら、
「それにしても、そんな軽装で森に入るなんて」
と少し呆れるように笑った。眉間にそっと寄った皺が心配なのか、僅かな叱責の表れなのか判断できなかったが、僕は小さく謝った。
「おばあちゃんに、花は手折りにくる人間の来られる範囲にしか飛ばないって聞いたから。僕みたいな子供が行ける距離なんて知れているだろうって、ちょっと高を括ってたんだ」
「おばあさんは何にも言わなかったのか?」
僕は困ってうなりながら口を開く。彼にはさらに怒られるかもしれない、と覚悟をしながら。
誰にも言わずに出てきたこと。荷物は、だから朝方に急いでかき集めたものだということ。
朝の早い時間。たまらずに見上げた空の冷たさに、背筋を伸ばしたことを思い出した。
「花に呼ばれたことは?」
「それは言ったよ。さすがにその時は頭が真っ白になって、一緒にいた羅々に、恥ずかしいけど手を引かれてやっと家に帰ったんだ」
「羅々…羅々も元気にしてるんだな」
「うん。しっかり者が板についてるよ」
「来のお姉さんみたいだったからな。そっか。その彼女にも話さずに出発してきたわけだ」
「怒ってる…かもしれないなぁ」
僕は少し明るくなってきた空を見上げながらいった。もとから降り続くようには思わなかったけれど、もうすぐ止みそうな兆しを見つけると、やはりほっとした。
それを話そうと横を見ると、そこには思っていた以上に張り詰めた竜胆の瞳があった。驚いた顔の僕がしっかりと映っている。
「どうしたの?」
僕の声は軽くて、口から滑り出たもののすぐに湿気をすって重たそうに若草の上に落ちて転がった。竜胆は視線を外さないまま、浅い色の口を開いた。瞳に迷いはないのに、その唇は開いた今も迷っているようだった。
「来、お前もしかして」
そこで彼は息を吸った。自分と僕との領分に許されるのか、自問しているように見えた。僕はその先を、彼に分かるように笑って聞いた。
「もしかして?」
「…帰らないつもりなのか」
そう聞かれることを知っていたように思う。だけど、僕はその問いに答えることはできない。正直に言ってしまうことにした。
「分からない」
「どうするか、まだ考えてるってことか」
「うん。どうしたいのかは…あるけど」
そこには明確な未来はなかった。ただ道途中で不自然に途切れている景色が思い描けるだけだ。他の誰も立ち止まらない。自分の隣を歩いてくれていたはずの人たちが、そっと僕を振り返り、それでも足は止まらず消えていく。途切れたそこから、一瞬で、まるで初めからいなかったように。そこは僕の世界の限界だ。僕の世界は他の誰かの世界と寄り添っていく力を失って、そして僕の世界から消えていったように、彼らの世界から僕は消えていくのだろう。そっと振り返る目が、可哀相に、を目尻から溢す。その様子が僕の描く未来だった。
羅々の明るい瞳に僕は憧れた。僕には見えない遠くからの光を、結んで放っているように思えてたまらなかった。
竜胆は黙った僕に、それ以上の言葉を掛けなかった。視線を自然に外し、さっきまでの僕のように空のほうを見た。僕よりも長い腕をそっと伸ばして空気を揺らす。「雨、止んだな」
つられて見上げた空に、赤が薄くかすれるように引かれて、雲間に辛うじて青い空がバケツの底くらい見えた。雲に白味が濃く戻り、そして冷えた空気に、夜の始まりを意識した。
「竜胆は夜はどうするの」
「ここで座ったままだな」
そう言い、彼は立ち上がった。周りに落ちている枝を集めはじめる。何度か手に持って拾うものを選んでいる。細いものから太いものまで手際よく集めてきた彼は、手伝うこともできない僕をからかうでもなくにっと笑った。
「おやじさんに教わったんだよ。雨で表面が少し湿気っていても燃える枝の見分け方。お手並み拝見で、みててくれよ」
「すごいな」
「ははは、屋根のあるところで寝られる方が少ないからなぁ。冬は寒さに、夏は虫や動物に邪魔をされて眠れなかったりしたもんだけど、今じゃベッドで眠ると心地よすぎて、そわそわして眠るのに時間がかかるようになった」
彼は荷物から藁半紙を丸め、それを捩じる。そこに火打石で起こした火花を降らした。赤い火が目にも鮮やかに燃える。藁半紙から細い枝に、そして他の枝へ。燃え盛る焚火になると、竜胆はまた少し周りを歩き枝を選んで集める。それを僕の隣に一山、自分の横に一山集めた。
僕の隣に腰を落ち着けて今度は荷物の別の場所を探り、李のような果物二つ、干し肉、水の入った筒を並べた。僕も習って鞄の中から堅いパンを出す。彼と違って出せるものが少なくてため息が出た。
「本当に、急いで家を出るにしても、もう少し食べ物を持ってくるんだったよ」
「そうだな。計画なんて立てようがない旅に出るんだから、備えとくべきだったな。だから」
そういうと彼は僕にパンをしまわせた。そして自分の持っていた分厚いクッキーを二枚、僕の抱えた膝の上に置いた。
「明日会えたらいいな」
「ありがとう」
暮れ始めればあっという間の夕闇に、焚火の火が暖かい。星が幾つか藍色の空に輝き出している。
竜胆は時々薪を折り、火にくべていく。
彼からの好意の食べ物を口に運びながら、僕もそれを真似る。そろそろだ、と竜胆が教えてくれる。火の中へ枝を放りこむたびに、夜へと流れ込む周りから僕たちは浮き上がっていくような気がした。
火に舐められた顔が赤い。
時折聞こえる鳥の声と、動物の足音。下草が揺れる。風はほとんどない地上と、蹴散らすように雲を払う空のほう。すっかり夕日が引いたころ、竜胆は言った。
「帰った方がいいと思う」
あんまりに自然に彼が言葉を落としたので、僕は一度彼のほうを見た。闇を背景に、濃く深い色の瞳が真摯に炎を見つめている。
竜胆は僕にも視線を外すことを望んでいるように思えて、そっと元のように揺らめいて、柔らかそうな炎のほうにもどした。
そして彼は続ける。
「あの子が、来が帰ってくるのを待ってないわけがない」
「…そうかな」
羅々は、優しい。可愛らしいし、しっかりしている。裁縫も料理もおばさんに負けないくらい上手になった。笑うと勝気なところが伝わる。少し後ろを歩くと彼女の、心細さが肩を滲ませる。他の誰を呼ぶときは、そんな風ではないのに、僕を呼ぶときだけ彼女は少し強く発音する。それは、ぼんやりと花を思い出す僕の生活を、地に足のついた場所へ連れ戻すように。
彼女はとても。
「そうだとしても、僕には」
「時間が短いのなんて」
そこで彼は一度ぐっと歯をかみしめた。
肩が触れそうなほど近くにいる僕にはその痛みが伝わる。
彼が僕のために強いている痛みを。
「生きてる間は、関係ないだろ?お前がいてくれることに幸せを感じる人を置いて、それで残りの命を過ごしたって後悔が増えるだけだ」
あの朝。緑が燃えるような季節、強い風に、羅々の肩に届く髪が揺れたとき。僕は泣き出してしまいたいと思っていた。おじさんを見送る最前で、姿勢を正して立つ彼女を、見つめることしかできなかった。それが恥ずかしくて、すぐに僕は首を折った。光が重さを持ってその首に積もった。
彼女は美しい。
それをまざまざと見た。それまでも何度だって見てきた彼女の後姿。やっと意味が、彼女の持つ美しさが理解できたように感じた。
そして自分の愚かさが、さらに首を深く折らせた。
それがあの朝。あのはじめての、別れの朝だった。
抱えた膝に顔を埋めてしまってから、僕は答えた。
「待っててくれてると、思う。僕が、一番彼女の時間をもらったんだから。それがどういう意味か分かってる。分かってるから、どうしようって思ったんだよ」
「なんだよ?」
羅々のおばさんはやさしい人だ。羅々と僕が一緒になりたいと言ったら、素直に喜んでくれるだろう。でも他の人はどうだろうか。僕は彼女を置いて死ぬ。それは決まっていることで、だからそれはつまり避けられることだ、とも言える。早死にの男とわざわざ結ばれることはない。もっと未来を長く歩いて行ける人と結ばれるほうが安心だ。そしてその機会を奪ってまで、僕のそばにいてくれと言うことは。
「僕のためにそばにいてもらっても、その後に僕はけして助けにならない。助けにならないどころか、彼女の幸せの足枷になりかねない。そんなこと分かってるのに、隣にいてもいいのか分からないんだ」
「…来。お前って、ばかだなぁ」
声がやわらかく撫でたかと思えば、僕の項垂れる頭に年の近いはずの彼の手が大きく触れた。抱きしめてもらっているような、おおらかな温かさだった。僕は顔を上げられなくなっていた。
ばかだといった彼の声が、何故だろう、何年も前に聞いた彼のおじさんの彼を呼ぶ声に重なって聞こえた。
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