4/7-Ⅱ

 あれよと言う間に時は過ぎ、放課を知らせるチャイムが校舎に響く。


 朝とは打って変わり、藤邑に近付く人影は見当たらない。


「それでは、よろしくお願いします」


 律儀に頭を下げる藤邑。灯日も素直に頷いて、二人は教室を後にした。


 家路を急ぐ者。部活動に精を出す者。勉学に勤しむ者。噂話に花を咲かせる者。開放感ある空間が校舎全体を覆っている。斯く言う二人の姿も、その中に溶け込んでいるはずだった。


「委員長、あれはなんですか?」

「委員長、こういう場合はどうすれば良いですか?」

「委員長、食堂に行きたいです」

「委員長、これは」


「分かった。分かったから一回落ち着こう、藤邑さん」


 デートというより、ペットの散歩である。様々なものに興味を示す姿に、灯日は終始、振り切れんばかりの尻尾を幻視していた。


 マンモス校というだけあって、月ノ宮学園は広大な敷地を有している。前の学校にはない施設もあったのだろう。それでも使う場所は限られているので、それらを中心に校内を案内する。しかしこの様子を見るに、全ての施設を回る羽目になりそうだ。


 中庭に来たところで「少し休憩しようか」と提案する。設置されたベンチに腰を下ろすと、灯日は深く息を吐いた。


「すみません、年甲斐もなくはしゃいでしまって」


 そう言う藤邑の両手には、いつの間にか紙パックの飲み物が握られていた。その片方を灯日に手渡してくる。


「……えっと、これは?」


 賄賂か何かだろうか。


 恐る恐る尋ねると、藤邑は目をしばたたかせる。そして返答の意味を理解したのか、「ぷはっ」と間抜けな音を吹き出した。


「これはただのお詫びなので、そう警戒しないでください」


 喋り方こそ丁寧だったが、けらけらと笑い続ける姿は清楚とは程遠い。ややあって、藤邑が続ける。


「さて、委員長。一応言い訳をさせていただきますが、三部先生は何も言ってませんよ」


「…………え」


 咄嗟のことで反応することも叶わず、微かな音だけが口から零れる。思考を整理するだけの間があり、やっと「どうして」とそう問い返した。


 これも予想通りだったのだろう。満足げに笑む藤邑は、まるで小説に登場する探偵のようだった。


「委員長の席は窓際の一番後ろ、私はその隣。普通なら、そんな面倒な位置に机を入れようなんて思いません。しかし三部先生の口ぶりから、貴方が居るからその場所を選んだのだと、そう感じました」


 正直三部がどんな言葉を発していたのか、全くと言っていいほど覚えていなかった。しかし自信に満ちたその口調が、全て真実なのだと思わせる。


「勿論、貴方が個人的な贔屓で選ばれた可能性もあります。もしそうなら贔屓の内容がどんなものであれ、一部から反感を買うことになるでしょう。けれどあのクラスから、そういった感情は感じ取れませんでした」


 藤邑の迎え方を見て、その可能性は真っ先に排除したのだろう。──ならば、考えられる理由は一つ。灯日が表向き、教師から雑事を任される立場であるということ。


「まぁ結局は推論なので、決め手になったのは皆さんの反応ですけどね」


 言い終わると同時に、藤邑はストローを咥えた。中身のない紙パックがべこりと凹む。


「もしかして、僕が委員長だってことも知らなかったの?」


「だから言ったでしょう。、と」


 ──確かに言った。言ったけれど、まさか。

 困惑する灯日を他所よそに、藤邑は続ける。


「それに委員長、一限が始まる時間も気にしていましたし。きっと注意してあげる立場なんだろうなって」


「でも、それだけで判断は」


「判断できなくても良いんです。重要なのはそこではありませんから」


 潰れた紙パックが傍に置かれる。そして徐に、藤邑は灯日の手を取った。余りにも美しい所作に思わず生唾を飲み込む。


 色が抜けるほど白く、華奢な指。それが包み込んでいるのは、ペンだこだらけの右手だった。鉛筆持ちでは使わない箇所まで、その皮膚は厚くなっている。


「手を挙げる時、袖を気にされていましたよね。朝からデッサンですか?」


 指はいつの間にかワイシャツの袖へと移動していた。そこには画用木炭による汚れがくっきりと残っている。


「勉強してただけだよ」


 もはや条件反射に近かった。いつも使っている言い訳を口にする。


「確か来月、県外の美術大学でデッサンのコンクールがありましたね。それに出るんですか?」


「一応、進学校だから。藤邑さんも勉強頑張らないと」


「練習では何を描いているんです? やはり果物とマグカップ、あ、もしかして家に石膏像があったり」


「……寄り道ばかりしてると、僕みたいになっちゃうよ」


 自分だけが一方的に見透かされている。それがあまりにも悔しくて、必死に抑えていた感情が気付けば言葉と化していた。


 脅しというより忠告のつもりだった。しかし藤邑は何ら怖気付くことなく、むしろ、


「ならば貴方にとっての絵は、ただの寄り道なんですね」


 一番柔いところを抉ろうと、目を光らせ続けている。笑顔の裏に隠されたナイフは、鋭利で洗練されたものだった。灯日の背にじんわりと汗が滲む。


「じゃあ教えてよ。で、君には何が出来るの?」


 それでも恐怖より怒りが勝ったのは、灯日にとってもそれが、決して譲れないものだったから。


 突き返されたナイフを、藤邑は黙って見つめている。


「君が思っているよりずっと、は狂ってる。茨の道と言えば聞こえは良いけど、芸術家がこの街に居て得られるものは何一つない。それでも身を置き続けるのは、ずっと「Frame」に囚われ続けてるからだ。部外者が首を突っ込むべきことじゃないよ」


 敢えて突き放すような言葉を選んだが、概ね間違ってはいない。どれほどの才能があろうと、この街で日の目を見ることはないのだ。居続ける理由なんて、きっと狂気以外の何物でもない。


「何が出来るかという、質問でしたね」


 今度こそ、正真正銘の脅しだった。それでも尚、彼女は声を上げる。


「お答えしましょう。


 刹那、藤邑は勢い良く立ち上がった。手には無残にも潰された紙パックが握られており、灯日の目前へと差し出される。


「明日の放課後、アーケード街の外れにある『喫茶店 火月かげつ』でお待ちしています」


 呆気に取られる灯日を尻目に、藤邑はその長髪を翻す。不敵に浮かべた笑みは、朝方見たものよりずっと彼女に馴染んでいた。


「……藤邑さん」


 やっとの思いで口に出したものの、言葉の続きがまるで浮かんでこない。黙り込んだ灯日を見て、藤邑はその端正な顔をずいと近付けた。


「それでは委員長、また明日」


 別れの挨拶を最後に、軽い足取りで彼女は中庭を後にする。その背中を見送ることはせず、一人残された灯日もまた、自身の紙パックを強く握り締めた。

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