第14話 消えていく

身体の傷は、日々薄くなっていった。だけど、湊はなぜかそのことに焦りを感じた。まるで、大切なものがこの手からこぼれ落ちていくような、何かを完全に忘れてしまうような、焦燥感と恐怖に、湊は悩まされていた。




(俺は、子猫を助けるために線路に飛び込んだ・・・、本当か?あの時の激しい焦りは、胸が締め付けられるような苦しさは、絶対に守り抜きたかったあの気持ちは、、一体、何に向けられたものだった?)




分からない。




忙しい外科の日々に、それでもその事を考えずにはいられなかった。




一方さくらは、、


時間があれば、血液内科に出入りしていた。智也との時間を過ごすためだろう。




骨髄移植に一縷の望みをかけ、向峯家はじめ周辺の人間は皆、骨髄の型が合うか調べたが、誰一人移植に適合する人間はいなかった。さくらは探していた。智也の本当の父親を。ドナーの依頼をするつもりなのだろう。智也の父親もまた、再婚しているらしかったが、連絡を取っていなかったため、どこにいるのか見当もつかなかった。




さくらは手際よく髪をまとめ、ガウンを羽織り、消毒を済ませると、智也のいる無菌室に入った。智也は目を閉じている。


ベッドの横の椅子に、さくらはそっと腰掛けた。オーバーテーブルに、タッパーに入った何かを置いた。




「・・・さくら?」


智也がさくらに気づいた。さくらは優しく微笑み、おはよう、と言った。


「来てくれてありがとう。部屋に入るのに、手間かけて申し訳ないね。」


智也はそういうと、さくらに手を伸ばした。さくらはその手をとり、自分の頬に当てた。智也のその手には、力が入らないようだった。


「何か、持ってきてくれたの?」


「うん、、、ご飯、あんまり入らないみたいだから、ちょっと作ってみたんだけど、、」


どうかな?という顔をして、さくらはそれを智也に見せた。


「ミネストローネ。柔らかく、煮てみたんだけど、、」


「さくらが、作ってくれたの?」


「うん。だから、味は保障できない。」


お互い、顔を見合わせて笑った。


「食べたいな。ごめん、ベッド起こしてもらえる?」


さくらは慎重に、ベッドを少し起こした。智也は大切そうにタッパーを両手で包み込んだ後、食べようとしたが、さくらがそれを止めた。


「どうしたの?」


「えっ、、えっと、、、私が食べさせよう、かなっ」


さくらは赤くなって言った。


智也は驚いた顔をした後、じゃぁ、とさくらにスプーンを差し出した。その腕は、筋肉が落ち、さくらの腕とほとんど変わらないようだった。


さくらは自分で言ったものの、おずおずとなかなか食べさせられないでいると、智也が笑い、先に口を開けた。


さくらは震える手で、一口、智也にミネストローネを食べさせた。


「うん。美味しい。店出せるよ。」


「ふふっ、それは、言いすぎでしょ。」


智也は幸せを噛みしめるように、美味しそうに食べた。


「お礼に、さくらにキスしたいな。」


「えっ、、と、智っ、、?」


さくらが頬を染め、周りに誰かいなかったかとキョロキョロしていると、冗談だよ、と寂しそうに智也は言い、


「この部屋にいる意味が、なくなっちゃうよね。抱きしめるのは、いいかな?」


(そうだった、ここは無菌室だった・・)


さくらは泣きそうになり、バレないように智也の胸に自分の顔をうずめた。心臓の鼓動がする。ああ、今日も智也は無事だった。そうと思うと、堪えてた涙が溢れた。


智也はそっとさくらを抱きしめ、耳元で囁いた。


「さくら、愛してる。」


「智、、、私もっ、あなたが好きよ、、」


しばらくそうしたあと、智也が言った。


「あと、、、どれくらいかな?僕の命。」


「智・・・!」


さくらは顔上げて智也を見た。智也は、穏やかな顔をしていた。力の入らないその手で、優しくさくらの涙を拭い、


「あそこに、行きたいんだ。あの海に。さくらと一緒に。最期は、、連れて行ってくれないか?あの場所で、俺たちは始まったから。」


「智っ・・、智は死なないわ!私が死なせない!今、、あなたのお父さんを探してるの。ドナーをお願いしようと思ってる。」


智也は驚き、微笑むと、


「さくら、、、もう、いいよ。きっと、父さんは新しい家庭がある。そこに、僕の事で波を立てたくないんだ。それに、型が合うかどうかも分からないし、何より僕の体力も、、難しいと思う。」


「いや、、!私、あなたを失いたくないっ、、!!」


さくらは悲痛な叫びを上げ、智也にしがみついた。


「僕は、今最高に幸せだ。だって、さくらは毎日会いにきてくれるし、今日は手料理も食べさせてもらったしね。」


智也は優しく、さくらの頭をなでている。


「いくらだって、、!いくらだって食べさせるわよ。智のためだったら、、」


「ありがとう。嬉しいよ。さくら、手なら、いいかな?」


さくらが、えっ?と言うより早く、智也はさくらの手の甲に口づけをした。愛おしそうに、さくらのその手に自分のやせ細ったその手を絡ませた。


(もし、、、治らないなら、それでもいい。永遠に、この時間が続けばいい。神様っ・・!智をどうか連れて行かないでっ・・!)


「さくら、愛してる。何度言っても、足りないね。」


2人はいつまでも、寄り添っていた。




「ここに・・・何か、無かったですか?」


小児病棟に申し送りに来た湊が、ふいに掲示板を見て言った。そこは画用紙一枚分のスペースが、ぽっかりと空いている。篠川看護師が、どうでしょうねぇ、、と首をひねった。


「申し送りが終わったら、自分の仕事に戻りたまえ。外科は忙しいだろう?」


麻績先生が、にこりともせずに言った。


「もう、先生っ、そんなだから、小児病棟はだれも研修医が寄りつかないんですよ!」


篠川看護師が、麻績先生をものともせず、はっきりと抗議した。湊は、申し訳なくなって、すみませんと言い外科へ戻っていった。後ろで篠川看護師の声がする。


「もうすぐ、美奈ちゃんの半年後のフォローですね。麻績先生、心臓エコーされますか?」


何となく、「美奈ちゃん」という名前を、聞いたことがあったような気がした。




外科の休憩室に、さくらが戻ってきていた。泣いていたのだろう、目の下が赤くなっていた。


「さくら、、、大丈夫か?」


さくらはうつむいて答えない。湊は、隣の椅子に腰掛けた。


「今日ね、最期は、あの海に連れて行ってほしいって、言われたの・・」


さくらは涙を、湊に見られないよう、目を逸らして言った。湊も、さくらを見ない。


「あの海って、、葛西のか?」


「うん・・・」


さくらの肩が、震えている。その時が近いことは、医者である自分達が一番良く分かっていた。だから、なお一層さくらは辛かった。


「俺は、、、2人に何かできるだろうか。悔しいよ、救いたいから医者になったのに、救えないものが多すぎる。何もできなくて、、すまない。」


ううん、とさくらは小さく言った後、ありがとね、と呟いた。




湊は家に帰る前に、スーパーに寄った。食べる気がしなかったが、出来合いのものでもかって帰ろうと思っていた。


「今日は、おひとりですか?」


ウインナーの試食コーナーにいた、中年の女性に笑顔で声をかけられた。


「えっ、、?」


「あっ、あらいやだ。人違いだったかしら?ごめんなさい。あなたに良く似たご夫婦が先日、いらっしゃってね。奥様はウインナーを熱そうに頬張って、何だか可愛くて、とても幸せそうだったから、印象に残っててね。」


おまけするから!と、断る湊のカゴに、割引シールを貼ったウインナーを一袋、その女性は入れた。




家に着くと、さっきの試食コーナーの女性の一言が気になり、湊は椅子にもたれ掛かりじっと考えていた。ふと、高校のアルバムが気になり、それを手に取るとゆっくりとめくった。一枚の写真が落ちた。それは、葛西の海でさくらと智也、2人を撮ったものだった。この時はまさか、あの2人がこんな運命に翻弄されることになろうとは、思いもしなかった。弾けるような2人の笑顔。美しい夕日と、煌びやかにその光を反射する穏やかな葛西の内海。




ーーーーーめろん。




「・・・え?」


湊は、周りを見回した。誰かの声が聞こえた気がした。どうしようもなく切なくなり、胸が苦しく、涙が流れた。


「何を忘れてる、、、俺は?」


どんなに考えても、答えは見つからなかった。誰か、、部屋にいなかったか?一緒の時間を過ごさなかったか?この写真を、見せなかっただろうか。ずっとずっと考え続けているけど、それが分からない。




湊は寂しさに押しつぶされそうになりながら、ベッドにうつぶせに横たわり、その日なかなか寝付けなかった。




翌日、隣の部屋に、黒い服を来た人が出入りするのが見えた。おじいさんが小さな箱を大切そうに抱え、玄関から出てきた。


湊を見ると、涙で濡れたその瞳で少し微笑み、軽く会釈すると、そのまま黒服の人達と車に乗り、どこかへ走り去っていった。




(もしかしてーーー)


お婆さんが、入院していると聞いた。病状が思わしくなかったのだろうか。




あの2人が、仲良く朝の散歩をしていたのが思い出される。空を見上げると、もうすぐ夏が来ると告げるような、文句なしの青空だった。でもその空とは裏腹に、湊の心は暗く寂しさに覆われたままだった。




「麻績先生はいますか?」


湊が篠川看護師に聞くと、川崎病のフォローで心臓エコーに行ったので、もうすぐ戻ってくるとの事だった。湊は次の心臓弁膜症の患児のオペの件で、小児科に来ていた。と、廊下の端に麻績先生が見えた。自分達スタッフには見せない笑顔で、女の子とお母さんと楽しそうに話しながら、こちらに向かっている。


湊をちらっと見ると、少し待つように手で合図し、その川崎病の女の子とお母さんに話を続けた。


「また、次の受診で診ていけば大丈夫でしょう。美奈ちゃん、お母さん、頑張ってるね。」


お母さんは嬉しそうに微笑み、美奈ちゃと呼ばれたその子も可愛らしい笑顔で、はぁい!と答えていた。その愛らしさに、ナースステーションに笑いがおこる。


すると、女の子はあたりをキョロキョロ見回し、誰かを探しているようだった。


「美奈?どうしたの?」


「んーー、いないの!」


美奈ちゃんは寂しそうな顔をしている。麻績先生とお母さんは、不思議そうに顔を見合わせた。篠川看護師さんかしら?とお母さんは言い、呼ばれた篠川看護師が美奈ちゃんにこんにちは!と話しかけたが、まだ美奈ちゃんは首をかしげ、誰かを探していた。


「うーーー、絵!かくの!」


「えっ、美奈、お家に帰ってからにしましょう。先生たちは忙しいのよ。」


「いや!いや!!」


美奈ちゃんは泣き出しそうな顔で、言った。篠川看護師が、いいですよー、と笑顔で言って、これでいいかな?と、ナースステーションにあった画用紙と色鉛筆を差し出した。すみません、と言いながら母親はそれを受け取り、キッズスペースでお絵かきをさせた。美奈ちゃんは迷うことなく、黙々と何かを書き続けている。湊はそれが気になって仕方がなかった。




「古賀君。聞いてるか?」


「あっ、、、すみません!」


麻績先生に睨まれて、湊は慌てて言った。


(申し送り中だ。何をぼーっと、しているんだ)


「あい!」


美奈ちゃんは、湊にその絵を差し出した。


「えっ、、、俺に?」


「何だか、美奈が聞かなくって。良かったら先生、もらってあげてください。それにしても・・・誰かしら?何だか、私、知ってる人のような気がして・・・」


美奈ちゃんのお母さんはうーん、と考え込んだが分からなかったようで、少し納得いかない表情を浮かべながらも、ありがとうございました、と言って帰ろうとした。その時、美奈ちゃんが、


「いた!!」


力強く湊に向かって、そう言った。


湊は、美奈ちゃんの声に促されるように、その絵に視線を落とした。


そこには・・・黒髪を一つに結んだ、女性の医師らしき人物が描かれていた。




ーーーガタッ!!!!


「古賀先生っ!?」


湊は頭を抱えて、その場にうずくまった。息が苦しい。頭が痛い。全身に、鳥肌が立った。切なくて、愛おしい。


それは、あの時踏切に飛び込んだ、あの気持ちに似ていた。


(俺は、、、俺は、、!!このひとを、知っているーーー!!)


麻績先生が驚いて、慌てて駆け寄り、大丈夫か?と聞いた。


湊は肩で息をしながら、大丈夫です、と言い、机につかまり、ゆっくりと立ち上がった。


「篠川さん、、ひとつ、頼んでもいいでしょうか?」


「えっ、、何ですか?」


「この絵を・・・、あそこに。飾っておいてくれませんか?お願いします。」


湊は、掲示板の空いたスペースを指差して言った。その手は震えていた。


いいですよ、と言うと篠川看護師はその絵を飾り、あら、ここにぴったりだわ、と少し驚いて言った。




その絵は何の違和感もなく、まるで以前からそこにあったようにぴたりと馴染んだ。


ただ、湊は、その絵には前にあった何かが無くなっているように思えた。




休憩時間になり、湊が外科の狭い休憩室にいると、ガラガラと何かを引っ張ってくる音が聞こえた。


「しばらく、泊まるわ私。」


さくらがスーツケースを引っ張り、控え室に来たのだ。


「・・智也に付き添うのか?無理は、するなよ。俺も顔出すから。」


「うん、ありがと。湊が智の様子見に行ってくれてるの、知ってる。私は大丈夫。家に独りでいる方が、落ち着かないから。」


「・・そうかもな」


湊は、聞こうかどうか迷っていたが、さくらに、聞いた。




「あのさ、、、こんな時に、悪いんだけど、、、」


「どうしたの?深刻な顔をして。というか湊、沖縄から帰ってきてから、ずっと変よ。」


「そうか?、、そうかもな。なぁ、俺、どうして沖縄に行ったんだ?」


えっ、とさくらは驚いて、


「確か、全身打撲でしばらく休め、って言われて・・・、旅行でも、しようかって感じじゃなかったっけ?ダイビングはまだ無理だけど、って言ってたくせに、私の縫った傷、見事に悪化させて帰ってきたわよね。」


さくらが少し睨んで言った。


「・・・本当に?」


「えっ?」


「おかしくないか?怪我して休むのに、そんなに遠くに、無理して行かないと思うんだ。あの時、、どうしても行かないといけない、理由があった気がする。」


さくらは、眉間にシワを寄せて考えている。そして、携帯を手に取ると、卒業記念で行った昔のディズニーランドの写真を見せてきた。


「実はね、、私も、何だかおかしいなと思うことがあって。智に写真をこの間見せたんだけど、、。ねぇ、ディズニーランドって、誰か他にも一緒に行ったわよね?湊と2人、、じゃなかったなって思うんだけど、ほら、不自然に空白があるの。そこに誰かが写っていたように。でも、その誰かは、どこにも写ってないの。」


私ーーーー、とさくらは言うと、少し間をおき、湊を真っ直ぐ見て言った。


「何かが、足りないような気がするの。大切なもの。ねぇ、何か、、、何か、私達忘れてない?こんな言い方、狐につままれたようで、おかしいかもしれないけど、、どう考えても自分を納得させることが出来ないの。」




湊は、はっとした。


スーパーで、今日は1人?と聞かれたこと。


いた!という美奈ちゃんの言葉。


掲示板にぴたりと合うあの絵。


黒髪のーーーあの女性。




沖縄だ。


一人じゃなかった。


誰かと行った。


あそこから何かが消えた。


砂浜で感じたどうしようもない焦燥感。あれは、大切な何かを失ったものだ。




ピリリリリリリリ


さくらの携帯が鳴った。今は休憩のはずだが、さくらは慌ててそれに出ると、真っ青な顔になって、休憩室から走って出て行った。




(智也か!?)




湊は、さくらの後を追って血液内科に走った。


「血圧は!?アドレナリン準備!補液全開で!」


「先生っ、、不整が出てます!AF(心房細動)です!」


「除細動用意!・・・離れてっ!!」


やせ細った智也の身体が、大きく跳ねた。


「戻りません!」


「もう一度!!」


さくらは、病室に入れずに、外で涙を流し、でも目は決して智也から離さなかった。湊も叫びたい気持ちを押し殺し、さくらの隣にいた。


早い対応の甲斐あって、何とか心拍は戻ったが、ここ数日だろうと、悲痛な宣告がなされた。さくらは家族に連絡をとるよう、言われていた。




「・・・さ、、くら、?」


かすれた声で智也が言った。日の出の時間だろうか、外は少しずつ明るさを増している。さくらは、智也のそばにずっと寄り添っていた。


「・・・智!!」


さくらは智也の細い手を、優しく、力強く握った。


「さくら、、、」


「ごめん、智、私っ、、何もできなくてっ、、」


さくらが嗚咽を上げて泣いている。


「してくれてる。僕には、充分すぎるくらいだよ、、、」


智也は微笑んでいるようだった。


「さくら、、。社長を、君のお父さんを、、許してあげてね」


「え、、」


「嬉しかった、て言ってた。僕を、、養子で迎えられれば、さくらを自由に、好きなことをさせてやれる、、って」


さくらは目を見開いた。そんな言葉、父親から聞いたことなかった。


「周りのプレッシャーが、、結構、すごかったらしい。さくらは頭もいいし、、人の上に立つのにも、向いてる。会社を、継いでほしいと、、親族からは相当圧力かけられたって」


「そうだったの?そんなこと、一度も、、、。じゃぁ、智は、私を守るためにも、この道を選んだの、、?」


さくらの語尾が、震えていた。智也は微笑み、


「社長がね、、僕がさくらを愛してる、って言ったとき、どうしたと思う?」


「・・・分からない」


「僕に、、土下座したんだよ。すまなかった、気づけなかった。父親なのに、さくらの気持ちすら分からなかったなんて、自分は父親失格だ。会わせる顔が無い、って。」


「・・・本当に、、?」


信じられない。自信家で、自分の事など気にもとめない、あの父親が?


「さくら。さくらは、皆に愛されてるんだよ、、大丈夫。一人じゃない。僕がいなくなっても、支えてくれる大切な人は、周りにたくさんいるんだ。」


さくらの綺麗な瞳から、大粒の涙が後から後から流れ、握りしめている智也の手に落ちた。


「さくら、、、お願い。あの海に、君と行きたいんだ。」


「智っ、、、智也っ、、!」


経過観察に入った看護師が、思わずそっと部屋から出るくらいに、さくらは人目もはばからず号泣していた。人生で、こんなに涙を流したことがあっただろうか。この人を失いたくないーーー悲痛な想いを言葉にする事は無く、ただ涙だけがとめどなく流れていた。




『お願いがあるの。』


さくらが、湊に言った。湊にしか頼めないと。




あの後、智也の病室にさくらの父親と、智也の母親ーー咲妃さんが入った。意識のあるうちに、会っておくようにと、主治医から言われたのだ。さくらは、病室の側から離れなかった。




長いーーーー、どれくらいの時間がたっただろうか。




病室から、2人が出てきた。さくらの父親はやっと立っている咲妃さんの肩を支えるようにその両手を添えている。


2人とさくらは目があった。


「さくらさん、、、智也をよろしくお願いします。」


咲妃さんは震える声で言った。


「さくら・・・!すまなかった!私は、取り返しのつかないことをしてしまった・・!2人に、、おまえと智也に、なんて詫びたらいいのかっ、、どうして私は・・・!なぜ気づかなかった!?どれだけ、後悔しても、悔やんでも、、遅かった、、、」


父親は視線を床に落とし、額に手を当て、一言一言、絞り出すような声で叫んだ。


「・・・お父さん。」


さくらに呼ばれ、父親ははっと目線を彼女に向けた。父親がさくらに、そう呼ばれたのは、いつぶりだったろうか。さくらも涙を流していたが、その瞳は悲しみの中にも、穏やかな色を放っていた。


「私もね、いろんな事に気づくのが遅すぎたの。やっぱり、、親子だね。」


「さくら・・!」


ふふっ、とさくらは微笑んだ後、真剣な表情になり、父親と咲妃さんに言った。


「智を、、、あの海に連れて行っても、いいでしょうか?彼が、望むことをしてあげたいんです。」


さくらははっきりと、真っ直ぐに2人を見て言った。咲妃さんが先に、お願いします、と言って頭を下げた。父親は黙って、頷いた。




湊は病院の介護車を裏口に回していた。智也を乗せるためだ。ハンドルを壊れそうな程、強く握りしめている。


(智也ーーー!!)




『湊は、さくらと幼なじみなの?羨ましいなぁ』


『んあ?』


高校の屋上で、焼きそばパンを頬張りながら、湊は不思議そうに智也を見た。そんな湊の視線に慌てて、


『いや、、僕の知らないさくらは、どんなかなぁ、なんて思ってさ。』


『・・・ははぁ』


『なっ、なんだよ!?』


『いい奴だけど、なんせ気が強い。尻に敷かれるぞ。俺はあいつを、女子だと思えないが、思ってくれる奴が現れて良かった。』


『なっ、、、さくらは可愛いよ!確かにはっきり物を言うし、気が強そうだけど、、!本当は、そんなに強くないと思う。』


ニヤニヤする湊の隣で、智也が赤くなって言った。


『あっ!こんな所にいた!』


ドアからひょっこりと、その可愛い顔をのぞかせてさくらが言った。


『うわ!!』


『なっ、、何?そんなに驚いて』


いつもは落ち着いた智也の叫び声に、さくらは驚いて言った。湊が笑っている。


『男同士の話だよな!なぁ』


『う、うん、、』


言うなよ?という目線を湊に送りながら、智也は頷いた。


『まぁ、さくらは男みたいだから、仲間に入れてやってもいいぞ!』


『はぁ!?あんたはいつも一言多いのよっ!この筋肉バカ!智を見習いなさい!』


『ちょっと、、2人とも、、』


チャイムの鐘が鳴った。3人は慌てて、教室へバタバタと戻った。




「高校の時が、昨日の事のようね。」


さくらが言った。智也は目を閉じている。会話は聞こえている様子だった。


「3人でドライブだ!しっかりつかまってろよ!」


「こらこら、運転手さん。安全運転でお願いします。」


その言葉とは真逆に、湊は慎重に車を葛西の海へと走らせた。智也は、微笑んでいるようだった。




今まさに、夕日が沈もうとしていた。あの写真を撮ったときのように、この世の何よりも美しいのではないかと思わせる輝きを、これでもかと惜しげもなく放っている。その煌びやかさとは対照的に、穏やかな波の音が辺りに聞こえていた。




湊が慎重に智也を抱きかかえ、砂浜に腰を下ろしたさくらの隣に、そっと座らせた。あまりに軽いその体重に、湊は2人に背を向け、泣いた。もたれかかるようになった智也の身体をしっかりと支え、さくらは夕陽に目を向けていた。




「智、、、見える?」


智也がその声に、うっすらと目を開けた。水平線へ沈もうとしてい夕陽が、さくらと智也を優しく照らした。


「ああ、、、、。きれいだ。あの時の、、夕陽と、一緒だ、、」


さくらは智也を抱きしめた。


「ありがとう。さくら、、。君に会えて、良かった。愛してる、、。」


智也は呼吸が苦しそうだった。かすれるような声で、必死にさくらに話しかける。


「私も。私も、智也を愛してる。素直じゃなくて、ごめんね、、、。」


泣き笑いのような表情を浮かべて、さくらは言った。智也がふいに、さくらの耳元で何かを囁いた。え?という表情を浮かべたさくらの頬に手を当て、どこにそんな力が残っていたのかさくらを力強く引き寄せ、キスをした。


「大丈夫だよ。さくら。僕は君を、見守ってるよ・・・」


智也の手が力なく落ちた。一息、深呼吸したかと思うと、微笑みをたたえながら、もう二度と息を吸うことはなかった。


「智、、、?」


さくらが智也の肩を揺らした。彼は動かない。さくらは、起こっている事が頭では理解できても、感情がそれを拒絶していた。


「智っ・・・!!智也ーーー!!」


静かな波の音の合間に、さくらの叫び声が聞こえる。夕陽が沈み、その明るさを失い始めても、3人はそこを動けなかった。




波は、引き潮だった。


そのはずなのに、黄昏の夕陽が水平線に沈もうとしたその時、すうっと長く静かな波が、さくらと智也のその場所まで届き、2人の足元を濡らした。

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