第104話 逃走
View of ドルトロス オロ神教大司教
「はっ……はっ……はっ……!」
息が出来ない。
心臓が痛い。
足も痛いし腰も痛い。
だが、まだ生きている。
私は今エインヘリアとオロ神聖国国境付近にある森の中を、息も絶え絶えになりながら力の限り走っていた。
オロ神教の大司教という地位に立っている私が、老体に鞭を打ってこんな場所を走っているのは偏に自身の命の危機だからだ。
「はっ……はっ……はっ……」
まさかこの歳になって……オロ神教の大司教という地位まで成り上がって……ここまで自分の足で走らなければならないような事態に見舞われるとは……。
全力で空気を体内に取り込み吐き出す。
苦しい……。
まだ走り始めてそんなに時間は経っていないし、走る速度も全力には程遠い速度だろう。
いや、普段運動らしき運動をしていない私からしてみれば全力のようなものだ。
しかし、私が走破しなければならないのは森の中で、目的地まではもう少し距離がある。
疲れたからと足を緩めるわけにはいかないし、足を止めれば心臓まで止める事になるとあっては、寧ろ足が千切れようとも動かし続けるしかない。
私の事を殺そうとしているのは、教皇の雇った密偵集団『スルラの影』。
当然だが、私の足で密偵や暗殺者から逃げられる筈もない。
しかし、今はまだ私が逃げた事を連中は知らないのだ。
エインヘリアの諜報員が協力してくれているらしい……表立ったものではないが。
私が聞いている話では、今滞在している村の二つ先の滞在予定地……そこで連中は私を殺す算段だったようだ。
ここまで私は逃げる素振りを見せず、道中の教会でもオロ神教と神聖国の為の根回しを続けていた。
それで油断を誘えるような相手ではないと思うが、それでも多少は効果があったと思いたい。
エインヘリアとしてはあくまで陰ながら……国として関与していないというスタンスを取っているようだが、今回宿をこっそり抜けて森まで誰にも見つからずに辿り着けたのは、確実にエインヘリアの密偵が動いた結果だろう。
だからこそ私はこうして無事に慣れない森の中を走っている訳だ。
幸い森と言っても小さいもので、視界は悪くなく目的地にも問題なく辿り着くことが出来るだろう。
……追手が居なければ、だが。
エインヘリア側から聞かされている計画では、追手は必ず現れる。
というか、私は追手に追いつかれなくてはならないのだ。
正直、そんなギリギリを狙わなくても良いのではないか?と思うのだが……助けられる身としては文句など言える訳もない。
エインヘリアにはエインヘリアの計画があり、その計画の為に私を助けるのであって、私を憐れんで助けてくれるという話ではないのだ。
利用価値がなくなればあっさりと切り捨てられるだろう。
「はっ……はっ……はっ……!!」
い、息が出来ない!
め……目が霞んで来た……。
私は今、エインヘリアから貸与された夜目の利く魔道具を身に付けている。
いくら深くない森と言っても、月明かりが木々によって遮られている森の中で走ることが出来ているのはこの魔道具のお陰だ。
しかし、それはそれとして……疲労のあまり霞んで来た視界には全く魔道具の効果がない。
「ぜっ……ぜっ……」
た、体力を増強するような魔道具はないのだろうか?
足がもつれ始めた……い、いかん。
今日この日の為に、エインヘリア王都……いや、王都ではないのか。
とにかく、あの街を出立してから不自然にならない程度に体を動かす様にしていたのだが……効果が全くなかったとは言わないが、所詮は付け焼き刃といったところのようだ。
も、もう無理だ。
心の中では力の限り走っているつもりだが、既に私の体は意思に反して、普段の歩みよりもゆっくりと歩を進めているような状態だ。
「居たぞ!逃がすな!」
「っ!?」
背後から聞こえて来た声に、口から内臓が出そうなほど驚く……実際に出たのは掠れた呼吸だけだったが。
聞こえて来た声から、追手は最低でも二人以上。
指定された地点まであともう少し……このタイミングで見つかったことに、私は心の底から震えあがる。
何故……こんなことが……。
胸中をそんな思いに占められるのとほぼ同時に、必死になって動かしていた足がついに小石にひっかかりよろけてしまう。
転ぶわけには!
そう思うのが先か、それとも肩に何かがぶつかったのが先か……私には判断出来なかったが、次の瞬間襲い掛かってきた痛みに疲労で朦朧としていた意識が一気に覚醒する。
「づぁ!?」
凄まじい痛みに、思わず足を止め痛みの発生源である肩を押さえたくなったが、私はそれを意思の力でねじ伏せる。
確認するまでもない。
恐らく追手がナイフか何かを投げて来て、私が偶然よろめいたことで狙いが逸れて肩に当たったというところだろう。
恐ろしい。
目の前……いや、背後に迫る死から必死になって足を動かし逃げる私の心は、深い闇の中に裸で放り込まれてしまう様な、本能的な恐怖に支配されている。
「ちっ!」
投擲が失敗したことに舌打ちをする追手……死を目前にして感覚が研ぎ澄まされているのだろう。
けして静かとは言えない森の中で、ナイフか何かを投げて攻撃してくる程の距離での舌打ちが普通に聞こえる筈がない。
痛みのせいか、止まりかけていた足が再び力を取り戻す。
指定された位置まではもう十歩もない。
「はっ……はっ……はっ……!」
森が途切れ、深い亀裂のような崖が目の前に現れる……崖の下を流れる川は下っていけば、ヒエーレッソ王国へと繋がる大きな川だが、この高さから落ちればヒエーレッソ王国に辿り着く前に死後の世界に辿り着くことになるだろう。
だが……。
「……」
崖の縁で立ち止まった私は、ここでようやく肩越しに後ろを見る。
今にも座り込みそうな私とは対照的……いや、比べるのも申し訳なくなるくらい見事な動きで、あっという間に距離を詰めて来ている。
羨ましい限りだ。
そんな場違いな事を考えつつ、じくじくと痛む背中を見ると……思った通り肩にナイフが刺さっていた。
刺されるのは別に初めての事ではないが、痛いものは痛い。
だが、この痛みのお陰で目的地まで辿り着くことが出来たと思えば……いや、だとしても感謝はかけらも出来ないな。
息を整えながら追手の方を見ていると、顔を隠した二人の黒装束が私を囲むように少し離れた位置で立ち止まる。
「……ふぅ……はぁ……あなた方は……何故……私を?」
息が切れていて、言葉が続かないが……そもそもこの連中は私の問いに応えたりはしないだろう。
しかし、もう少し息を整えたいのだが。
そんな私の希望は伝わらず、二人は無言でナイフを構える。
もう時間がないか……。
私は意を決して足を踏み出し……目の前の崖に身を投げ出した。
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