第312話 続々々・温泉界






 岩で囲まれた窪みに溜まるお湯。


 立ち上る湯気。


 しかし、湿気はその場に留まることなく霧散していく。


 湯を囲む壁や天井が存在していない為、それも致し方なき事。


 ここは、所謂露天風呂。


 この湯殿の名はヴァルハラ温泉。


 傷つき倒れし戦士たちを優しく癒す、露天風呂。


 ここは現世か常世か……それを知るものはおらず、ただ湯に浸かるのみ。


 そして今……湯に浸かっている者は三人と一匹……。






『ふぅむ……湯に浸かるという行為がこれほどまでに心地良いとは、実に勿体ないことをしたものだ』


「おや、ドラゴン殿は温泉に入るのは初めてでしたか」


『うむ。長い時を生きたが、こういった事は経験しなかったな』


「それは、ここに来て良い経験が出来ましたね」


『そうだな。今まで試したことはなかったが、死んでみるのも悪くないということか』


「死んだら全てが終わると思っていたのですがね」


『死んでみなければ分からないことをあれこれ考えるとは。人族は愚かだな』


「想像することは人族の力であり、人族の弱さです。想像することで危険に対処出来るようになり、想像することで恐怖に負けて破滅する」


『意味が分からぬ。目の前に対峙していないものを想像して何の意味がある。目の前に来た時に初めて、爪で裂くのか牙で食い千切るのかブレスで消し飛ばすのか考えれば良い』


「人族は、ドラゴン殿程強くありませんので」


『ふん、難儀な事だな』


「長い時を生きるドラゴン殿からすれば、人族は小賢しいだけに見えますか?」


『かつての我であれば、矮小にして卑小と断ずるところだな』


「今は違うので?」


『この温泉というものは人族が考えたものなのだろう?人族の想像とやらも馬鹿にしたものではないな』


「人族の発明とは言い難いですね……温泉は大地からの授かりものですし」


『ふむ、確かにそうだな。しかし、我は大地に湧く湯を見ても、それに身を浸けようとは思うことはなかった。空から湯気の上がる水たまりが見えていたが、アレが温泉だったのだな』


「空から……羨ましいですね。私もその光景を一度で良いから見てみたかったです」


『我からしたら生まれた時から見ている光景だがな』


「生まれた時……ドラゴン殿はどのくらいの時を生きたのですか?」


『さてな……百や千と言わず日が昇り沈む光景を見たが……もしや人族は己が生きている時間を数えているのか?』


「……えぇ、まぁ大雑把にですが」


『ハッハッハ!凄いな!何の意味があるんだ!?』


「ドラゴン殿に比べれば人は長く生きられないですしね。日が昇り沈み、そしてまた日が昇るまでを一日、それが六回で一週、それが五回で一ヵ月、それが十二回で一年。大体この年という単位で、人は自分の生きた時間を表しますね」


『ややこしいな……温泉の良さは理解できたが、それは全く理解出来んぞ』


「人族は生きる時間が短い分、分かりやすい区切りを作って気を改めながら生きているんですよ」


『そういうものか』


「……おい、サルナレ」


「……なんですか?」


「あいつ……めちゃくちゃドラゴンと仲良くなってないか?」


「流石はソラキルの王という事でしょう。人の懐……いやドラゴンの懐に入り込むのが実に上手い。どこぞの、龍王を名乗りたがっていたちょっとアレな人に見習ってほしいですね。手遅れですが」


「ちょっとアレな人って誰の事だ?」


「心当たりがないのでしたら気にする必要はありませんし、心当たりがあるのであればその人物なのでしょう」


「……まぁよい。それより、懐に入り込むどころか、アイツドラゴンの身体を背もたれにしているぞ?大丈夫なのか?」


「今更ですな。我々は既に死んでいるのですし、今更ドラゴンの尾を踏もうと気にする必要はありますまい」


「そう考えるのは早計ではないか?我等はこの湯に浸かって気持ちよさを覚えている……それはすなわち、苦痛も感じることが出来るのではないか?」


「陛下にしては鋭い考察です。では試してみましょう。とりあえず陛下、今から湯の中に顔を沈めて下さい。私は浮かび上がってこない様に頭を押さえておきますので」


「殺す気か!」


「お言葉ですが、既に死んでおりますれば……窒息という苦しみが永遠に続くのか試してみたいだけです」


「怖いんだが!?」


「何やら楽しそうな話をされていますね」


「ひっ!?いや……全然楽しくないぞ?それより、ザナロア殿はドラゴン殿との会話を楽しんでいたのでは?」


「えぇ、ですが……」


『おい、人族。一つ思いついたのだが、こうして湯に浸かるのは気持ち良いが……もっと熱い湯ならもっと気持ち良いのではないか?』


「それは、どうでしょう?」


『試してみる価値がある。ここは一つ我がブレスを湯に向かって放ってみようと思うがどうだ?』


「「……」」


「それはおやめになった方がよろしいかと」


『何故だ?』


「ドラゴン殿のブレスは、一撃で森を消失させられるほどの威力があると聞いたことがあります。湯に向かって放った場合、湯ごと消し飛んでしまうのでは?」


『……確かに、その可能性は高いな』


「危険を冒し失ってしまうよりも、今ある湯を楽しむ方がよろしいのでは?」


『ふぅむ……だが、もっと熱い湯も気になるぞ』


「ならば、もっと熱い温泉を探すのが良いのでは?」


『ふむ……確かにこの辺りには多くの湯があったような気がする。よし、我は新たな湯を探してこよう』


「「っ!?」」


「……ふむ、飛んで行ってしまいましたね」


「凄まじい波でおぼれるかと思ったのだが……どうしてザナロア殿は平然と出来るのか」


「いえ、私も渦に呑まれそうになるのを必死に耐えていましたよ」


「……そうか?」


「ところでハルクレア殿、先程の話の続きを……おや?」


「ん?あぁ、あれは人影だな……新しい客人が来たようだ」


「……そういえばランガス殿の姿が見えませんが?」


「……確かにいつからか分からぬが、姿が見えなくなったな」


「先程のドラゴン殿のように別の湯を探しに行ったのかもしれませんね」


「……そういうタイプの人物だっただろうか?」


「陛下、このような事態になっている以上、今更深く考えたところでなるようにしかなりますまい」


「それもそうだな。ひょっこり戻ってくるかもしれんし、戻って来んかもしれん」


「そう考えるのがよろしいでしょうな。それより、今は新しい客人に挨拶をする方が肝要かと」


「ふむ、珍しくサルナレが良い事を言ったな。少しまともになったのか?」


「いえ、陛下からすれば全ての者がまともであります故」


「どういう意味だ?」


「……お二方、湯気が薄れてきましたよ」


「ん……おぉ、随分と体格の良い人物のようだな」


「確かに……陛下の腕くらいなら木の枝を折るかの如く真っ二つに出来そうですな」


「何故私の腕を例えに出した?」


「陛下の首の方が良かったですかな?」


「ははは、御二方とも仲が良さそうで羨ましいですな」


「「……」」


「……やはりここに来た直後は皆似たような状態だな。自失というか……ぼーっとしておるようだ。自分が何者なのかも分かっておるまい」


「私はクソ虫です」


「なんて?」


「私の名前はクソ虫です。生まれてきてごめんなさい」


「……おい、サルナレ。なんか新しいパターンの奴が来たぞ?」


「ふむ……見た感じでは非常に強そうな御仁ですが、どうしたのでしょうな?」


「あぁ、思い出しました」


「ザナロア殿は彼を御存知で?」


「えぇ。以前友人が自作の麻薬を商協連盟の裏組織に流す時、護衛として来ていたのが彼です」


「色々と突っ込みたい所はあるが……いちいち護衛の事まで覚えているのか?」


「流石に、彼がただの護衛であったのなら覚えてはいませんが、彼は英雄です。名前は確か……オーレル」


「いえ、私はクソ虫です」


「え、英雄であれば確かに記憶に残っていてもおかしくはないが……本当に?」


「えぇ、記憶力は良いほうなので。間違いないかと」


「英雄にしては、随分と卑屈だな」


「私の知るオーレル殿は粗野というか傲慢というか……粗暴な人物でしたが」


「生まれてきてごめんなさい、私はクソ虫です」


「粗暴さの欠片もないんだが?膝を抱えるようにして縮こまっているようだし」


「……ふふっ……一体何があったのでしょうね」


「……おい、サルナレ。ザナロアの目がやばい感じに輝きだしたんだが」


「気にせずとも良いでしょう、害はありません」


「……う、うむ」


「オーレル殿、大丈夫ですか?」


「私の名前はクソ虫です」


「クソ虫殿、英雄として他者を力でねじ伏せていた貴方に何があったのですか?」


「思い上がっていました、ごめんなさい」


「英雄らしさの欠片も感じられんな」


「私はクソ虫です。英雄などと烏滸がましい。所詮私は、四発で倒すと言われたにもかかわらず一発目にすら耐えられないカスです」


「……それは力加減間違えすぎだろ」


「そもそも英雄を一発で倒すことが出来る事自体、異常ですがな」


「圧倒的な敗北で心が折れたといった感じか?」


「……」


「いえ、この様子は違いますね。恐らく……敗れた後に何かあったのではないですか?」


「……」


「オーレル殿の心が完膚なきまでに折れるような何かが……違いますか」


「あ」


「あ?」


「ああああああああああああああああああああああ!!私は!私はクソ虫です!生まれてきてごめんなさい!」


「え、えぇ……」


「壮絶な思いをしたのは間違いありませんね」


「ふ、ふふふふっ。どんな?どんな目に遭ったのですか?オーレル殿?」


「いや、そっとしておいてやるのが慈悲ではないか?」


「ああああああああああああああああああ!生まれて来てごめんなさい!生きていてごめんなさい!」


「いや、もう死んでいるが……」


「あぁぁぁ……あ?し、死んで?」


「うむ。お前は既に死んでいる。私達もな」


「死?死んでいる?クソ虫は死んでいる?」


「あぁ。残念ながらな」


「お」


「お?」


「おおおおおおおおおおおおおおおおお!死んでいる?クソ虫は死んだのか!?」


「……受け入れがたいだろうが、事実だ。我々は全員死んでいる」


「おおおおおおお!!」


「辛いとは思うが……」


「ありがとうございます!」


「なんて?」


「死んだ!クソ虫は死んだ!もう大丈夫!もう壊れない!もう治らない!だって死んだから!」


「……」


「ありがとうございます!ありがとうございます!」


「……なぁ、サルナレ。私は未だかつてない程怖いんだが?」


「……奇遇ですね、私も同感です。湯の温度が急激に下がった気もします」


「……良い」


「どんな目に遭ったら死んだことをこんなに喜べるんだ」


「少なくとも、陛下や私では想像すら出来ない様な体験をしたのでしょう」


「ひゃっはーーーーーーーーーーーーー!!」






 湯煙の向こうに消えていくヴァルハラ温泉。


 ここに在るのは安寧か、それとも終わりなき苦悶か。


 遠くドラゴンのいななきが聞こえる中、四人は狂気と共に白く塗りつぶされていく。


 

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