ピエロ

星雫々

道化師






ーー2月14日、新宿駅、23時。






ヒトの形をしたパーツの断片が通り過ぎてゆく。



蜘蛛の巣のごとく張り巡らされた路線の数々を各々めざし、それらは散り散りになる。



僕自身もそれらと同一にスニーカーの踵をズルズルと地面に擦らせながら進んでゆく。


数少ない模倣形態の僕達は、あえなくたどり着かざるを得ない明日へとその重力を連れるしかないのである。




南口方面を目指すところをあの夜は心が定まらず、東口方面へと足を進めた。




雨上がりだった。無駄にコンクリートは安っぽいネオンで煌めいていて、狂った魚が得た水は思ったよりも深かったようで、虚ろな眼を辿っていくとこの画鋲の針の如く小さな穴から抉られた世界は痛いほどに冷静な祈りをあげた。









どうかしていた。どうかしていたのだ。






そんな瞬間なんて、たかが進行方向を直前で変えてしまうなどといった、ツイートも出来ないような悪さなど人間には数多存在する。それをその通りだと認めないだけで、パーツの端々に同化した瞬間に、踊り狂うそれらは道化師にも似た空虚を感じさせ、明日が今日を忘れられない馬鹿げたサーカスにさえ思えてくる。




油断すればつま先を引っ掛けてしまいそうな足下に注意しながら、階段を駆け上がり、アルタの横を走り抜け、殴り書きされた落書きの数々は瑣末な僕に瓜二つだなァなんて呑気なことを脳内で吐きながら、すっかりシャッターの下りてしまった店舗の数々に踵を返し、やはり走り抜けた。水溜りが偶に行く手を阻むのが鬱陶しい。




信号に引っかかることも無く横断歩道を渡り、ドン・キホーテ横を通過する。キャッチセールスへの注意を促す相変わらずの歌舞伎町のアナウンスは何の効果をもたらす予感も無く、不埒でフェアを投影、僅かなる広告塔と化していた。



野良猫一匹程度しか通れそうもない隙間には飲みかけのペットボトルやら枯れ果てた花束やらが棄てられており、その上に新しく開封前のGODIVAのチョコレートの包み、それから有名ブランドの紙袋等等が幾つも投げ込まれていた。




傍観しただけで、それが誰かの感情を汲み取るなどといった馬鹿げた奉仕にはならないことくらい安易に理解出来ていた僕は、知らぬフリしてTOHOシネマズへと足早に向かい、到達した横断歩道を渡る目先、エスカレーターの下に項垂れる女が目に入った。





髪は胸下あたり、ストレート。黒いオーガンジーのワンピースに、ソールの厚いレザーブーツ。筆を撫でたように映える瞳、爪には潤むような艶があり、形のいい唇には深い紅が乗せられている。




面倒なことに巻き込まれたくない。


出来るだけ項垂れた目線の先に入らないよう十分注意しながら、僕は横の上映時刻が刻まれたスクリーンを横切ろうと静かに抜けた。だが、不運にも周りに人気が無いようで、先程まであんなにもホストクラブやなにかの勧誘が漂っていたはずなのに、なぜかピンポイントにここだけ人が居らず、当然の理で女は此方を仕留め、通りすがる直前で僕の脚を掴んだ。


獲物を見つけた猫という表現もありきだが、哀しき熱の放出先を探しているという表現にもおもえた。




「…ちょっと、」

「…」

「離してもらえます?」

「…ゃァだ、」

「ハア?」




今時流行らない、駄々を捏ねた女児が甘えるように、間延びした声で女は否定をした。そんな声で捕まる男がいるわけねえだろ。と、まあ、そんな言葉を脳内にこそ逡巡させたわけだが、物理的には掴まれており、おねーさん、と呼びかけると「ナンパ野郎」と一蹴され、散々な目に遭って腹を立てていたら間もなく寝息が聞こえてきた。本当に信じられない。



とはいえ掴まれた脚を解放するには今だと思い直し、掴まれた左脚を解かせるべく右脚に力を入れたのだが、有り得ないほどの力で掴み取られているようでそれは叶わなかった。こんな細い身体で一体どんな力込めてるんだよ。




人間、本当に困惑した時には冷静に判断できるようで、落ち着いてスマホを開くと間もなく日付が変わる時刻が暗闇に表示された。どんなイルミネーションよりも、スマホに浮かび上がった0:00が美しいだなんて感じてしまうのは僕の美的感覚が麻痺してるからだろうか。






スマホを眺めたり、ゼンマイの壊れた玩具みたいに流れ続けるアナウンスに耳を傾けてみたり、なんなり、女を凝視してみたり、女が少し動くたび甘い香りがして、それは所謂チョコレートの、だけど奥には辛く刺すような煙草混じりの、芳しい香りだった。そしたら綺麗に伸びる睫毛に吸い寄せられそうになった邪念をはらってみたり、そんな暇の潰し方をしていたところ、いつの間にか此方にも睡魔が移ってしまったようで、途切れた意識の最中で女は誰かの名を呼んだ。








目を覚ました時には白んだ空と冷笑する空気、それから冷えきった視線が此方に注がれた。





「誰、キミ」

「…ァ?」





いくら意識を手放していたとはいえ、流石に数時間前の記憶くらいは明確にある。特に見たい映画もないのにTOHOを目指して、そしたら酔っ払いの女に捕まって、それで、それから、やはりそう考えたら此方はただ被害を蒙っただけである。それなのに不審者扱いなど、とんだとばっちりではないか。






「ま、いーや」





此方が真剣に解説言葉を考えているにも関わらず、女はもう既に白んだ空のごとく簡単に切り替え、隣に居る見ず知らずの男に何か疑問を与えるわけでもなく、淡々と続けた。





「あたし、どこから来たんだろ」

「…」

「ね、君、チョコ好き?」

「ハ?」

「チョコ。知らないの?」

「いや知ってますけど、…フツーです」





そう返事をしたら、ふうん、と興味なさげに呟いて、女はフワア、と大きな欠伸をした。貴女がどこから来たのかは、僕が聞きたいのだが、そうやって話を広げていくことに意味なんてかんじられなかったのでやめた。子供の頃よりずっと、こうやって噤むことが多い気がする。




「今日なんだったのかもわかんなくて、」





酔っ払いの酒は抜けていないようで、見ず知らずの男に女がこぼし始めた言葉は地面に敷きつめられたグレーのタイルに吸い込まれてゆく。




「んでね、そういう日は映画を見るの」

「…どれ、見たんですか」

「結局ね、わかんなくなっちゃって、どのタイトル見てもピンと来なくて、こんなんじゃ映画も見られないんだもん、もう終わりだよね」

「…チョコ、好きですか」

「ハ?」

「知らないんですか?」

「知ってるわ」





ふふ、と女は笑った。他人の笑顔から特段なんの魅力も活力も感じ無いが、この瞬間だけは偽善的キャッチフレーズとしてお馴染みの笑顔が肯定的に感じられるそれに同調せざるを得なかった。少しだけ揺らいだ。



白んだ空はすっかり明けて、やるせない女と男の形をしたパーツがそれぞれ散り散りに去ってゆく。この場所にも疎らに人が集まり始め、僕達の異様な関係を横目で観察した。なぜか僕は、その視線を受け取るようにして穿き返すと、気味が悪いというように肩を竦め、人はまた去っていった。





「あげる」





そういった刹那にもこの女の感情は変遷を遂げたようで、立ち上がって、砂もついていないのに太腿辺りをはらい、財布ひとつ入っていないであろう小さなカバンからアトマイザーを取り出して此方に差し出した。恐る恐る受け取ると蓋を開ける前から先程の甘い匂いがした。





「じゃーね」

「…また会えますか」

「嫌だよ、もうそれ嗅ぎたくない」

「最後に一つだけ聞いていいですか」

「なに」

「本当は酔ってなかったですよね」

「フフ、さあね」





そして女は裾を翻し、冷たい風を吸い込んで喧騒に消えた。取り残された僕だけが映画を見損ねたピエロと化した。本当の道化師は誰だったのだろう。乾いた空気に一吹き、アトマイザーをプッシュすると馬鹿みたいに苦しくなった。どうかしていた。歌舞伎町、8時。





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