4/8-Ⅰ
「お待ちしています」と言われた以上、行くか否かの選択は灯日に委ねられているものだと思っていた。
「違いますって委員長! こっち、こっちの道です」
しかし、実際はどうだろう。いの一番に教室を出たと云うのに、気付けば後ろ姿を捕捉されていた。
アーケード街のド真ん中、「委員長!」と大声で連呼されることに耐えられず、不本意ながらも声の主、もとい藤邑の側へと駆け寄る。
「分かった、分かったから。着いて行くから、取り敢えず叫ぶのは止めて」
夕暮れ時ということもあり、学生だけでなく買い物客の姿も目立つ。睨みを効かせたものの、藤邑は素知らぬ顔で灯日の腕を引いてくる。これはこれで目立つ気もしたが、叫ばれるより幾分かマシだろう。しかし人目を気にする必要はすぐに無くなった。
「そう言えば“外れ”って言ってたね」
独り言のつもりだったが、桜色のリボンが左右に揺れる。
「それはダブルミーニング的なあれですか?」
「最初に言ったのは君だけど」
「そうでしたか。なら、他意はないと言っておきましょう」
メインストリートから離れれば、自然と客足も遠退く。それに加え、ここは“あの場所”へと続く道だ。月ノヶ丘市の人間ならば、まず通らないだろう。
手を引かれるまま付いて行くと、
目算すると二、三階分はあるだろうか。小さめのビルとも伺えるが、出入り口部分には黒いテントが張られており、立て看板には『喫茶店 火月』と書かれていた。目的地はここで間違いないようだが、扉には『Close』と掛け札が掲げられている。見たところ休業日らしい。それでも藤邑は
アンティーク家具で統一された店内は、カウンターと数個のボックス席だけが並ぶ、広々とした空間だった。単なる食事処というより、歓談を目的とした作りをしているように感じる。グラスハンガーには大小様々なグラスが吊るされ、カウンター越しの棚にはワインボトルが並んでいる。どうやら酒類も提供しているらしい。
「すみません、マスター。部室を使いたいです」
店内は仄暗く、また店員らしき姿も見当たらない。それでも藤邑はカウンター席へと歩み寄り、テーブルを叩いた。それが合図とでも言うように、厨房と思しき場所から人影が覗く。
「祈」と、深みのある低声が店内に響いた。
「帰ってきたのなら、まず挨拶をしなさい。何事もケジメは大切だよ」
糊の効いたワイシャツに、ソムリエエプロン。白髪の混じる髪から初老は過ぎていると予測できるも、服越しでも分かる引き締まった身体から若々しい印象を受ける。
男の手にはワイングラスとクロスが握られており、隈なく磨かれた硝子が僅かな光を反射させている。
「……ただ今戻りました」
藤邑は唇を尖らせるも、渋々と男の言葉に従った。昨日の暴君然とした態度からは想像できないが、頭が上がらないとは大方このような関係性を指すのだろう。
男は満足げに頷くと、今度は灯日へと視線を向ける。思わず背筋を正せば「そう緊張しなくていい」と男の頬が緩んだ。
「祈から話は聴いているよ、雨宮灯日くん」
どうやら自己紹介は不要らしい。ならばどう返したものか、しばし視線を巡らせていると、
「私は
「こうけいにん……?」
「有り体に言えば親代わりですよ」
反復された単語に向けて、藤邑がすかさず補足する。蒼咲を見遣る目が中々に険しいものだったが、彼は何食わぬ顔でグラスを置いた。
「さて、オーダーは部室だったね。灯日くん、少し待っていてくれるかな。コーヒーは飲めるかい?」
「は、はい。大丈夫です」
「良かった。祈、淹れて差し上げなさい」
「えっ⁉︎ マスターが淹れるから美味しいのでは?」
「今は閉店中で、私は休業中だ。それに今から、注文の準備もしなくてはならない」
「文句を言える立場かな」と、有無を言わせぬ態度だった。そして決まりきった回答を待つ趣味もないようで、蒼咲は早々にカウンターから出ると、そのまま店の奥へと吸い込まれて行った。彼が消えた先、目を凝らせば『STAFF ONLY』と書かれた扉が見える。どうやら、あの向こうにも部屋があるらしい。
手前に意識を戻すと、ブレザーを脱ぎ捨てた藤邑がサイフォンを取り出し始めていた。随分と切り替えが早い。本気で拒んでいた様子もなかったが、難色を示していたのは間違いないと云うのに。
「ブレンドでいいですか?」灯日に背を向けたまま、藤邑が問うてくる。
「何でも大丈夫、なんだけどさ……えっと」
言葉を濁していると、不意に榛色の髪が翻った。併せて桜色のリボンも揺れる様は、やはり虚構じみた空気を纏わせている。
目の前にソーサー、コーヒーカップ、マドラースプーンと流れるように置かれていく。着席を促されているのだと気付いた時には、ロートの中のコーヒーは半分にまで減っていた。これは逃げる隙もないと、不承不承腰を下ろす。
コーヒーアロマが店内に充満する頃、灯日は重々しく口を開いた。
「そろそろ教えてもらってもいい?」
スタッフ用の物品であろう、使い付けたマグカップを傾けながら、藤邑は視線だけをこちらに飛ばす。
「君の目的は、何?」
ここには成り行きで来たようなものだが、それでもやはり、聞けるものなら聞いておきたい。藤邑の言葉の意味、そして、その目的を。
「……まぁ、勿体ぶる理由もないですしね」
言い様のない静けさが店内を包み込む。藤邑はどこか天を仰いだ様子で、コーヒーを一口含んだ。
「では、昔話から始めましょうか」
「昔話?」
「要するに知識の擦り合わせですよ」
訝しげな眼差しに、彼女は軽く肩を竦めた。
「──今から一五年前、とある文化財団が出資する美術賞に、月ノヶ丘市の人間が選ばれました」
それは各国の傑出したアートパトロンに贈られる、とても名誉ある賞だった。樹立されてから日は浅いものの、世界でも指折りの賞の授与に日本中が沸いた。
「作品の名は「Frame」。
インスタレーション・アートの受賞は初めてのことだったらしく、当時の芸術界に激震が走りました」
特定の空間に様々な物体を配置し、その空間全体を作品とする手法──インスタレーション。一九七◯年代から一般化したとされ、未だ進化を遂げ続ける表現方法の一つである。
鑑賞より体験に重きを置き、今や至るところで使われているプロジェクションマッピングもその一部として扱われている。構成要素としてはビデオ映像や音響、果ては人工知能、バイオテクノロジーまで、その多様化は留まるところを知らない。
だが、インスタレーション・アートという点でのみ評価されていたのなら、「Frame」もそこまで話題にはならなかっただろう。
それが恐ろしい理由は、空間を構成する要素全てが絵によって表現され、体験者をも作品の一部にしてしまうところにある。
「“絵具の海だと、誰かが言った。才能が波となって飲み込んでくる。
日本語で言うところの、額縁──鉤括弧までタイトルに含めたのは、観客さえも作品に変えるという、作者の強い意思が現れている”」
今まで
「“しかしそれは、全て表向きの意味に過ぎなかったのだ”」
恐らく、同じような趣旨の記事を読んでいたのだろう。灯日が言わんとしたことを、彼女が継ぐ。
「「Frame」が
芸術の都・月ノヶ丘市。栄華を極めた結果、この街が得たのは歯が浮くような別称だった。
茨の道だとしても、芸術家ならば得られるものがある。
かつて「Frame」に囚われた者たちは、皆口を揃えてこう言った。……その先に待つものが、業火の果てであることも知らずに。
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