8.『死』を想えば、深淵へと落ち逝く

 『悲嘆の湖畔』――東に存在するその庭園は、黒い葉を揺らす青い木々に彩られていた。


 門をくぐった途端、湿り気を含んだ風が吹きつけてくる。雨でも降った後なのだろうか。地面を踏みしめるたび、わずかに靴底が沈み込む。


「アンナ・ベル? どこだ」


 いつも閉ざされていた門が開いていたから、こちらに来たことは間違いない。問題はどこへ行ったかだが――周囲を見渡すと、隙間なく茂っている藪の一部が切り裂かれていた。


「……この先、か?」


 風が吹く。周囲に霧が立ち込めてきた。ざあざあと黒い葉がざわめき、奥への道行きを示しだしているようだ。一歩踏み出せば、緩やかに光の粒が散る。深い森の先に何が待っているかなど、考える時間が惜しい。


「……っ」


 夜明けは近い。白く変わり始めた空の下、僕は青と黒の世界を走り出す。


 ――――

 ――


 どれくらい走り続けただろう。


 木々の切れ間からは、空に昇り始めた太陽が見える。どういうわけか今日は晴天だった。世界も状況を皮肉っているのか何なのか。よそ見をした途端、ぐるりと視界が回転した。


「わっ」


 背中から地面に叩きつけられる。衝撃はあったが、痛みは特になかった。こんなところで立ち止まっている場合じゃないのに――ふらつきながら身を起こし、僕はそれを見てしまった。


「――――ぇ」


 ばらばらになった、木偶人形。僕の体にそっくりな土気色をした人形が、一、二、三……十体以上? 地面にパーツを散らしたまま、『死んでいた』。


「は……?」


 何だ、これは。これは、僕? いやいや、そんなわけはない。僕はここに一人しかいないし、これは似ているだけで僕の体そのものじゃない。


「なんでこんなことに?」


 声を出すと少しだけ冷静になれた。慎重にばらばらの人形へと近づく。そいつらは当然のことながら、ピクリとも動かない。僕は、そっと腕の一本を拾い上げてみた。


「……軽い」


 それに、脆い。断面を見てみれば中は空洞で、材質も粗悪な粘土材のようだった。こんな状態なら、攻撃を受ければすぐに崩れてしまうだろう。だが、それよりも問題なのは。


「誰が攻撃したか、だな」


 掴んだ腕を地面に落とす。この場所にいるとしたら、アンナ・ベルたちか『幸福の庭の敵』のどちらかだ。これもデコイなのだとしたら、アンナ・ベルたちが襲われたのだろうか。


 現状、どちらが行った破壊なのかは不明だが、僕としては非常に気分が良くない。


 そう、気分が悪かった。まるで自分が殺されているように思えて、胸糞悪い。人形の虚ろな瞳が僕を見ている。それはいずれ訪れる僕の結末を暗示しているようで――。


「……ばかばかしい」


 うつむきかけた顔を上げる。馬鹿なことを考えているな。砕けた喉元に手を当て、ぐっと体を前に向かせた。その時だった。


 ――轟音。晴天を切り裂く雷光が、瞬時に地面へと到達する。ピリピリとした振動が森を揺らし、僕はまじまじとそちらを見た。


 異常なことが起こっている。激しく震える足元に構わず、地面を蹴った。僕が目指す場所は、きっとこの先だ。


「アンナ・ベル!」


 声を張り上げ、藪を突き抜ける。


 そして、目を見開く。雷光が降り注ぐその場には、恐るべき光景が広がっていた。

 真白の舞台が、森のど真ん中を切り取るように存在していた。


 視線を少し動かす。すると、中央には純白と虹色の巨石が置かれているのに気づく。周囲を柱に守られたそれは、この世のものとは思えない不可思議な光を帯びていた。


 だが、今重要なことはそれではない。僕は藪から一歩踏み出す。途端、その場を支配していた『それ』が、僕の方に無数の目を向けてきた。


「――――っ」


 真っ黒な、蜘蛛だった。しかも人の身長を軽く越えるどころか、頭上を覆うほどの巨大さの。それが、巨石の上に陣取っていた。


「うそだろ」


 なぜ最初に気づかなかった? ここに来て初めて、事態の深刻さ、重大さに気づく。こんなものが現れているなんて、幸福の庭の敵とは何者なんだ? 心を伝う震えに気づかないふりをして、周囲を見渡す。


「お嬢さま!」


 さっと、銀の一閃が蜘蛛の脚を薙いだ。誰の目から見ても。必殺の一撃だった。だが、少女はぐっと唇を噛みしめ、槍の穂先を回転させる。


「だめ」


 刹那、蜘蛛の脚が激しく振るわれた。狙いはアンナ・ベル。巨大な体に似合わぬ素早いカウンターは、少女の細身を弾き飛ばす。


「させぬ!」


 アンナ・ベルと脚の間に、大きな影が滑り込む。低い音が響き、脚は強く押し返される。それとほぼ同時だった。重い戦斧の一撃が追撃をかける。


「いいですよぉ! ペテルギウス!」

「その名で、呼ぶなぁっ!」


 怒りと共に、ペン・ギンは戦斧を横に振るう。がつ、と硬いものを断つ音がした。瞬く間に蜘蛛の脚が一本、真ん中から断ち切られる。


 体勢を崩し、蜘蛛は斜めに倒れこむ。絶好の攻撃機会だった。アンナ・ベルは、強く地面を蹴る。


「ヴェイン!」

「合点承知でございます!」


 骸骨が杖を振るう。瞬間、風が足元で渦を巻いた。アンナ・ベルは迷うことなく風に飛び込む。素早い跳躍。風を足場に、銀の少女ははるか高みに駆け上がる。


「これで!」


 銀の槍を両手で握りこみ、アンナ・ベルは勢い良く落下していく。狙いは蜘蛛の頭だ。穂先は空気を裂き、蜘蛛の頭上へと鋭く突き刺さる。


 があ、とかそんな嫌な音が響いた。アンナ・ベルの槍に脳天を貫かれ、蜘蛛は地面に倒れ伏す。土煙が上がり、巨体は完全に動きを止めた。


 アンナ・ベルは軽い動作で槍を引き抜くと、地面へと降り立つ。出迎える骸骨ヴェインは、顎をカタカタと鳴らしながら拍手をする。


「お見事です! さっすがお嬢様ですな!」

「ヴェインはうるさい。ペン・ギンもお疲れ様。――で」


 鋭いまなざしが、はっきりと僕を捉えていた。いつも無感情な銀色の瞳に、明らかな怒気がこもる。


 僕は黙って首を傾げた。それしかできなかった。アンナ・ベルが、足早にこちらへと歩み寄ってくる。


「えっと」

「ドゥセル、留守番は?」

「え、ええと?」

「お留守、番は?」


 顔が怖い。近づいてくるアンナ・ベルは恐ろしすぎて、僕は両手を前に掲げた。


「ごめんなさい」

「言うことを聞かない下僕は」


 拳が風を切る。え、とか言っている暇もなかった。


「お仕置きですよ!」


 会心の一撃。僕はそのまま気絶したかった。無理だった。

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