第8話 思い出の場所

(今頃、デート盛り上がってるかしら。)


大人の雰囲気の漂うバーで、さくらは1人カクテルを飲んでいた。一面の窓からは、銀座の夜景がそのバーの雰囲気へ美しく彩りを加えていた。


さくらはふと、焼き肉を食べたからにおうかなと心配になり、自分の服のにおいをかぐ仕草をしたとき、


「向峯様。お連れ様です。」


店員に声をかけられ振り返った。


そこには、さくらより少し年上だろうか、その銀座のバーによく似合う雰囲気の男性が立っていた。隙が無い雰囲気の彼は、グレーのスーツを着こなしており、自分に似合うものを良く分かっているようだった。美しいさくらと、その男性はお似合いで、だれがどう見ても間違いなく絵になっていた。


「さくら、どうしたの。洋服のにおいなんか気にして。」


男性が優しく言った。さくらは微笑み、言った。


「上ハラミがね、とても美味しかったのよ。」


隣にその男性が座った。ノンアルコールで、とバーテンダーに注文し、


「焼き肉かな?さくらは本当に美味しそうに、良く食べるからね。」


「医者は、体力勝負なの。研究職とは、違うのよ。」


二人は微笑みあった。しばらく、仕事の話や近況を話していたが、さくらは意を決したように彼に言った。


「ねぇ、智(とも)。今日は、もっと話さなきゃいけないことが、あるんでしょう。ここにわざわざ呼び出したんだもの。」


「うん・・・。」


しばらく、智と呼ばれた男性は黙っていたが、出されたジン色をしたノンアルコールカクテルを見つめ、


「この間、立花グループの・・・彼女と、見合いをしただろう。」


さくらは隣で、うん、と呟いた。


「婚約が決まった。半年後に、結婚の予定だ。」


その男性は途中でさくらの表情を見ることなく、言った。さくらは黙っている。


バーに、穏やかな音楽が流れていたが、二人の耳には入っていないようだった。


彼は、ずっと黙ったままでいるさくらに、


「さくら・・。顔合わせがある。出席して欲しい。俺たちは・・・兄弟だから。」




ガタッ!!


さくらは少し乱暴に椅子を下げ、俯いたままバーを出ようとした。


「さくら!!」


静かな空気の流れるバーに、2人の存在が際立った。


「だめだよ、智。向峯の長男が、こんなところで目立っちゃ、、」


さくらの声は震えていた。彼ーーー智は、そんなさくらの様子を見て、表情を変え、彼女の右腕を掴みバーの外に連れ出した。


店員にまた次に一緒に払う、と彼は言い、店員は向峯様、かしこまりました、と深くお辞儀をして2人を見送った。




彼はさくらを自分の車の助手席に座らせると、車を出した。


さくらは・・・、さくらは、声を押し殺して泣いていた。


「降ろして。まだ、家に帰りたくない。」


「こんな時間に、一人に出来ない。」


智という彼はさくらを乗せたまま、さくらのアパートのある台東区とは違う方向の、千葉の葛西の海へ向かった。ゆっくりと、駐車場に車を止めた。夜の葛西の海は、東京のそれとは違い華やかさは無いものの、静かで、この世界には2人だけと思わせるような穏やかな光りを放っていた。ところどころ止まる車には、恋人たちがいるようだった。


しばらく2人は黙っていた。先に口を開いたのは、彼の方だった。


「よく、ここに来たよね。」


さくらは口を開かない。白く柔らかそうなさくらの頬を、一筋の涙が伝った。




早川 智也(はやかわ ともや)とは、高校生の時にさくらと同じクラスだった。進学校で学力順のクラスだったため、3年間同じクラスだった。そのクラスには、湊もいた。


幼馴染の湊は分かりやすい性格で、正直で、声が大きくて、男の人とはこういうものだと思っていたさくらにとって、大人っぽい雰囲気で物腰の静かな、少し陰のある、落ち着いた雰囲気の智也は衝撃的だった。彼を好きになるのに、そう時間はかからなかった。


「本当は、俺2つ年上なんだよね。」


智也は、2年間、白血病の治療をして休学していた。治療が功を奏して寛解し、無事に高校生活に戻れたところだったのである。智也の家は母子家庭だった。保険適用と言っても、2年間の治療費は早川家にとって馬鹿にならない額だった。そのため智也は、葛西の海の近くのレストランでアルバイトをしていた。そこは地元ではおしゃれで美味しいと人気で、湊は美味しい料理を目的に、さくらは智也目的で、よくそのレストランへ通っていた。


付き合ってるの?と、湊がトイレに行ったタイミングで囁くように智也がさくらに聞いた。そんなこと絶対にない!!と、さくらが全否定したとき、智也は嬉しそうに言った。


「そうなんだ。良かった。」


言ってから、あっ、という顔を智也がした。さくらは、智也に思い切って聞いた。


「何時にバイト終わるの?」


バイトを終えた智也が、息を切らせて走ってくるのが見えた。夕日が今にも海面に沈もうとしており、暁に染まった海は、美しいの一言では言い表せない自然の情景をあたり一面にまざまざと見せつけていた。


時々、こうして智也と海で2人で会った。好きだと、お互いにその言葉は発さなかったが、見つめあう瞳からお互いの気持ちは分かっていた。


「俺、、うちさ、母親が苦労しててさ。自分が大きな病気もしてしまったし・・・。」


「それは、智のせいじゃないでしょう。えらいよ、勉強もバイトも頑張ってて。」


さくらは智也が何を言いたいのか分からず、じっと彼の横顔を見つめた。


「さくらんち、立派な家だから。俺の治療の時もお世話になったしね。」


さくらの家、向峯グループは代々続く製薬会社の超大手だった。さくらはいわゆるお嬢様であり、その美貌からも周りからは一目置かれていた。湊のように、何も考えずに接してくる人間は珍しかった。大抵は、自分の家や親の仕事を知って、やけに距離を詰めてきたり、また距離を置いたりする人がほとんどだった。さくらは、人との付き合いが幼いころから苦手だった。さくらの家も片親しかいない。身体の弱かった母親は、さくらを産むとすぐ、亡くなってしまった。父親は仕事が忙しかった。この時期の、普通の思春期の女子なら普通かもしれないが、父親との関係性もあまり良くなった。父親に、前々から薬学部に進級するようしつこく言われていたのだが、さくらは現場で仕事がしたかった。医者に、なりたかったのである。経営にも全く興味がなかった。母親のような人をこの手で救えるように、そんな人間になりたかったのである。


「俺、、俺さ、一人前になるまでに、時間がかかると思うんだ。母親にも、苦労かけるばっかりで、、」


智也は何かを決心したように言った。


「俺、夢がある。叶えるのは相当大変かもしれないけど、、一人前になったら・・・もう一度さくらに、告白するから。誰にも頼らずに、自分の足で人生を歩けるようになった時。その時、返事くれないかな?」


智也がそういって隣のさくらを見たとき、さくらは夕陽に照らされ、美しく微笑み、


「うん。待ってる。でもね、智・・・、私まだ一度も、あなたに告白されたことないんだけど。」


「!! あっ、そうだったかなぁ、、?いやぁ、、あはは。」


智也は自分の頭をその手でくしゃくしゃにし、照れて笑った。いつもの物腰静かな智也からは、少し考えられない反応だった。それだけ、思い切って言ったのだろう。さくらは嬉しさで胸がいっぱいだった。




高校卒業を目前に控えたあの日、智也が自分の家族になるまでは。




その日、父親が話があると、自室にさくらを呼び出した。また、進路の話かと思ったが、もう医学部に入学が決まっている自分にこのタイミングで?と不思議には思った。


(まさか、医学部辞退して、来年受け直せ、とか?)


まさかね、、と苦笑いしながら父親の部屋のドアを開けた。




父親が、正面のソファに座っていた。手を前で組んでおり、座りなさい、とさくらに言った。さくらは無言で父親から少し離れたところに腰を下ろすと、


「医者になりたいという気持ちは、変わらないんだな」


確認するように父親にそう聞かれた。


「変わらない。私には経営とか、研究とか、そういうのは合わないもの。話は、それだけ?」


立ち上がろうとするさくらに、待ちなさい、と父親は声をかけ、もうひとつのドアに向かって声をかけた。


「入ってくれないか。娘のさくらだ。紹介したい。」


ドアが開くと、黒い髪が印象的な、綺麗な人が入ってきた。若くはないが、品があり、その物腰の柔らかさと落ち着いた雰囲気、そしてその顔立ちは誰かによく似ていた。


「早川咲妃(はやかわさき)さんだ。私が、再婚しようと思ってる女性だ。」


その女性は緊張した面持ちで、はじめまして、と丁寧にお辞儀した。驚いたさくらが何も言葉を発せずにいると、父親が話し始めた。


「4年くらい前、新薬の治験があっただろう、白血病の。」


嫌な予感がした。


「彼女の息子さんが、治験に協力してくれた患者の一人だ。彼女の息子さんはとても優秀でね、、休学しなければならなかったのが、残念だった。治験の時には、息子さんの方と仲良くなって、それで咲妃とも出会うことが出来た。彼は、自分が助けられた薬学の研究に携わりたいと言っている。さくらがこの会社を継ぐ気がないのなら、彼に継いでもらおうかと思うんだ。実は、さくらのクラスメイトだよ。入っておいで。」


半分開いたドアが動き、そこには。


智也がいた。




智也は真っ青な顔をしていた。私達はお互い黙ったまま、その場に立ちすくんでいた。


「どうした?驚いたか?」


空気を読まない父親が、笑って言った。咲妃さんはどうしたものかと、おろおろしている。


バタン!!


さくらはさっき入ってきたドアから、自分の部屋に向かって突然走りだした。


さくら!と怒った父の声を背に、振り返りもせず走った。


動悸がし、喉がカラカラに乾き、焼けるように熱い。吐きそうだった。


(どういうこと!?なんで、、)


自分の部屋のドアを閉めたとき、さくらに涙が溢れた。西側の窓から、夕陽が差し込む。あの日、海で照れ笑いした智也。あの時に戻りたいーーー。声をあげて泣くさくらの声が、部屋中に響き渡った。




「俺、、ちょっと話をしてきます!」


智也が青い顔でさくらを追おうとしたとき、


「ほうっておきなさい。驚いただけだ。」


さくらの父親は落ち着いた声で言った。


「でもっ、、!」


「智也君にも、相談があってね。今後のことなんだけど、、」


智也は母親の顔を見た。そこには、いつも忙しく疲れた顔をした母の顔は無く、喜びで少し上気した頬の昔の綺麗な母親がいた。


幸せそうな2人を見て、智也はさくらを追うことが出来ず、その後の今後の話は全く耳に入らなかった。


(知らなかったんだ、だって俺には社長だなんて一言も・・!ただの社員だからって、名前も名乗らず・・遠慮しないで何でも話してくれと、そう言ったじゃないか!)


さくらの父親はよく、社長という立場を隠して治験に参加する事があった。ただの社員と言うことで、患者からのありのままの意見を聞くことが出来たからだ。そのままの流れで、何となく言い出せず、立場を隠していた。智也がその事を知ったのは、この向峯家に到着してから、つまり、ついさっきだった。




「さくら、、ちょっといいかな?」


次の日、ずっと自分を避けていたさくらを、智也はやっとの思いでつかまえて屋上に連れ出した。


さくらはグランドに目をやり、智也をちらりとも見ようとしない。智也は胸が押しつぶされそうだった。


「知ってたんでしょ?」


さくらがぽつりと言った。


「・・・知らなかった。」


「嘘!!」


きっと智也を睨みつけ、


「良かったじゃない、うちはお金あるし、会社だってあなたのもの。智、夢が叶うじゃない!自分の夢も、親孝行もできる・・っ」


きつい言葉とは裏腹に、さくらの瞳からは後から後から涙が溢れ出て、止まらなかった。


「良くないよ!いい訳ないじゃないか、、!君と、兄弟なんてっ、、」


苦しそうに智也が言った。言葉を繋ごうとしたが、あの嬉しそうな母親の顔が浮かんで、智也は言葉がそれ以上出なかった。そんな智也を見て、泣きじゃくりながらさくらは言った。


「お母さん、望んだ結婚なんでしょう、、?幸せに、してあげなよ。うちの親も喜んでる。智みたいな息子が出来て。」


「さくら・・・」


「私、大学からは家を出るから。」


「さくら!」


「忘れよう。お互い。それが一番いい。」


さくらは智也の手を振り払い、教室へ戻ろうとした。


「さくら!俺、約束忘れないから!一人前になるから、、必ず!」


声をかけ続ける智也を背に、さくらは歩みを止めなかった。


(一人前になったら、うちの父親があなたのこと離すわけないじゃない。) 


この、さくらの考えは当たっていた。優秀な智也に喜び、父親は次から次へと様々な会社の重要な仕事を任せていた。智也は、仕事に忙殺される日々に、それでも時間を見つけてはさくらに会いに来た。一方のさくらは、智也にそっけなかった。兄弟として、上手くやっていかなければと思ったのだ。しかし、本当の気持ちが表に出てしまいそうで、自分でも気づかないうちに、強がった態度をいつもとっていた。




少し前、父親が勝手に立花グループという別の製薬会社の一人娘とのお見合いを取り付けてきた。会社のシェア拡大の意図もあったのだろう。智也は断ったが、それを聞いたさくらが、会いに行くべきだと言ったのだ。次期社長なら、何を迷うのか、当然会うべきだと。


「さくら、、さくらは、それでいいんだね?」


智也は一度だけ、確認するように聞いてきたことがある。確か、今日会ったあのバーだった。


私達は兄弟でしょ?


いつもの調子でさくらは言った。その一言で、智也は決心したようだった。寂しそうに、そうか、と言った。




その結果が、今日のこれだった。


こんなに、自分が動揺するとは思わなかった。兄弟のように振る舞っていればいつか、この気持ちも消えて楽になると、あの恋は無かったことになると、そう信じていた。


でも、何一つ変わっていなかった。あの夕日の日からずっと、私は智也を待っていたのかもしれないーーーそう分かった時には、あまりに遅すぎたのだと、さくらは悟った。


智也は何も言わず、ただ傍にいた。さくらが泣き止むのを待っていた。


「おめでとう。」


どれだけ時間が経っただろうか、さくらが言った。その瞳に、もう涙はない。少し強気な、いつものさくらだった。そんなさくらを見て、智也は絞りだすような声で言った。


「どうして?俺の気持ちは・・・」


「やめて!!」


さくらは叫び、


「やめてよ、言わないで。今まで築き上げてきた、家族や会社はどうなるの。私たちは、叶わなかった昔の恋に、酔っているだけよ。この場所が、そう思わせているだけ。その気持ちを言葉に出すなんて・・・無責任よ。私たちは兄弟だもの。そしてそれは、これからもずっと続くの。」


智也が何か言葉を飲み込み、唇を噛むのが見えた。


「帰るね、電車で帰るから。」


車のドアを開け出ようとするさくらを、智也は引き留めた。


「送る。送らせてくれ。」


ドアが閉まり、さくらのアパートに向け車は動き出した。


車のヘッドライトを浴び、端正な顔立ちの智也は、ますます若社長としての風格を増しているように見えた。もしかしたら、お見合いは上手くいかないかもしれないと、自分はそこに一縷の望みをかけていたのだろうか・・・本当に、自分から距離を置いたくせに、諦めが悪い、とさくらは自分を笑った。


(これでいいのよ、これで。みんなが上手くいく。)


さくらは自分に言い聞かせるように心で呟いた。




家まであと少しとなった時、智也が口を開いた。


「独り言だから。聞かなくていいから。」


さくらは智也とは反対の助手席の窓から、黙って外の景色を見ている。


「俺は・・・あの日と変わらない。変わらないんだ。君にふさわしい人間になりたかった。だけど、どうしてだろう。そうしようとすればするほど、君はどんどん遠ざかってしまう。とても・・苦しいよ。」


ふっと、智也は苦々しく笑い、


「自分の気持ちは、願いは、俺は叶えることは出来ないのだろうか。まだ、自分には何か足りない?ずっと君が・・君だけが、欲しいだけなのに。」


さくらは自宅前でブレーキが完全に止まる前に、車のドアを開けた。危ない!という智也を振り返りもせずに、自宅の門を足早にくぐった。さくら、という智也の声が聞こえないふりをして。

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