第13話 波のいとまへ

「何か食べないか?」


予約してあったホテルにチェックインして一息着いたとき、湊が言った。そうだ。今日はまだほとんど何も口にしていない。食欲なんて無かった。




「大丈夫。少し、休みたい。湊ごめん、何か食べてきて。」


「いや、その辺で買ってくるよ。ちょっと待ってて。」


湊は優しく言うと、すぐ帰ってくるからと言って部屋を出て行った。




私はーーーーー


湊が出て行ったのを確認して、ベッドから起き上がり、ドアを開け、タクシーに乗り込んだ。


「濱之下診療所へ」


タクシーのメーターがついた。もう閉院していても昔その診療所は、島の中では数少ない医療機関であり有名で、私もよくお世話になったものだ。最北端に位置する診療所は、奄美大島から最も近い場所だった。辺りは暗くなり始めている。東京と違って、人工的な光はまだらに点在するだけで、月明かりが煌々と輝き、どこまでも続く漆黒の海は、静かにその光りを反射していた。


(ごめんね、、湊、さくら、、、)




ゆっくりと、タクシーは濱之下診療所に到着し、私は代金を支払って車から出た。


診療所は、廃墟と化していた。


木の葉の積もる診療所までの道を、踏みしめながら歩く。昔、門だったところをくぐり抜けたその時、風景が一変した。


そこは、昔の診療所だった。廃墟ではない。建物自体は古かったが、きちんと手入れされ、掃除が行き届いたあの診療所だった。


そこに、彼はいた。


向こうを向いている。




「・・純!!」


私は彼の名を呼んだ。ゆっくりと彼が振り返る。その瞬間、身体が震えた。


彼は穏やかな笑顔を浮かべていたが、昔とは違う黒く禍々しい危険な気配を発していた。


「澪。おかえり。思い出した?」


ゆっくり、私に近づいてくる。私は少し後ずさりしながら聞いた。


「純・・・!あなた、何者なの?ずっと、あなたのこと大切に思ってた。でも、、、」


言いたくない。でも、聞くためにここに来た。


「私、、私の記憶が欠けているのはっ、、あなたが関係あるのっ、?」


純は、いきなりその右手で私の頭を掴むと、強引に側にある椅子に座らせた。その顔を、息がかかるほどの距離まで私の顔に近づけ、


「だめだよ澪。君は、僕のものなのに。君も、それを望んだんじゃないの?忠告を聞かず、浜下りもせずにね。」


声を出そうとしたが、何も言葉にならない。頭の中に勝手に映像が流れてくる。涙が流れた。




『おばあ!男の子がいるよ!』


小さい頃の私だ。


『なにを言うとるか。まったく、、』


おばあは本気にしない。仕事があるから、行くぞと言い、その場を離れていった。でも、その私の近くには、、まだ小さな純がいた。


『純は、誰にも見えないの?』


純は、少し困ったような顔をして、


『どうかな?そんな事より、澪、遊ぼうよ。』


『うんっ!』


小さい私は嬉しそうに純と遊んでいた。




そうだ。確かに、小さい頃から純はいたのだ。いつもふいに現れて、私と遊んだ。周りの人には見えなかった。不思議とそんなものかと、自分は納得していたのだ。だれにも見えなかったので、純と遊ぶことを他の人に話さなくなっていった。




『あの子は、親を無くしているから、自分の味方、支えてくれる存在を、自分の想像で作り上げているんだろうね。かわいそうに、、、』


誰かに話す、おばあの声が聞こえる。




そして、日々は流れ、私は高校生になった。純と、濱之下診療所の近くの、あの小高い丘で話している。




(・・嫌だっ、、、!!!)




その日は、雲一つない晴天だった。


純は、私に手を伸ばした。


驚く私に口づけをし、そのままそこに押し倒した。私は抵抗しようとしたが、なぜか身体に力が入らず、自分の気持ちとは裏腹に、されるがままになっていた。叫ぼうとも声が出ない。出るのは、熱にうなされたような、喘ぎ声だった。




(嫌!見たくないっ、、!やめてっ、、!!)




「どうして?僕とするのは、人間ならこの上ない快楽だったろう。澪の顔は恍惚として美しかったのに。君は、それに溺れてよかったのに。」




どれくらい、時間が経っただろうか。


喘ぐ高校生の私の瞳には、涙が溢れていた。ふいに、大きくのけぞったかと思うと、純の動きもゆっくりとなり、事が終わったようだった。私は静かに涙を流し、次第に声を上げて泣き始めた。純を責めているようだった。純は言った。


『ごめん・・、澪。無かったことにしよう。そんなに泣かないで。』




純は、さっき診療所に着いた私にしたように、右手で高校生の私の頭を掴んだ。私は一瞬の後、力無くそこに倒れ込み、気を失ったようだった。


次に目を覚ましたとき、、、私は、何もなかったかのように純と笑い合っていた。何も、覚えていないようだった。




私が、おばあと話してる。ああ、あれは、、、おばあと最期に話した日だ。


『浜下りって、毎年しないといけないの?今日は、友達と約束したの。今度じゃ、だめ?』


『澪、、、今日は海に行かねば。』


『何で?』


『・・・純、とか言ったか。』


おばあは悲しそうな顔で言った。


『まだ会っているのか。会うなと言ったのに。あれを、、、澪は拒絶できないのか?』


『どうして?純は、優しくて、、、みんなも、、婚約者だって・・・言ってるじゃない・・・』


最後の方の言葉は、まるで、誰かに言わされているようだった。




何かとり憑かれているように、純君の事が話題に出るーーーー


さくらのあの言葉。




『澪!!』


おばあは涙を流しながら、私を抱きしめている。


『澪、ぬちどぅ、たから、命を大切にしなければ。純は、、澪が思っているような優しい存在ではない!』


『・・おばあのばかっ!!』


『澪っ!!』


私はおばあの手を振りほどき、逃げるように走っていった。


『澪。お前のことは、おばあが、守る。約束した分もな。あいつの存在を・・気づくことができなかった、、私の責任だ。澪、すまない。』


おばあはそう言うと、海に向かって歩き出した。




おばあの家系は、ユタの一族で、おばあが最後の血筋だった。古くは神秘的な力を持っていて神託を宣伝するものであると信じられており、現代においては人々から相談や除霊的なことを行っていた。元々、ユタは血筋とは無関係に、生まれ持った能力が高く、修行をしてなれるかどうかが決まるのだが、おばあの家系は例外に、生まれるものは皆、能力が高かった。


自分も遠縁にあたるので、ユタになるのかとおばあに聞いたことがある。


『ユタは、自分の代で終わり。澪は、自分の好きな事を、思いっきりしたらいい。』


おばあはそう言うと、そのしわしわの手で私の頭を優しく撫でてくれた。




旧節句のその日、浜辺にーーーーーおばあがいた。


そこはいつもなら、浜下りをする観光客や地元の人で賑わう場所だったが、その日は人っ子一人いなかった。晴天から、嘘のように暗雲が立ち込め、今にも嵐(雨)になりそうだった。夏とは思えないひんやりした風が吹いた時、彼は現れた。純は、、波の上にまるで浮かぶように立っていた。


『純とか言ったな。お主、、随分と力を押さえ込まれているようだが、あのアカマターだろう?気配が小さく、、気づけなかった。』


悔しそうに、おばあは唇を噛んだ。


『澪は来ないの?』


純は、おばあの問いかけには答えずに、そう心配そうに無垢な表情で言った。おばあは答えない。


『来ないの?、、、じゃぁ』


純が、一転し不気味な笑いを浮かべた。


『僕の思うように、していいってことかな?』


『ふざけるな!澪をコントロールして、意のままに操ったな。澪の母親・・・澪月(みづき)を殺したこと、澪まで巻き込んだこと、許さない!』


純は、天に向かって右手を上げた。


『老いぼれが、何ができるの?澪月が裏切ったから、澪をもらう。その何がいけない?』


そのとたん、豪雨が降り出した。おばあはその場に立っているのがやっとのようだったが、何か唱え始めた。




『させるか!代々、僕の邪魔ばかりして!ユタの家系など早く途絶えてしまえ!』


純が大きく腕を振り下ろす。十メートル以上はあろうかという大きな波が、突如現れおばあを飲み込んだ。




(おばあ!!!)




あたりが嘘のように静まり返る。




(おばあ!そんなっ・・)




純が不敵な笑いを浮かべた。


と、その時ーーー波から、水がまるで手のような形になったものが3本、純をとらえた。


『お前ら!!離せ!!』


純は抵抗したが、その手は決して純を離さなかった。純を海に引きずり込もうとしている。徐々に純の身体が海に沈む。




おばあの声がこだまする。


(今まで、澪月とその夫の力で、お前は奄美から出られないと思っていた。だが、、抜け道を見つけて澪に会いに来ていたんだな。いつも、澪を見ていたんだろう。澪月に良く似たあの子を。それも今日で終わりだ。私の全てでお前を封印する!)






純が、恐ろしい断末魔を上げて海に飲み込まれた。


その瞬間、時が止まった。波も雲も止まっている。生き物達も、空気でさえその全ての息づかいを沈黙させているようだった。


と、波が物凄い勢いで引いていき、そこには。純がうつぶせで倒れていた。純は、動かなかった。


しかし、どれだけ時間が経っただろう。純のその指先が、ピクリと僅かに動いた。




そして、辺りが濃い霧に覆われたように、真っ白になった。


純の記憶が脳裏に流れてきた。




『澪月!』


そこは、奄美だった。澪月と呼ばれた女の子・・高校生くらいだろうか、振り返ってにっこりと微笑んだ。黒いつやのある黒髪が美しい、女の子だった。


(私に、、似てる。お母さん、、?)


そして、澪月と呼んだのはーーー、純だった。浜辺で、2人は仲良さそうに話している。


『私ね、一年間沖縄本島へ修業に行くの。立派なユタになろうと思うの。お母さんみたいに。』


澪月はにっこり微笑んで言った。


(え・・・、「お母さん」?)


澪月、私の母親は確かにそう言った。おばあとは、遠縁の親戚と聞いていた。おばあは、私の祖母だったのだろうか?なぜ、そんな大切な事を隠したのだろうか?


『澪月・・・。そうか。』


純は、寂しそうにそう言った。


『帰ってきたら、真っ先に純に報告するからね!待っててね。』


『ああ、、、俺はずっとここで、奄美で澪月を待ってる。』


そういうと、純は澪月を抱きしめた。澪月は驚いた顔をしたが、頬を染めて純の背中へそっと手を回した。






おばあと、澪月が浜辺にいる。


澪月は、泣いていた。


しばらくの後、決心したようにそっと、砂浜を踏みつけ、恐る恐る海水へ浸かった。


『これで、おまえは清められ、ユタの力が増す。あれはお前に手出しできない。奄美からも出られない。あれは、我が一族が代々抑え込んできたものだ。辺境の、神となり得なかったもの。災いをもたらすもの。知らなかったとはいえ、ユタの一族として許されるものではない。』


『お母さん・・・』


『師匠と呼べと、前から言っておる!』


『・・・師匠』


師匠、、おばあは、そっと砂浜に座り込む澪月を抱きしめた。澪月は泣いていた。




『澪月・・・浜下りは済んだの?』


澪月と同じくらいの年齢の、同じ胴着のようなものを身に着けた男の人が心配そうに聞いた。


『うん・・・。修行も、今日で終わりだね。恭介は、本州に戻るの?』


恭介と言われたその人物は、澪月と一緒にユタの修行を終えたところのようだった。


『いや・・。俺、さ。』


恭介はいったん言葉を切り、澪月をじっと見つめた。澪月は不思議そうな顔で恭介を見ている。


『俺、澪月が好きだ!結婚して欲しい!』


『えっ!』


澪月は驚いて目を見開き、真っ赤になった。でもそのあと、悲しそうな表情になり、


『私、誰かに愛してもらう資格、ないもの。ユタの家系なのに、気づかずにあれに恋をしてしまった。』


『それは、答えになってないよ。そのことは、これからの澪月には関係ない。』


『恭介・・・』


恭介は、そのまま沖縄に残った。澪月と結婚したのだ。


満月の旧節句の良夜、澪月は子供を産んだ。その子は「澪」と名付けられた。傍で、恭介が嬉しそうに「澪」を抱きかかえている。澪月は幸せそうだった。


『頑張ったね、ありがとう。とっても可愛い、澪月にそっくりだ!』


澪月はふふっと笑い、


『恭祐、あなたに目元が似てるわよ。私、、幸せよ。』


3人は抱き合い、幸せをかみしめている様子だった。




だが、そこへ・・・


純が、突然現れた。現れた、というより、気配を感じたという言い方が正しいのだろうか。ぼうっとした光をまとわりつけ、そこにいるのにいないようだった。


『・・・澪月ぃぃっ・・・!!』


恐ろしい低い声で純は言った。澪月は青ざめ「澪」をしっかりと抱きしめ、震えていた。澪月の夫ーー恭祐は、私達を守るように間に立っている。


『次の満月の晩・・・!!その娘をもらいにくる!おまえが裏切った代償を払え!!代々僕を奄美に閉じ込めてっ・・・許さないっ!!!』


純のその形相は、今まで私が見たことのない恐ろしいものだった。


『ふざけるな!澪月も澪もおまえには渡さない!神にもなりえる立場のお前が、人に執着し我がものにしようとは、恥ずかしいとは思わないのか!!』


恭祐が何か唱え始めた。それは、おばあが砂浜で最期に唱えたあれに似ていた。


『あなたっ・・・!!!』


澪月が悲痛な叫び声をあげる。


次の瞬間、恭祐の姿はそこには無かった。


『夫を返して欲しくば、満月の夜、浜下りの場所に娘を連れてこい。交換してやろう。』


澪月が何か喋ろうとしたが、その前に純もまたその姿を消した。




『なんだと・・!?』


おばあが驚いた表情で言った。


『お願いします。よく考えたけど、師匠しかお願いできる人がいないんです。』


澪月はそういうと、私をおばあに託し、立ち去ろうとした。澪ーー私は、おばあの腕の中で泣き出した。


『澪月っ、、、澪月っ!!』


おばあの目からは、涙が溢れていた。


澪月は立ち止まると、後ろを振り返らずに言った。


『もう、、ユタは私の代で終わりにしたい。お母さん、澪には好きなことをさせて欲しいの。私の今一番大切なのは、澪と、恭祐。純に・・・彼に、恋をしてしまったこと、ごめんなさい。その責任は、私がとります。』




澪月はそう言うと、振り返らずに浜辺に向かった。おばあは私をしっかりと抱きしめたまま、その場にうずくまり泣いていた。




浜辺に、純がいた。約束のその日の満月がすべてのものを照らそうと、煌々と輝いている。


『澪は?なぜ、連れてこない?』


ぞっとするような微笑みをたたえて、純が言った。


『純。今日で終わりにしよう。私、あの日奄美に行ったの。』


純が、少し驚いた表情で言った。


『・・・嘘だ!!今更何を言っている!?』


澪月は悲しそうな表情で、話し始めた。


『あなたに報告に行ったの。修業が終わったって。それと・・・あなたに恋をしていたこと。だけど、ユタの私とあなたは相反する存在。力をつけた私は、あなたの存在と反発しあい、どんなに探しても会えなかった。』


澪月の頬に一筋の涙が流れた。


『あなたのことが、好きだった。でも、探しても探しても、会えなかった。私の血筋が、会わせないようにしたのだと思う。それで、分かったわ。やはり、住む世界が違う、一緒の時は過ごせないって。人として自分の人生を生きよう、そう思ったわ。そして、全てを分かった上で、恭祐は私と結婚したの。私、、、そんな恭祐を愛してる。』


純が、じっと澪月の話を聞いている。


『澪を産んで、私の力が澪に流れたから、今こうしてあなたに会えた。純、、、私が海となり、あなたとずっと一緒にいる。だから、恭祐を返して・・!澪に手を出さないで!あの子は関係ない!!』


気づくと、大きな波がすぐそこまで迫っていた。澪月も純もそこを動かない。波は地響きのような音を立て、2人を飲み込んだ。


その波が引いたあと、そこには。


赤子になった純がいた。




また、あたりが真っ白になった。


その霧が晴れた時、周囲はあの診療所だった。


後ろに誰かの気配がした。




振り返らなくても、そこにいるのが誰だか分かった。




湊だった。




「来たんだ。よくここに来れたね。」


純が目を細めて言った。私は、怖くて振り返ることができない。湊は、一体どこから見ていたのか。背筋が冷たくなった。




突然、高い声で純が笑い出した。


「なんて顔をしてるの?君も、良かっただろう?澪を抱いてさ」


私の頬をーーーー、冷たい涙が流れた。


湊に見られた。


消えてしまいたいと思った。




「ふざっ、、けるなっ・・!!!おまえは絶対に許さないっ!!!」


怒りを吐き出すように叫ぶと、湊がこちらに走ってくる音が聞こえた。


純は、唇の端で笑い、次の瞬間、そこは診療所ではなくあの浜辺になっていた。




湊は浜辺に、純は波の上に浮かび、私は純に左手首だけを掴まれ、今にも海に落とされそうだった。


「澪っ!!!」


湊が青ざめた顔で叫ぶ。


「彼女は僕のものだよ。誰にも渡さない。」


左手を持ち上げ、自分の顔を私に近づけて言う。湊が海に入って私を助けようとするが、何度しても波に押し戻され、砂浜に戻っていた。湊が叫ぶ。


「お前は・・・お前が愛しているのは、澪の母親だろう!澪を、母親に重ねるな!彼女の人生は、彼女のものだ!!」


「何を分かったようなことを。」


「澪のことも、、、お前のしたことは、許さない!!だけど、本当は、、本当は、ずっと見守っていた澪を、大切に思っていたんじゃないのか!?」


「・・何が言いたい?」


湊は、一瞬言葉を飲み込んだが、一言一言、確認するように純に向かっていった。


「なぜ、、、記憶を消した?お前は澪と、一緒にいたいから、澪に嫌われるのが怖くて記憶を消したんだろう?


なぜ、誕生日に帰ってこいと、浜下りをさせるように仕向けた?自分の中のその欲を、抑える為だったんじゃないのか?ただ澪を手に入れるだけなら、そんな事しない方が都合良かったはずた。お前はっ、、」


湊は泣いていた。


「お前は、澪に愛されたかった!そうだろう!?」


純が、固まるのが分かった。




(僕は、僕はーーーー、)




海がざわめく。次第に海は荒れ、高波が浜辺に押し寄せる。




『おばあが!!!おばあが帰ってこないのっ・・・私っ、私っ・・、』


澪は・・・、祖母が海に消えたとき、半狂乱になって何日も泣き続けた。


祖母を亡くし、泣き続ける澪の傍に、ただ居ることが日課になっていた。


居場所をくれてありがとうと、涙にぬれた瞳で澪は自分に言った。


しばらく月日が流れ、彼女が笑ってくれると、なぜかそれだけで満足だった。


その笑顔を、ずっと見ていたいと思った。




純は思った。




そうだ。あの時からいつも澪に言い聞かせていた。誕生日、旧節句には、浜下りをしろと。高校を卒業し、沖縄を離れるときも、必ず帰ってこいと言った。




驚いた。


自分で思ってもみない言葉が口をついて出たのだ。自分の口からその言葉が出たことが、不思議でならなかった。


自分は奄美から離れることは出来なかったが、澪をいつでも見ることができた。浜下りをすると澪は清められ、ユタの力が増し、手を出すことが出来なくなる。


でも、なぜかそれでも良かった。もう、澪を泣かせたくなかった。




一方で、自分がなぜこんな小さな存在の、ただの人間に振り回されるのか。


なぜ、澪を手に入れたいと思うことをこんなにも邪魔されるのか。


彼女の心はなぜ自分だけのものにならないのか。


常に葛藤していた。




それはーーーー、


この男が言うように、ただの人間である彼女に、愛されたかったということか?




「澪を、大切に思うなら、返してくれ!!浜下りをしろと澪に言った、あの時の、、自分の中のその声に、耳を傾けてくれ!」


湊は必死に訴えていた。その額は、傷口が開いたのか、ガーゼが真っ赤に染まるほど流血していた。




(湊・・・・)


私は、あの日を思い出した。


おばあが必死に自分を守ろうと浜下りしろと言ったのに、自分はそれをしなかった。結果、おばあが犠牲になった。


自分を守ろうとした母と父の想いも、踏みにじっている。


そして私は、、湊にふさわしくない。こんな自分を、彼に見られたくない。消えたい。




眼下の荒れ狂う海を見た。


ああ、この波に。




『澪は、海に好かれてるみたいで』




おばあを見殺しにした自分の罪が、少しは軽くなるかしら。


最期のユタである自分は、純を抑える事ができるだろうか。


そうしたら、少しでもきれいなものに生まれ変われるだろうか。あの、奄美の海のように。




「・・湊。ありがとう。」


澪はそういうと微笑んで、呟いた。


純のその手を振りほどき、自分から波間に消えていった。


 


叫ぶ湊。


気が狂ったように海に飛び込もうとするが、海は頑なに湊を拒んだ。




純は呆然とし、動かなかった。




波が落ち着き、そこには湊と純だけが残った。湊は砂浜に泣き崩れている。濡れた湊の身体は、傷口が開きいたるところ真紅に染まっていた。




「試してみようか。」




純は、言った。




「自分自身とお前を。」




湊はーーー、


砂浜に仰向けに寝転がっていた。朝日が登る。地元の漁師だろうか、心配して駆け寄ってくる。


「どうした!?大丈夫か?兄ちゃん、こんな所でなにしてる?すごい傷じゃないか!」


湊は、何も答えられず、頬には涙が流れていた。


「分からない、、俺は、なぜここにいる?」


湊は記憶が消されていた。澪といた、その記憶が。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る