第2話

 僕は深い森の中にいた。静かで冷たい空気が体を包んだ。広葉樹林がぼくの周りを取り囲んでいた。あたりは木の葉の影で暗くなり、不吉な気配が漂っていた。それは僕の不安のせいかもしれなかったし、あるいは僕の何万年もの先祖が遺伝子の橋を通して、ここは危険だということを伝えているのかも知れなかった。

 

 リスの鳴く声みたいに可愛い動物の気配も全く無かった。そこは僕の想像を遥かに上回る恐ろしい怪物が僕を逃がさないために環境となったんだと思われた。

 

 僕は立ち尽くす。どうにかしなければならないがどうしたらいいか分からなかった。

 

 どうしてあのタクシーはこんな場所に僕を届けたんだろう?それは神に頼まれたからだった。僕はその様子を見ていた。でも神と黒い怪物の間でどんなやり取りがあったのかは僕には全く分からなかった。それは僕が神の様子を観察するのに集中していたせいだったが、それは手品で視線を誘導するみたいに、意図されたものかもしれないと思った。今となってはどっちでもいいんだ。そんなことを考えてもどうにもならない。

 

 僕がいるのは人間の気配一つない深い森の中だった。あまりにも深かった。冷たい恐怖が体の中に雪のように静かに積もっていた。森の空気は次第に重くなり、僕の肺を圧迫するようだった。

 

 風が吹き木々がさざめいた。僕にはそれが偉大なる自然が矮小な人間を嘲笑しているように思えた。それはありえることだ。人類は木を切りすぎたし、燃やしすぎた。その怒りは正当だと思った。しかしそんなことはどうでも良かった。お前らが正当なる理由で怒っていたとしても僕にはどうでも良いことなんだ。迷惑だと思った。

 

 僕はそれから運転手の言葉を思い出した。

『君が考えてることは分かるよ。タクシーが時間をかけて目的地まで客を運ぶ。当然のことだ。しかし時間はどうでもいいんだ。比喩さ。目的地に移動するのに時間そのものを代償にする必要はない。私たちは機会を待っているだけなんだよ。しかしその機会をしっかりと自分のものにするためには、自らの意志を目的に向けていなくてはならない。そのために車を走らせているんだ。』

 運転手は僕の状況を予見してこういう風に言ったのかも知れなかった。その言葉は僕の中で消化され、“とにかく最善を尽くせ”という応援だというふうに思われるようになった。運転手の言葉の真意はどうでもいいことだったし、そうなんだとしたら勝手に応援されているように感じても別にいいじゃないかと思った。

 とにかく最善を尽くし、機会を待つ。僕に出来ることはそれだけだ。


 はじめに僕は目標を決めた。とりあえずはこの森を出ることだ。この森は僕が生活すべき場所では無い。なんだかおかしいし異物的だ。僕が異物なんじゃなくこの森がだ。

 

 しかし森をでるためにはあまりに情報が不足していた。僕はこの森をまずは知らなければいけない。友達を作るみたいに。


 まずはじめに地面を撫でた。巨大な無数の木の根がうねり、幾重にも重なり、その重なりに生まれる空間を冷たく湿った土が埋めていた。


 空を見上げたが、それは何枚もの葉に遮られて見えなかった。ある場所では別々の木の枝同士がY座標だけ変えるように重なりあってそれに伴う葉の二重の層によって深い影を落とし、それはいっそ闇と言った方が適切だった。


 木登りをすることも考えたが、僕には到底そんなことは出来そうに無かったし、登ったとしても木の枝は蜘蛛の巣みたいに張り巡らされていて密度が高く、その天井を越えることは無理そうだった。


 結局僕はひたすら歩き続けることにした。

 

 大きな木の幹が邪魔で周りこんだりしたし、木の根同士が一メートルぐらいの壁を作るような場所もあった。僕はその壁をロッククライミングみたいに上り、すすんだ。


 僕には歩くことが正解なのか分からなかった。サバイバルが趣味では無かったから、こういう森でどういう対処をするのが良いのかという知識も当然無かった。


 でも腹は空くだろうし、喉も乾く。食料と水が必要だというのは分かっていた。そのためには水辺に近寄らなければならなかった。しかしあえて僕は考えるが、歩くと決めたときにそんな目的意識は無かった。ただ漠然とした不安に押されるように、何か行動せざるおえなかった。そして歩くという行動を決めたあとに食料や水を求めだしたということは自分の行動が間違ってはいないと思いたかったからかもしれない。


 僕は不安なんだなと思った。それで明るいことを考えようとした。


 思えば神は、僕に旅にでるよう申しつけたが、それは僕の未来の自殺を止めるためのようだった。だとしたら神の意図は僕の死を避けることのはずだ。あるいはと僕は思った。あるいは僕が自死以外の方法、例えば寿命とか他殺とか餓死とかの自ら進んで望まない死が求められているのかもしれない。その死に何の意味があるのかは分からないが、神はもともと意味不明の存在だし、意味不明の存在が意味不明の理由を求めて僕に死んで欲しいと願うのはありそうなことだった。

 

 僕は憂鬱になった。さらによく考えれば、人を樹海と呼んでもいいような森に置いてけぼりにする理由は殺意以外のなにも見いだせなかった。


 僕は神について考えるのをやめた。僕は神学者では無いし、神なんて存在は信じていない。“それ”を神と呼ぶのは一種の便宜だ。それは神かもしれないしそうでないかもしれない。しかし僕にとって都合の悪い神がいたならもはやそれは神では無かった。

 

 明るいことを考えようとしても結局それは困難だった。第一僕は物事を信じるということに向いていない人間で、そうである以上この状況で自分の命の無事を信じることは難しい。どこにも自分が無事に生きることができるという証拠なんて見つからなかった。


 焦っても仕方ないんだと僕は思った。僕は自分の思いつく最善に向かって行動しているし、そうである以上僕にすべきことはもう無い。このまま死ぬとしてもそれは仕方ないことだ。


 何故僕はがむしゃらに生きようという決意を固めないんだろうと思った。何故だろうか?理由は分からない。それは人生を通して得たどうしようもないことに対する諦念かもしれない。あるいは人間にもともと備え付けられている信仰という機能を毛嫌いしているからかもしれなかった。客観的証拠をもってしてしか考えというのは組み立ててはいけないんだ。それをしなかった人間は自らを幸せにし、他者を不幸にする。そのありようの醜さは特筆すべきものがあった。素晴らしく気持ち悪かった。


 僕も信じたいことを信じて、現実から目を逸らせたらどれほど楽になるだろうと思った。僕がそれを出来なかったのは、絶えずその醜さを押し付けられ続けられたからで、自分もそのようになれば、僕と同じ経験をする人間が現れる。それは看過できることではなかった。善意でこう考えるのではなく、自分もその醜い存在になるのが許せなかった。

 

 またその醜さを他者に分からせることも憚られた。信じたいことを信じることは底なしの幸せだ。宗教や愛し愛されることに対する幻想。それを失ったものは僕と同じように苦しむ。


 その苦しみをわざわざ体験してほしいとは思わなかった。

 

 しかし僕がそういう存在から苦しめられることも嫌だった。だから僕は人に関わられることを嫌った。しかし社会はそうではなかった。


 今更こんなことを考えても仕方ない。多くの思春期の人間同様僕はただ拗らせているだけかもしれなかった。ちょっとひねくれてるんだ。いずれ社会がそれを粘土をこねるみたいに僕の考えを整形し、社会に住む人間のあるべき姿に戻すんだ。


 僕はもはや歩くことに対して意識を向けていなかった。だからどんな道を辿り、どんな景色に包まれ、そこに辿りついたのかは分からない。


 そこには一冊の古びた本があり、その本の周りには木が無かった。そこだけにうららかな陽光が射し込んでいた。蜂蜜が注がれているみたいだった。その光がスポットライトを浴びせるように本を包んでいた。

 

 あたりに人の気配は無かったが、不吉な気配も無かった。むしろ親が迎えにきたときの子供みたいな気持ちになった。


 僕はその本に近寄り、手に取ってみた。赤い厚紙の表紙で煤けている。でもそれは汚れているというよりも上品に年を取ったおじいちゃんのような雰囲気だ。


 どうしてこんなところに本が落ちているんだろう?僕が感じていた森の圧迫感はここでは感じなかった。ここは人里に近いのかもしれなかった。

 

 僕はその本を開いてみようという気になった。

 表紙と裏表紙の厚紙が大きく、中身の紙と段差があった。僕はその段差に指をかけゆっくりと真ん中あたりのページを開いてみた。


 僕がそこに書かれている文字の群れを認識するよりも早く、その紙面から光が漏れた。眩しくて咄嗟に目を瞑ってしまう。


 僕が目を開けたとき、そこには街が広がっていた。

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神の死とドリームオブヘブン 羊の苺 @kokoronooto

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