第50話 分水嶺
View of ライノール=ミリア=ヒルマテル ヒエーレッソ王国公爵 王弟
「久しいな、カウルン殿」
「御無沙汰しております、ヒルマテル公爵」
私が声をかけると、生真面目な様子で挨拶を返してくるカウルン殿。
兄と同年代なのでそろそろ六十近いはずだが、その動きはかくしゃくとしており老いを感じさせない。
「思っていたよりも砦は落ち着いているようだな」
「はっ……先日押し寄せてきた魔物の死体もようやく処理出来ました。まぁ、一番の大物はまだ手付かずではありますが……」
そう言って、カウルン殿は窓の外に視線を向けた。
その視線の先にはただ荒野が広がり遠くに森が見えるだけだが、彼が何に想いを馳せているかは考えるまでもなく分かる。
「ドラゴンか……何というか、死体で本当に良かったと思った。あれが動いているのを目の当たりにしたら……とても正気でいられる自信がない」
砦のすぐ傍に横たわる漆黒の巨体は、死してなおその迫力を維持しており、あれが雄叫びを上げ空を舞っていたと考えるだけでゾッとするものを覚える。
「確かに……歴戦の勇士とも呼べるこの砦の兵達ですら、心が折れかけていました。まぁ……私も同様でしたが」
「カウルン殿でさえも?」
「あれは、人が相対して良い存在ではありませんでした。今こうして会話が出来る事……いえ、国が存在している事そのものが奇跡と言っても過言ではない存在でした」
実感の籠った様子で語るカウルン殿。
「奇跡か……」
私はその場に居合わせなかったからその言葉にあまり心は動かないが、死を覚悟した彼らにとってエインヘリア王の来訪はまさにそうだったのだろう。
……マズいな。
カウルン殿は明らかに自制しているように見える……自制が必要と言う事は、そういうことなのだろう。
カウルン殿は……いや、この砦の兵達はエインヘリアの王に心を奪われている。
この砦の兵達は我が国の最精鋭。
無論、彼らの忠誠を疑うつもりはない。
だが、エインヘリアの王が敵対した場合……カウルン殿はともかく兵達はまともに動けないかもしれんな。
それが恐怖によるものか感謝によるものかはそれぞれだろうが……。
「……ご安心ください、ヒルマテル公爵。エインヘリア王陛下に感謝はありますが、我々が忠誠を違えることはありません。我が身我が心はヒエーレッソ王国に捧げております」
表情に出したつもりはなかったが、カウルン殿が真剣な表情でこちらを見ながら言う。
「失礼しました、カウルン殿。貴方の忠誠や献身を疑う事はありません。しかし……」
「兵達は分からない……そういうことですか?」
「……」
私が何を言いたいか、口にせずともカウルン殿は正確に把握している。
「確かに御懸念の通り、エインヘリア王陛下と戦えと言われても兵達は動けないかもしれません。しかし、エインヘリア王陛下がヒエーレッソ王国に仇なすと分かれば、彼らは必ず立ち上がりましょう」
「そんな時が来なければ良いが……」
「心の底からそう思います。我々が全てを諦めかけたあのドラゴンを、まるで散歩中に見つけた花を手折るように何の気負いもなく処理しました。もし正面から敵対すれば……砦ごと消し飛ばされても不思議ではありません」
「ドラゴンを遥かに上回る交渉相手か……気が重いな。武力を背景に話をされればまともな交渉になるとは思えない」
交渉とは対等な立場で行われるものだ。
圧倒的な格差がある状況で行われるのは交渉ではなく強制、あるいは命令。
恫喝すら必要ないのだ。
巨人がただその意を発するだけで矮躯な我等はその通りに動くしかいない。
事実上の属国であるヒエーレッソ王国は、神聖国相手にその意に従う以外の返事は許されていないと言う事だ。
そして、エインヘリアの王は個人の力で我が国の全てを圧倒している……相手がその気であれば、私達はそもそも交渉の席にすらつくことが出来ない。
だからこそ、私と陛下は帝国と秘密裏に交渉を続けてきた。
無論、帝国と我が国では隔絶した国力差が存在する。
それに帝国と我が国は隣接してはいない。
援軍を送るのも一苦労と言える……だが、帝国にとって利が全くないという訳ではない。
我が国と帝国が手を結べば、南北を帝国勢力に挟まれることになるレグリア王国は必ず帝国寄りになったはずだ。
事実、そういった動きがレグリア王国にあったことはこちらでも確認出来ていた。
レグリア王国は帝国と神聖国それぞれに隣接している立地だった。
そんな場所に親帝国の国があることは、神聖国としてはとてもではないが認められない。
その揺さぶりだけでも帝国としては十分だろうし、実際に我が国とレグリア王国が帝国の下に着けば神聖国は西と北に敵対勢力を抱えることになる。
帝国は当然その事を理解しているが……いざそうなった時、神聖国との全面対決は避けられなくなってしまう。
こちらの接触に帝国の反応が悪いのはそのせいだ。
帝国は神聖国と違い西の森と国境が直接接していることもあり、神聖国と本格的に戦端を開きかねない動きに対し消極的……とまではいわないが、慎重ではある。
しかし、このままではヒエーレッソ王国は事実上の属国等というものではなく……民心までも神聖国に良いようにされてしまう。
そうなれば、間違いなく帝国との連携は出来ない……帝国もそれは理解している筈だ。
しかも、我が国と帝国の間にあるのはもはやレグリア王国ではない。
英雄の王が治めるエインヘリアだ。
今回の会談の内容如何にもよるが、帝国にとって我が国は味方に引き入れておきたい……いや、以前よりもその重要性は増していると言える。
今回の対談が終わったら、すぐに帝国に向かった方が良いかもしれないな。
とんぼ返りも良いとこだが、これだけ大きく状況が変わったのだ。
帝国も邪険にはすまい。
少し先の事に思考を奪われていたが、一つ結論を出したことで意識を現在に戻す。
「エインヘリアの王は、何を求めているか分かるか?」
「申し訳ございません、私には分かりかねます。ですが、神聖国に思うところがあるようです?」
「ふむ」
「お譲りいただいたドラゴンの素材ですが、国内で捌けないのであれば帝国に売れと」
「帝国に?」
我が国の現状を知っているなら、帝国にドラゴンを売る事が不可能なことは分かっている筈。
「エインヘリアは帝国寄りということか?」
「帝国と近いというよりも、神聖国に良い感情を持っていないという風に見受けました」
「ふむ」
「神聖国のやり方……我が国に仕掛けているやり口を読んでおられました。外から見える以上に我等の内情も……」
「……書簡には、神聖国が今後我が国に援軍を送る余裕がなくなると言っていたと書いてあったな?」
「はい」
「会談が実現した時点で、その結果に関係なく神聖国が軍を引いた後の二年を支援。分からんな……神聖国と事を構えるつもりだとしても、我が国に何を求めるつもりだ?現状、神聖国が攻められたとしても、我が国がエインヘリアに兵を向けるなどといった事は出来ないことは分かっている筈だが……」
属国という立場ではあるが、北に兵を向けてしまえば魔物に対する盾の役すら出来なくなることは神聖国も十分理解している。
現時点で神聖国の戦争に巻き込まれ国内に魔物がなだれ込む様な事になれば、折角民を教化して良いように操ろうとしているのに台無しとなるだろう。
そもそも神聖国はエインヘリアをどう見ているのか……。
もう少し時間があれば、神聖国側の情報も得られただろうが……申し入れから二十日という時間は短すぎる。
砦から早馬で書簡が届くまでに数日……そこから私が砦に移動するまでにその倍以上の時間がかかるわけで……陛下から話を聞いてすぐに出立しなければ間に合わなかっただろう。
いや……それすらも計算か。
準備をする時間……考える時間を与えずに会談に臨ませる。
なるほど。
確かにカウルン殿の言う通り一筋縄ではいかない……面倒な相手と言える。
武力を背景に頭の悪い交渉を持ちかけて来るタイプの方が上手くあしらえたかもしれないが……。
「ふぅ……」
思わず、大きくため息をついてしまった私を、カウルン殿が気遣わしげに見てくる。
私は苦笑しながらカウルンに謝ろうとして……部屋の扉がノックされたことでその機会を失してしまう。
「閣下、エインヘリア王陛下のお姿が確認出来ました。間も無く砦までやってくるかと」
「分かった。あまり大仰に出迎えるなと言われているが、私が出向くくらいは許してくれるだろう。人を並べる必要はないが、副将に門へ来るように伝えておいてくれ」
「はっ!」
扉越しにカウルン殿が命令を出すと、足早に兵が扉の前から去っていくのが分かった。
「それではヒルマテル公爵。私はエインヘリア王陛下を会議室へとご案内いたします」
「分かった。よろしく頼む」
さて、エインヘリアの王とはどのような人物なのか。
その真贋を見極めさせてもらうとしよう。
私は椅子から立ち上がり、出口の脇に設置されている姿見で身だしなみを整える。
そして最後に鏡に映った自分の顔を正面から見て……今、この瞬間がヒエーレッソ王国の今後を決める分水嶺なのかもしれないと、ふと思ったのだった。
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