第3話 医者として
「城間。202号室の榊さんから、何か言われたか?」
翌日出勤してすぐに、私の指導係の麻績(おみ)先生が、厳しい声で言った。麻績先生は私の指導医で、もうすぐ定年となる年齢だった。親子ほど離れた先生は、患者さんには優しく、スタッフにはとても厳しい人だった。何度怒られたか分からなかったが、先生の指導はいつも的を得ていて、未熟な私に色々なことを教えてくれた。
「・・・私の、力不足です。すみません。」
私は麻績先生の顔を真っ直ぐ見ることができず、うつむいて言った。
麻績先生は、そうか、と言い、
「医者は、感情的になってはいけない。正確な判断と、冷静さが必然だからだ。でも、完璧ではない。それは、人間だからだ。その完璧でないところが、時に患者の心に寄り添えることもあるんだよ。とにかく、おまえらしく、誠実さを忘れないことだ。」
いつもは厳しい麻績先生が、優しい口調で、一言一言を噛みしめるように言った。
(私は、誠実に寄り添えていたんだろうか。私には、母親の気持ちは、、分からないのかもしれない。)
自分は、その生い立ちから、家族の感情が抜け落ちているのではないかと常々不安に思っていた。知らず知らずのうちに、それを取り繕うように、分かったように立ち振るまっていた自分はいなかっただろうか。
美奈ちゃんはその後解熱し、アスピリンの内服を頑張っていた。川崎病で冠動脈瘤が発見された場合、抗血栓薬を内服する。それは、冠動脈瘤の経過観察とともに、退院してからもずっと続くのだ。
病室へ入ると、母親が注射器のシリンジを使って悪戦苦闘しながらも、薬を飲ませたところだった。担当の篠川看護師が、美奈ちゃんにご褒美のシールを貼ってあげていた。
「あっ、城間先生!上手に飲めたんですよー。はい、アンパンマンね。」
篠川看護師が嬉しそうに言った。美奈ちゃんの母親は、私と目線を合わせない。
「美奈ちゃん、すごいね!熱が下がって良かった。」
私は微笑んで言った。美奈ちゃんは、少しきょとん、とした表情をしたあと、母親の洋服の端をぎゅっと握りしめ、側にあったアンパンマンの人形で遊びだした。その手は、急性期から脱した後の症状のひとつ、膜様落屑(まくようらくせつ)といって、指先の皮が剥け始めていた。急性期を脱した事は喜ばしかったが、その指先は痛々しかった。
篠川看護師が、また来ますと言って病室を去った後、気まずい沈黙が流れた。その沈黙を破ったのは、美奈ちゃんのお母さんだった。
「・・・退院してからも、お薬飲ませるんですよね。こんなに大変なのに。でも飲ませなきゃ、命に関わる。」
「・・・そうですね。」
美奈ちゃんの母親が、そっけなくそう言い、きゅっと口を結ぶのが分かった。その手には、今飲ませた注射器のシリンジが握られている。
「・・・私には、、両親がいません。」
えっ?という顔で、美奈ちゃんの母親は私の顔を見た。
「生まれてから、物心つく頃には、親戚のおばあちゃんに育てられていました。大切に育ててもらったけど、私は母親という存在が、どういうものかを知りません。だから、榊さんの気持ちや、母親としての苦しさ、辛さといったものが、分かりたくても、私には分からないのかもしれません。・・・急性期の治療のことを考えるあまり、あの時私は、榊さんの気持ちがどこにあるのか、寄り添おうとすることが出来ていなかった。すみません。
でも・・。」
私は目線を逸らさずに、続けた。
「でも、、、ここ小児病棟では、自分より子供の事を大切に思う、お母さんやご家族が、子供達と一緒に困難を乗り越えようとしている。私は医者として、全力で治療にあたりたい、力になりたいとそう思っています。その気持ちに、嘘いつわりはありません。」
美奈ちゃんのお母さんは、黙っている。
「川崎病は、簡単な病気ではありません。だけど、治療法が無い訳じゃありません。これからも、私達は美奈ちゃんの治療に全力であたります。」
美奈ちゃんのお母さんが、何か言おうと口を開こうとしたとき、
「あーーんぱーんち!」
美奈ちゃんが私に向かって、アンパンマンでパンチを繰り出した。その顔は笑顔だった。
「うわぁ、、やられたぁ! バイバイキーン! だねっ」
あははと私が笑って言うと、入院してきてから初めて見る弾けるような可愛い笑顔で、美奈ちゃんも笑った。その手の片方は、やはり母親の洋服をしっかり握っている。その光景を微笑ましく見ながら、
「スタッフは、たくさんいます。榊さん、誰でもいいです。自分自身の不安や心配、抱えるものが少しでも解消されるのなら、遠慮なく、榊さんが話しやすい人にいつでも伝えてください。もちろん、私に言っていただくのも大歓迎です。退院が視野に入ってきましたので、またひとつひとつ、乗り越えて行きましょう。」
そう言って、病室を後にした。
後で篠川看護師から、お母さんと一緒に美奈ちゃんの清拭をして、解熱して精神的に余裕が出てきたのだろう、母子ともに笑顔が見られましたと、嬉しそうに報告があった。
「ついに、湊から告られたんだって?」
「なっ・・!?」
微糖コーヒーを飲んでいた私は、さくらの言葉にむせかえり、白衣を危うく汚すところだった。今日新しいのを下ろしたばかりなので、汚せない。
「なんで、、、知ってるのっ、いや、ていうか、一緒にご飯でも、って言われただけだよっ」
「・・・澪。彼は、勇気を振り絞って言ったと思うぞう」
ずい、とさくらは私に顔を近づけて、
「ずっと、澪のこと気に入ってたんじゃないかな?でも、澪は婚約者がいるって言ってたし、あいつ真面目だからねー。」
「そっ、そんなこと、、私、全然っ」
全然、気づかなかった。
「いいやつだよ、脳みそ筋肉だけど。奄美のとは、何でもないんでしょ?なら、考えてやってよ。」
「誰の何が、筋肉だって?」
はっ!とさくらと後ろを振り向くと、夜食を手に持った湊が、微妙な笑顔を浮かべてそこに立っていた。
「いくら俺がいい男だからって、噂話はほどほどにな。」
「うわぁぁ、なんだか蕁麻疹出そう!澪、医者を呼んで!」
「あはは」
「なっ、おまえら!澪も笑うところじゃないぞ!」
いつもの光景だった。昨日、湊に誘われたことを忘れそうになるくらい、私達はいつも通りだった。
でも、気を使ってか、本当に眠たいのか、睡眠不足はお肌の大敵!と、ウインクしてさくらが仮眠室へ行った後、
「・・シフト、決まった?」
少し、恥ずかしそうに湊が聞いてきた。
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