5.君に贈る温かな食卓を(後)
月は、この手に落ちてこないからこそ、美しい。手が届かないものほど、憧憬は深まった。ただ欲しい、と口にすることをはばかられるほどに、憧れは自分よりも遠い場所にある。
つまらないことを考えていた。夜の帳が下りた邸宅の庭先に立ち、僕は空を眺める。
空は相変わらず暗く、星どころか月の影さえも見えない。遠くざわめく木々の葉擦れを聞きながら、僕はため息をつこうとして、それが出来ないことに気付いてしまう。
「あ……そうか、僕はもう死んでいるんだったな」
呼吸の必要さえない、木偶人形のこの身だったけれども。さほどの不自由を感じない理由は、五感が存在しているからだろう。
少しだけ冷たさを残す空気と、空っぽになった球体関節の手のひら。なぜか心がきしむ。ソルベはどこかに置いて来てしまった。拒絶されてがっかりした。情けなく笑ってあきらめるには、あまりにも苦い感覚だった。
「よけいなことしないで、か」
アンナ・ベルの、心の一番もろい部分に無遠慮に触れてしまったのだろう。
冷たくて甘いものが好きなんじゃない。アンナ・ベルが望んでいるものは、もしかしなくても――。
「おや、珍しい場所で会いますね。ごきげんよう、ドゥセル」
「お前」
闇の奥から姿を現した男は、人懐っこい笑みを向けてきた。
『葬儀屋』――この件の発端となった黒い男だ。思わず口元をゆがめてしまえば、葬儀屋は何の悪意もなさそうな笑みのまま、首をかしげる。
「何だか元気がないですね。どうかしたんですか?」
「どうかって。お前が……。いや、何も。どうもしてないよ」
葬儀屋があまりにも素直な表情だったからか。寸前で食って掛かるのをやめていた。男の黒い目が笑みを形作る。まるで、良い子だね、とでも言いたげに。
「当ててあげましょうか? アンナと喧嘩をしたんですね?」
心が鈍い音を立てる。けれど、葬儀屋の言葉に対する感想は浮かんでこなかった。僕は限りなく真っ平らな声で返事をする。
「喧嘩じゃない。僕はただ、アンナ・ベルを傷つけただけだった」
「ほう? 詳しく聞かせてください」
促されるまま、僕はこの件の顛末を語っていた。葬儀屋はじっと話に耳を傾けていたが、アンナ・ベルが『アラン』の名を口にしたと聞くと、少しだけ目を見開いた。
「アラン、ですって」
「誰のことかはわからないが、確かにそう言っていた。何? お前はそれが誰のことなのか知っているのか?」
「……さて。どうでしたかねぇ」
はぐらかされている。頭では理解していても、抗議の言葉は全く浮かんでこなかった。この葬儀屋と会話していると、自分の存在が遠く薄くなっていく気がする。
「そんなことより、アンナは食事をしてくれなかったんですか?」
「そうだよ。ソルベを作っていったんだ。だけどアンナ・ベルは『冷たくて甘いものが好きなんじゃない。よけいなことしないで』って言って……」
思い出すと気分が沈む。拒絶されたことに対して、怒りは不思議とわいてこなかった。アンナ・ベルの表情があまりにも痛ましすぎたせいもある。
だがそれ以上に、自分の感情がここで過ごすにつれ平淡になっていっていることも、動かしがたい事実だった。まるで現実が少しずつ、自分という存在から遠ざかっていくように。
「ドゥセルは悪くないですよ。それはアンナがひどい」
「これは別に良いか悪いかの話じゃないだろう。それにお前の判断は求めてない。あくまでも僕とアンナ・ベルの間での話なんだから」
「それはそうなんですが。まあ、はあ。自分が頼んだことで、ドゥセルを気落ちさせたのは全くもって本意ではないので。今回は自分に挽回の機会をくれませんか?」
何を挽回するつもりか全く理解できない。僕が見つめる先で男が指を鳴らす。軽い音とともに、目の前がゆがみ――ふわり、と、一枚の紙きれが宙を舞った。
「この紙って」
「自分の希望としては、アンナだけでなく、死者の皆さんにも満たされて欲しいものでして。そのために、みんなで楽しめるレシピを用意しました。ドゥセルなら使いこなせますよね?」
葬儀屋はにこりと笑う。善意しか感じられない表情を見ていると、なぜか視界が暗くなるのを感じた。
一度首を振れば、そんな感覚はすぐに遠ざかっていく。気を取り直して、僕は紙切れに目を落とした。
「……死者も目覚める魔法のアップルパイ……?」
何とも言えないネーミング。それは、料理のレシピだった。困惑して視線を戻しても、葬儀屋の姿は幻のように消え去っていた。
……今回も言いっぱなしか? 挽回はどうした。
――――
――
アンナ・ベルのために、僕ができること。
厨房で『葬儀屋』からもらったレシピを前に、僕は腕組みする。アンナ・ベルが望んでいることは、単に美味しいものを食べることではない。一人きりの食卓が寂しくて嫌なのだと、あの言葉は告げているように思える。
ならば、死者たちが一緒に食事ができればいいのではないか? 短絡的に考え、試しにヴェインに提案してみたところ。
「難しいですねぇ。吾輩はほら、この通り風通しの良いスッカスカですし! 他の連中も、物を食べるという行為には向いてないんですよねぇ。そんな状態でお嬢様と一緒に食事を! となると、余計に空しさを与えてしまいませんかね?」
ヴェインの言うことにも一理あった。死者は、基本的に『食べる』ことはできない。僕だって飲み物は口にできるが、固形物となると――。
「ぐ、うぅ」
のどに詰まる。いや、そもそも飲みこめない。仕方なく吐き出すと、ブルーベリーがそのままの状態で出てきた。こんな小さな粒でも受け付けないなら、食事なんてできるわけもない。
再び、レシピを手に取る。何度見ても、一般的なアップルパイの作り方でしかない。『葬儀屋』は僕に何をさせたかったのだろう? 上から下まで眺めて、紙をランプの明かりに透かして見る。それでも特に変化は感じられない。
「本当に、何だっていうんだ?」
さすがに体が、というより心が重い。テーブルにレシピを置いて、傍らのポットを手に取る。喉が渇くことなんてないのだけど、飲むという行為は死してなお、僕がまだ人間だということを思い出させてくれた。
カップに白湯を注ぐ。液体が満たされていくわずかな間に、僕はふとまぶたを閉ざす。
「僕は結局、どこにいても無力なのか」
生前の僕は、病に苦しむ友人を救いたくて、無謀にも霊薬『エクリサ』の調合に手を出した。結果は自分が死に至っただけで、なにも成し遂げることができなかった。
死してなお、僕は少女の心ひとつ慰められない。『誰かのために』なんて言ったところで、無力だった現実が覆るわけなど、ありえなかったのに。
目を開く。ぼんやりと視界の中心で、カップは白湯を溢れさせていた。テーブルの上にはちょっとした水たまりができ、レシピも見事に浸水していた。
「あぁ……」
やってしまった。びしょぬれになった紙を取り上げ、苦笑いする。レシピの文字はにじみ、ミミズがのたくったような状態になっていた。
「……? あれ」
文字が読めなくなったのは、まあいい。どうせ内容はありきたりなアップルパイの作り方だ。
今の問題はそんなことではない。僕は紙をあらためて光に透かす。徐々に新たな文字が浮かび上がり、いくつかの文章を形作っていく。
「まさか、これが挽回のためのレシピだっていうのか?」
――『死者も満足! 幽霊アップルパイ』の作り方。
刻まれていた文字に頭を抱える。一体どうしてこんな手の込んだことをしたのか。とにかく一つ言えることがあるとしたら、あの『葬儀屋』は信用ならない。
「気に食わないけど、今は」
やるべきことをやろう。こんな僕にもできることがあるというなら、ためらう理由はない。
――――
――
朝。
僕は、食堂の窓を大きく開ける。
日差しは弱く、空は変わらずどんよりとした灰色に染まっている。ただ、吹き込んでくる風はいつもより柔らかで、少しだけ青草のにおいがした。
「さて」
振り返って、軽く腕組みする。食堂は静けさに包まれており、誰の気配も感じられない。賑やかさを過去に置き去りにしてきた食卓は、部屋の中央でぽつんと、誰かの訪れを待っていた。
僕も、待っている。招待状は扉の隙間から差し入れておいた。読んでくれているか、そして、ここまで来てくれるかは未知数。自分でももっと確実な手はないのかと思ったけれども、今はこれしか思いつかなかった。
心がなくした鼓動の代わりに波打つ。アンナ・ベルが来てくれることを願い、両手を組み合わせた。祈りながらも、僕は彼女を信じている。様々なものを自身から遠ざけながらも、伸ばされた手を振り払いきれない。ふとした瞬間に見せた、アンナ・ベルの脆さと誠実さを。
東の窓から、正面の扉に向かって光が伸びる。眩しさに目を細めた刹那、扉が鈍い音を立てて開く。暗がりの中に立つ小さな人影は、じっと僕を見つめ、呟く。
「……余計なことしないで、って言った」
「うん。……わかっているよ。だけど、来てくれてありがとう」
食堂の前から、アンナ・ベルは一歩も踏み出せずにいた。僕はゆっくりとうつむいたままの少女へ歩み寄る。
「アンナ・ベル」
近づいてみて、僕はあることに気づいた。アンナ・ベルの片手には、昨日置き去りにしてしまったソルベのカップが握られていた。中身は空。その事実だけで、僕の心は温かなものに包まれる。
「おいで。……見せたいものがあるんだ」
少女に手を差し伸べる。アンナ・ベルは少しだけためらって、それでも僕の手を取ってくれた。僕たちはゆっくりと歩みだす。刹那、空っぽだった食卓が光に包まれる。
「さあ、始めよう!」
床から黄金の輝きが立ち上った。無数の光の粉が周囲を飛び交い、食堂を飾りつけていく。パラパラと上から降り注ぐものは、星型をした結晶たち。続いて現れたリボンは壁に彩を添え、最後に食卓がひときわ強い光を放つ。
「死者たちのパーティーにようこそ――アンナ・ベル!」
光があふれる。気づけば、周囲にはたくさんの人々がいた。人の姿を失った死者ではあっても、その顔には笑顔があふれている。アンナ・ベルは目を見開き、僕の腕をたたく。
「一体これは、なに?」
「いいからいいから。せっかくみんなで用意したんだ。君も一緒に食べて行ってよ」
アンナ・ベルの手を引く。すると食卓を囲んでいた死者たちが、少女を手招きする。
「ほら、呼んでる。行っておいでよ。もちろん、君の分もあるからさ!」
「ばか、意味なんでないのですよ。こんなの」
短い呻きをもらし、アンナ・ベルはうつむく。僕は手を離し、彼女の細い肩をそっとつかんだ。
「意味ならある。僕たちは死んでいるけど、今もここにいる。確かにここにいるんだよ、君のそばに。だからアンナ・ベル。僕たちから目をそらさないで。僕たちは君の下僕なんだろう? だったら少しは信じてよ。きっと、みんな最期まで君のそばにいる。約束する」
「ドゥセル」
僕の言葉は、指先一つ分くらいは届いただろうか。アンナ・ベルはうつむかせていた顔を上げる。相変わらず表情は薄い。けれど、その目は少し赤かった。
「本当に、余計なお世話なのだわ」
甘いアップルパイの香りが漂う。死者たちは食卓を囲み、楽しげにお菓子を食す。ささやかな、けれど賑やかなパーティー。その中心で僕とアンナ・ベルは手を握り合った。
「行こう」
この光景が幸せでないというなら、何だというのだろう?
どうでもいいことで騒いで、笑いあって。そんな些細で当たり前のことを、アンナ・ベルは得られずにいた。たった少し手を伸ばせば、僕たちはいつだって『ここ』にいたというのに。
微笑めば、ぎこちない笑みが返った。たったそれだけのことでも、幸せだ。
きっと、忘れられない日々になる。たとえ過ぎ去ったとしても、これだけは確かなことだった。
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