雨夜
傘立て
雨夜
今日に限って随分しがみついてくるなと思った。夕刻に降り始めた雨に肩を濡らして現れて、所詮乾くまでの時間潰しではあったのだろうが、いつになく積極的な様子はこちらの気分も高揚させた。気が付いた頃には外は暗闇だった。
雨の音は夜半前には止んだ。湿った空気はじっとりと重く、引っ掛けた襦袢が肌に纏わりついた。夜更けが近づき、家に帰すなら早い方が良いだろうと、寝ている肩に触れて声を掛ける。瞼が細く開いて、隙間から濡れた瞳がこちらを向いた。怠そうに見えたが、思いのほか聞き分け良く頷かれた。
「帰ります。ただ、疲れたので手伝ってもらえますか」
そう言って布団の脇に投げ出された足袋を掴み、だらしなく寝転んだまま差し出してくる。自力で服も着られないほど疲れているわけでもあるまい。そういう戯れなのだと、要求を無言で受け取って足元に屈み込む。労働を知らない細い躰の端にある足首と甲は、女のそれのような華奢さではないものの、やはり骨からして細く、電灯に照らされて白々と冴えていた。胡座をかいた膝に彼の左足をのせ、爪先から足袋を被せていく。踵まで覆い、薄い爪のように並んだ
「珍しいね。どこかに行ってた?」
足首に手をまわして、金具を手探りで留めながら尋ねる。少しの間が空いて、質問の意図に気づいたのか、ああ、と短い声が返ってきた。
「初七日の法要でした。終わった頃に電話を貰って、喪服でうろつくわけにもいかないので慌てて着替えて出てきたんですが、足袋を替えるのを忘れましたね。うっかりしていました」
あなたからの電話だったから気が急いて、と付け足された。甘ったれた声でそんなことを囁けば相手を容易く籠絡できると知っているのだ。あざといとは思いながらも、言われてしまうとやはり心を擽られた。浮かれた素振りを見せないように、白い布で包んだ左足を下ろし、右の足首を掴んで同じように膝にのせる。
「そんな日に呼び出してしまって悪かったな。言ってくれたら良かったのに」
「いえ、いいんです。みんな帰ったあとでしたし、家にいても気詰まりですから」
なんでもないことのようにそう答える。それなりに大きな病院の子息と聞いているが、次男というのは、忌中の、それも法要のあった日に好き勝手に出歩けるほど気楽な立場なのだろうか。長男が優秀で家業は安泰だから、期待されないかわりに自由に振る舞えているのだと、何かの話の合間に聞いたことはあった。跡取りでなくとも医者になれば家の助けにもなるだろうに、本人にそのつもりはないらしく、仏文科でヴェルレーヌだのエミール・ゾラだのと戯れている。私のようなうだつの上がらない哲学講師なぞに構っているのも、一種の放蕩のつもりだろう。文学部の校舎裏のベンチで何度か顔を合わせているうちに声を掛けてきたのは、彼の方からだった。私が大学関係者であるのを良いことに、怪しまれないからいつでも電話をしてきてくれと宣い、連絡を絶やすと拗ねて不機嫌になる。いくら教員であっても頻繁に自宅に電話を掛けていれば不審に思われるに違いないが、彼はそこにスリルを感じて愉しんでいるふしがあった。
寝ていた躰がもぞもぞと動いて、上体が起き上がった。何がしたいのかと思えば、後ろ手をついたまま、小鉤を嵌める私の手元を爬虫類めいた黒い目でじっと見ている。見られていると思うと居心地が悪く、もたついたせいで何度かしくじり、余計に指先がこわばった。道中で跳ね上げたのか、白い足袋の小指側の端に小さい泥汚れが付いていて、そこだけが妙に目についた。
なんとか四枚の金属を掛け終えて「できたよ」と声を掛けると、足元を確認した黒い目が満足げに綻んだ。
「ありがとうございます」
「着るのも手伝おうか」
「自分でできます。その前に、もう少しだけ」
そっと躰を寄せられる。寒いのか剥き出しの肩が顫えるのを見て、放り出してあった自分の長着を手繰り寄せて掛けてやった。布越しに背中を抱くと、力を抜いて身を預けてくる。しなだれかかる重みと体温が心地良く、そのまま暫くじっとしていた。雨音が止んだ夜は湿気を孕んだまま静まり、屋根か庭木から落ちた滴が敷石に跳ねる微かな音だけが時折り耳に届く。肩口で上下する呼吸音は穏やかで規則正しい。やがて気が済んだのか、「そろそろ行きます」と静かに肩を離された。抱き込んでいた温かい重みが消える。名残りを惜しんだ私の手が、咄嗟に彼の躰を引き留めようと動いた。
「……もう遅いから、泊まっていったら」
絞り出した提案は掠れていた。立ち上がろうとしていた青年は、中腰の姿勢のまま二、三度目を瞬かせてから弾かれたように笑って、柔らかく私の手を押し戻した。
「帰れと言ったのはあなたですよ。それに、僕の方でも帰らないといけないんです」
返す言葉もなく手を離すと、先程までの甘えた態度が嘘のように、青年は手際良く自分の持ち物だけを拾い集めて身支度を整え始めた。慣れた動作には淀みも隙もなく、近寄るなと牽制されているように感じる。私の傍に落ちていた帯ぐらいは拾ってやろうかと手を出しかけたが、指先が届く前に、拒絶するように素早く掬い取られた。姿見の前で襟を整える背中と白い首は清潔そのもので、爛れた行為に耽っていた気配など微塵も感じさせない。偶々居合わせただけの見知らぬ他人にすら見えた。帰宅を促したことを後悔し、さっさと止んだ雨を恨んだが、きっとこの青年は、私が何も言わず、雨が降り続けていたとしても、帰ることを選んだに違いない。着物は完全には乾いていないだろうが、着られる程度にはなっているぐらいの時間だった。
「
目も合わせないままひと息に言い切り、私が呆気に取られているあいだに、青年は滑るように部屋を出ていった。言葉を掛ける暇もなかった。とん、と軽い音を立てて襖が閉まり、じめついて殺風景な部屋だけが残った。
雨夜 傘立て @kasawotatemasu
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