4/8-Ⅱ

 藤邑が御代わりを注いだところで、フラスコの中身は空になった。それから灯日のカップに目を落とすと、もう使うつもりがないのか、サイフォン一式をシンクへと持っていく。


 灯日も冷めたコーヒーを一瞥したが、口に運ぶことなく前を見据えた。互いの視線が再び出会う。


「実を言うと、この店も元は画廊を兼ねていたんですよね」


「今は何もないですけど」そうやってニヒルに笑うと、次に藤邑は店内を見渡した。言われてみれば壁面に埃焼けらしき跡が見受けられる。灯日は物憂げに呟いた。


「この店を出て真っ直ぐ進めば、フレイムホールが見えてくる。付近に建てられた店は、ほとんどが芸術関連のものだよ」


 ここも俗に言う、ギャラリーカフェだったのだろう。この通りに店を構えている時点で、そんな予感はしていた。画材屋、絵画教室、画廊、個人美術館……さながら観光地を取り囲む出店のように、「Frame」周辺には芸術に与する店舗がいくつも立ち並んでいた。火月もその一つだったことは想像に難くない。


「よく続けようと思ったね」


 素直に称賛しただけだが、藤邑は苦笑を浮かべる。


「画廊だけで食べていたわけではないと思いますよ。それにマスターのことですから、意地でも続けたかったんでしょうね」


「そもそもの話、蒼咲さんって何者なの? 後見人ってどういう意味?」


 そう問うてみたものの、現実に有り得ることだと理解はしている。しかし彼女のことだ。蒼咲と二人して、灯日を揶揄からかっている可能性も考えられた。だが、返ってきたのは悪戯気な笑みではなく、


「より正確に言えば、見届け人ですかね」


 という、意味深な言葉だけだった。


 灯日は小首を傾げたが、これもさして重要な問題ではないらしい。早く本題に入ろうと、榛色の瞳が細まる。


「事態が一変したのは受賞から五年後、つまり今から一〇年前のことだよ」


 これは知識の擦り合わせだと、彼女は言った。ならばこの先にあるものを知っているはずだ。


 藤邑の態度は、怒りを通り越して呆れすら感じさせる。それでも望むままに言葉を紡いでしまうのは、灯日にも思うところがあるからだろう。


「クリスマスの夜、何者かの手によって「Frame」が燃やされた。幸いホール内の作品が燃焼しただけで、建物自体に大きな被害はなかったけど」


“幸い”という言葉に躊躇いが混じる。無論、人命救助の点から言えば、この見解は正しい。


 しかし月ノヶ丘市にとって、否、芸術家たちにとって、幸いなんて言葉は以ての外だった。


「怪我人も居なかったみたいだし、一応、小火ぼやのうちに入るのかな。それでもこの街の住民だけじゃない、世界中の芸術家が犯人逮捕に尽力したみたいだよ」


 夜半の犯行ということもあり、警備員はおろか、目撃者さえ居なかったと聞く。また監視カメラの類も無く、捜査はかなり難航したようだ。それがどれほど続いたのかは不明だが、住民たちの精神をすり減らすには十分すぎる時間だったのだろう。


「中々捕まらない犯人に、全員が痺れを切らしていたと思う」


 当時十にも満たなかった灯日に、事様全てを把握する術は限られている。時間が経てば尚更だ。だから今から語ることは、あくまで想像の範疇に過ぎない。


 そう念押ししたところで、再び口を開く。


「捜査状況は絶望的だった。だからきっと、皆が納得してしまうような、劇的な何かが必要だったんだと思う。……そう、例えば」


「例えば、作者自ら火を放った、とか」


 遮るように飛び出た言葉を、灯日は否定しなかった。そのまま藤邑が続ける。


「ホールの外観は無事で、中身の作品だけが燃えた。勘繰るには十分な状況でしょう。何よりこれ以上ないほど、です」


“鉤括弧を付けた、本当の意味。

 それはアルファベットのLに見立て、Flameを意味する英単語として完成させること。彼は自ら作品を燃やしたことで、内なる芸術を完成させたのだ。“


 芸術的かつ、エンタメ的。


 煽り文としてはまずまずの出来だろう。どこからとも無く流れ始めたこの噂に、まずマスコミが飛び付いた。


 それでも目を惹く程度だ。取るに足らない、信憑性の欠片もない記事は、それこそ娯楽的な消費で終わるはずだった。


「提示されたタイミングが最悪だったんだ。辛い現実があったら、誰だって目を背けたくなる。だから真実の追求より、目先の美しさを選んでしまった」


 月ノヶ丘市は作品諸共、作者を見捨てたのだ。故に真相は未だ闇の中、今も犯人は捕まっていない──。


 そこまで言い終えてからやっと、灯日はコーヒーに手を付けた。冷めてしまっても香りはしっかりと残っており、使用している豆だけでなく、淹れた人間の腕前までも感じられた。


 美味しいという感想諸共飲み込む一方で、当の藤邑はひどく神妙な顔付きをしていた。話は終わっていないと、そう言いたげな眼差しである。


 その通り。本当の事件は、まだ始まってすらいない。


「モナリザの価値が不変であるように、燃やされた「Frame」もまた、その価値を変えることはありません。むしろ歴史的に見れば、芸術なんてものは創造と遺失の繰り返しです。「Frame」も自然の摂理に従い、灰に還っただけ」


 灯日は押し黙ったまま、耳を傾ける。


「ですが人は自然の中にさえ信仰心を見出す生き物です。ならば芸術が神を生むのもまた、道理だったのでしょう」


 榛色の瞳に、薄墨が差す。


「結論から言います。事件から暫く経った後、「Frame」に信仰心を抱いていた者たちが暴徒と化しました。

 そして、月ノヶ丘市にあった作品を次々に燃やしていきました」


 月ノヶ丘市の芸術は、炎によって完成される。


 それが暴徒の言い分だった。恐らくヴァンダリズム、言い換えれば破壊活動に基づく考え方だろう。


 確かに、ヴァンダリズムを芸術活動の一環として捉えることはある。けれどそれは、破壊が自己表現になり得るために肯定されるのであって、外付けの理由として使われるものではない。


 何より自ら作り上げたものを、他人の了見で破壊して良いはずがないのだ。


「事態の終息にはかなりの時間を要したと聞きます。それまでに多くの作品が焼け、また多数の死傷者が出ました。歴史的に見ても大きな事件だったでしょう」


 現に、当時を語った記事や著書は数多く残されている。そのほとんどに、この事件は月ノヶ丘市の罪、即ち作者を見捨てたことへの罰だと綴られていた。


「今や芸術の都は跡形もなく消え失せ、月ノヶ丘市は過去の過ちを償うべく、芸術活動の一切を禁止しましたとさ。めでたし、めでたし」


 結びの通り、確かに物事は丸く収まった。

 しかし彼女は翳りを残したまま、その拳を固く閉ざしている。

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