梅乃お嬢様

スエテナター

梅乃お嬢様

 梅乃お嬢様は、セーラー服のよく似合う方だった。体が弱く、同級生よりセーラー服を着る機会が少なかったけれど、中学校生活の空気を纏ったお嬢様の姿は、丹念に織られた布地の光沢と相俟って美しいものだった。私から見ればずいぶん若年の方だったから、魂の瑞々しさを知らず知らず感じ取り、私にもあった青春期を懐かしくなぞっていたのかもしれない。

 すっかり暖かくなった陽光の中に梅乃お嬢様の若さが閉じ込められているようで、はらはらと舞い降りる桜吹雪に見惚れた。

「おばあちゃん、見て。綺麗だね」

 車椅子の祖母に声を掛けると、祖母はこっくり頷いた。子供のころ、舞い降りる花びらを何度も捕まえようとして、ことごとく失敗したことを思い出した。大人になっても花吹雪に手を伸ばしたい衝動に駆られるけれど、わざわざ捕まえに行かなくても、花びらの方から来てくれることもある。祖母の膝に、一枚の花びらが舞い落ちた。

「おばあちゃんの膝に、花びらが来てくれた」

 私がそう言うと、祖母は嬉しそうに笑った。

 近くの中学校が下校時刻になったらしく、セーラー服や学生服姿の生徒がたくさん歩いてきた。

 梅乃お嬢様も、あんなふうに初々しかった。手入れの行き届いた長い髪をポニーテールにして、まばゆい笑顔で何でも話してくれた。登下校中に会ったことはないけれど、こんな陽光の下で梅乃お嬢様を見掛けたら、きっと、姿が霞むくらい、光輝いて見えただろう。家庭教師をつとめた私のことを先生と呼んでくれた、あの凛とした声を思い出す。

 こんにちはと挨拶をしてくれる中学生たちにこんにちはと返事をしながら、家に帰った。

 私が中学に進学したとき、祖母は何度もおめでとうと言って、成長を喜んでくれた。遠い日の思い出が、昨日のことのように思い返された。


 家では母が夕飯を作っていた。鍋の中を覗くと煮物だった。

「おばあちゃん、今日の夕飯はおばあちゃんの好きな煮物だよ」

 耳元でそう教えると、祖母は微笑んで頷いた。

 私は自分の部屋に戻り、祖母の膝に舞い降りた花びらと、道端に落ちていた汚れのない綺麗な花びらを使って押し花を作った。ティッシュと新聞紙に花びらを挟み、さらにそれを辞典に挟んでおく。一週間ほどで花びらが乾き、完成する。

 重しを乗せてほっと一息ついたところで、スマホにメッセージが届いた。それは、家庭教師を辞めて以来会っていなかった、梅乃お嬢様のお母様――奥様からだった。今度お茶にいらして下さいというお誘いだった。ぜひお伺いいたします、という返事をして、私はベッドに寝転がった。


『ねぇ、先生。人生の悩みって、何ですか?』

 梅乃お嬢様に突然訊ねられたことを思い出す。

 人生の悩みと言っても中身は様々で、人間関係や進路のこと、部活や勉強のこと、色々な悩みがあるのではないかと私は答えた。

 梅乃お嬢様は首を傾げて、『そんなものでしょうか……』と言った。

『人付き合いは深く関わらなければいいし、進路は行きたい学校を選べばいいし、部活は練習すればいいし、勉強は教えてもらえばいい。悩むことなんか、何もないと思うのですが……』

 そんな価値観を持っていれば、確かに人生の悩みというものが分からなくても無理はないのかもしれない。実際は多くの制約があって思い通りの人生を歩める人ばかりではないけれど、そもそも梅乃お嬢様は、自分の力で叶えられない願望は、端から抱かないような気がする。手が届かない理想だと分かった瞬間に、手の届く理想へとハードルを下げ、置かれた環境を楽しむ。そういうことが上手な人だった。

『人生は楽しければそれでいいのよ』

 梅乃お嬢様は笑った。

『できれば将来はキャリアウーマンになりたいわ。結婚はしなくてもいいかな。一人で好きなことをして生きていきたいなぁ』

 そんなことを言って将来に思いを馳せていたけれど、仮にキャリアウーマンになれなくても、独身を貫けなくても、梅乃お嬢様なら、色んな形の人生を楽しんでいたに違いない。


 奥様によると梅乃お嬢様は幼少の頃から目に余るほどのお転婆で、家にいればソファーの上で歌いながら踊りを踊ったり、そこら中で側転をする。公園へ行けば延々雲梯を渡り続け、何度もポールを登り下りし、細い平均台の上を走る。他の子より病弱だったが、とにかく体を動かすことが大好きで、学校の体育でも困ったことはなかったそうだ。

 勉強もよくでき、礼儀作法も身に付いていたが、礼儀正しいときとずぼらなときとのギャップが激しく、奥様は呆れていた。身の周りのことは最低限自分でやっていたけれど、それ以上のことは面倒だと言ってなかなかやらなかった。部屋の片付けだけはまめにしていたようで、散らかったところは私も見たことがない。ただ、ご両親は梅乃お嬢様のずぼらな部分を見て、将来をほんの少し憂いたそうだ。

 おちゃめな人柄で、友人と写真を撮るときにはこっそりみんなの背後に回り、おどけた顔をしてへんてこな写真にしてしまったり、クラスで集合写真を撮るときには、友人と二人で指先を丸めてハートマークを作ってみたり、とにかく淑やかに写ろうとすることはほとんどないようだった。

 私の前では折り目正しかったけれど、一度だけ、ソファーに寝転がってスマホを触りながらスナック菓子を食べでいる姿を見たときには仰天した。

「まぁ、何てお行儀が悪いの。先生がお見えになったのに」

 奥様が叱っても、梅乃お嬢様はただ笑うばかりで、『ごめんなさい、だって先生に見られるとは思わなかったんだもの』と言いながら、急に美しい所作になり、お菓子もスマホも片付け、さっと勉強の準備をした。

 奥様が梅乃お嬢様のずぼらを憂いた理由が分かった気がした。

 三人家族のこの家が賑やかだったのは、梅乃お嬢様の存在があったからなんだろう。


「おばあちゃんも、もう長くないかもしれないね」

 祖母が寝たあと、母が言った。私も薄々感じていた。特に体調が悪いわけではないけれど、歩くのも難しくなってきたし、もう柔らかいものしか食べられない。お別れのときはいつ来てもおかしくない。祖母自身も、何かに惹かれるように、ぼうっと遠くを見つめることがあった。

 辞典に挟んだ桜の花びらはどれも綺麗だけれど、祖母の膝に舞い降りてくれた花びらが一番愛しい。

 小さいころは分からなかった。家族だって、自分のそばから離れていくことを。


 こんな時代だから梅乃お嬢様もメッセージアプリを使っていて、学校のクラスのグループには入っていたけれど、発言は滅多にせず、仲のいい友人にもアカウントを教えたりはしないようだった。

 メッセージアプリはお嫌いですかと訊ねると、そういうわけではないけれどと言った。

『みんなとは学校でも会うし、家ではやりたいことがいっぱいあるから、あんまりメッセージは見ないんですよ。気が付いたらメッセージが来てから数時間経っていることもありますし』

 そう言う理由らしかったが、それは半分建前で、本音は人と深く関わることを避けたのだろう。良くも悪くもマイペースな方だったし、距離が近くなればなるほど、人付き合いは難しくなる。色々な事情を考慮した上で、距離を置く選択をしたのかもしれない。

 それでも友人の話は私にもよく聞かせてくれたし、この家にもしょっちゅう遊びに来たらしいので、学校では上手く立ち回っていたんだろう。梅乃お嬢様は自分の欠点には甘かったけれど、他人の欠点にはそれ以上に甘く、嫌なことがあってもすぐに忘れてしまうたちだから、学校で何かあっても、気にしないようだった。飄々としていながらよく笑い、お喋り好きでもあったので、表立って敵対心を向ける人は滅多にいなかったのかもしれない。


 よく晴れた日曜日の午後、私は身支度を整えて梅乃お嬢様のお宅に伺った。家を出る前、祖母に「出掛けてくるね」と声を掛けると、祖母は笑って頷いた。

 元々体の弱い梅乃お嬢様が体調を崩したのは、去年の梅雨のころだった。重い雨の匂いがする中で、『家庭教師は当分結構です。また元気になったらよろしくお願いします』と、奥様が連絡をくれた。

 それ以来、家庭教師には行かなかったけれど、お見舞いには二、三度行った。病室の梅乃お嬢様は長い髪を三編みにして右肩から胸の脇に垂らしていた。血色もよく、にこにこと笑い、病気が分かる前と何も変わらない様子で、こちらが黙っていてもずっと喋り続けていた。

 その話の流れで、ふいに、同じクラスの男子生徒から好意を抱かれたという話をちらっとしたが、梅乃お嬢様はロマンスには一切興味がなく、これからも仲のいい友人でいましょうと伝えたらしかった。

 同級生も部活の先輩後輩もみんな来てくれた。嬉しいと言って喜んだ。病室は色とりどりの見舞い品に溢れていた。

 元気になったら得意な体育を思い切り頑張りたい。体を動かしたくてたまらない。肩を回しながらそう言った。長雨のあと、眩しく差す光に、梅乃お嬢様は照らされていた。


 梅乃お嬢様のお宅に着くと、奥様が出迎えてくれた。奥様も家の中も、あのころと少しも変わっていない。「ささやかですがどうぞ」と手土産を渡すと、「まぁ、お気遣い下さってありがとう。せっかくですから今からいただきましょう」と言って受け取ってくれた。

 梅乃お嬢様が寝転がってスナック菓子を食べていたソファーも残っている。

 私は奥様に案内されて、梅乃お嬢様が眠っている仏壇に手を合わせた。

 元気だったころの写真が飾られ、その周りには、友人たちが持ってきた思い出の品々が所狭しと置かれていた。

 お茶をいただきながら、奥様と話をする。

「こちらの生活もようやく落ち着いて来て、やっと先生をお招きすることができました。生前は娘共々大変お世話になりました」

 丁寧な挨拶を受けて、私は深々と頭を下げた。

 葬儀が終わったあともたくさんの友人が手を合わせに来てくれて、ずいぶん慰められたと奥様は言った。

 闘病中も気ままに過ごし、特に痛みや苦しみを訴えるわけでもなく、毎日鼻歌を歌い、病院の中を散歩し、誰彼構わず長話をし、あまりに元気なので、本当に病気なのかとみんな思ったそうだが、ある晩秋の真夜中、何の予兆もなく、突然息を引き取ったということだった。穏やかな寝顔だったそうだ。

 奥様は梅乃お嬢様が着ていたセーラー服を見せてくれた。窓から差し込む春の日差しに照らされてきらきらと輝き、梅乃お嬢様の生き様を映すようだった。

 享年十四。あまりに早い別れだった。

 残された綺麗なセーラー服を、奥様はかたく抱きしめた。


 桜の押し花を作り始めてから一週間、花びらは乾いた。その花びらで栞を作り、祖母のベッド脇のテーブルに置く。祖母はまだ元気でいてくれている。

「これ、おばあちゃんにあげるね」

 そう声を掛けると、祖母は嬉しそうに頷いた。

「お散歩に行こうか。葉桜が綺麗だよ」

 私は祖母の車椅子を押し、若葉の萌える春の町に出掛けた。青空の下、生まれたての木々の葉は波のように揺れ、さらさらと優しい音を立てていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

梅乃お嬢様 スエテナター @suetenata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ