健やかでありますように

青蛙

健やかでありますように





 死のう。


 ある日の朝、駅のホームでふとそう思った。

 必死に勉強して都内の大学へと入学し、就職活動と言う巨大な壁を乗り越えて入った今の会社。膨大な量の仕事に追われて寝る時間すらままならず、上司からの圧力にも耐えかねていた。それでも頑張り続ければ何か変わる筈だと信じ続けて早10年。30を過ぎて同級生は皆出世したり結婚したり、子供が出来たなどと明るい話題で溢れ帰っているにも関わらず、自分は未だ独身で薄給のまま。日々の生活もギリギリで、生きることに意味を見出だせなくなっていた。

 若い頃、学生だった頃はこんな自分では無かった筈だ。夢があった。いつかロボットクリエイターになりたいと、仕事を持っても独学で続けていっていつかは、そう思っていた。

 しかし現実は非情だ。自分の時間なんて一切持てない。仕事をやめたくても、他の人に迷惑がかかるかもしれないし、何より生きるためのお金に余裕が無い。


 もう、限界だった。


―――え~、2番線、まもなく●●行き普通列車が8両編成で参ります


 一歩前へ、踏み出す。


―――お待ちの方は黄色い線の内側まで、お下がり下さい


 もう一歩、前へ。


 電車が警笛を鳴らしてホームへと入ってくる。ふらっと身体を前へと倒し、線路内へと落ちようとする。



「―――あの、失礼します」



 その瞬間、何者かに肩を掴まれて、身体は僅かに前傾した状態で固まった。



「えっ?」

「いやぁ突然スミマセン、財布を落としてしまったんですが一人だと中々見つからなくて、手伝って頂けませんか?」

「え、あぁ……良いですけど」


 振り返ると、ヨレヨレのスーツを着た丸顔の50過ぎくらいの男が立っていた。一瞬困惑はしたものの、財布が無いのは困るだろうと手伝うことにする。

 こんな精神状態だ、いつもの自分なら探し物の手伝いなんてしようとは思わなかったに違いない。しかし何処か自分に近いものを彼に感じた事もあるかもしれない。ヨレヨレのスーツ、ちゃんと眠れていないのか隈があり、色の悪い顔。あぁ、この人は多分自分と同じなんだろうなぁと、勝手にそう思った。


「どんなやつなんです?」

「ええっと、恥ずかしながらあまり良いものではなくて、スポーツブランドのこう、バリッとするタイプの黒いヤツなんですけど……」

「あー、マジックテープの。どこら辺で無くしたのに気付いたんですか?」

「確かですねぇ……そこの階段を下りて自販機を過ぎた辺りで」

「じゃあそこら辺で探してみましょうか」


 二人で彼の言っていた場所へと歩く。

 暫く二人でその辺りを捜していると、数分後に彼の財布は見つかった。落とした拍子にベンチの下に滑り込んでいたらしく、確かに一目では見付けられなかったかもしれないなと納得した。


「いやぁ見付かりました! ありがとうございます」

「いえいえそれ程の事では。それじゃあ僕も仕事がありますので……」


 探し物は見つかった。朝の忙しい時間を数分潰してしまったことに今更ながら少し後悔し、そう言って彼から離れようとした時、おかしな事に気付いた。


「………え、何だ、これ」

「おや、何でしょうかこれはいったい」


 ホーム内に人が一人も居なくなっている。電車に乗り遅れたせいかと慌てて辺りを見回すが、本当に自身ともう一人の彼以外には誰一人居ない。更には、あろうことか電車の到着時刻を伝える電光掲示板は真っ黒になっていた。

 普段ならば聞こえるカラスや鳩の鳴き声すら聞こえない静寂の中に、いつの間にかたった二人だけで閉じ込められてしまったのだ。

 全身を悪寒が駆け巡り、鳥肌が立った。オカルトの類いなんて一切信じていなかったのに、裏切られたような気分だった。


「ど、どうしよう。どうすればここから出られ――」

「まあまあ落ち着きましょう。よくわからない事に神経を使っても無駄なだけです。まずは落ち着いて、冷静になってから考えた方が脱出する方法もスムースに浮かぶと思いますよ」

「な、なんであなたはそんなに冷静でいられるんですか! こんな訳のわからない事に巻き込まれて、冷静でいられるはず無いでしょう!」

「シッ、落ち着いて。静かに。

「な……何に」


 険しい表情になってある一点を指差した彼。その先へと恐る恐る視線を向けると、先程まで誰もいなかったはずの向かい側のホームに人が立っていた。

 いや、それは『人』と呼ぶにはあまりにも異常なカタチをしていた。腰の辺りから上が、一切無いのだ。恐らくは女子高校生だった?のだろうか。チェックのスカートをはいて、黒のタイツとブラウンのローファーを身に付けた下半身だけが静かに佇んでいた。


「な、な、な……」

「まあ、そういう事です。こっちが自然にしてれば向こうも気付かないでしょう? 丁度ベンチも空いてる事ですし、適当に話でもしてやり過ごしませんか?」

「わ、わかりました」


 異様なものを見てしまった僕は震える声でそう返した。彼も困ったような表情で、ベンチに座るとこちらへとヒョイヒョイと手招きする。僕もあまりにも気味が悪かったもので、出来るだけ向こう側のホームを見ないように顔を俯かせて彼の隣に座った。


「しかし妙な事に巻き込まれてしまいましたねぇ」

「や、ま、まぁ、お互い災難でしたね」


 相変わらずのゆったりとした調子で彼はそう言うが、僕は周りの様子が気になって仕方無く、震える声でつっかえながら返す。恐ろしさからどうしても周囲がどうなっているのか気になり、少しだけ顔を上げて周りを見て、またしても絶句した。


「ヒッ……」

「見ない方が良いですよ。精神衛生上良く無いですから」


 バッと顔を急いで元のように俯かせた。

 見てしまった。先程の下半身だけの少女よりもずっと恐ろしく、奇妙なものを。


 線路内からおびただしい数の長く真っ白な腕が生えていたのだ。それらはまるでイソギンチャクのようにウネウネと揺らぎ、一見すると穏やかに見える。しかし僕の目には、あの腕はずっと獲物を待っている食虫植物のように感じられて、身体の震えが止まらなかった。


「………所で、なんでこの駅ってあるのか、疑問に思ったことありません?」

「な、何を突然」

「いやぁ、だってこの駅、前と次の駅との距離が異様に近いじゃないですか。確かに住宅街にはちょっとばかり近いかもしれないですけど、必要かと言われると微妙なんですよねぇ」


 突然変な事を話し始めた彼に僕はゾッするものを感じ、彼の方を見ないようにしながらただ震えていた。もう自分から何か話そうとも思えない。

 そう言えば彼に話し掛けられた瞬間も何かおかしかった。大の男を少し肩を掴んだだけで、それも片手で支えられるなんて尋常じゃない。財布を捜している間も、彼以外には誰にも話し掛けられなかったし、ぶつかったりしなかった。


「それなのにどうして電車を走らせるのか、考えたことってありませんか? 私はそれが少し気になって、色々と調べてみたんですよ。そしたらどうもこの辺りって昔は大きな道路があったらしくって」

「………」

「まぁ、そこでの交通事故が絶えなかったみたいなんですよね。大きなものから小さなものまで、それももう毎日と言っても良いぐらいです」

「………」

「それで思ったんですよ。これって私達をから遠ざけようとしたんじゃないかなぁって。見たでしょう?あの大量の腕に似た何かを。って、聞いてますか? もしかしてやっぱり緊張してます? 不味いですよそれは。早速やっこさんこっちに手を伸ばしてきてる」

「ッ!?」


 彼の言葉にハッとして顔を上げると、線路内でゆらゆらと揺れていた腕が数本延びてきて、何かを探すようにホームの床をぺたぺたとさわっていた。

 向かい側のホームにもいつの間にか『人?』も増えており。首から上が無いサラリーマンや、四肢が折れ曲がって骨が飛び出し、おかしな格好になったOLなんかが電車を待っているのか沢山並んでいる。

 恐る恐る隣の彼の顔を見上げると、果たして―――


「大丈夫ですよ。こっちには彼らは来てないですから」

「ッ、はぁはぁ……あなたまでおかしくなってたら、どうしようかと」


 彼は相変わらず、穏やかな表情に若干の緊張を含ませて、ジッと向こう側のホームを見つめていた。

 良かった。彼が『彼ら』のような化け物ではなくて。それだけで救われるような気持ちだった。恐ろしいものを立て続けに見たことで溜まっていた緊張が、少しだけ解れたような気がした。


「まさか、ところでどう思いました? 今の私の話は」

「今の、話ですか」


 正直なところ、出来の悪いファンタジーか何かのように感じた。

 どうしてそんなオカルト的なものを鉄道会社が信じるだろうか。どうせ住宅街に近いから、その分の集客が見込めると踏んで作ったに違いない。


「僕は、たまたまだと思います。あんなものが現実だなんて、信じたくないですし新しい駅を作った場所が元々は道路があった所で、偶然その道路が事故の多い所だった。それだけです」

「そうですか。まあ確かに、こんな話を信じた方が現代社会じゃあ馬鹿にされるでしょうねぇ」


 ふと、彼は顔を下り方面に向けて、遠くをじっと見詰めた。

 遠くから目映いライトが近付いてくる。


「でも、私はそう信じています。いえ、信じざるを得ませんでした。何度も、数えきれない程にこんな目に合わされていれば、嘘でも本当と信じてしまう」

「え……」

「さ、来ますよ、向こうのホームに。見ていればどういう事か、よくわかりますから」


 ホームに電車が入ってくる。

 見た目は普通の電車のそれと何ら変わり無い。しかし不思議な事にその電車には運転手が居らず、線路上に生えている大量の腕を完全に無視しながらゆっくりと速度を落としていく。巨大な鉄の塊に潰されて、腕はブチブチと音を立てて赤い血を辺りに撒き散らした。

 あんな化け物でも血の色は同じなんだなと、その様子を眺めていて妙に冷静になる。


「あの腕はね、

「引きずり込む?」

「ええ。貴方もそうでしょう?『自殺』しようって、そう思ってませんでした?」

「なんで、それを………」


 景気良くブチブチと潰されていく腕を眺めながらそう言った彼の表情には、先程までの緊張した様子は微塵も見られなくなっていた。

 安堵したような、『もう大丈夫だ』とでも言うような様子だった。


「あの腕はね、『自殺しよう』だとか『誰かを殺してやりたい』だとか、そういった悪い感情に反応して、その感情を増幅させるんです。そうやって人を殺して、こちら側に引きずり込むんですよ」

「でも、僕は……」

「思い出してみて下さい。貴方は今まで、この駅に来る前まで、死にたいとは思っても、実際にそうしようなんて思っていましたか? 今の仕事に不満があったり、生活に辛さを感じていて、それが『死』に直結するとは私は思わないのです。勿論、自殺する人にも理由はあるでしょう。ですが理由があったとしても、死を選んだとしても、多くの人はそれを実行する前に踏み留まるでしょう」


 気付いてしまった。

 向かい側のホームでは、腕の血で赤く染まった電車に異形の人々が次々と乗り込んでいる。きっと彼らは『腕』の被害者達なのだと。死んでも尚、ここに縛られて、永遠にこの朝を過ごし続けるのだと。

 そして、自身も一歩間違えていれば彼らのようになってしまったかもしれない。もしくは、既にそうなってしまっているかもしれないと言う事に。


「そうだ………死んだってどのみち周りに迷惑はかかるし、死んだらもう何も残らないのに。どうしてあんな事…………僕は、もう死んでしまったのでしょうか?」

「いいえ、死んでなんていないですよ。貴方の自殺は私が止めました。ただ、に近付き過ぎた事で運悪くこちら側に来てしまった」

「そんな、それじゃあ僕達はどうすればここを出られるんですか。貴方はここから出る方法とかは知らないんですか。この場所に詳しいんでしょう! 早く一緒に逃げましょう!」

「ふふふ、そう焦らずに。焦ると良いことありませんよ。見てくださいよ、向こう側のホームを。きっと、今の貴方に必要なものが見れる筈です」

「何を………」


 そんな悠長にしている彼の様子に半ば呆れながら、向こう側のホームへと視線を向けた。電車は乗り降りが終わったのか丁度走り出そうとしていた所で、ゆっくりと動き始めた電車によって、再び『腕』達がブチブチと潰されていく。

 電車の去ったホームには、異形の人々は一人も残っていなかった。しかし十数秒ほど経った頃、何か引き摺るような音がしてその音の方向を見ると、上半身だけの女子高生がズリズリと身体を引き摺りながらホームへの階段を這って下りてきている。時間が経てば経つ程その異形の数は増えていき、先程までとほぼ変わり無いぐらいにまで戻った。


「彼らが、今の僕に必要なんですか?」

「いやいや。そう言うわけではありませんよ。ただ、彼らを見て何かに気付きませんか? その気付きが貴方には必要なんです」


 再び向こう側のホームを見る。

 彼らは先程まで居た『彼ら』と同じようにきっちりと並び、静かに電車の到着を待っている。その様子は先程までと何ら変わらず、自身に必要なものなんてあるとは思えなかった。


「………半分?」


 だが、関係の無い事ならば気付いた。

 よく見ると、今ここに居る彼らは、先程電車に乗ってこの場所を去っていった彼らの身体に足りていなかった部分のように見えた。上半身だけだったり、片腕だけが鞄を握って地を這っていたり、左半身の無い身体に腕だけが歪に繋がっていたり。

 それはまるでパズルのピースを無理矢理に繋げたような、バラバラになったものが元に戻らず放置されてしまっているような、そんな感じがした。


「それですよ。よくわかりましたね」

「えっ、これが正解なんですか?」

「ええ、その通りです。彼らは私達がなっていたかもしれないもしもの姿なんです」


 いつの間にか、線路内から這い出そうとしてきていた腕は元の通りに線路内へと戻り、穏やかに揺れていた。


「彼等は被害者。電車に乗って先へ進んでいるように見えても、ここへとまた戻ってきてしまう。永遠にこの線路をぐるぐると回り続ける。自分が何者だったのか。何を考えているのかすらわからずに」

「………」

「死んだからああなってしまったのではないんです。生きていたって、ああなってしまう。自分を殺して生きている人が余りにも沢山いる。死んでいるのに生きている、そんな人が街に溢れている」

「………いい」

「貴方もそうだったのでは無いですか? 昔の自分が遠く見えませんでしたか? 自分を、『貴方』を失ってはいませんか?」

「もう、いいです。沢山だ! 変な話じゃないですか、見ず知らずの会ったばかりの貴方に、なんで僕がそんな説教じみたことをされなきゃならない! 僕にだって、夢ぐらいありましたよ! 自由もあった! でもそんなものを大切にしていられるのは子供の頃だけなんです! だから、僕は………っ」

「『なぎさ』君、君の言葉は正しいですよ」


 胸が痛い。息が苦しい。視界が滲む。

 いつの間にかベンチから立ち上がり、叫んでいた。


「どうして、僕の名前……」

「でもね、正しさが人を殺してしまうならば、そんな正しさは要らないと私は思います。私はあの『腕』が『悪いもの』だと言いました。アレは人を殺そうとしますから。しかしアレが手を出すのは最後の一押しだけ。『死』と言う選択をしたのは、紛れもなく君自身であって、向こう側の彼等なのです」


 彼の瞳は僕を映してはいなかった。恐らく彼の視界には僕の姿はもう映っていない事だろう。僕の目に映る彼の姿も、段々ともやがかかるようにして見えなくなってきている。


「どうして僕の事なんか……」

「もし、私の声がまだ聞こえているなら、一つだけ。貴方に探してもらったこの財布は、私にはもう要らないものです。だからどうか、持っていって頂きたい」


 伸ばされた手の上には、ボロボロの財布が乗っていた。ぼんやりとした表情でそれを差し出したままの彼の手からそれを受け取る。財布は中に何も入っていないのかと思う程に軽かった。





「あ、あの、大丈夫ですか?」

「…………」


 誰も居ないベンチ見下ろした格好で立っている僕に、一人の男子高校生が横から声を掛けてくる。いつの間にか周りの景色は見慣れた駅の中に戻っていた。


「あ、あのぅ……」

「あっ、すみません。少しぼーっとしてしまって」

「大丈夫ならいいんですけど、このティッシュ未開封なんで良かったらどうぞ」

「ありがとう、ございます」

「それじゃあ、失礼しますね」


 明らかに不審者だった僕を心配してくれた彼は、僕に駅前で配られていた塾のポケットティッシュを渡して去っていった。財布を鞄へとしまい、受け取ったティッシュで涙でぐしゃぐしゃになっていた顔を拭く。


「仕事、辞めよ」


 モノクロだった世界に、少しだけ色がつき始めた気がした。









◆◆◆◆


「あの、すみません。先日お電話させて頂いた『波戸場はとば』と申します」

「ああ! 波戸場さんですね、今開けますので。お帰りの際はまたお声がけ下さい」

「はい、ありがとうございます」


 あの日から二年後。

 僕は花束を持って再び彼と出会った駅を訪れた。しかし今回は前のように一人ではない。


「ここで、お父さんが……」

「うん。『正徳まさのり』さんが此処に」


 左手の薬指に、僕と揃いの指輪を付けた女性。彼の娘で、僕の妻になる人が隣に立っている。


 最初は彼の財布を家族の元に返そうと思っただけだった。財布の中身から知った彼の本名を頼りに、様々な人の手を借りて残された彼の家族の居場所を突き止めた。彼女とは財布を渡して、それきりの関係になると思っていたのに存外と長続きして、果てには結婚までするなんて思ってもいなかった。


 彼が何故僕の名前を知っていたのかも、彼女の家で彼の昔の写真を見たことで判明した。彼は僕が小学生だった頃の恩師だったのだ。年を取って、仕事も忙しかったのか随分とやつれていたせいで気付かなかったが、写真の中の彼は僕が知っている先生の姿そのままだった。

 彼が亡くなったのは数年前。混雑する朝の駅で列の先頭に立っていた小学生が押されて線路内に落ちてしまったところを助け、自分はホームに戻るのが間に合わずに電車に轢かれてしまったそうだ。遺体は酷い状態で葬式の場に出す事も出来ず、持ち物の中に財布が残されていなかった事には「誰かが勝手に持っていってしまったのかもしれない」と母が落ち込んでいたと彼女は話していた。だから、無くなっていた財布が中身もそのままに戻ってきた事に、彼女の母は大いに喜んでくれた。


「正徳先生、ありがとうございます。あの時貴方が止めてくれなければ、僕は今頃死んでいました」

「お父さん、私も結婚が決まりました。相手はお父さんが助けた渚さんです。落ち込んでたお母さんも、今では家族が増えるって元気になりました。だから、お父さんも………もう安心、していい、から」

由紀ゆきさん………。正徳先生。いえ、お義父さん。絶対に彼女を一人になんてしません。由紀さんと二人で、一生をかけて必ず幸せになります」


 この言葉が彼に届いているかなんてわからない。そもそも今も尚、彼がこの駅に残っている確証も無い。

 だからこれは彼への宣言ではなく、自身に課す誓いだ。人生道半ばで死んでしまった彼の分まで、僕と彼女は幸せになる。


 彼と僕が並んで座ったベンチの横に花束を添える。

 二人並んでそこへと向かって静かに手を合わせる。


「………帰ろっか」

「……うん」


 手をとりあい、その場を離れる。

 改札へと戻ろうと歩みを進めたその時、ふと背後から視線を感じて思わず振り返った。


「どうしたの、渚さん?」

「………いや、何でもない。気のせいだよ」


 彼の姿は見つけられなかった。

 いつものように、人々が忙しく行き来している風景があるだけ。


「帰ったらお引っ越しの準備しなきゃね。忙しくなるなぁ」

「うん、でも楽しみだ」


 時代が変わった。

 環境も変わった。

 仕事も変わった。


 彼に命を救われてから、焦る事が無駄なことだと考えるようになった。


 この駅も数ヵ月前からホームドアを設置した事で、以前よりも事故率が格段に減った。

 僕は結婚を期に、僕と由紀さんと彼女の母の三人で暮らす事になった。このまま行くならば、いずれは子供も出来て生活は目まぐるしく変化し続けて行く事だろう。それでも――


 背後から一陣の風が吹き抜けていった。

 懐かしい声が聞こえる。



――――健やかでありますように




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健やかでありますように 青蛙 @ao_gaeru

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