不定形の夜明け(2)

「会はお開きのようだな」

 場をざっと見渡してテオリアは短く息をつく。窓際の壁にはイナノメが刀を抱えて座っていたが、どうやら眠っているらしい。

「イナノメは昔からああいうふうにしか寝られない男だ、気にするな」

「あんたがそう言うなら」

「こっちのふたりはベッドで寝かせたほうがいいだろう。おまえはルーチェを頼む。おれはこの小さいのを運ぶ」

「いいの?」

「は?」

 シロカネを抱き上げようとしていたテオリアは、その半ばで手をとめて首をかしげた。

「いいとか悪いとか、なんの話だ。いまのおまえの状況ではちびを運べないだろう」

「おれがルーチェといても、あんたは平気なの?」

 メテオラが言い直すと、テオリアは口をかたく結んだまま澱んだ目をしてメテオラを見つめ返した。

 やっぱり、とメテオラは胸のうちにこぼす。

「乳兄妹で主家のお嬢さんでおなじ軍属で……、で? 実際のところはどうなの」

「それがすべてだ。それ以上でも以下でもない」

「へえぇ? だったらさっきシロカネがルーチェとおれに飛びかかってきたとき、おれのことめちゃくちゃ睨みつけてたのはなに?」

「おれが?」

「そう。いまみたいに」

 指摘に、テオリアは虚をつかれたように目を瞠った。その反応にメテオラも驚いてまばたきを繰り返した。

「もしかして無自覚?」

「あ……、いや」

 テオリアは肯定とも否定ともいえない曖昧な返事とともに顔をそらすと、すっかり寝落ちしたシロカネを犬の子のように持ち上げた。そのままなにも言わずに脇にある寝室へと運んでいく。すぐに戻ってくると食べ散らかしたリビングをきびきびと片付けだした。

 メテオラはしばらく呆然とその様子を眺めていたが、ルーチェを抱き上げて寝室へと入った。

 シロカネのとなりに静かにおろすと、ルーチェは身をよじって横向きになり胎児のように膝を抱えた。顔をシーツへこすりつけようとするので頬にかかった髪を指で寄せてやれば、もう食べられないと呟いて心地よさそうに息を吐く。ルーチェの夢ではまだ夜食の時間が続いているらしい。メテオラはたまらず頬をゆるめた。

「あんまり食べすぎないようにね、おやすみ」

 リビングはすっかり片付いて、床には飲みさしのワインボトルだけが残されていた。足音に振り返ると、新しいグラスを持ったテオリアがパントリーから出てくるところだった。

「宰相、おれのグラスもちょうだいよ」

「もうある」

 テオリアは窓を開け、テラスへと出る。メテオラはワインボトルを持ってあとに続いた。

 潮騒まじりの潮風が吹きつける。

 空はまだ夜が濃い。テオリアはテラスの燭台に火を灯し、メテオラへグラスを向けた。ふたつのグラスに注ぎきると、ボトルは空になった。壜は足もとに置いて、ふたりはやむなく互いのグラスを合わせる。薄いグラスは星の囁きのようなか細い音で鳴いた。

 朝など二度と訪れないと錯覚するような深い夜のうちにいる。夜が海ならここは深海、夜の底だ。どんなに星が輝こうとも足もとが明るく照らされるわけでもない。ただ視界をちらつくだけの光。見るぶんにはうつくしいばかりの流星。誰とも交わることのない、生きる時間の異なるいのち。

 メテオラは空から目をそらす。よく晴れた夜空はまるで自分に見つめられているようで嫌いだった。とくに学校から退学を迫られたころのまだ子どもだった自分に、おまえはいまどんな大人になったのかとじっとり見定められているような気分になる。

「まだフィオーレがうまれる前の話だ」

 唐突にテオリアが口をひらいた。

「大人になったら結婚しようとルーチェが言った」

 メテオラにはこの兄妹の年齢差がわからないが、フィオーレが生まれる前ならばシロカネの見た目の年齢よりまだ幼かったはずだ。それならばソルからも似た話を聞いたことがある。彼女の場合は相手が父親で、母親から絶対にそんなことはさせないと本気で怒られたらしいが。

「子どもらしい微笑ましい話じゃん」

「そう、だな。だが当時のおれはそうは思わなかった。当然おれも子どもだったからな」

 テオリアは乾いた息をこぼして、かすかに笑った。

「ルーチェはいつだっておれの正しさの基準で根源だった。かけっこのときも、本読みのときも、なにをするでもなくふたりで過ごすときも、おれはあいつの言葉だけを聞いて、あいつを目で追って、信じて……、だからそのときもルーチェが結婚しようと言うならそうしようと約束した。そうすればあいつが喜んでくれたから、もうそれだけでよかったんだ。……まあ、そのあとどこからかその話が父の耳に入って、体が吹き飛ぶくらい頬をはたかれたけどな」

 しばらく耳が聞こえづらくて不便だったと話すテオリアの眼差しは、どこか寂しく感じさせるほど優しい。メテオラは父から殴られたことはないけれど、もう二度と会うことのかなわない誰かを思い浮かべるときの気持ちならわかる。父からは怒られることも多かったはずなのに思い出すのはほとんどが笑顔で、ときおりは悲しかったことが心をよぎったとしても不思議とそれすらいとしく懐かしく感じられた。

「宰相が結婚してないのは、もしかしてその約束が理由だったりする?」

「おれがルーチェに操をたてていると? ははっ、まさか」

 テオリアはメテオラの言葉を短く笑ったが、精悍な横顔には戸惑いにも似た翳りがたしかにあった。

 そのときメテオラはふと思い至る。

 百年という人間にとっては長い歳月、テオリアはルーチェの死とともに、彼女を殺した当人として生きてきたのだ。それなのに突然彼女が生きていると知らされ、パルコシェニコで事故のように再会し、はたして他人に説明できるような、いやそもそも自分を納得させられるような感情やその枠組みを持ち合わせていられるだろうか。

 乳兄妹であることや同僚であること。テオリアはそれがすべてだと言った。だがその関係性におけるそれ以上でも以下でもない間柄とは、あまりにも何者でもなさすぎる。もはやテオリアにとってルーチェはほかの誰とも異なる存在で、彼自身にも把握しきれない執着を伴い、明確な言葉で表される関係からはすでに逸脱してしまっているのではないのか。

 あどけない結婚の約束からして、幼少のころから気配はあったにちがいない。それがルーチェの死と生にさらされて、まっとうな執着のかたちまでも失ってしまった。

 メテオラは地龍の腹のなかでもう逃げ出してしまおうと吐き出したことを思い出す。もしルーチェとテオリアのどちらかにほんの一瞬だけでもメテオラとおなじ発想があったなら、そして兄妹ふたりがもうすこしだけ不真面目だったなら、彼らの未来は違っていただろうし、百年という隔絶をもってメテオラと出会うことはなかったかもしれない。

 なんという、愛すべきくそまじめだろう。

 テラスの手すりにもたれかかるようにしながら両腕をのせ、メテオラはどうにもにやける顔を手で隠した。

「おいハイブリッド、なにがおかしい」

「ちょっと宰相のこと好きになってきた」

「酔ってるのか」

「まあそういうことでいいよ」

 どこからか海鳴りに混じって鳥の囀る声が聞こえる。夜に塗り潰されていた空も、わずかばかり色褪せた。

「宰相、これからよろしく」

 メテオラがグラスを差し出すと、テオリアは怪訝そうにそれを見下ろした。

「おれはいつまでも宰相をやるつもりはない。任期半ばだが、適任者が見つかればすぐにでも譲るつもりだ」

「それがどうしたの」

「だから宰相とは呼んでくれるな」

「ああ、そういうこと。いいよ、にいさん」

 一瞬でテオリアの表情が凍りつく。じわじわと夜が明けていくなかで、テオリアの目の奥にだけ凝ったような闇が渦巻いていた。

「宰相でかまわん」

 ぎりぎりと歯ぎしりが聞こえてきそうで、メテオラは頬の紋様を歪めるようにして笑った。

 勢いよく鳴らしたグラスには、テラスの灯りが映り込み、ひと足はやい夜明けが注がれていた。


―おわり―

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不定形の夜明け【青騎士の失態・後日譚】 望月あん @border-sky

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