4/8-Ⅳ

 部屋は十畳ほどあるだろうか。思わず眼鏡を外し、まじまじと品物を見つめる。デッサン用の石膏像や美術史関連の書籍は勿論、どんな絵でも描けるよう一通りの画材が揃ってあるように感じる。入り用があれば買い足すと言われたが岩絵具まで揃っているところを見るに、念入りな準備が為されていたと伺える。


「さて、目的の話でしたか」


 パイプ椅子に腰を据えると藤邑は腕を組んだ。その間も灯日の目は周囲を漂っていたが、彼女は構うことなく続ける。


、私の目的は月ノ宮学園での美術部設立です。月ノヶ丘市の現状を打開し、出来ることなら過去の精算をゼロにしたいと思っています」


 藤邑の思惑を聞いたところで特別驚くものはなかった。いくつかのワードは揃っていたし、何よりこんな部屋を見せられてしまえば、彼らの気概を疑う余地はない。


「言うまでもないと思うけど、月ノヶ丘市での芸術活動は条例違反になる。学校側に知られたら処罰の対象だよ」


 本気なのかと熱意を問うより、現実的な面からアプローチをかけた方が効果的だろう。


 威儀を纏った灯日に、藤邑もまた誠意を見せる。


「この場所は学校からも離れてますし、条例違反と言っても親告罪ですから、よっぽどのことがない限り通報されることはないと思います」


「三部先生のことを侮っているなら止めた方が良いよ。あの人、案外鋭いから」


「侮ってなどいませんよ。ただ委員長の様子を見るに、私生活までは監視されないようなので」


 どういう意味かと問いかけて、先日のやり取りを回思する。よくよく考えれば、あれでは絵を描いているとあからさま答えているようなものだった。それをお咎めなしに済んでいると踏んで、彼女は発言したらしい。


 藤邑の言う通り、学校側が日常生活にまで介入してきた例はない。しかしそれは、ある誓約の上で成り立っているものだからだ。


「正直、学校側がこの現状をどのように捉えているのか、私も測りかねています。それでも入学試験で問われたくらいですから、重要な事態には変わりないのでしょう」


「問われたって……問題として出たってこと?」


「はい。だと思いますよね」


 過去の事件が発端とは言え、市外の人間からすれば確かに奇妙な条例だろう。


 しかし、藤邑が問いたい部分は恐らくそこではない。


「さすがに編入試験用の問題集は無かったので、試験対策には入試問題を使いました。月ノ宮学園は一月に入試があるので、ネット上だと最新、つまり今年の情報も載っています。試験問題の解説にはこう書かれていました。

『試験内容の傾向はそのままですが、今年は月ノヶ丘市の条例を問うものが出ました』と」


 これには灯日も唖然とした。記憶としては一年以上前のことになるが、それでも大まかなものは覚えている。


 だからこそ断言できる。自分が解いてきた問題に、そのような内容は一切無かった。


「その問題だけが今年から取り入れられたんです。条例自体は事件後から続いているというのに」


 月ノヶ丘市に来た以上、規則には従わなければならない。だが、所詮は条例である。受験者の中にはそれを知らない者も多く居るだろう。学校経営も商売である以上、クレームに繋がることは出来るだけ避けたいはずだ。


 だから試験で問うことにより、その危険性を排除する。これ自体は理に叶う行為だ。しかし、今まで出題してこなかったものを改めて問う理由は、一体何だろうか──否、自問せずとも灯日には分かる。


「言い換えれば、試験として出さねばならないほどの出来事が、近年校内で起こってしまったのではないか。私はそう考えました」


 何時ぞやの探偵然とした瞳が、改めて灯日を射抜く。


「委員長も美術部を作ろうとしたのではないですか?」


 言葉尻は上がっていたものの、その声はどこか確信めいたものを帯びていた。


 だから、灯日も答えない。代わりに静々と自身の胸に手を当てる。


「……どうして、そう思ったの?」


「貴方が避けられていることは、クラスメートの反応から察せました。最初はいじめの類かと思ったのですが、あのクラスは三部先生を中心に回っているようですし、何よりあの人自身が、そういうことを善としないでしょう。

 それに、話しかけた私まで遠巻きにされたんです。どちらかと言えば関わりたくないという、そういう感情の表れでしょうか」


「では、関わりたくない理由とは何か」藤邑は鼻先で指を組んだ。


「家柄、暴力団、友人関係、ヒエラルキー。色々と思い浮かぶものはありますが、ここが月ノヶ丘市ということを踏まえれば、芸術関係一択でしょう。

 ですが貴方は、絵を描いていることを隠している」


“今”という部分に語勢があった。比較対象としているものは勿論、


「過去、つまり一年前までの貴方は、芸術活動を巡って学校側と対立していた。それは公に行われたことで、少なくとも同級生には知れ渡っている。

 しかし今年に入り、事態は一変。今までの貴方は鳴りを潜め、更には模範生たる学級委員にまで選出された……こんなの、私でなくとも邪推してしまいます」


 それはもう、答案用紙の穴埋めに近かった。まるで見てきたかのように、彼女は言葉を紡ぐ。


「貴方たちの間で何らかの取引が為されたことは明らかです。その答えが現在の停戦状態であるのなら、道を開くにはもう、強行突破をする他ないんです」


 一呼吸置くと共に藤邑は大きく伸びをした。相好がふにゃりと崩れ「やはり、堅苦しいのは苦手ですね」と椅子にもたれる。


「だから委員長と同じクラスになれたのは、偏に運が良かったんですよ」


 果たして本当に、運が良かっただけなのか。これが偶然ならば、神様も酷なことをする。いや、恨むだけ無駄だ。芸術の神は、もうどこにも居ないのだから。


 彼女はそこで言葉を切ると、今度こそ口を噤んだ。次は灯日の番だと暗に示しているようだった。それでも話すべきか否か、判断は自分に委ねられている。


 ──天井の白熱灯が熱を増す。熟考するくらいには時間を使ったようだ。灯日が話を切り出すまで、藤邑はただ座していた。


「ずっと、絵を描いてきたんだ。に憧れる前から、ずっと」


 最初は単に好きだから描いていた。けれどあの人と出会ってから、灯日にとって絵は人生となった。それはあの人も同じだろう。同じなのには、この街を選んだ。


 言わずもがな、月ノヶ丘市にとって芸術に関する行為は罪に等しい。画材道具だって二つほど市を跨がなければ手に入らない。


 しかし、灯日には分かっていた。


 彼がこの地に固執するのは、芸術の神──“色憑いろつき”が居たからだと。


「入学するかどうか、初めはすごく悩んだよ。それでも分かるから、近付きたいから、僕も留まることに決めたんだ」


 自分の我が儘だということは理解していた。だなんて、この街では異端も良いところだ。どんなに小規模な活動だとしても、存在自体が許されない。


 それでも三部のところへ通い、休日だろうと何だろうと交渉を持ちかけた。そんな奇行が知られないはずもなく、教師陣のみならずクラスメイトからも白い目で見られるようになっていった。


「居場所さえ作ってしまえば、僕たちの存在も許される。だから一人でも構わない……なんて、おかしな理屈だよね。そんなの、現状に言い訳をしただけだ」


“一人”という単語に藤邑は眉を顰めた。文脈の矛盾に気付いたのだろう、しかし傾聴の姿勢を崩すことは無かった。


「藤邑さんの言う通り、僕は学校側とある誓約を結んでいる」


 去年の十二月。奇しくもその日はクリスマスだった。


“美術部設立を諦める代わりに、個人的な芸術活動に関しては幾らか目を瞑る。”


 他にも堅苦しい言葉が並んでいたが、平たく言えばこんなものだろう。


 誓約書には校長だけでなく、市長の名前まで書かれていた。つまり月ノヶ丘市公認の誓約書だったのだ、あれは。


 一見すれば理解ある条件だと言える。だが居場所を求めていた灯日にとっては、譲歩から程遠い内容だった。


 それだけではない。二年生になってから、三部は灯日に役割を与えた。クラスから浮くことがないよう、誰かと関わる立場で居られるように。


 幸か不幸か、灯日が学級委員をやることに反対意見は出なかった。それが三部の、そして級友たちの優しさだと分かったから、灯日は余計に苦しかった。諦めたと思われる方が、孤独よりもずっと強い責め具になる。


「だから僕は、一人で絵を描き続ける。誓約がある以上、君の計画には賛同出来ない」


 これは罰だと誰かが言った。


 それを決めるはずの神は、もうどこにも居ないのに。

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