第8話
彼の名前は覚えていなくても、その美しい髪の色を忘れることはない。
僕以外の誰にとっても彼の髪の色は珍しいものだ。この色は、ほとんどの人の興味深を引く。それは神秘的な花との、切られることのないつながりを示す色だからだ。人によってそれはどこか妬ましく、羨ましく、そして悲壮感を感じる色だ。
彼の髪の色は、捨てられた子供だということを、否応なく知らせる。
望まれない子供が生まれると、禁を破って森に入り、花の足下に置いていくことで逃れようとすることがある。それは母親の場合も、父親の場合も、そしてそれ以外の手が下すこともある習わしだ。
花のそばにいれば何者からの危害も受けることはない。必ず生き残れるわけではないけれど、それすらも花に運命を託すかたちを選ぶ。
そうやって自分たちが負うべき責任を花という、半身でありながら神様の領域に生えているものへ押し付ける。そういう人間がいるのだ。その理由は様々だったとしても。
花のそばに赤子を置いて行くことは情けなのか。それとも、自己満足なのか。時折話が始まる議題だった。どちらだったとしても、赤ん坊が生きることを願った結果ではないように、僕は思えた。
彼は再会の握手をしてすぐ、何の躊躇いもなく僕の隣へ腰を下ろした。それに習って僕もまた同じ姿勢へと戻る。
彼は僕よりも腕っぷしが強そうに見えた。そんな言葉から始まった会話に、彼は、
「おやじさんが死んでね、一人で行商に回っているもんだからさ。
腕っぷしがいいにこしたことはないんだ」
「おじさんの後を継いだんだね。物売りは大変そうだ」
「ああ、まぁね。でも今は若いから、下に見られることが多いよ。いい品物はなかなか手に入らない。だから行商中は他にも色々な仕事をするようにしてるんだ。力仕事は割とどこでも引手があるからね。おやじさんの残してくれた伝手を、今は必死に繋いでる感じだよ。全く、半人前にも遠いんだ」
「へぇ。僕から見るとよっぽど立派に見えるけどね」
「よせよ」
彼は、はにかむように笑って、そっと視線を外した。その直線は、雨の粒の流れをを追うように、下草のほうに落ちていった。
「らいのほうが心が落ち着いてるよ」
「そうかな」
「俺はそんな風に笑えないと思う。」
ああ、と納得した。
彼はきっと、僕と違って花に会いに行く人たちを何人も見てきているのだ。こんな森の中での再会でなければ、彼にこんな風に言ってもらえなかったかもしれないな、と思わず口元を綻ばせた。
「ねえ、君の名前、もう一度教えてくれる?」
彼はこちらに向き直り、もちろん、といった。
「その代わり、らいの名前の由来を教えてくれるか?」
「僕の?」
「ああ、名前の由来を聞くのが好きなんだよ。こうやって一人で行商を回っていると、そういう人が話してくれたことが必要になってくるんだ」
彼の口から洩れる白は温かそうだ。
僕の名前の由来。そんなことを聞かれたのは初めてだった。
村では僕に家族の話はしない。生まれたときの話も、おばあちゃん以外から聞いたことはない。お母さんの話をすれば、針にくっついた魚のようにお父さんのことを、生まれる前のことを話そうとすればその当時の彼らの罵り合いを話さなくてはいけなくなるからだ。
僕からもおばあちゃん以外に聞こうとしたことはない。密やかに、と本人たちは思っている噂話は、たとえそれが憐憫からのものでも耳に入るとひどく冷たい水になる。
「いいよ」
「ありがとう。じゃあ、俺から」
僕は名無しの彼の最後を見た。
「俺は、竜胆。おやじさんが付けてくれたんだ」
「竜胆。あの青い?」
「そう。自分の名刺代わりだって。俺もあの色には親近感を持っちまったくらい、気にいってるよ」
「似合ってると思うよ」
うんと頷く彼は、知っている記憶の中の少年にぴたりと重なった。
夕暮れに彼を迎えに来たおじさんの手を、彼は違和感なく強く握っては振り回していた。そうやって帰っていく後姿は親子以外の何物にも見えなかった。
そうしてやっと、もういないのか、と彼の言ったおじさんの死が胸に落ちてきた。
「僕の名前は、お母さんが付けてくれた、らしい」
「らしい?」
「そう。僕のお母さんは僕を産んですぐ亡くなってるから、おばあちゃんが教えてくれたことなんだ。」
「らい、というのはどんな意味?」
「こい」
竜胆の顔に疑問符が浮かんだ。
それがあまりにしっかりとした表情だったので、僕は今度は少し声をたてて笑った。
「魚の名前でも、信頼の意味でもなく、こっちに来い、の来」
「つまり?」
お母さんの顔を思い浮かべてみようとする。一枚しかない若いころのお母さん。優しそうで、賢そうで、気の強そうな、女の子のころのお母さん。彼女が付けたという僕の名前。おばあちゃんは言っていた。
「僕は難産だったらしくてね、おばあちゃんもお母さんも二日丸々寝られなかったって言ってた。おばあちゃんなんて、もう僕は助からないってお母さんに言ったくらい。でも、お母さんは僕を諦められなくて、最後の力を振り絞って産んでくれた。その時、お母さんが僕に言ったんだって『生まれて来い、ここに来い』って。それをおばあちゃんがそのまま名前にしてくれたんだよ」
寒い朝方。生まれたばかりの僕をお湯で清めてくれながら、おばあちゃんはまだ暗い空の星を見上げた。あの、小さな窓から。ガラスが入っている唯一の窓から。まるでその星から引っ張ってきたみたいに感じた、と。お湯から上げて布にくるんでやった僕が、うとうとし始めた横でお母さんは息を引き取っていた。雪の日のみずうみのように静かに、彼女の呼吸は消えていた。おばあちゃんは僕を起こすのじゃないかと思って、どうしようもなく冷静にそれを受け入れてしまったと、言っていた。もう笑い話なんだというように、口元を引き結んで。
「いい名前だ」
竜胆は笑った。
名前を褒めてくれる人はいた、と思う。意味を知って言ってくれている人もいた。羅々と満光のおばさんとおじさんとか。それでもその笑顔には色々なものが揺らめいて、翻っては鋭利な光をこちらに投げる。だから僕もその光を見ないように、視線を逸らして頷くことしかできなかった。
竜胆は、そんなをものを含むことなく、事実の一つだけを口にしてくれていた。
栗色の目は、ただ僕の目を見て、僕の名前を褒めてくれた。僕が生まれたことだけをみて笑って。
僕は彼のお母さんに、胸の中で感謝した。どんなひどい理由でも今の彼にしてくれたすべての事柄に、勝手に感謝した。それくらいに僕は、その一言に救われていたから。
なんて自分勝手なんだろうと、思いながら。
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