5.甘いごちそうは夜に溶けて
夜風に漂う香りは、甘いお菓子のもの。
夕闇が遠ざかった庭を歩きながら、僕は思わずため息をこぼしてしまった。
「アップルパイねぇ……こんなので、ご機嫌取りなんてできるんだろうか」
ひとり呟いても、答えてくれる誰かなんていない。ヴェインはアップルパイの完成を見届けると、ミゲール老人の手伝いがあると言って去ってしまった。
「あ、もしよろしければ、お嬢様に届けて頂けますか? きっとお喜びになられますよ!」
去り際に一言残されて、僕は若干困惑してしまった。
アンナの機嫌を損ねておいて、お菓子で挽回とはさすがに情けなすぎないかなぁ? とはいえ、アップルパイを一人で食べるのも空しすぎる。
青草を踏みながら、僕は薄暗い道を進む。明かりが設置されているとはいえ、隅々まで見通せるというほどではない。バスケット片手に、ヴェインに教えられた場所へと進んでいく。
「あ……」
目的地はすぐに見つかった。
穏やかに揺れる明かりの下に、大理石で整地された空間が現れる。白さが際立つその場所は、まるで演劇の舞台みたいだ。ゆっくりと歩んでいけば、舞台を囲む柱の陰に建つ人影が目に入った。
「やあ、ペテルギウスさん」
「……ああ、お前か」
軽い挨拶をかわし、僕はペテルギウスの隣に立つ。そこからは、真白の舞台が良く見渡せた。僕はバスケットを持ち直すと、横に立つ男に視線を向ける。
「彼女は?」
「そこに」
短い答えと一緒に、ペテルギウスは舞台へ顎をしゃくる。僕はそのまま視線をそちらにむけ、小さく首を傾げた。
まず目についたのは、中央に鎮座する巨大な白い岩だった。四方を柱に囲まれたそれは、神聖な何かが宿っているかのように淡く発光している。
原理は解析しないとよくわからないが、何らかの魔法の産物だろう。目を細めて見つめていると、すぐそばで小さな体がわずかに身じろぎした。
「……アンナ」
銀色の髪が薄く光を弾いている。僕は歩みだそうとして、しかし、横から伸びた腕に阻まれ動きを止めた。
「何をしに行くつもりだ?」
「何って。別に……ただ、謝ろうかと思って」
「何一つ悪いとさえ思っていないのにか」
男の深い色をした瞳が、僕を射抜いている。見抜かれていた。反射的に苦笑いを返しそうになって、すぐに表情を引き締める。ペテルギウスの目は、僕を冷徹に見据えていたからだ。
「悪いと思っていないことと、謝ることに因果関係がなければ納得しないと?」
「そうではない。お前は結局、お嬢様のことなどどうでもいいのだろう? ならば放っておけばいいのだ。薄情なくせに下手な演技をして、お嬢様に余計な期待をさせることはやめてもらいたい」
「余計な期待? アンナは僕に何を期待しているっていうんだ」
薄情だと呼ばれたことは、まったく気にならなかった。それこそ薄情な証左ではあったけれど、別に今はどうでもいい。
眉を寄せて、背の高い男の顔をにらむ。だけどペテルギウスの表情は欠片も動かなかった。僕の視線など意に介した様子もなく、ただ、深い色の目は遠いどこかを見る。
「友情。あるいは愛情。我らでは与えることが叶わぬものを」
「意味が分からない。あなたたちはアンナを愛しているんじゃないのか」
「ああ。だが、『アンナ』にとっては意味のあるものではない。我らはしょせん、お館様の『道具』だ。お館様の命で動き、お館様の命とあれば『アンナ』を殺すこともいとわない。そんな我らがお嬢様を愛しているなどと言ったところで、なに一つ響かないだろう」
ペテルギウスの意図するところが分からない。彼らはアンナを愛していると言いつつも、命じられれば彼女を殺せると言っている。そんな愛、アンナにとっては裏切りにも等しいだろう。信じた挙句に喉元に突き付けられるのが刃だなんて、空しいにも程がある。
「それで? あなたは何が言いたい? だから僕にアンナとかかわるなと?」
「違う。かかわるなら、せめて裏切らないでやってもらいたいだけだ」
「そんな確約できないね。なにせ僕は薄情なので」
ひらひらと手を振って前に進む。今度はペテルギウスも止めなかった。「お前は薄情だからかかわるな」と言われたところで、僕が従わなければならない理由はなかった。
そう、これからの行動はすべて、独善の上に成り立っている。僕は何があってもアンナを哀れまない。代わりに、どんな理由があったとしても蔑んだりしない。
そして、「関係ない」と言って突き放すこともない。アンナにかかわると決めたのは僕自身で、差し伸べる手を振り払う権利は、彼女だけにあるのだから。
夜に吹く風に目を細め、思う。僕は言うまでもなく薄情だ。だけど、無感情でも無慈悲でもない。この手が振り払われるまでは、そばにいたいと思っている。
わずかな間だけ過ごしただけの少女に対して、こんな風に感じるのはおかしいかもしれない。普段の僕なら、何も言わずに通り過ぎていたに違いなかった。
それでも、こうして近づこうとしている理由は――結局のところ、アンナに対して感じている不可解な親近感のせいなのかもしれなかった。
「アンナ」
呼びかけに対する答えはなかった。代わりにうずくまっていた体がびくりと揺れる。
「アンナ、僕だ。アランだよ。……少し話をしないか」
銀色の目が戸惑いを含んでこちらを見る。アンナが機嫌を損ねた理由なんて、大人にとっては本当に些細なことだったけれど。無意味だと切り捨てられるほど、僕は不誠実ではなかった。
手を差し伸べる。アンナはためらいながら顔をあげた。僕の手を見つめ、わずかに首をかしげる。
「わたしとお話? どうして?」
「僕が話をしたいんだ。アンナとね。気に入らなければ手を振り払えばいい。それで僕は怒ったりしないから」
「……だけど、アランはもう二度と手を差し出してはくれないんでしょう?」
当たり前のように告げて、アンナは目をそらした。諦めにも似た冷めた態度に、僕は苦笑いするしかない。僕は何がしたいんだろう? 拒絶されれば手を離してしまう程度の想いだけで、誰かに寄り添えるなんて思いもしないのに。
「振り払われた手をもう一度差し出すのは、それなりに骨が折れるんだよ。それだけ」
「……アランは、わたしのことなんて好きじゃないでしょう」
「好きかどうかは、この状況に関係があるのかい」
「あるもの……だって、好きな人に思われないのはつらいわ」
何と答えるべきだろう。差し出した手はそのままで、僕は曖昧に笑う。アンナのことを好きかと言われたら、それは『そこまでじゃない』としか答えようがない。
たとえ親近感を感じていたとしても、思いを寄せるほどじゃない。たった一日程度過ごしたくらいで、心をすべて預けてしまえるわけもなかった。
だけど、アンナにとっては違うのだろうか。色の薄い目が再びこちらを見る。寂しげな瞳はどこか寄る辺のないものを感じさせ、一瞬だけ、苦いものが口に広がった。
「そうだね、僕もそう思うよ。誰だって大切な人に思われないのは嫌だ。それでも振り向かれないからと言って、その手をつかむのをやめてしまうのかい?」
「……アランは、ずるいわ。そんなふうに言われたら、わたし、何も言えないもの」
「うん、僕はずるい。それでも僕は、一度だけなら誰にだって手を差し出すと決めてる」
「どうして?」
「だって、誰にも顧みられないのは悲しいだろう? ……薄情な僕の手でもいいなら、一回くらいは救いがあってもいいと思ってさ」
アンナは大きく目を見開いて、ふっと疲れたように微笑んだ。幼い顔に似合わぬ、大人びた表情だった。小さな手がゆっくりと伸ばされる。僕はただ指先が触れる瞬間を、何も言わずに見つめていた。
「あまのじゃく」
「それも、よく言われる。どうしてかな」
「そういうところが、あまのじゃく」
「そっか。まあいいや。アップルパイを作って来たんだ。一緒に食べよう」
アンナの傍らに腰を下ろすと、バスケットを広げる。アップルパイの甘い香りが広がり、アンナの表情が緩む。
「おいしそう」
「そう見えるなら良かった。初めて作ったから上手く言ったかどうかわからなくて」
「これ、アランが作ったの?」
とりとめのない話をしながら、アップルパイを取り分ける。フォークでパイを裂くと、黄金色をしたリンゴが現れた。食べやすいように小さくしてから、甘いごちそうを口に運ぶ。
「うん、悪くない」
「……おいしい、これ。おかあさまの味に似てる」
ぽつりと言葉をこぼして、アンナは黙り込んでしまった。
互いに無言で、アップルパイを口に運ぶ。余計な言葉を告げれば、ぎりぎりで保っている何かが砕けてしまいそうだった。僕は何気なく空を見上げる。闇の向こうには、星なんて出ていない。
「なあ、ごめんね」
ふと、言葉を落とす。アンナは何も言わなかった。僕も、それ以上は語らなかった。
甘い味だけが口の奥に残る。優しくて寂しくて、少しだけ苦い甘さ。アンナも同じものを感じているだろうか。そうだといい、そうでなくてもいい。
「……ねえアラン、どうして人間は『永遠』を欲しがるの?」
唐突に、拙い言葉が沈黙を破った。意図が掴めず、僕は視線だけで問いかける。アンナはじっと空になった皿を見つめていた。長い髪が横顔を覆い、どこか悲しげな声が宙を漂う。
「わたし、おじいさまのことがわからない。おじいさまは言うの。『永遠が手に入ったら、いなくなってしまった人もそばに戻ってきてくれる』って。だけど、そんなことあり得ないでしょ? 命は一回だけで、誰にも取り戻せないもの」
「それは、そうだけど」
「だからおかしいの。おじいさまも、みんなも……。どうしてみんな、あんな風に」
刹那。かちり、と何かがはまった音がした。
顔を上げると、淡い光が地面から浮かび上がっていた。ゆっくりと浮遊する輝きは、僕たちにまとわりつく。何かを訴えるような執拗さに、僕は思わず眉を寄せる。
「……何だ?」
アンナを見ても、この状況を理解しているようには思えない。不可解な光の乱舞。さらに強さを増していく輝きに、僕は立ち上がる。その時だった。
――夜空を一条の光が貫いていった。流星のように尾を引くそれは、まっすぐにある場所を目指して落ちていく。庭の向こう側――アンナの邸宅へと。
「おじいさま!?」
アンナが息をのむ。瞬間、光は邸宅へと到達する。ひときわ強い輝きが空を焼き、次に訪れたのは、息もできないほどの静寂だった。
「何が起こったの……ペテルギウス!」
「ここに。どうか、お嬢様はこの場にてお待ちください。俺は様子を見てきます」
呼びかけに姿を現したペテルギウスは、僕に視線を当てる。無言の圧に含まれた意図に、僕は一度だけうなずいた。
「アンナは任せて。何かわかったら知らせてくれ」
「頼む。……お嬢様、くれぐれもお気をつけて」
それだけを言い残し、ペテルギウスは闇の向こうへと走り去る。残された僕たちは、自然と手を握り合う。異様なことが起こっている。それに不安を感じるなという方が無理な話だ。
「大丈夫だよ、きっと」
「うん……」
なんの根拠もない言葉を紡いで、僕はアンナの肩を引き寄せた。
結果を言えば――それが僕たちの命を救った。
風を切る音。
一瞬前の位置を貫いたのは、冷たくも無情な刃だった。驚く間もない。僕はアンナを背にかばうと、数歩後退する。
「な……」
「アラン……!」
ぎりぎりで凶刃をかわした僕は、はっきりと『それ』を捉えた。
僕たちの目の前に現れたモノ。それは、鉈を手にしたぼろぼろの木偶人形だった
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