第5話

 どう反応したらいいのか分からず、僕の頭の中は真っ白になる。

 祭は鞄の中から二枚の紙を取り出した。一枚は前に祭が書き出していた暗号の一覧だ。そしてもう一枚は、アルファベットだけが大量に並べられた、一風変わった表が書かれていた。むかし習った九九表に少し似ていて、懐かしさを覚える。

 祭は二枚の紙をフローリングの上に並べて、僕に見せた。


「ヴィジュネル暗号って知ってる?」


 首を横に振る僕を見て、祭は話を進める。


「ヴィジュネル暗号は、暗号を解くためのキーとこの表があれば、原文にたどり着けるタイプの暗号や。そして叔父さんは、暗号を解いて欲しくない人には絶対に分からなくて、でも解いて欲しい人には絶対に分かるキーを使って暗号を作らないといけなかった。まあ、それが暗号なんやけど」

「解いて欲しい人?」

「この暗号は、俺に解いてもらうために作られたんや。ほら、和臣は叔父さんに暗号を渡された時、『絶対に祭くんと一緒に解きなさい』って言ってたんやろ?」


 僕は肯く。


「この暗号のキーは俺の苗字───石黒や。ほら」


 そう言って、暗号を解いて見せた。

 まず初めに、暗号文『Gkjwcsom』を紙に書き出す。このアルファベットを他の暗号文と同じように、十文字分だけ戻したことで、『Xscowyxy』という言葉になる。祭はリュックの中から、クシャクシャになった用紙を取り出した。そこには昔習った九九のように、横と縦にアルファベットが並べられている。一番上の横の列は暗号文のアルファベット、そして左横の縦のアルファベットはキーのアルファベットを当てはめるためのようだった。取り出された用紙を使って、暗号文『Xscowyxy』とキー『ishiguro』を照らし合わせる。

 そして導き出された回答は、『Nisemono』だった。


「あの戻ってきた叔父さんはな、多分『偽物』や。だから、あまり交流のなかった俺のことを『祭くん』やなくて『石黒くん』って呼んだ。お前のお母さんも俺のことを『石黒くん』って呼ぶしな。大人はみんな、俺のことをそう呼ぶと思ったんやろ」

「いや、そんな───だって、そんなのおかしいよ。どこからどう見ても、あの人は叔父さんだよ!」

「考えてもみてよ、普通の大人が子供に四万円をぽんって渡す訳あらへんやろ」


 確かに、言われてみればそうだ。僕は唸る。


「じゃあ、さっきの人は偽物の叔父さん?」

「多分な。でも、もしそうだとして、叔父さんが何で大人じゃなくて俺らに伝えようとしたのかが分からへん」

「───この後どうしたらいいの?」

「最後の暗号が次に取るべき行動のヒントや」


 そう言って、祭は持ってきていた鞄の中からスマホを取り出して、文字を打ち始めた。


「最後の暗号にはな、あるサイトのアドレスが書かれててん」


 スマホの画面には、素人が作ったような、シンプルなデザインのサイトが映し出された。サイトの管理者にメッセージを送るためだけのサイトらしく、サイトの概要と文字を打つための四角い枠があるだけだった。


「詳しくは知らんけど、叔父さんは悪霊だか悪魔だかに憑依されてるから、専門家が退治してくれるらしいねん」

「ねえ、それって信用していいやつ? インチキじゃないよね? 怪しすぎない?」

「インチキじゃないよ〜用心深い子たちだねえ」


 頭上から突如、聞こえた声に僕らは驚いて上を見上げた。背後に僕らを見下ろすようにして立つ、異様に背の高い女の人がいた。前にも似たような展開があった気がする。

 僕と祭は一緒に、すっとんきょうな声を上げた。


「そんなに驚かなくていいのに〜」


 いきなり僕の部屋にいた女性は、今まで出会った人の中で、一番背が高いんじゃないかと思わせるぐらい、大きな体をしていた。ハワイ旅行から帰ってきたのかのような、色鮮やかなアロハシャツと麻製の半ズボンから伸びる、色白な細い手足がどこか不気味だった。


「もしかして、貴方がこのサイトに書いてある専門家?」


 祭の質問に、女性は嬉しそうに微笑んで大きく頷いた。


「君らとあの男が話し込んでいる間に、お姉さんがご両親に事情を説明したから心配はいらないよ。突き当たりの物置で拘束してるから」


 家に不審者が上がり込んでいるのに、両親が気付いていない様子から見ると、彼女は本当に専門家のようだ。


「お姉さんは、どうしてここにいるの?」


 祭の後ろに隠れて身を隠しつつ、専門家の女性を見上げて問いかけた。

 専門家は、ザクロのように赤く塗られた唇を綻ばせ、婉然と笑った。


「うん、君らのおかげで事件は解決したようなものだからさ。ちゃんと君らの疑問に答えてあげたいと思ってね。まあ、お姉さんの気まぐれだよ」


 細長い手足をプラプラと揺らし、専門家は僕らの見下ろすような体勢のまま話を続ける。


「実は叔父さんはね、悪魔に憑依されてなんかいないんだよ。あれは『憑依された』っていう暗示を学会に掛けられているから、君たちがお姉さんを呼んでくれるのを待ってたんだ。随分、時間が掛かってしまったけど」


 そして口角を更に上げ、笑顔を作って僕らの反応を待った。

 あまりにも急な不審者の訪問に、僕の体が硬直してしまっていたけれど、祭は肝が座っているのか、毅然とした態度で口を開いた。


「まだ分からないことが、いくつかあるんです」


 専門家は興味深そうに祭の言葉に耳を傾け、僕らに目線を合わせるために屈んだ。


「一つ目の疑問は、叔父さんは何故こうなることを知っていて、暗号を作る余裕まであったのに、自分から貴方に連絡をしなかったのか?」

「それは簡単。彼自身の口から語られる言葉よりも、彼が子供たちに託したメッセージの方が信憑性があるからさ。容疑者が君たちを介して、仲間に何かを伝えようとしていたのかもしれないし。大人たちは、きっと何かが隠されているんだろうと探すのさ。宝探しをする海賊と同じもんだよ。すると警察が彼が拉致された場所へ向かい、彼を見つけ出す───お姉さん一人が叔父さんを助け出すよりも安全だとは思わない?」


 僕は祭の後ろに隠れたまま、納得して相槌を打つ。でも祭は納得していないようで、まだ曇った顔をしていた。


「二つ目は?」


 専門家が問いかける。祭はそれに応えるように質問を続けた。


「二つ目の疑問は、なぜ叔父さんが貴方と組むようなことをしていたのか、です」

「組む?」

「叔父さんは最終的には貴方に助けてもらおうとしていたのでしょう? 最後の暗号は貴方に連絡が行くような仕掛けだったんですよね?」

「ああ、なるほど。つまり、お姉さんと君らの叔父さんは何で仲間なのかってことかな?」


 専門家は笑顔を崩さすに答える。


「今回の事件で捕まった学会は、ヤバい感じの悪魔崇拝をしていたんだ。それで叔父さんに頼まれて、周りくどい方法で学会を倒したのさ。めでたしめでたし!」


 そして専門家は首を右に大きく傾けて、

「もっと聞きたいことある?」

 と質問を促した。祭は躊躇いながらも、更に問いかける。


「日本黎明学会が、あの殺人事件を起こしたのですか?」


 専門家は幼い子供の相手をしているかのように小さく肯く。


「そうだよ。ニュースで言ってるでしょ? そして君らの叔父さんに冤罪をかけたのさ」

「でも、そうすると色々と不自然な点があります。

「学会の人間が殺人を犯して、叔父さんが偶然、現場に居合わせてしまったとします。しかし叔父さんに暗号を作って人に渡す余裕なんてないのでは?

「それに被害者が殺され、彼が拉致されてからかなり日が経っていたのに、なぜ叔父を殺さず、わざわざ『悪霊に取り憑かれている』なんて思い込ませたんですか? 自殺に見せかけて殺すことも容易だったはず」


 祭の問いに、専門家は目を瞬かせ、ニヤリと嫌な笑みを浮かべる。


「ふうん、君は思っていたよりも聡いようだね」


 女の瞳が爛々と輝き、上げられた口角の隙間からは、白く鋭い犬歯が覗いていた。


「君たち、『好奇心は猫をも殺す』という言葉があるように、好奇心が強すぎると身を滅ぼすんだよ。これからは知らない大人には、不要に話しかけないのが得策さ」


 突如、物置部屋からとてつもない轟音が轟いた。僕らは驚いて、急いで部屋を出て音がした物置へ向かい、扉を開けた。でも物置にいるはずの叔父さんの姿は、どこにも見当たらず、床一面に血が広がっていた。部屋は生臭い鉄の匂いで満ちている。


「こら、二人とも! 何やってるの!」


 居間から怒った母の声が響く。

 僕らは駆け足で部屋に戻ったけれど、物置から消えた叔父のように、専門家の姿もどこにもない。彼女の大きな体を隠すことができるような場所は当然、僕の家にはない。

 僕らは顔を見合わせた。僕もきっと、今の祭と同じように、夏の日差しで焼けた肌が青白くなっているのだろう。


「やられた、やられた───あれは偽物やなくて、本物の叔父さんや。そうか、叔父さんは取引をしたんだ。学会は悪魔に会いたかったから、事件に関わったんや」


 譫言のように祭が呟く。


「悪魔は本当に存在したんだ───」


 祭の呟きは、蝉の合唱と扇風機の音と混ざり、消えていった。物置の暗闇に溶けて消えた、叔父のように。

 僕はぼんやりと意味もなく、床に散らばる暗号と算数ドリルを見つめた。

 きっと僕だけが、今日起きたことの真相を知らないまま、大人になっていく。

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悪人は畳の上では死なれぬ 井澤文明 @neko_ramen

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