神の死とドリームオブヘブン

羊の苺

第1話

 「君は旅に出なければならない。理由は分かるね?」と神は言った。


「はい」と僕は言った。

 

 理由は曖昧な形で僕の心の中に存在していて、それを簡単に言葉にするのは戸惑われた。言葉には明確な形を与える機能があるということは分かっている。しかし、僕にとってその機能というのはクッキーの型をとるみたいに無駄な部分を暴力的に仕分けることだった。そのクッキーの原料は僕の人生にとって莫大な価値を持っていたし、型だけ取って無駄な部分は捨てようという気にはなれなかった。


 「君は希望を見つけなきゃいけないんだ。さもなくば君が辿る道は自殺ということになる。その未来を回避するにはやはり君は旅に出なくてはならない。」と神は言った。


 「希望?」と僕は言った。「希望はもうありません。希望というのは憧れと同じで、ありもしない幻想を真実だと信じることによってのみ実現します。無理です、僕には。」


 「どうにかするんだ。」と神は言った。

 

 僕はうんざりした。文句を垂れたくなった。僕はいつもこうだ。勝手な人間が身勝手な善意を持って僕を追い詰める。その結果はいつも悲惨で損だけしか残らなかった。どうしようもなく鬱陶しかった。しかも本当に彼らは善意で動いていて悪気なんて全くない。それで僕が苦しむことを経験という代名詞によって、むしろ悦としていた。

 僕が説得しようとしても、取り合いはしなかった。彼らは彼らの理屈の中でしか行動しないし、人間は全て自分の理屈通りに進むのが正しいと思っているみたいだった。もちろん僕も自分の理屈通りに動くが他人に関してはどうでも良かった。他者に対して自分の思想を押し付けることの醜さは身をもって体験した。多くの人にとってもその醜さは理解しているはずだった。

 しかし彼らはその醜さを自らが思い描く正しさを免罪符にして、自分はそうでない、むしろ美しいと思い込み正当化していた。

 この考えは他人を批判することから発したものではなく、省察によって出たものだ。だから僕はそういう人の気持ちが分かるし、それはどうしようもないことだと思った。人間は(それが表面上のものではないとしても)正しいと思うことしかできないはずでその正しさは教育という善意の洗脳やあるいは環境によって決定されており、自由意志の介入の余地なく決定づけられるものだ。僕らは人間社会という抜け出すことの出来ない円環の中で、その中を出来るだけ幸福に生きなければならない。しかし生きるには決定的に僕は歪んでしまったし、それは僕が選んだことでは無かった。あらゆる不条理が僕を包み、思考を限定し、それに見合った生ゴミみたいな生き方を余儀なくした。機械と同じだ。機械は誰に作られるかを選ぶことは出来ず、死んだ数字の上にしか行動出来ない。全ての人間は死んでいるんだと僕は思った。

 

 「君は偏った人間なんだ。」と神は言った。「多くの人が考えずに生きるところを君は考えて生きているが、しかしその考えは偏っているんだ。何故ならその考えの過程は数学の証明みたいにどこかの時点で間違っているとされることもなく突き進み、人生の幸福という観点での正解から遠く離れたところにたどり着いてしまっている。そこは酷く寂しい。君にその自覚が無くとも、君はこのままでは多くの人が当然享受するはずの幸福を失うんだ。人を愛すことなく死に、誰に愛されることもなく死ぬんだ。それは恐ろしいことだ。人間はそういうふうには出来ていない。君は死の間際に必ず後悔する。いいかい?このままでは君は後悔するんだ。」


 「分かっています。だから旅に出なくてはいけない。僕は今の自分が不幸かどうかということについては分かりません。とくに不幸とも幸福とも感じません。このままでいいとすら思います。それを曲げて行動するのはあなたが神だからだ。僕は今まで全ての人間がそうであるようにあなたにしか従うことはしなかった。でもいいんですか?僕は最終的にあなたを殺すことになるかもしれません。それでもいいんですか?」


 「それでいいんだ。君が幸せならね。」と神は言った。

 「そろそろ行くがいい。もう話すことはお互いにないし、私は君とは不可分の存在だ。必要があれば私はそこにいるはずだからね。」

 

 どこからか黒いタクシーが現れた。窓は閉まっている。タクシーは真っ白な世界に影を落としていた。薄い影だ。日光をティッシュで妨げたらできそうな影だった。

 そのタクシーの運転手は黒い異形の怪物だった。僕はその怪物をこれ以上理解することは出来ないし、その姿を言葉に出来ない。

 それは僕の知覚を飛び越えた存在であり、その怪物の外見を描写するのに“黒い異形”の四文字以上に進むことはどうしてもできなかった。


「お客さん、乗りな。」と運転手は言った。

 言葉が終わるタイミングで後部座席の扉が開いた。僕は運転手側の扉から車内に入った。白いシーツをしいた座席だ。清潔でいたって普通の日本式タクシーと変わりは無い座席だった。僕は助手席の後ろの席に進み、座った。僕はそこで運転手以外でもう一つおかしなものを発見した。それは手のひらサイズのぬいぐるみだった。助手席にある頭を置くクッションに向かって、ぬいぐるみのお腹(ちょうど人間で言えばへその部分)に錆びた杭を打たれている。それは僕の目の前にある。多分中に綿が詰められている。くすんだ緑の生地とくすんだオレンジ色の生地を切れ味の悪いハサミでそれぞれ親指ほどの面積の雑な形をした四角形に切り取り、それらを継ぎ合わせて作られたと考えられるぬいぐるみだ。両腕は無い。そのぬいぐるみは体のバランスが悪くなるくらいに足が長く、餃子みたいに膝の部分が盛り上がっている。そして顔には目以外のパーツが無かった。その目は、古典的な漫画のキャラクターが驚いたときにするような目だった。しかし僕はそこからそれほどポップな印象を受けとることはできない。その目は妙に迫真的だったし、鼻も口も髪も無くてむしろ不気味だった。呪いの人形という感じだった。どこか自分の奥の部分を見透かされているような気がした。


 「どこに行くんですかい?」と運転手は神に聞いた。

 僕はこのとき初めて気づいたが神は白かった。具体的なイメージは怪物と同じように理解できないが、それは真っ白な一本の柱を中心にしていた。スーパーセルがあらゆる人工物を巻き上げるみたいに白く輝く光の粒子がその柱を中心に渦を巻いていた。大きい粒も小さい粒もある。その柱がどれほどの高さがあるのか気になり僕は運転手側の後部座席に移動し、もともと開いていた窓から首を突き出して覗いてみた。その柱の頂きは平均的なビルの六階ぐらいの高さだった。上にいくにつれて光の粒子の勢いは弱くなるようだった。


 「お前、首を引っ込めろ。出発する」と運転手は言った。

 神と怪物にどんなやり取りがあったか分からないが必要なことは伝え終わったようだった。


 僕は大人しく車内に首を引っ込め助手席の後ろに戻った。

 それから窓が開きっぱなしなことに気付いた。なんだかそれが気になり窓を閉じたいと強く思った。しかし、それに適したスイッチは見つからなかった。僕は何故か本当に窓を閉めたくなった。どうしても閉めたい。閉められないことにちょっと意味がわからないくらいのストレスを感じる。どうしてだろう?そんなことはどうでもいい、窓を閉めるんだ。

 僕が運転手に窓を閉めるよう頼む寸前に、窓はウィーンという音をたてて閉まりはじめた。なんだか嫌な気持ちになった。怒りのやりどころを失ったみたいだった。僕は自分自身の直接的な影響をもってして窓を閉めたかったのであって、風が吹くような偶発的な現象によって窓が閉められることを望んでいたわけではないんだ。

 タクシーは比較的静かに出発した。エンジンの音とタイヤが地面と擦れる音がした。その音が心地よかった。僕と運転手の間に会話は無かった。その沈黙は寧ろタイヤやエンジンの音によって無音よりも分かりやすい事実だった。

 僕が一体どこに向かうのか?それは分からなかった。神という思想的な存在との対話をした場所からタクシーで目的地までいけるというのは、なんだか変だった。なんにせよ僕は目的地に別段興味を持たなかった。他人に努力を強要されることが大嫌いだったから、目的地を知るという努力をすることが嫌だった。僕は労力を惜しんでいるわけでは無いんだと僕は思った。その微かな労力を惜しんでいるのではなく、他人の指示した行動に従うことにとてつもない嫌悪感があり、その嫌悪感は自分自身の存在を他者から守るために無意識のうちに作った心の殻だった。その殻は僕が他者から否定されるたびに生まれる敵対心の養分によってすくすくと育ち、今や、運転手に目的地を聞くという現実的な障害がないに等しい状況にあっても、実際的には不可能なこととしていた。

 僕はどれだけの人間がこの行動を理解してくれるだろうと思った。理解する人間などいないように思えた。あるいはいるかもしれないがそれは理屈として理解しているだけであり、心情的な納得とは程遠いところにあるはずだと思った。この他人に対する嫌悪や、どうしようもない自分への嫌悪や、ひいては世界を支配する社会によって他人と関わらなければならず、それに伴う苦しみを一体誰が理解と納得をしてくれるだろうか?

 

 僕は死にたくなった。


 タクシーの沈黙はまだ続いていた。僕は左を向き、窓の外を眺めた。真っ白な世界だった。地面も空も真っ白だった。地面は平らだ。タクシーがそこを走る。摩擦係数がゼロじゃないのが不思議なほど平らだ。凪いだ海よりも遥かに平らだ。地平線の彼方で空と地面が出会っても、そこに違いは無いように思えた。

 変わり映えの無い景色に早々に飽きた僕は、あの不気味な人形をみた。杭は周りの生地が少し凹むほど強く打ち付けられていた。気持ち悪いと思った。

 僕は音楽について考えることにした。音楽はぼくにとって良いものだった。そこは心だけの世界のように僕には思えた。大きな悲しみの中に沈んだり、あるいは作曲者の意識の中に入り込むことが出来た。何故悲しい気持ちの中に沈むことが僕にとって良いことという風に理解されているのか僕には分からなかった。少なくとも自分だけが悲しいんじゃないというような惨めな慰めでは無いはずだった。僕が聞く音楽は世間ではあまり受け入れられない種類のようで、父にはお前はセンスが無いと言われた。僕はとてつもなく腹が立った。父は普通の感性を持つ人間が聞く大衆に受け入れられる音楽にこそ価値があると思っているらしかった。 

 しかしそもそも音楽は主観的なもので否定される謂れなんてこれっぽっちもないはずだった。そして更に言えば現代の人間の多くは自らを省みることをしない人間ばかりで、そんな人間が音楽という芸術を理解できるとも思えなかったし、そういう音楽に対する敬意や畏敬を持たない人間が我が物顔で音楽を語るのは、気持ち悪かった。考えているうちに僕はまた腹が立ってきた。センスがあるというのは、何においてだろうか?そう考えたときには僕は断言できなかったが予想を立ててみた。それは心だと思った。

 要するに自らの内にあるものを見つめ、それが正確に表現されたものが音楽であって、音楽を聴く者に求められるのはそれぞれ作りあげられた音楽に対する共感だろうと思った。その共感がジャンクフードみたいな音楽に共感を抱くものは、やはりジャンクフードみたいな感性を持ち、家庭料理みたいな音楽には家庭料理みたいな感性を持つものが聞くんだ。ジャンクフードが悪いわけじゃない。ただ好みが違うだけだ。でも僕はメロンが嫌いな人にセンスが無いとは言わないなと思った。

 僕は音楽について考えることをやめた。これは偏見だ。こういう偏見を持つことによって僕には嫌いな音楽家が増えそうだったし、そうすれば損するのは自分だ。そもそも僕は作曲家でも無いから音楽を語るには音楽に対する理解が無いんだ。その状態で音楽を語るのは音楽に無礼だ。

 僕は窓の外を見たが相変わらず景色は変わらなかった。一面が白くて一瞬タクシーは停止しているのかと思ったが、タイヤの音で進んでいると分かった。僕はタイヤの音も聞こえないくらいに集中していたらしかった。


 「いつ着くんですか?」と僕は運転手に聞いてみた。

 「時間は関係無いんだ。」と運転手は言った。

 

 少し的外れに聞こえた。会話の前提が成り立っていない気がした。

 

 「どういうことですか?」

 「君が考えてることは分かるよ。タクシーが時間をかけて目的地まで客を運ぶ。当然のことだ。しかし時間はどうでもいいんだ。比喩さ。目的地に移動するのに時間そのものを代償にする必要はない。私たちは機会を待っているだけなんだよ。しかしその機会をしっかりと自分のものにするためには、自らの意志を目的に向けていなくてはならない。そのために車を走らせているんだ。」と運転手は言った。

 僕には良くわかるようなわからないような気がした。

 僕が考えていると運転手が、

 「まあ、ゆっくりしたまえ。何をしていても良いんだ。ゲームしたり音楽聞いたり漫画読んだり。運転手は客の事情にあまり興味がないものだし、そっちもその方が楽だろう?」

 僕は「はい」と答えた。

 僕は眠ることにした。運転手が言うにはゲームや音楽や漫画を楽しめばいいということだったが、僕は一つもそれを楽しむための材料を持っていなかった。小麦粉なしにパンケーキは作れないんだ。


 僕が目を覚ましたとき、もはやタクシーの姿は無かった。

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