9.許されざる罪に死の花は咲く
「それで、この状況は何が原因なんだ?」
アンナ・ベルたちとの再会からしばらくのち。
僕は巨大蜘蛛が倒れ伏した舞台の上で、『それ』を見上げていた。
目の前に鎮座する、白と虹色の交じり合う不可思議な巨石。身長の三倍くらいはありそうな大きさの岩は、淡い光をうっすらと放っている。
「どうと言われても、見ての通りなのだわ」
僕と同じように『それ』を見やって、アンナ・ベルは疲れたように肩をすくめる。投げやりさがにじむ答えに、僕は思わずうめき声をあげてしまった。
目の前の巨石の、半分よりも少し上のあたりに、黒く盛り上がった部分がある。一見すると、それはただの汚れのようにも見える。だが、じっと眺めていると、まるで心臓のように脈動を繰り返していているのが分かった。
はっきり言うと奇妙だし、よくよく見るほどに気持ち悪さが増す。黒い心臓と仮に呼ぶとしても、なぜこの岩に張り付いているのかよくわからない。
「あの黒いの、やっぱり問題があるのか? その……くっついていると?」
「問題は大ありだわ。あれが広がると、礎石は破壊されてしまう。この岩はただの岩ではないの。この幸福の庭を現実に繋ぎ止め、形を維持している……真の意味での礎なのよ」
礎。意味は分かる。アンナ・ベルの苦しげな様子で、事の重大さも理解できていた。それでも、僕は首をかしげざるを得ない。
「なあ、幸福の庭を現実に繋ぎとめる、ってどういうことだ」
まるでこの場所が現実に存在していないような――疑問を込めて視線を送る。するとアンナ・ベルは、戸惑うように僕の顔を見返してきた。
「どうって。あなたも知っての通りなのだわ」
「知っての通りって。今年は聖王歴1927年で十一月初旬? この場所がどこなのかはちょっとわからないけど。僕の暮らしていた地域の割と近くじゃないのか?」
自分が知り得た情報を開示すると、奇妙な沈黙が広がった。アンナ・ベルは珍しく眉間にしわを寄せ、僕のつま先から頭の上までを穴が開くほど見つめてくる。
「どうしたんだよ。何かおかしいことを言ったかな」
「奇妙だわ」
たった一言だけ呟き、アンナ・ベルは唇をかみしめる。理由の知れぬ不穏さに、僕はぐるぐると思考を回転させることしかできない。
幸福の庭というものは、漠然と僕の知る世界のどこかにあるのだと思っていた。今まで疑問に思わなかったことが不思議でならないが、思えばいろいろと奇妙な点はある。
「アンナ・ベル。答えてくれ」
僕の言葉に、アンナ・ベルはのろのろと顔をあげた。この先で告げられる台詞の内容を理解しているのだろう。銀の瞳は深い憂いを帯び、顔色はいつも以上に白かった。
「ここは、この幸福の庭はどこにあるんだ?」
「それは」
疲れたような響きをまとわりつかせたまま、声は答えを紡いだ。
「ここは、世界から切り離され、時間からも置き去りにされた場所。生と死の狭間を漂う鳥籠のセカイ。……ここは、ドゥセルが言うような世界じゃないの。どうしてあなたは」
――それを知らないの? あなたは私の下僕なのでしょう?
アンナ・ベルの疑問は、僕の疑問でもあった。どうして僕は、何も知らずにいられたのだろう。なぜ、僕はここにいる?
「お嬢様……っ!」
ヴェインの声が響き渡る。はっきりとした警告が込められた叫びに、僕たちは同時に振り返った。
「なっ!?」
倒れ伏した蜘蛛から、真っ黒な霧が立ち上っていた。それは見る見るうちに一点へと集結し、何らかの形を取り始める。
異様な気配を漂わせるその存在に、アンナ・ベルは空中に手を差し入れた。
「ヴェイン! ペン・ギン! そいつを倒して!」
呼びかけは、一瞬後に響いた轟音にかき消された。
闇色の塊が爆発し、周囲に同色の煙をまき散らす。一瞬にして視界はゼロになり、アンナ・ベルの姿はおろか、自分の指先さえも見えなくなる。
「この……っ! しつこいのだわ!」
きぃん。金属音がごく近くから聞こえてくる。まさか、この不明瞭な視界の中に敵が潜んでいるのか?
僕の疑問に答えるように、激しく武器を打ち合わせる音がここまで届く。どうにかしなければ――思いとは裏腹に、体はゆっくりと後退を続けていた。
「どうすればいい」
白と虹色の礎石に背中を押しあて、短く呻く。頭上を見れば、そこだけ煙がきれいに消え去っている。なぜと思いつつ、自然と視線はその場所に吸い寄せられていき、そして。
「そんな、どうして」
不気味にうごめく黒い心臓が、どく、と脈打ち、太い血管のような触手を伸ばしながら、その闇色の煙を『食っていた』。
煙を食い進める心臓らしきその物体は、触手を波打たせながら礎石を侵食し始める。白い部分は徐々に黒い細胞に覆われ、虹色はどす黒い血管に変わっていく。
その光景は常軌を逸していた。アンナ・ベルは、あれが広がると礎石が破壊されると言っていた。だとしたら、あれをなんとなしなければ、この世界は――。
「アンナ・ベル!」
呼びかけたところで答えは返らなかった。闇色の煙の中で、アンナ・ベルたちは戦い続けているのだろう。今、この黒い心臓をどうにかできるのは、やはり僕しかいないのか。
「……くそ、なるようになれ、だ!」
頬を軽く叩いて、目の前に這い出してきた触手をつかむ。弾力のあるゼリーみたいな感触に、心の表面が泡立った。気持ち悪い。握りこめばどくどくと脈打ち、生ぬるい温度に嫌悪感が増す。
けれど、こちらに攻撃を加えるような気配はない。もしかすると、これ自体に明確な意思はないのかもしれなかった。だが、この黒い心臓をここに植え付けた誰かには、明確な悪意があるはずだ。
何にしてもこの心臓を引きはがさなければ、僕たちにこの次はない。
とにかく、可能な限り慎重に迅速に。僕は礎石から触手を引きはがしていく。だが、一本引きはがしている間に、十本以上のスピードで触手が伸びる。
間に合うわけがなかった。もたもたしている間に、周囲は触手だらけになっている。このままでは、数分と経たずにすべてが終わる。
「どうすればいい……!」
誰かが助言してくれたなら、どれだけ救われるかわからない。僕が死ぬ前だって、ひとりでも気にかけて止めてくれれば、こんな理不尽な状況に陥らなかったはずだ。
どうして、必要な時だけは誰も手を差し伸べてくれない?
本当に助けが欲しいのは、いま、この時だというのに。
僕の祈りなんて、一度たりとも神様には届かなかっただろう。だからといって恨んだりはしないけれど、せめてたった一回くらいは、助けを求めていた僕がいたことに気づいてほしかった。
「だけど、もういい」
僕は錬金術師だ。自分の願いは自らの力で形に変えられる。たとえ命は消え去り、自分の姿さえ見失っても。僕が僕である限り、この手に宿る力は誰にも奪えない。
「錬成……分析開始」
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