第7話
どんな子供になってほしかっただろうか。
僕は時々考えた。もしお母さんの寿命が尽きることがなければ、お父さんも望んでくれていた僕の誕生だったはずだ。僕が生まれたその後のことを二人はどんなふうに望んだだろう。
明るい子。優しい子。可愛い子。賢い子。元気な子。自分たちによく似た、その子供に幸せを望んで、たくさんの気持ちを乗せて、名前を呼んでくれただろうか。たとえその願いの半分も叶えられない子供でも、愛してくれただろうか。
お母さんはお父さんと同じだという黒髪を、お父さんはお母さんによく似ていると覗き込まれてきた目の形を_その中身はお父さんの黒が埋めていることを喜んで_褒めてくれただろうか。素敵だと抱きしめて、いい子ねと頭を撫でて、大好きよとキスをくれただろうか。
そんなことを考えては、まるでそんな自分がもう一つの世界_鏡の向こう側や、川面の向こう側に揺れて見えるあちら側_に生きているのではないかと思えてくる。そこで笑う自分ではない男の子。僕と同じ、若くして花を手折るのだろうか。
幼いころからの想像は、もう半分現実のように僕の心に組み込まれていて、そして気持ちを揺らしてきた。彼が悪戯をしてお母さんに怒られているのを思い描いてはそっとその頭を撫でて、怒るのは君のためなんだよ?と言ってやった。雨の日に、お父さんと釣りに行けなくなったと、窓に向かってふくれっ面をつくる彼の背中に同じ大きさの自分の背中を重ねて、大丈夫明日には晴れるよ、お父さんはまた連れて行ってくれるよ、君が楽しみにしているのと同じくらいお父さんだって楽しみにしていてくれたんだよ、そう小さな声で囁き続けた。
両親に感謝の気持ちを伝えるために青い風鈴草を贈る日には、外仕事に出たおばあちゃんから隠れるように、窓の下に隠れて泣いていた。そんな僕の肩を抱いて、お返しのようにもう一人の僕がお母さんに習ったという歌を歌ってくれた。
ひとり芝居のような、思い出の全てが僕の中で鮮明だ。涙に滲んだ家の中、光はまっすぐに誰もいないそこを明るく照らしていた。
そんな一日が、僕ともう一人の僕との思い出が、いくつもあった。彼がお母さんとお父さんに一本ずつの風鈴草を贈るのを見守ったこともある。ありがとう。そう動く二人の唇を、うれしそうな頬の丸みを、誇らしげな肩の先に届く光。自分の背中もまた、そこに自然に埋め込まれていることを見つめながら、幸せを分けてもらっていた。
そんな風に思って、胸を宥めて、暮らしてきた。おばあちゃんに贈る風鈴草を手の中で温めながら。彼がそれを贈った時の笑顔を、照れたような言い方をそっと撫でていた。
羅々にも、教えなかった。僕だけの存在を、僕は森の中では一度も思い出さなかった。思い出さないようにしていた。彼は、きっと僕よりも長生きだと確信しているから。彼は僕とは歩かない。死ななかったお母さんから生まれて、出ていかなったお父さんに抱きしめられて生きてきた彼が、僕と同じ生命線を持っているなんて思えるわけがなかった。
だから、ここには僕だけが彼よりもずっと早く来た。いつかまた彼を思い描いたら、僕は花の話をするだろうか。今は、どちらなのか分からなった。
朝、慈円さんと別れてからまた日は天中を超えたように思う。木々の枝の間にまだ固い蕾が見えた。そこから少し傾く光。雲の多い日だった。風が冷たく首筋を撫でる。
石畳は終わりが見えないまま、森とともに果てしなく、僕が歩くのに合わせて伸びていくような気がした。そう思いながらふと、もしも突然この石畳が途切れたなら僕はそこからの一歩を踏み出せるのか、そんなことを何度も考えていた。
ぽつぽつと、頭のてっぺんに冷たいものが落ちてきた。
それが僕の心を軽くしたのは、ただ歩き続けることに僕が飽いていたからだった。
雨具なんて持っていなかった僕の足は、軽く石畳を踏み外した。肩に掛けた布袋から分厚い布を取り出して頭から被る。小粒ながら一気に降り始めた雨は、けして勢いが強いわけではなかったが、体にまとわりつく湿り気が体温を悪意なく奪っていくだろう。頬に触る冷たさが増した気がした。
そこここに春までの道のりが築かれ始めていはいた。できるだけ雨をしのげるような木を求めて、奥へ奥へと足を慎重に進めながら、できるだけ枝ぶりの立派なものを探した。張り出した枝と、数を減らした葉で雨を避けることのできる大きな木を。あの木の方が、いやもっと奥のあの木の方が。そう思って足を止められずにいるうちに、視界はまた様変わりしていた。
湿った土には枯葉がまかれていた。青い草が合間を埋めるように茂っている。小さな雨が、霧も連れてくる。木々が呼吸を深くする。森の空気の濃度が上がったのが分かった。
一本の大きな木の下に座り込んだ。ごつごつとした表面の皮に頭を押し付けて、僕は吐き出せるだけの息を吐いた。白い尾が空へ溶けていく。寒さはそれほど感じないが、厚い布を握る自分の手は赤くなって震えていた。もう感覚が鈍っているのかも知れない。
昨日は慈円さんに声をかけてもらって本当に良かったと、もう一度感謝を胸で呟いた。
空はそれほど暗くはないので、長い天気の崩れにはならないだろうと思ったが、この湿気った地面に横になるのかと思うと憂鬱になった。
雨。それ自体は嫌いではなかった。森に入る前は、これをしのげる寝床や温かいスープがそばにあった。状況によってこんなにも一つの事象への感情がひっくりかえるのだ。人間の感情なんて、簡単に変更されてしまう。そんなことはわかっていたのに、自分自身がそれをやってしまったことが、心を俯かせた。
細い線を引いて落ちてくる水滴。大きな根が浮かび上がった場所に、座りこむ。抱いた足の間でこすり合わせた手は、かすかに温かくなった気がした。そうやって赤い手を見つめながら、白い息を吐きかける。
そうやってどれくらいの時間を過ごしたのか、僕の耳に森の音ではないものが届いた。動物の足音ではない。隠れる気持ちのない、少し急いたような足音。それは人の立てる音だ、そう確信して自分が来た方角とは逆のほうを目で探した。
枯葉、草、湿った土、大小の石たちを踏みしめて、木々の間から現れたのは果たして僕と同じくらいの背格好の少年だった。
彼も雨宿り先を探してきたのだろうか、そう思った時、彼もこちらに気付いたようだった。
ぽかんと口を開けて、足音が止まる。帽子を深くかぶった彼は目をぱちぱちと音がしそうなほど瞬かせた。声が柔らかなものをなげるように、頼りなく送り出された。
「…らい?」
彼は確かにそう言った。
今度は僕が瞬きをする番だった。彼は旅慣れている服装に、大きな包みを背負っている。鼻筋の通ったきれいな顔立ちに、優し気な栗色の目が丸く輝いていた。口をいっぱいに笑うから、その幼さが気を許させてしまう少年だった。ああ、もしかして彼は。
「俺のこと、覚えてない?」
そう言った彼は気を悪くした様子もなく、そっと帽子を取った。そこには昔と同じ短さで、変わらない美しい濡れた青があった。
「覚えてるよ。その青を」
そう言って立ち上がった僕のすぐそばまで彼は走り寄り、嬉しそうに笑った。
「だと思ってたよ、らい」
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