約二年後の器用貧乏

第九章 久々に筆をとる私

 というわけでここからは、「絶世の器用貧乏」執筆から約二年後、学年で言えば大学二年生となった私がお送りする。訳あって公開から一年後より一年間、作品を全て非公開にしていたので、お久しぶりというより初めましてという感じすらある。ちなみに最初に言っておくとこの章は他章の六割増しほど文章量があるので、時間に余裕があるときにぜひ読んでほしい。


 何から話せば良いのかとしばらく迷ってみたけれど、まずはこの作品に「また読みたい」「もう読めないの?」「今の香織かおるのことも書いてよ」とさまざまな声をくれた皆さんに感謝を述べたい。ありがとう。

 荒削りでありながらも一つの作品としてかなり自信はあったので、非表示にすること自体も迷っていた私にとってそれらの声は本当に嬉しくて、環境と作品を整え直した上でここに舞い戻ってきた次第である。


 さて、この二年間で変わったことというのは、きっと挙げ始めるとキリがない。二年もあれば人は嫌でも大きく変わるだろうし、それは私だろうとそうじゃなかろうと同じようなものだと思うので変化自体への驚きは特にないのだけれど、まあ徐々に人生が明るくなってきているということだけは、ひとまず最初に言っておきたい。結構暗いこと書いてた気がするのでまずは安心してほしくて。


 小さいことから言えば、お分かりの通り一人称が変わっている。特に大きな出来事があったとか、心境に大きな変化があったとかそういう訳でもなく、なんかいつの間にか、これといった理由もないまま変わった。一章から八章まで連続して読んでくれた人にとっては今は違和感しかないかもしれないけれど、まあ段々と慣れていただけると嬉しい。


 あとは就職活動に失敗した。早い段階で上場企業の二社から内定をもらっていたのだけれど、某ウイルスの蔓延だとか、それに付随する緊急事態宣言の発令などによって「内定やっぱ無しで」をもらってしまったので、天災の理不尽さに完全に心が折れてしまい、金銭面の観点からも進学の線は完全に捨てていたためそのままフリーターとなった。

 今となってはまあそれなりの学力もあったし大人しく奨学金をとる道もあったなと思わなくもないのだけれど、今は有難いことにアルバイト先があまりに最強すぎて、あのままフリーターになって良かったと心の底から思えている。ので、後悔はない。


 というのも今は先輩の後押しもあって某有名カフェチェーンで働いており、先日から社会保険にまで入ってほぼ社員のようなワークスタイルを展開しているのだけれど、先輩にも同期にも後輩にも恵まれまくり、凄まじいQOLの中で日々を送ることができているのだ。相変わらず家庭環境は劣悪、というか寧ろ悪化しているまであるのだけれど、それを余裕で払拭ふっしょくしてしまえるくらいには今は最高の環境で生きている。このエッセイの中で一度名前を出したお店というのもあり、なんだか運命のようなものすら感じている。


 例えば二年前よりもメイクが上手くなっただとか、髪がすごく伸びただとか、見た目に於いても変化を数えるとキリがないのだけれど、その変化たちにはどれ一つとして明確な境目さかいめだとか理由がある訳では無いので、なんというかこう、なるべくしてなったという感じだ。基本的な価値観自体は二年前と何ら変わりはないため、比較的伸び伸びと生きることができている。


 現状報告はこれくらいで良いだろうか。ひとまず私は元気に過ごしているよということが伝わっていれば幸いである。


 戻ってきてみたは良いものの、さて、何を話そうか。せっかくのエッセイなので価値観で読者をぶん殴るような何かが書きたい気分である。が、まあ流石に二年も空いたし、この二年間で知り合った人も、このタイミングで初めて読み始めてくださったカクヨムユーザーの皆様もいると思うので、もう少し私に関する情報を増やして、そのどこかのポイントで少しでも私のことを好きになってもらえたら恐悦至極の限りであると考えている。


 では始めよう。


 私はよく考え事をする。内容は主に友人に関する何かで、本編の第一章にも書いた通りその舞台は風呂場が殆どであるが、無論それには留まらない。改めて口に出したり表情に出したりすることは意識的にも無意識的にも無いので他者にそれを悟られることは無いのだけれど、たまに「今なに考えてたの」なんて聞かれることがあったりするので、そんなときには割と素直に心の内を喋ったりする。「たり」の使い方が珍しい? 私もそう思った。


 少し前にその「今なに考えてたの」のノリでエピソードトークを求められたことがあったのでその時に初めて自分の思考履歴を振り返ってみたのだけれど、もはや思考を回すことが一種のごうであるためか、意外にもこれといった例が浮かばなかった。リクエストは「周りの一歩も二歩も先を読んでる香織くんの思考の片鱗に触れてみたい」だったのだけれど、まずその自覚も薄い上に、記憶力が貧弱であるために気遣い自慢もままならなかったのだ。そんな中で絞り出したエピソードを、せっかくなのでここに書き留めておこうと思う。私が普段周りに見せない根本の部分に触れている気がするのでなんだか恥ずかしくもあるのだけれど。


 東海から帰省中の左利きの友人と駅で待ち合わせをしていた、数ヶ月前の話である。「今どこ?」「もう着いた?」等と通話をしていると、不意にカチャカチャと、ピアスがスマホに当たるような音が聞こえてきた。その友人はピアスを右耳にしかつけておらず、つまりは右手でスマホを持っているということになるのだけれど、そうなるとその時点で、利き手である左手が何かで塞がっているのだと推測ができた。

 左手を塞ぐそれが何かと考えたとき、数日前に交わしていたDMの内容をふと思い出した。私「青柳あおやぎういろう食べてみたい」って送ってたな、と。

 友人の性格上きっとそれを持ってきてくれているのだとなかば確信した私は、少し道に迷っているふりをしながら近くの土産屋に寄り、「博多のひと」を購入。いざ待ち合わせ場所に到着したときには、案の定お互いが食べたがっていた銘菓を片手に、えげつないテンションでお土産交換ができたよ、というお話である。


 これに関しては条件が整いすぎていたというか、予備知識が揃いすぎていたので私じゃなくても有り得たような話ではあるのだけれど、とにかく私の思考癖はちょっと過度というか、いつも、絶対に考えなくていいことにまで思考を回しているのだ。

 ここで「回してしまっている」と書かなかったのはきっと、自分の生き方としてこれがしょうに合っているのだという自信があるためだと思う。勿論、必要のない悩みは持たないに越したことはないし、さっきの話で言えばお土産なんて予め買っておけばそれでいい話だ。ただ、私は今までこんな生き方をしてきたし、そのおかげで今の自分と今の環境があるのだと胸を張って言える。その自信はこの二年間で更に深まった。


 何が言いたいのかよく分からなくなってきた気もするが、結論から言えば私は自分の生き方が、好きだ。無条件に友人に愛を注ぎ込めるこの立ち位置に居られることがとても誇らしいし、大袈裟な言い方をすれば私にしか務まらないとも思う。

 この二年間での一番の変化は、一人ひとりの友人に対する愛情が更に馬鹿デカくなったこと。過度な思考癖や友人最優先の思考回路はときに他者からの心配を招くのだけれど、寧ろその考え方こそが私の真骨頂というか、もはや何よりの生き甲斐であるため、どうか気に留めずに私に愛されていてほしい。

 なんだか結局、本編の最終章のような、友達大好きマンによる自己紹介で終わってしまった。二年が経過しようとも案外、私は私のままなのかもしれない。


 そんなこんなで、後書きとも続編とも呼びがたいこの第九章もそろそろおひらきだ。やはり読者の範囲がほぼほぼ限定されているとどうしても話がそっちに寄ってしまって忍びなかったのだけれど、久々に書くエッセイは私にとっても良い刺激となった。あたかも読者全員に良い刺激を与えたかのような言い回しになってしまったが、まあ、僅かでも楽しんでいただけたのなら幸いである。


 それでは。

 またいつか、第十章でお会いしよう。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

絶世の器用貧乏 香織-かおる- @kaolu-_-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ