心にいつも短剣を

春雷

いつも心に短剣を

 空が落ちてきた。

 雲が僕の古いアパートを飲み込み、僕の視界は白く染まった。きっと空は今日まで微妙な均衡を保っていて、それが何らかの刺激によって崩れたのだろう。コントの背景のように、空は僕らの街の方へ落ちてきたのだ。もちろん空は触れることができないから、被害らしい被害はなかった。不幸中の幸いだと言えるだろう。

 玄関のドアを開けると、青が一面に広がっていた。壊れたスクリーンのように、青の中からところどころ家々が顔を出している。世界にバグが起きたと考えた方が、理解は早いかもしれない。

 上を見上げると、何らかの文字が見えた。英語のように見えるが、読み取ることができない。なるほど。世界がバグを起こしたというのは、なかなか的を射た表現だったのかもしれない。世界はプログラミングされた空間だったのだ。

 でもそんなことは僕にとってはどうでもよかった。

 

 部屋に戻り、着替えると、僕はゲームセンターへと出かけた。街は空が落ちてきたことで混乱していたが、僕は構わず歩き続けた。あちらこちらで妙な現象が起こっているようだった。マンホールが吹き飛んで巨大な蛇が飛び出したり、空中に川ができたり、鉄塔がゲルニカの絵の通りに曲げられていたりした。警察は市民を落ち着かせるため右往左往していた。政府も同様だった。専門家を集めて、混乱を収めようと必死になっていた。

 ゲームセンターの前に来た。中を覗くと、誰もいなかった。バグも発生していないようだった。僕は店内に入った。涼しかった。エアコンをつけているのだろう。

 いつもやっている格闘ゲームの席についた。お金を入れて、ゲームを開始する。このゲームは世界中のプレイヤーと対戦できるのだ。今日の相手は南米のプレイヤーだった。二試合ほど終えたところで、店に誰か入ってきた。見ると、知らない中年男性だった。白いポロシャツに、黒のズボンという恰好だった。

「おい。こんなところで何をしているんだ」

「何って、ゲームセンターなんだから、ゲームをしてますよ」

「世間がこんな状況の時に、どうして遊んでいられるんだ」

「いや、だって僕には関係ないじゃないですか」

「現実を見ろ」

「その現実が空想の産物だったわけじゃないですか。僕たちが現実だと認識していた世界は、プログラミングされた空間だった。ゲームと同じですよ。もはや現実は存在しない」

「とにかく表へ出て手伝ってくれ」

「何を手伝うのですか。それは僕の仕事じゃないし、僕には関係のないことじゃないですか」

 男性は僕の頬を殴りつけると、店を出ていった。どうしてだろう。世界がどうなろうと僕には知ったことではないのに。僕は何も悪くないのに。

 僕はゲームを続けた。でも殴られた頬が痛んできて、ゲームに集中することができなかった。

 これ以上続けても仕方がないと思い、僕は店を出た。


 世界はさらに混乱していた。家電量販店のテレビから大量のゴミが噴出していた。空から大量のレシートが降ってくる。ビルはどろどろに溶けている。僕は家へ帰ろうと思った。帰り道、これが世界の終わりだと叫んでいる人がいた。


 家へ帰ると、僕は別に何もすることがないので、テレビをつけてみた。すると、テレビは眩しい光を放って、「考える人」の像になった。僕はその像を蹴って、家の壁にぶつけると、壁が融解し、像は隣の部屋へ突き抜けた。僕はそれを見届けた後、冷蔵庫へ向かった。冷たい水が飲みたかった。しかし冷蔵庫を開けた途端、冷蔵庫が膨らみだし、破裂した。風船のようだった。僕はもう眠ろうと思った。でも寝室はなくなっていた。火山口に変化していたのだ。僕はさすがに火山口で眠りたくはないな、と思った。

 本を読もうと、本棚から本を引き抜くと、銃に変わったし、ゲーム機を手に取ると、鉛筆に変わった。ラジオをつけると氷山に変わったし、ウォークマンは手裏剣になった。

 ノートを開くとたまたまコーラになったので、飲もうとすると、短剣に変化した。そして、短剣は僕に向かって話をし始めた。

「お前は、何を望んでいる?」

「望む?」

「ああ。望みだよ。何かないのか」

「特にない」

「世界が混乱していても、お前は興味がないのか」

「ないね」

「ならばお前の関心の対象は何だ」

「特にない」

「そうか」

 短剣は僕の手を離れると、空中に浮いた。そして僕に切っ先を向け、そのまま胸に突き刺さった。痛みはなかったが、どうやら僕は失神したようだった。


 目を開けた時、もともと空があった場所には、巨大な蜂の巣ができていた。僕の家は消えていて、僕は氷の上で横たわっていた。でも冷たさは感じなかったし、氷は柔らかかったから、体も痛くなかった。

―おい、起きたか。

 どこかで声が聞こえた。どこだろう。

―俺だ。俺だよ。

 新手の詐欺だろうか。僕は無視しようとした。

―無視するな。俺だよ。短剣だ。お前の胸に突き刺さったじゃないか。

 そんなこともあったな。

―忘れるんじゃない。いいか、お前はこれから世界を救うんだ。

 世界を救う?子どもじゃないんだから、と僕は思った。そもそも、そんなことをしたって何になるっていうんだ。

―世界を救うのはお前のためでもある。世界を救えば、お前はゲームをすることができるだろう。

 別に熱心にやっていたわけじゃない。世界がどうなろうと僕の知ったことではない。僕は自分の生き死にさえどうでもいいんだ。世界はもっとどうでもいい。

―じゃあ、お前には何かしらインセンティブを与える必要があるというわけか。

 何を言っている?

 僕がそう答える前に、胸に激痛が走った。強い痛みだった。全身から汗が吹き出し、顔は苦痛に歪んだ。胸を一直線に貫く激痛は、僕の身体を貫通し、どこまでも伸びていく巨大な釘のように感じられた。痛みは全身に広がっていき、僕は身体をよじった。とにかく痛みの激しさから逃れようと、あらゆる工夫をした。でもその工夫は徒労に終わった。

―この痛みから逃れるためには、世界を救うしかない。

 西遊記の孫悟空じゃないんだ。こんなことをして何になる。

―俺は世界とお前を救いたいのだ。

 僕はこのままで構わない。何なら今殺してくれ。

―駄目だ。お前は殺さない。ただ、このまま無関心に人生を浪費していくのなら、俺はお前に苦痛を与え続ける。

 何て野郎だ。僕は怒りを覚えた。こんなに感情が溢れ出すのは、久しぶりだった。

 このままで、何が悪いというのだ。僕はそう思ったが、この苦痛から逃れるために、短剣に従うことにした。


「世界を救うと言っても、どうすればいいんだ」

 椅子の形になった富士山に座り、僕は言った。実際、世界はあるポイントを通過していて、再び以前の姿を取り戻せるとは、僕には思えなかった。

―プログラミングをした本人に会えばいいのさ。

 神ってことか?

―違う。


―神を気取った人間だ。


 プログラミングを書き換えた犯人を見つけ出すのは、案外難しいことではなさそうだった。世界で起こっている異変には、それぞれプログラミングのデータが残っている。そのデータを解析すれば、どこからプログラミング改変のデータを送り込んでいるのか、わかるのだという。

「でも、僕には解析能力はないはずだけど」

―ない。だから人の手を借りる。

「気が進まないな」

 胸に痛みが走った。殴られたような痛みだった。

―世界を一人で救えるわけないだろう。

「世界を人が救えるわけないよ」

 もう一度同じ痛みを受けた。


 ファーストフード店が巨大なパソコンになっていた。僕は電源を押す。パソコンが起動して、ある空間が映し出されたかと思うと、僕は画面に引き込まれ、その空間へと移動した。

「ここはどこだろう」

 僕は言う。

―研究室だ。俺も在籍していた。

「君は科学者だったってこと?」

―さあ。どうだろうな。

 研究室を見回すと、色々な機材が並べられていた。どれも知らない機材で、機材からは色とりどりなコードが伸びていた。

 研究室の奥から、人が出てきた。

「やあ。どうしてここに来れたんだ?」

「わかりません。僕はパソコンを起動しただけです」

「なるほど。あいつか」

「あいつ?」

「ああ。俺の共同研究者だ。先日死んだんだけど、最後に妙なプログラミングを施していたみたいだな」

 彼は自己紹介をしてくれた。彼は三十歳だと言っていたが、四十代にしか見えなかった。髪も髭も伸び放題で、しかもくせ毛だから、顔を毛が覆いつくしている。分厚い黒縁眼鏡をかけていて、その奥にある目は、彼の好奇心の強さを表すように、零れ落ちそうな大きな目をしている。

「それなら、早速仕事を始めよう」

 彼が言った。

 短剣はなぜか沈黙していた。

「現在世界で起こっている現象の解析を進めている。これをプログラミングした人間の特定も、おそらく今日中にはできるだろう」

「今日?やけに早いですね」

「以前からこうした事態に備えていたのだ。世界の真実を知ったその時から、俺は、いや、俺たちは、世界を安定したものにするために色々と準備を進めてきた。今回のケースは想定していた事態で、俺たちが作ったマニュアルに沿って行動すれば、世界はまた元のようになるだろう」

「元に戻るんですか」

「いや、元には戻らない」

 彼は僕をたくさんのスクリーンが置かれた部屋に案内した。数えきれないほどの機材が棚に置かれている。機材が多すぎて部屋を圧迫しており、二人も部屋に入ると、かなり窮屈だった。僕と彼は身体をくっつけながら、話を続けた。

「元には、戻らないのですか」

「良くも悪くも、元には戻らない。世界のシステムが一度破壊されたんだ。システムを再構築しても、それは似たシステムであって、以前のシステムとは異なる。たとえば、画家が以前に描いた作品を模写したとしても、その作品はまったく同じ作品だとは言えない。何かが決定的に異なっている。世界をもう一度作り直したとしても、それは以前とは何かが異なっている世界だ」

「そうですか」

「君は自分が嫌いか?」

「どうしてそんなことを訊くんですか」

 彼は目の前のスクリーンを指さした。スクリーンには地図が表示されていて、赤い矢印が、この研究所を指し示していた。

「犯人が特定できた」

 僕は、特に驚かなかった。


「僕は、どうすればいいのですか」

 彼は沈黙した。口元に手を添えて、思案しているようだった。

「自覚なし、ということか。いや、あるいは」

 彼はひとりごとをつぶやいた。僕の存在を忘れてしまっているみたいに見えた。

 しばらくして、彼は僕に向き直った。

「君。世界を再構築するためには、もうシステムをアップデートするしかない。君自身を世界の中核へと移送するから、そこで君は世界を再起動させてくれ」

「原理は理解できても、具体的に何をすればいいのか、さっぱり」

―自分自身と向き合うのだ。

 それまで沈黙していた短剣が話し出した。

「鷹木か。いや、しかし」

 彼は驚いているようだった。

―久しぶりだな。その後色々あったんだ。

「自分自身を世界のシステムに組み込んだということか」

―理解としてはそれでいい。もっとも、これは観念的な話にもなるのだけれどね。

「自分自身と向き合うって、どうすればいいのですか」

 僕は彼らの話を遮ぎって訊く。

―それは自分で考えるしかない。とりあえず中核へ行ってから考えよう。

 短剣の言葉を受けて、彼はキーボードのエンターキーを押した。

 風景が歪み、五感がシャッフルされ、何が何だかわからなくなってきた時に、僕はある空間に出た。

 

 その空間は宇宙に似ていた。黒い空間に、小さな光が灯っている。その光は白や黄色が主だった。小さな光が集合して、渦を巻いている大きな光もあった。昔見たプラネタリウムが連想された。

「ここが」

―そう、世界の中核。ここで世界の重要な事柄が決定づけられている。

「ここで、僕は何をすれば」

 短剣は、答えなかった。仕方がないので、僕は自分に向き合うため、自問自答することにした。

 僕は、どうして世界に無関心になってしまったのだろう。昔は色々なことに興味があったはずだ。戦隊ヒーローが好きだったし、ピアノを弾くのも好きだった。人を笑わせるのが好きだった。でも今はどうだ。好きなものは何もない。何をしていても、心が高揚しない。感動しない。いつからそんな風になってしまったのだろう。

 考えてみると、それは、あの出来事が原因かもしれない。


 中学生の時の話だ。

 好きだった人に告白して、僕は彼女と付き合うことになった。でも長くは続かなかった。それは、彼女が僕を騙していたからだ。彼女が友達と一緒に、僕を揶揄っていたのだ。二回目のデートの時に、彼女からそのことを告げられ、僕は絶望した。人は裏切るのだ。いや、違う。人は人を騙し、それを楽しむのだ。そもそも彼女は僕のことを好きではなく、ただ嗜虐の対象として、僕に接近したに過ぎないのだ。僕は彼女とその友達にさんざん揶揄われた上、クラスで笑いものにされた。僕は色んな人に馬鹿にされた。いや、今思えばそれすらも耐えられる程度の苦痛に過ぎなかったのだ。

 

 いつものようにクラスで馬鹿にされた後、家に帰ると、父と母、弟が食卓を囲んでいた。

「どうしたの」

 僕は言った。何か異様な空気を感じたからだ。

「お前のことについて話していた」

「僕のこと?」

「ああ」

 つまり、弟が文武両道で、友達も多く、将来有望なのに対し、僕が成績も悪い上に、いつも一人で過ごしていて、社交性もなく、まったくつまらない人間に育ってしまったのを、両親は憂いているのだった。

「お前はもっとできるやつだと思っていたんだがな」

 父の言葉は、僕自身が思っているよりもずっと、重たいものとして響いた。両親の期待に応えられなかった自分。それに、僕は学校で揶揄われて、孤独な立場に置かれている。僕は、世界から見放されたという気持ちになった。僕は孤独だ。誰も僕の味方をしてくれない。

 僕は耐えられなくなって、家を出た。適当に辺りをふらついていると、公園で不良のグループにからまれた。

「金出せ」

 彼らは僕を脅すのだった。僕は抵抗した。嫌だ。金など持っていない。もうどうにでもなれという気持ちになっていた。すべてがどうでもいい。

 僕は殴られた。不良は四人いた。四人が交互に殴ってくるので、僕は休憩する暇もなかった。痛みが確実に蓄積していった。拳が飛ぶ。そのたびに目の前の風景が切り替わる。空を見ていたと思えば、地面を見ている。公園のトイレを見ていたと思えば、向かいのマンションを見ている。

 ああ、風が心地いいな。僕はそんなことを思った。映画をもう一度観たいなと思った。でも別に観られなくても構わないとも思った。彼女の手を握ればよかったなと思った。でもどうせ彼女は僕のことを好きではないのだし、そんなことをしても意味はないと思った。 

 いや、そもそもこの世界は無意味なんじゃないか。

 悲劇は善人にも訪れる。この世界は勧善懲悪ではない。僕はあるいは善人ではないのかもしれないけれど、でも、悪いことをした覚えはない。どうしてこんなことになる。どうして僕だけが不幸になるのだ。幸せになれないのだとしたら、この世界に生きている理由などない。僕にとっては世界は無意味だ。

 血の味が広がる。眼も腫れていて、よく見えない。鼻も曲がっている。骨が折れたようだ。とってつけたような不幸だ。でもその不幸がいざ我が身に訪れた時、これほど絶望するものはないという気がする。唾を吐くと、赤い水たまりができた。もはや何も感じなかった。

 ふらつく足で、ベンチに腰掛けた。

 そのままベンチに寝転がり、痛みの一つ一つを、丁寧に感じ取った。頭は何かが鳴り響くようにずきずきと痛む。瞼はちくちく痛む。鼻はぎしぎし言う。口の中では気持ちの悪い鉄に似た味が広がる。腹も痛い。足も動くたび痛む。いや、そんなことはもう問題ではないのだ。

 僕は空を見た。真っ黒な空。雲一つない絶望が、僕の眼前に広がっていた。僕は飛んできた蛾を手に取り、つぶした。手の中が粘つき、気持ち悪さを覚えた。僕は嘔吐した。何もかもが気持ち悪かった。僕はつぶした蛾をどこかに投げ捨てた。


 あの夜のことを、僕は鮮明に思い出した。僕はきっと、無関心になることで自分を守っていたのだ。

 でも、どうすればいいのだ。僕が何をしても、世界は僕を不幸に陥れようとする。その感覚を自意識過剰だと罵る人もいるかもしれない。でも、僕にはそうとしか思えないのだ。この世界に、希望はない。

 僕は頬が濡れていくのを感じた。顔が熱かった。無意識に歯を食いしばっていたのか、歯が軋むように痛んだ。

 

―いつも心に短剣を。

 

 どこかで、声がした。

 いや、どこか、ではない。僕の胸から、いや、僕の心の中から声がした。


 僕はあの日、とても傷ついた。すべてがどうでもいいと思い、部屋に引きこもった。毎日、両親にドアの向こうから叱られた。食事をもらえない日も多かった。そんな日には、僕は家をこっそり抜け出して、駄菓子屋で盗みを行った。店主は高齢のお婆さんだったから、駄菓子屋でお菓子や飲み物を盗んでも、ばれることはなかった。

 罪悪感はなくはない。でもそれ以上に、この不幸な状況で僕の良心は麻痺していて、その罪悪感をすぐさま打ち消したのだ。

 ポテトチップスを食べながら、何もかも壊してしまいたい、と思った。

 世界を壊すことができたのなら。


 そうだ。この状況はきっと、僕が心から願ったことなんだ。でも、僕は人を不幸にしたかったわけじゃない。ただ、世界が壊れたら、僕の心も少しは救われるのかもしれないと、そう思っただけなんだ。


 いつの間にか、胸の短剣は抜かれ、僕の目の前には、三十代の白衣を着た男性が立っていた。

―兄さん。

「兄さん?」


「兄さん。実は、この世界を崩壊させたのは、兄さんだけではないんだ」

「いや待て、お前は、賢治なのか?」

「うん」

「短剣はお前だったのか?」

「違う」

「違う?」

「短剣は、鷹木という、邪悪な研究者だ」

 理解が追い付かなった。邪悪?もはや何を信じればいいのか、わからない。

「鷹木は、神になろうとしているんだ」


 僕らは研究室に戻り、黒いボックスカーに乗り込んだ。研究室の彼も一緒だ。

「どこへ行くんだ?」

 僕は弟に訊く。弟とは十年以上会っていなかったので、弟だという感じがしなかった。

「世界の中枢は、すでに鷹木によって、別の場所へ移されたんだ」

「中枢?」

「鷹木は中核と言っていた。どちらでも構わない」

 車は弟が運転している。僕は助手席に座り、研究室の彼は後部座席にいた。

「俺は火村だ」

 彼は名乗った。

「まさか鷹木がこんなことを目論んでいたなんて。とても信じられない。でも、だとしたらなぜ、俺と一緒に世界を修復するプログラムを開発したのだろう」

「さあ」

 色々と疑問が生じる。鷹木は何を考えている?

「つまり、世界の中枢にもう一度乗り込んで、鷹木と話をするんだよ」

 弟は言う。

「話が通じる相手なのか?」

「わからない。和解できなかった場合、暴力的手段に訴えざるを得ない」

 それは僕も避けたいところだった。

 僕は、車に揺られながら、短剣―鷹木―のことを考えた。彼の言動について思いを馳せる。

―神を気取った人間だ。

 その言葉は、彼を指していたのだろう。

―いつも心に短剣を。

 その言葉の真意は、いったい何なのだろう。

 訊きたいことが、山ほどあった。

 


 車は、山の裾野へ乗りつけた。山は炎のように揺らめいていた。おぞましい光景だった。

「ここに、鷹木はいるはずだ」

 弟は言った。そして、

「兄さん。僕は、兄さんに謝らなければならないことがたくさんある。僕は兄さんにひどいことをした。本当にひどいことをしてしまった。どれだけ謝っても、許されないことをした」

「もういいよ。昔の話だ」

「いや、でも」

「もう、いい」

「もういい?」

「いや、よくはない。でも、もういいんだ」


 山に入る。山は涼しかった。鷹木が温度設定をしているのだろう。よく見ると葉の一枚一枚が、人の顔の集合体になっていた。趣味が悪い、と僕は思った。

 五分ほど歩くと、少し開けた場所に出た。平たい場所で、岩があちらこちらにあった。真っ白な岩だった。大きさはまちまちで、人の高さほどもある岩から、象よりも大きい岩など、様々だった。そしてその岩の一つに、鷹木は腰掛けていた。

「やあ」

 軽い口調で、彼は言った。

「一人で来たのかい?」

「馬鹿言わないでくださいよ。僕だけがこの空間に入れるようにしたのでしょう?」

「お前は短期間でかなり成長したようだな。いや、成長ではなく、変化か」

「どうして短剣になって僕の心に入ったのですか」

「お前はどう思う?」

「・・・僕とあなたは似ている、と言うことですか」

 鷹木は笑った。

「僕も世界に絶望していたんだ。幼少期に兄貴からお前は馬鹿だと言われ続けてね。向上心のないやつは馬鹿だと、仕切りに言うんだよ。そのあと学校で万引きや体操着を盗んだ犯人に仕立て上げられてね。世界は俺の味方ではないと気がついた」

「子供っぽい理屈ですね」

「お前に言われたくないな」

 咳払いを一つして、鷹木は話を続けた。

「だから、世界を壊そうと思った。それで、世界を壊す方法を探るうちに、世界をデータに書き換えて、再構築するという方法を思いついた」

「なかなか途方もない構想に思えますけど」

「実際そうだ。だからこの計画は頓挫した」

「だとしたら、この状況は」

 彼と目が合った。虚な目だと思った。彼はもう一度咳払いをし、言った。

「俺とお前の脳内世界だ」


「脳内世界?」

「ああ、あるとき気が付いたんだよ。世界とは、自分のことだと」

「それで、僕に何をしたのですか」

「脳を改造し、世界の認識が歪むよう改造したのだ。お前が見聞きした不可解な現象は、その改造の影響だ」

「どこまでが嘘で、どこまでが本当なのか」

「それは自分で見極めろ。世界はある意味ではフィクションなんだよ。虚実ないまぜの、いつまで経っても不可解な世界」

「弟の登場も、嘘だって言うのですか」

「さあな。お前が嘘だと思えば、それはきっと嘘になるのだろう」

「心にいつも短剣を、という言葉は」

「それは俺の好きな言葉だ。好きに解釈してくれて構わない」

「信念を持て、ということですか」

「そうかもしれない」

「何なのですか、あなたは」

「神を気取った男。あるいは、悲劇の主人公になったつもりの男だ」

 山は上に伸びていく。そこから見渡せる景色は、何とも奇天烈な、まるでシュールレアリズムの絵画のような風景だった。

「俺が死んだとしても、それは世界の終わりを意味しない。でも、俺の世界は俺の死で終わる」

「いや」

 僕は反論しようとした。でもやめた。

「ああ。俺の世界は誰かに部分的に引き継がれていく。火村によろしく伝えてくれ。あいつも俺の世界を引き受けてくれた」

 彼は拳銃を持った。

 僕はその瞬間、ポケットに入っていた短剣を取り、その拳銃に向かって投げた。短剣は拳銃に当たり、彼の手から離れた。

「心だけではなく、現実に短剣は持っていた方がいいのかもしれませんね」

 世界が崩壊する。それは現実の世界での出来事なのか、虚構の世界の出来事なのか、僕にはわからなくなる。

「僕はあなたに会えてよかったと思います。世界はどうせ終わるのだから、壊す必要はありませんよ」

 世界が終わる。あるいは始まる。その時見えた景色は、残酷で、恐ろしく、でも、どんな風景よりも美しく、その素晴らしさに思わず息を呑んだ。


 あれから何週間が経ったのだろう。鷹木について調べると、やはり彼は死んでいるということだった。僕のことは、弟を通じ、知ったようだった。弟は鷹木と共同研究したことがあったらしい。弟は鷹木と意見が合わず、また僕の脳に細工を仕掛けたことで、彼を邪悪な人間だと認識したらしい。でも僕には、どうしても彼がそこまで悪い人には見えなかった。それは僕の境遇にも起因しているのかもしれない。

 鷹木は、僕に自分の中の何かを重ねていたのかもしれない。彼は、世界ではなく、僕を壊し、そして、再構築させようとしたのだと思う。彼は世界を壊そうとすると同時に、世界を自分なりに修復しようとしていた。それは個人的な経験と、その絶望を僕と重ねることで始まった、僕を救おうと試みる計画であったのかもしれない。僕を救うことで、彼自身も救われたかったのだ。

 いや、あるいは全てが嘘なのかもしれない。こんな出来事は、存在しなかったのかもしれない。僕自身の妄想だという可能性も、否定できない。

 でも、僕はそう思いたくなかった。


 世界をやり直す。―自分をやり直す。

 人が変わるには、多少の痛みを伴う必要がある。短剣で、自分を傷つける必要があるのかもしれない。あるいはその短剣は、自己防衛、もしくは、未来を切り開くためのもの。そんな風にも考えられる。

 彼は僕自身でもあった。彼の世界を引き受け、僕はこれから自分の世界を展開していく。

 空が落ちてきた。

 

 



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心にいつも短剣を 春雷 @syunrai3333

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